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小話 祈りの夜2


フットランプの照らす天井が、ぼんやりと浮かびあがっていた。


「・・・つぅ・・・っ」

体を起こそうとしたら、頭に鈍痛がやってきて思わず声が漏れる。

一瞬自分に何が起きているのか理解出来なかった私は、咄嗟に息を潜めて、その痛みが通り過ぎてくれるのを待った。

深呼吸をしながら、痛みを忘れるために別のことを考える。

・・・私、キッチンで夕食の準備をしていて・・・。

「ああ、そっか・・・」

囁きが口から出るのと、キッチンで彼が暴走した光景がフラッシュバックするのとは、ほとんど同時だった。

あんなに強引な彼は初めてで、思い出すと恥ずかしさに顔から火が出そうだ。

心臓が早鐘を打ち始めて、慌てて深呼吸する。

そして、アルコールというよりは、何かの薬に惑わされたような、そう、熱に浮かされていたのだと思えるような言動をしていた彼のことを思い出して、はっとした。

きっと私を寝室に運んで、ベッドサイドに水まで用意したのは彼に違いないのに、目が覚めても側にいないのだ。

怪我をした指先の布巾を包帯に換えてくれたあたり、気遣いを感じられるということは正気に戻っているのだろうと思うのに、どうしてここにいないのだろう・・・。

ベッドから下りたら鈍痛が襲ってくるような気がして、私はその場で口を開いた。

届け、と念じながら呼ぶことで、ある程度の距離にいても本人の耳に私の呼びかけが聞こえることを、私は知っている。

「シュウ?

 どこにいるの・・・シュウ?」

窓の外は、新月も間近な夜の世界だ。

まさかこの時間に外に出ているとも考えにくい。

「・・・シュウ?」

三度目に彼の名を口にした瞬間に、ドアの開く音が響いた。

控えめに、なるべく音を立てないようにしているのが分かる足音。

振り返ると、そこには彼がいた。

「シュウ・・・?」

「・・・大丈夫か・・・?」

入り口から静かにこちらへ歩いてきた彼の第一声は、小さな小さな囁きだった。


「・・・どこにいたの・・・?」

暗い部屋の中、フットランプのおかげでかろうじて彼の顔が見える。

表情までは読み取れないけれど、きっと部下には見せられないカオをしているに決まっていた。

「・・・吐いてきた」

よく分からない答えに、首を傾げようとしてやめる。また鈍痛が襲ってきたらと思うと、なかなか動くことも出来ない。

それにしても、吐いてきたとは・・・。

彼を理解するには、まだまだ共に過ごす時間が足りていないということか。

「どうして?

 気分でも悪かったの?」

ずいぶん離れた所に立っているなと思いながらも、私は彼に声をかけた。

どうやら、さきほどの取り乱しようはやはり普通ではなかったのだろう。佇む様子からは、お酒に呑まれた雰囲気は綺麗に消えている。いつもの彼だ。

しかし、落ち着いているように見えるけれど・・・なんだか、意識して距離を取ろうとしているようにも思えてしまう。

そんなふうに私が彼を観察している間に、彼は、私の言葉に少しの間口を閉ざして考える素振りを見せてから、口を開いた。

小さくかぶりを振る。

「いや・・・」

それきり口を閉ざす彼。

めずらしく歯切れの悪い、よそよそしい雰囲気に居心地が悪くなってきた私は、思い切って言葉を紡いだ。

「どうして、こっちに来ないの・・・?」

ベッドの上をぽんぽんと叩く。

さっきのように暴走しないのなら、近くにいて欲しいのに。

基本的に、彼が側にいてくれると私は落ち着くのだ。

言葉の裏に「こっちに来て」という意味を隠して尋ねれば、彼はゆるゆると首を振る。

「今夜は別々に寝よう」

「ちょっと、シュウ」

そんなことを言い出すのではないかと踏んでいた私は、やっぱり、と内心でため息をつきながらも彼に強い口調で言い放つ。

きっと、私が気を失って反省しているのだ。

半ば直感なのだけど、これはきっと当たっているだろう。

そんな変な自信があった私は、思わず口調が強めになってしまった。

「・・・おやすみ」

短くひと言だけ告げて、背を向けられる。

そのまま彼が一歩を踏み出したところで、私は慌ててベッドから下りようと動き出した。

「待っ・・・っ」

言いながら絨毯に足をつけたつもりで、バランスを崩す。

どてどてっ。

体が絨毯の上に無造作に投げ出されて、間抜けな音が響いた。

「・・・った・・・」

頭の中は鈍痛が広がって、体は打ち付けたところが痛む。

「大丈夫か・・・?!」

大またで近づいてきた彼が、さっと私を抱き上げた。

馴染みのある浮遊感と支えてくれる腕の強さに、私はほっと息を吐く。

これだ、と何かがどこかに収まった。

「ん・・・ちょっと、足に力が入らなかっただけ・・・」

首元に両腕を回して返事をすれば、彼の腕がぴくりと震えるのが分かる。

「・・・よかった・・・。

 ・・・下ろすぞ」

低い声が唸るように聞こえた瞬間、私は彼の首にしがみついていた。

こんなに思い切ったことが出来るのはきっと、体のどこかに残る僅かなアルコールのせい。

「やだ、もう少しだけこうしてて」

「ミナ」

「・・・だめ?」

咎められるような言い方に、思わず食い下がるようにして問いかけた。

子どものようだと呆れられてしまうかも知れない、と思いつつもまっすぐに彼を見つめていると、今は暗くて色の分からない瞳が、静かに私を見つめ返してくる。

ふいに彼が、小さく息を吐いた。

「・・・出来るなら俺も側にいたいが・・・」

「じゃあ、どうして・・・?」

力のない声に、私はそっと問いかける。

すると、彼は私を横抱きにしたままベッドに腰掛けた。

2人分の体重を支えようと、ベッドが軋む。

「・・・触れていても、怖くはないか・・・?」

「ん・・・」

控えめに囁かれて、私はそっと頷いた。

すると、それが合図だったかのように、彼の手が私の頬を撫でる。

「さっきは、怖い思いをさせてすまなかった」

見つめていた彼の顔が、僅かに歪んだ。

「うん、ちょっと、怖かった」

素直に言葉にすれば、彼の眉間にしわが寄る。

私はそれを指先でぐりぐり伸ばして、少しだけ笑った。


「酒が悪かったのかと思って、胃の中に残っていた分は全て出してきた」

甘い雰囲気が漂う中、衝撃の告白をぶちまけられた私は、とりあえず水を要求する。

淡々と告げた彼は、少し手を伸ばして水を用意してくれた。

グラスを受け取って少しずつ喉を潤していると、彼がそっと呟くように言った。

「・・・さっきは、どうかしていた。すまない・・・」

「ううん、大丈夫。

 シュウは、体の調子は?」

もう十分過ぎるほど反省しているらしい彼を責めたら可哀想だ。

私は意識して少し明るく、口角を上げて彼に言葉をかける。

彼が空になったグラスを、私の手から抜き取るとベッドサイドに戻した。

「なんともない」

小さな呟きが、耳に届く。

「・・・一瞬、気を失っていても構わないと・・・。

 ・・・背徳的な匂いにやられそうだった・・・」

「・・・さ、最低だね・・・」

どうしようもない発言に、思わず言葉が出てしまった。

どれだけ暴走していたんだろうか。

「ああ、最低だ」

目を伏せた彼の頬に、そっと指先を滑らせる。

そしてそのまま、ぎゅうぅぅ、と頬を抓ってやった。

もちろん痛くない程度にだ。

十分過ぎるほど反省して、さらに1人で頭を冷やそうとしている姿を見れば、もう私が責める必要もないとは思う。

けれど、私が怒っているということは、しっかり伝えておかなければいけない気がして。

この狼は優しいけれど、たまに本能が強すぎて困るのだ。この日の記憶を頭の片隅にでも留めておいてもらわないといけない。

彼の硬くはない頬が私の指に抓まれて、びよん、と伸びる。

しゅんとした表情と相まって、どうしようもなく可笑しくて可愛くて、いとおしいと思えてしまうのは、私も頭がどうかしているからなのか。

・・・蒼鬼をつかまえて、可愛いだなんて思えるのは、世界で私ひとりでありたい。

ぷ、と噴出した私を、彼がじっと見ている。

「・・・ごめんね、痛かった・・・?」

くすくす笑いながら頬をさすれば、彼が小さく「いや」と呟いた。

彼の頬がほんの少し熱いと感じるのは自惚れなのだろうか。

自分の中に湧き上がった気持ちが呼び起こした、体の奥底から突き上げる衝動に逆らうことなく、彼に口付ける。

私を抱える彼の腕が、動揺したように反応したのが分かった。

きっとどう対応したらいいのか困り果てているのだろう。

彼を困らせている自覚がある私は、胸の内に広がる、してやったり感に頬が緩んだ。

そして、首元に腕を回したまま何度か口付けを繰り返しているうちに、彼が意を決したように腕に力を込め始める。

控えめに吐息を吐いていた唇が、私から何かを吸い取ろうと蠢いた。

脳に酸素が回らなくなってきた私は、そっと唇を離して呼吸を整える。

すると彼の手が器用に動いて、まだ結い上げられていた髪を解いた。

かち、という髪留めを外す音の後に続いて、髪がするりと肩を通り過ぎていく。

それを肌で感じながら私は彼の瞳に、燻る何かがあるのを見つける。

同時に、私の中にも何かが燻り始めているのを自覚してしまった。

「シュウ・・・?」

そっと名を呼べば、大きな手が頬を滑る。

彼の名を紡いだ唇を、熱くなった指先がなぞっていった。

髪の毛の先まで、色気で溢れているのを感じると、くらくらしそうだ。

けれど、今日は駄目なのだ。

「・・・寝よっか」








『・・・すみませんでした・・・』

大の大人がそろって頭を下げる図なんて、面白すぎて写真に収めたいくらいだ。





昨日はあの後、体に燻ったものを抑えつけることを要求されて、物凄く不満なのに酷いことをした自覚があるだけに表に出さないように頑張っているシュウと、同じベッドで眠りについた。

もしかして、私には苛めたい欲が心のどこかに潜んでいるのかも知れない。

いつもなら、まっすぐな熱をぶつけて、なし崩しにかかるところを止められて堪えている彼は、少し可愛く見えてしまったのだ。

くせになったらどうしよう、なんておかしな不安を抱いてしまった。

そして私は今、いつもの出勤時間よりも早く、朝議の場所である円卓の間にやって来ている。

会いたいのは、陛下とジェイドさんだ。

普段、朝議の少し前に2人だけで打ち合わせというか、ジェイドさんが陛下に1日のいろいろなことを言い聞かせている・・・小言をぶつけているともいえる・・・のを知っていた。

まずは何を尋ねよう、などと考えながらドアをノックすると、ジェイドさんの声が返ってくる。

そっとドアを開けて中を伺うと、陛下がほっとしたような表情を浮かべた。

・・・やはり、お小言の最中だったようだ。

昨日も仕事をサボったらしいので、きっとその件についてだろう。

「・・・お邪魔してもいいですか?」

一応尋ねると、陛下がキラキラしたカオで頷いた。

・・・ジェイドさんが振り返った瞬間に、真面目なカオに戻っていたけれど。


「どうしました?

 こんなに朝早く・・・エルに何か?」

ジェイドさんに訊かれて、私は首を振る。

そういえば、私が熱を出した時にはシュウが白の団長ディディアさんのところに顔を出してくれたのを思い出した。

きっと、こうして円卓の間で私の体調について報告していて、ジェイドさんはそれを思い出しているのだろう。

「彼はもうすぐ来ます。

 ごめんなさい、私が用事をお願いしたので、いつもより少し遅れるかも知れません」

実は、一緒に家を出て、途中で忘れ物に気づいて困ったふりをしたのだ。

案の定彼が取りに戻ってくれることになって、今頃家でその忘れ物を見つけてくれているに違いない。

もちろん忘れ物も、わざと家に置いてきたものだ。

どうしても彼抜きで2人と話したくて、少しばかり騙されてもらった。

大丈夫、あとでちゃんと謝れば許してもら・・・えると思う。

「・・・それは構いませんが・・・」

ジェイドさんが、腑に落ちないといったふうに言った。

陛下に至っては、小首を傾げて私を見ている。

私は訊いておきたいことを口にすることにした。

この2人は遠まわしに訊いたらはぐらかされるだろうから、なるべく直球で。

「ちょっと、お聞きしたいことあるんです。

 ・・・昨日、シュウがお2人と飲んだと言って帰って来たんですけど・・・」

「・・・あ、ああ」

出だしのところで陛下が頷いた。

やましいことが沢山あります、とでも言っているかのようなカオでだ。

ジェイドさんは完璧なポーカーフェイス。さすが補佐官だ。

けれど、彼は知らない。

私が一年に一度くらい、アカデミー主演女優並みに演技が上手になることを。

「実は、帰って来た時から、様子がおかしかったんです。

 私、キッチンで夕食の支度をしてたんですけど、急に・・・あの・・・。

 いつもはあんなふうに、しないんですけど・・・」

手をもじもじさせて、胸を押さえる。

再発防止のためなら、これからこの話でからかわれても構わない。

そう思うことにして、恥ずかしさを堪えて私は視線を彷徨わせた。

部屋の中に、居心地の悪い沈黙が訪れる。

2人が気まずそうにしているのを視界に収めつつも、私は頬を押さえて震える息を吐き出した。

蒼の騎士たちの間では、私が最近艶やかになったと囁かれているらしい。

きっと今の私は、2人が見たことのないカオをしているはずだ。

案の定思い切り想像したのだろう、2人が戸惑い始めたのを、普段からリオン君の機微には細心の注意を払って過ごしている私は見逃さなかった。

「あんなこと初めてで・・・何かあったのか・・・。

 何か、ご存知ありませんか・・・?」


2人はあっさり吐いて、そして頭を下げた。


『すみませんでした』

「いやもう、なんてことしてくれたんですか」

『すみません』

「最低ですね、お2人とも。

 重ねて言いますが、ただただ最低です」


2人の話を聞くと、どうやら、彼に飲ませた酒にある薬を混ぜたそうなのだ。

彼自身王族の端くれでもあるので、ある程度の毒には体を慣らしてはあるけれど、まさか信頼する2人からおかしな物を飲まされるとは露ほどにも思わなかっただろう。

あっさり飲み干してしまい、ああなったというわけだ。


「ほんとにもう、最低!」

私は沸々と湧く感情が爆発するごとに、最低、と繰り返していた。

そして、その度にいい大人が頭を下げる。

「いやでもミナ、あれは一応合法なもので、巷では結構な評判の・・・」

「最っ低!」

またしても感情が爆発した私は、ジェイドさんの言葉を遮って言う。

「合法だったら、何をしてもいいんですか。そうですか」

自分でも驚くほどの冷たい声が出た。

ぶつけられた彼も、目を見開いて固まっている。

陛下はというと、顎をさすって何かを考えているようだ。

いや、真面目に反省しているように見えて、彼は真逆のことを考えているような人間だから、きっと真剣にあさってのほうへと意識を向けているに違いない。

「ミナ、お願いします、機嫌を直して・・・」

ほとほと困り果てた、といった感じのジェイドさんに諭されて、さすがにやりすぎたかと思い直した私は、ふぅ、と息を吐いた。

これ以上ごねても、話が拗れていくだけだろう。

私は2人を交互に見て言った。

「もう、あんなことしちゃ駄目ですよ。

 自分がやられて嫌なことは、しちゃいけないんです」

子どもに言い聞かせるような言い方に、2人は神妙に頷いたのだった。








キャンドルの火を見つめて、ここ数日の出来事を思い出していた私は、ふっと頬を緩めて息を吐き出した。

白く宙に浮いたそれは、ほわりと空に溶けて消える。

静かな祈りの夜に、私は1人で庭に佇んでいた。

ふと、背後に気配を感じて振り返る。

「ただいま」

あの夜と同じ登場の仕方に鼓動が跳ね上がったけれど、そこに違和感はなかった。

私は微笑んで、後ろから回される腕を受け入れる。

「おかえりなさい。

 ・・・何かあったの・・・?」

早く帰るはずだった彼が日が沈んでも戻らないから、私は1人でキャンドルを手に庭に出ていたのだ。

昼過ぎまで降っていた雪が積もった庭は、ふかふかと雲が浮いているかのような柔らかさがある。

なんだか、私の気持ちまでふわふわとしていた。

「ああ、ちょっとな。

 アッシュとジェイドと・・・」

「また飲んだ?」

言葉を遮るようにして問いかければ、彼がくすくす笑って首を振る気配がする。

「いや、話をしてきた。

 おとといの薬のことで、ミナにこってり絞られたと言われたぞ」

「誰にも言わないでって、お願いしておいたんだけどな・・・」

今朝自分が彼に嘘をついていたことなどすっかり棚に上げた私は、ふつふつと湧いてきた怒りに、声が低くなってしまったのを、彼に笑われる。

彼自身は、黙って薬を入れられたことに関して怒ってはいないのだろうか。

・・・自分のことに無頓着なのにも程がある。

私が彼を守らないと、いつか大きく傷つく日が来るような気がして怖くなった。

そして、その彼は悪びれもせずに呟いた。

「ああ、そう念を押されたと、言っていたな」

「・・・言っちゃったんだね」

「ああ、聞き出した。

 仕返しするか、あいつらに」

「・・・小さな仕返しにしてね」

彼の言葉に、思わず笑ってしまった。

背中から伝わる体温が心地良くて、2人のことも許してあげようという気持ちになってしまう。

それから少しの間黙ってお互いの体温を交換し合っていると、私の手のひらを暖めてくれていた花の形のそれを見て、彼が問う。

「そのキャンドルは、外に置いておくのか?」

私は小さく首を振って答えた。

「ううん、部屋に持って行こうかな」

「そうか・・・」

「なあに?」

彼の呟きが引っかかった私は小首を傾げる。

すると、彼が私のこめかみに口付けた。

「残念だが、家の中には、もうキャンドルを置く場所はないな」

「え?」

「だから、これはここに置いていけ。

 朝が来たら取りに来てやるから・・・」

私の手の中で慎ましく揺れる火をそのままに、彼がそっとキャンドルを雪の上に置いた。

手の中にあった熱を失って冷えてきた両手を擦り合わせていた私は、ふいに彼に抱き上げられて、咄嗟に首元に腕を回す。


中に入ると、照明を消して暗くなった部屋の至る所に、キャンドルが灯されていた。

「・・・何か、匂いがするね」

「ああ」

抱き上げられたまま呟いた私に、彼が頷き返す。

「あ、あの、シュウ?」

リビングを通ってどこに行くのかと思えば、私はキッチンに連れてこられていた。

まるであの夜の再現のように、調理台の上に座らされて、両足の間に彼の体が入り込んでくる。

「何して・・・?」

「記憶の上書き」

「え?」

短い答えに思わず問い返すと、彼が眉間にしわを寄せた。

「ど、どういう意味かな?」

甘い香りが漂うキッチンには、今日は調理器具も野菜も見当たらない。

彼が帰ってくる前に、食事に必要なものは全てテーブルに並べておいたから、コンロにスープがあるくらいだ。

あとは、漬け込んで冷蔵庫に入れてあるお肉を焼けば、すぐに食事を始められるようにしてあったのだけど・・・この場合、その選択は裏目に出ていたということか。

「・・・あの夜の悪い夢を、別のものに上書きしたい」

「・・・そういうこと・・・」

「ああ」

困ったように微笑む彼は、私が断るなんて思ってもいないのだろう。

コートを脱いで、床に放り投げながら私の耳元に鼻先を寄せてくる。

吐息が首筋にかかって、身を捩ろうとするけれど、彼の大きな手が腰を捕まえていてそれも適いそうになかった。

「それに、おととい飲まされた酒に入れられていた薬なんだが・・・」

「うん・・・あれ・・・?」

なんだか、彼の声が耳元で聞こえるたびに、体の奥でさざ波が立つような感覚があって、私は小首を傾げる。

「ああ、やはりお前にも効くのか」

「え・・・?」

なんだか物騒なことを言われた気がして、私は眉をひそめた。

まるで薬か何か・・・と考えて、はた、と気づいた。

「まさか、薬・・・?」

「ああ・・・、あれをキャンドルに一滴ずつ垂らしてある」

彼の吐息が熱くて首を竦めながら呟いた私に、彼が低く唸るように言葉を返す。

「あれは、本能を刺激する香りのする精油だ。

 本来はこうして蒸発させて使うものなんだが・・・おとといは一本まるまる・・・」

「それで合法・・・。

 でも、口から入れれば、ああなるわけね・・・」

呆れたように言うと、彼が肩を竦めた。

酷い悪戯をされたものだ。明日もちくちく攻撃しにいくか。

ちらりと脳裏をよぎった考えを打ち消そうとするかのように、彼の手が私の腿をなぞり始める。

空いたほうの指先が、頬と唇を行ったり来たりしながら、これからどうしようか思案しているようだった。

「あの日は、無理に飲ませて悪かった・・・」

「うん、あれはもう止めてね」

そんな会話をしている間にも、腿に置かれた手が熱くて熱くて仕方ない。

彼も謝っているくせに、言葉を紡ぎながらも私の首筋に唇を寄せては吐息を残していく。

「熱いの、もしかして、その精油のせいかな・・・?」

頭がぼーっとしてきて、主語もない、よく分からない問いかけをしてしまった私は、無意識のうちに彼のシャツのボタンに手をかけてしまっていた。

これが、精油の効果ってやつなのだろうか。

まだ数ミリ程度に残っている理性で、そんな感想を抱いていると、彼の手が焦れたようにシャツを剥ぎ取っていった。

今ボタン、飛んだよね・・・?

息苦しいくらいの口付けを受けながら、視界の隅で白いボタンが宙を舞ったのを見たけれど、そんなことはもう、どうでもよくなってしまって。

与えられる熱に飲み込まれないようにしているのが精一杯だ。

彼がシャツを剥ぎ取った手で私の髪を解いたのを熱に巻かれながら感じ取ると、ありえないほどの器用さと早業で、私の服も剥ぎ取っていった。

・・・ボタンのないワンピースで良かった。


そのまま、会話もろくに成り立たない状態で、普段を上回る盛り上がりを見せた夜になってしまったのは、残念ながら言うまでもない。





翌朝になってせっかくの祈りの夜だったのに、とぼやいたら、「何を祈るかは自由だろ」と呆気なく切り捨てられた。

確かにそうなんだけど、と思いつつも納得してしまうあたり、完全に惚れた弱みだ。


ちなみに、あの精油は数滴使うのが普通というか、正しい適量なのだと後で知った。

どうやら彼は、それを家中に灯したキャンドルのほとんど全てに一滴ずつ垂らして歩いたのだそうで・・・。

当然適量なんてものをはるかに超えた量を使っていたらしい。

・・・なるほど、それなら夜が明けるまで続くわけだ・・・。


天井を見つめながら眠りに落ちる直前に聞いたことを思い出して、ぎっしぎしで、至る所がべとべとする体を起こして、隣に眠る彼を見つめる。

いろいろ考えた末に、渾身の力でデコピンをしてやった。


シャワーを浴びて戻ってきたら、彼は額を赤くして首を傾げていた・・・。









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