小話 祈りの夜1
雪の止んだ空に、星がいくつも瞬いている。
重苦しく空を覆っていた雲は、少し強く風に吹き流されていったようだ。
私は、手にしたキャンドルをじっと見つめていた。
桃色の、蓮の花が開いたような形をしたそれは、暖かい灯りになって、ほのかに私の手のひらを温めてくれている。
これなら、手袋はなくても大丈夫だろう。
小さく揺れる火を見つめて、私はこれまでの自分を振り返っていた。
長い冬の真ん中の、長い、月の昇らない夜に、この国では祈りを捧げる習慣がある。
祈りの種類は、何でもいい。
自分の願いを祈る人もいるし、故人を偲ぶ人もいる。家族の幸せを想う人も多いだろう。
恋人達にとっては、想いを告げたりプロポーズしたりと、一大イベントであったりもして。
その夜は子どもも大人も、心を静かにして想いを馳せる。
一番最初は、この国のお家騒動がひと段落した頃に、誰かが「この安らかな時が、いつの世までも続けばいいのに」とこぼしたことが、きっかけだったらしい。
血で血を洗う時代がやっと終わる予感に、その人が思わず口にした願いを聞いた人が、流れた血を弔うために王宮を埋め尽くすほどのキャンドルを灯したそうだ。
それ以来、1年に1度の新月の夜に、キャンドルを灯して祈りを捧げる習慣が出来上がったという。
話は少し前に遡るけれど、ある日アンがノルガと一緒に過ごすのをすごく楽しみにしていたのを見て、自分が10代の頃のクリスマスの時期を思い出してしまった。
もう少しだけでいいから、ノルガ本人の前でもああいうカオをしてあげたらいいのに、と思うのは2人をやきもき見守る姉ゴコロだ。
この間の浮気疑惑はシロだったと伝えた時、ノルガに元気がなかったのが気になって、余計なお世話だと思いつつも尋ねてしまった。
彼が言うには、祈りの夜のデートに誘った時の、アンの反応がいまいちだったとのこと。
お互い最初の印象が悪かったからなぁ、とぼやいているのを聞いて、アドバイス出来るほどの恋愛を自分がしてこなかった私は、とりあえずアンの喜びそうなプレゼントを一緒に考えたのだった。
そして今。
「・・・どうしようかなぁ・・・」
今度は私自身が、頭を悩ませていた。
手にしているのは、マフラーと手袋。
祈りの夜は、明後日だ。
プレゼントを必ずする、という決まりがあるわけでもないけれど、なんとなくお互いに小さな贈り物をし合うというのが、祈りの夜の定番でもある。
確実に商戦に転がされていると思う反面、彼に喜んで欲しいという純粋な気持ちもあって、私はこうして日没の迫る街でプレゼントに頭を悩ませていた。
ちなみに、日没を過ぎてふらふらしていると、彼の甘ったるいおしおきが待っている。
いや、甘ったるいのは言葉だけだ。
この間の浮気疑惑の時には、久しぶりに翌日、体がぎっしぎしになった。
魔王様と化した彼に喉を潰されるまで付き合わされて、今まで手加減してもらっていたことを思い知った。
過去とは言えないくらいの時間しか経っていないから、今日も日没を過ぎて1人で街中をふらついているのを知られたら、確実にまた同じ目に遭うことが分かりきっている。
そしてくたくたになって動けない私を見て、申し訳なさそうに微笑むのだから性質が悪い。
あれを見てしまったら、惚れた弱みで許してしまう。
さすがに、どうにかなってしまう前には止めてくれるだろうと思うけれど、これはもう自衛するしかないと悟った。
私はそういうわけで焦りを感じつつ、彼に喜んでもらえそうな物を物色していたのだ。
鍵を開けて静かに家の中に入る。
ヒンヤリとした空気の漂う玄関ホールには、彼の靴は見当たらない。
そういえば、祈りの夜の前後に休暇を取る人が多いから、シュウのサインを必要とする書類がどっさり届けられていると聞いていたのを思い出した。
それならまだまだ帰宅しないだろうと思い至って、息をつく。
先日引越し作業を終えたばかりの新居は、まだ真新しい家の匂いが立ち込めている。
床や壁、調度品の匂いがまだバラバラで、雑然とした空気が流れるのを肌で感じる。
ここが温かい家庭の匂いで満たされるには、あとどれくらいの年月が必要になるのだろうなんて、引越しをしながら考えたものだ。
ちなみに、つるりとした廊下には、まだキズひとつない。
絨毯を敷くことが一般的らしいけれど、この家は大理石のようなつるりとした床と、フローリングのように木の温もりを感じる床の部分が多い。
彼のこだわりで、寝室だけはふわふわの絨毯になっているけれど・・・。
魔王様的思考によるものではないことを、切に祈った数ヶ月間だった。
ともかく、私が家の中では靴を脱ぎたがっているのを彼は知っているから、スリッパで家の中を行き来できるように配慮してくれたわけだ。
私は玄関マットの上で、ふかふかのブーツを脱いで、ふわふわのスリッパに履き替える。
すぐ側の壁に埋め込まれた暖房のスイッチを入れて、まずは寝室に向かった。
買ってきたプレゼントを彼が絶対に開けないであろう引き出しにしまって、着替えを済ませた私は、キッチンに入る。
家に帰ったら仕事モードからの切り替えのために、着替えるのが私の習慣だ。
さすがにジャージとTシャツなんてものは存在しないので、仕方なく緩めのワンピースを胸元の紐なしで着る。
今の時期はニットタイツにレッグウォーマーを合わせて、足元からの冷えを防ぐことも忘れない。
腕まくりをして、冷蔵庫から野菜を取り出した。
2人暮しとはいえ、食材が中途半端にあまることは少ない。
体調にもよるけれど、彼がよく食べるのだ。
いつだったか、初めて手料理で夕食を一緒に摂った時には、つまみ食いだけで一食分あるのではないかと思えるほどだった。
あの時は、飲むワインの量にもペースにも驚いた。
思い出して、ひとりきりだというのに少し笑ってしまう。
緩んでしまった頬を引き締めつつ、その彼のためにワイングラスをテーブルに出しておくことにした。
次の団長候補がいるとはいえ、まだ彼の肩にかかる重圧はちゃんと残されている。
私は彼が団長の顔をしているのを見たことは、ほとんどないけれど・・・でも、針のむしろのような王宮で働いているのだ。
病気にならない程度に美味しいもので癒されるのも、大切だと思う。
何はともあれ、ワインが進むような食事にしようと考えて、キッチンを行ったり来たりしていた時だ。
「ただいま」
バリトンの声が、耳元で響いた。
「・・・っ」
思わず身を竦めてしまう。
まるで、夏の夜に耳元で蚊の羽音が唸った時のような反応になってしまった。
「・・・悪い」
苦笑する彼が、顔を覗き込んでくる。
コートを着たままだということは、家に入ってまっすぐキッチンに来たということか。
「会いたかった・・・」
そしてそのまま、頬に唇を寄せてくるではないか。
「・・・えぇっ?」
唇の離れる音が生々しくて、目を見開いた。
恥ずかしい気持ちよりも、いつもはこんなふうに触れてくる人ではないから、戸惑ってしまった。
訝しげな表情になっているだろう私を見て、彼が小さく笑う。
「・・・なあに・・・?」
「お前はどうなんだ・・・?」
「え、えぇ・・・?!」
至近距離で見つめ合うのは初めてではないのに、どうしても鼓動が跳ねてしまう。
いつになったら、彼の放つ色気に打ち勝つことが出来るのだろう。
そんなことを思いながら、彼の瞳を見つめていると、ふと気づいたことがあった。
「ねえ、シュウ・・・?
もしかして、どこかでお酒、飲んできた・・・?」
心を鎮めようとしていたら、ほのかにアルコールの匂いが鼻腔をくすぐったのだ。
瞳だって、なんだかとろん、としているではないか。
これは、限りなくクロに近い。
「ああ、アッシュとジェイドと、少しだけ」
「陛下とジェイドさんと・・・?
陛下はともかく、ジェイドさんは仕事中じゃなかったの・・・?」
いつの間にか私の腰を抱いて、頬を指先ですりすりと撫でる彼は、うっすら笑った。
「先にアッシュとジェイドが、飲んでいたらしい。
明後日は早めに仕事を切り上げると報告に行ったら、勧められた」
「そっか・・・。
でも、だいぶ飲んだみたいだね?」
彼の両手が落ち着かないことには目を瞑ったまま、私は尋ねる。
「そうか・・・?
いや、少し変わった酒だったようだが、量は大したことなかった」
「少し変わった酒・・・?」
なんだか怪しい響きだ。
眉根を寄せた私とは対照的に、彼が頬を緩めて言う。
「ああ、旨かった」
これは、何かおかしい。
そう思って、なんとか体を捻ってグラスを取る。
「そっか・・・あの、シュウ?」
水でも飲ませようと振り返れば、彼がきょとん、とした表情で私を見ていた。
まるで、何してるんだ、とでも言いたげに。
「お水飲もう。ちょっと悪酔いしてるみたいだし・・・」
これはまともな会話は期待できないと判断した私は、蛇口を捻る。
この際レモンの輪切りが入ってなくてもいいだろう。
もともと彼はいろんなことに無頓着だ。
「いやだ」
「は?」
きっぱり拒否する言葉が聞こえて、私は咄嗟に訊き返していた。
いやだって、それ、大人の言う台詞なのか。
しかもあなた、蒼鬼ですよね。
彼が酔った姿など見たことのなかった私は、若干幼児退行した彼を目の当たりにして、少し腰が引けてしまった。
その間に、彼はキッチンの戸棚に手を突っ込んで、手前にあった物を床に放り出しながらも、奥のほうから未開封のワインボトルを取り出して来た。
「・・・知ってたの・・・?」
ぽかんと口を開けてしまった私は、間抜けな呟きをこぼす。
上手に隠していたと思っていたのに、バレていたとは。
お酒の大好きな彼が飲み過ぎないようにと、街に出ては買って帰るお酒の類を、私はキッチンの至る所に分散させて隠していたのだ。
・・・なのにあっさり、彼は探し当ててくれた・・・。
「お前より、俺の方が鼻が利く」
言いながら、ボトルの栓を抜こうと手を動かしている彼。
勝ち誇った表情は、なんだか癪に障った。
「ダメ、それはまた明日ね。
今日はもうお酒は飲まないで」
少し語気を強めて、彼の手を引き剥がそうと両手に力を込める。
「でも、喉が渇いた」
短く唸るように言うと、彼が無理やり栓を抜こうと私と反対側へと体を捻った。
両手に力を入れていた私は、それに引っ張られるようにして体を持っていかれる。
酔っ払いのくせに、どうしてこんなに力強いのだろう。
がり、と鈍い音が皮膚から耳へと伝わってきた。
「いっ・・・たぁ・・・」
思わず手を引っ込めて、痛みのある人差し指を見る。
血が滲んでいた。
「も・・・シュウ・・・?!」
ぱくり、と指を咥えたのは彼。
迷いなく、たぶん傷がどれほどのものなのかも確認せず、だ。
「離して、水で洗わないと・・・」
ぬるりとした感触が、気持ち悪いのに振り切れなくするように絡み付いてくる。
思考が麻痺しそうな予感に、私は空いている方の手で彼の腕を押した。
もちろんびくともしない。
彼は私の指先を咥えたまま、そのへんにあった洗濯したばかりの布巾を手にする。
そして、突然それを力任せに引き裂いた。
びりり、と布が悲鳴を上げたものを、私の指先に巻きつけて包帯代わりにしたようだ。
ああ、布巾が一枚さようなら・・・。
けれど少し硬めの布が良かったのか、血はもう少ししたら止まりそうだった。
「ね、今日はもう・・・」
止めよう、と言いかけて絶句する。
彼がボトルに口をつけて、ぐびぐびと中身を喉に流し込んでいたのだ。
思わず「おいこら」と言葉にしそうになって、踏みとどまる。
いや、酔っ払い相手なら言ってもいいのかも知れないけれど。
「よ・・・っと」
「え、ちょ、え?!」
言葉と一緒に、彼に持ち上げられて、キッチンの調理台に座らされた。
隣に野菜がごろごろ転がっている。
ほ、包丁、出す前で良かった・・・。
緊張感に欠けることを思いながら視線を彷徨わせていると、彼が私の両足を広げて、その間に体を割り入れた。
なにこの状況・・・。
思いもよらないことばかりが連続して起きたせいか、もう言葉にする気にもなれなかった。
「ミナ・・・」
彼の声が、私の視線を上へと向けさせる。
目の前に目を細めた彼がいた。
至極ご満悦そうだ。
もう返事をする気にもなれない私は、黙って彼の視線を受け止めるしかない。
力では敵わないし、かといって今は言葉が通じないようだし、どうしようもなかった。
いっそのこと泣き喚いたら、さすがの彼も察してくれるのだろうか。
けれど、そんな子どもみたいなことは出来ないな、と冷静な私が思ってしまう。
頬を撫でられて、なんとなく視線を逸らす。
お酒に呑まれた彼は、少し苦手かも知れない。
「お前も飲むか?」
全く悪びれる様子もなく、彼が言った。
私はぶんぶん首を振る。
彼だって、知っているはずなのに。
「要らない、飲めないからいい」
「そうか・・・?」
どこか納得のいかないふうな表情を浮かべながら呟いた彼は、もう1度ボトルをあおる。
そして、壮絶な笑顔を浮かべた。
「え、要らないよ、私・・・」
少し体を仰け反らせた私に、彼が迫ってくる。
ここはキッチンで、野菜も転がっていて、少し手を伸ばせばミルク用の小鍋がある。
もしどうしようもなかったら、小鍋で頭を叩いてしまえと思っていた。
「やめて、やめてってば・・・!」
彼が口を開くことはなかった。
それは、彼の口にはワインが含まれていたから。
本当に飲めないの、知ってるくせに・・・!
ぐい、と腰から引き寄せられて口付けられる。
舌で割られた唇から、温くて渋いワインが流れ込んできた。
「うぅ・・・んん・・・っ」
彼の口と私の口では内容量がだいぶ違う。
溢れ出したワインが、私の頬や首筋に赤く曲線を描いて下へと下りていった。
つー、と虫の這うような感覚に、変な声が出る。
そんなことよりも、お酒を飲んでしまったことに激しく動揺してしまった。
「飲んじゃった・・・!」
しかもワインだ。彼の大好きな、強めのワイン。
喉がかっと熱くなって、次に頭に火柱が立ったのではないかというくらいの衝撃がきた。
くらくらする。
だからやめてって言ったのに!
・・・いや、機会があって誰かと食事をする時でも、私が勧められたお酒は全て彼が引き受けてくれていたのだ。
いつもは、私が飲まされないように守ってくれていたのに・・・。
思い切り彼を睨む。
睨みながらも、今日の彼の様子がおかしいことを確信する。
「怒ったミナも・・・」
そこにいたのは彼の皮をかぶった獣だった。
目が、本気だ。
「・・・美味そうだな」
私が息を飲んだ瞬間、彼は相手である私よりも優位だとはっきり分かったのだろう。
性急な動きで間を詰めたかと思えば、私の首元に残る赤い曲線を舌先でなぞり始めた。
「や、やだ・・・っ」
こんなところで止めて欲しい。
そう思うのに、体に力が入らない。
息が上がって、まともに物を考えられなくなってしまう。
彼は私の呼吸すらも奪おうとしているかのように、口付けを繰り返した。
今になって、指先がじんじんと痛む。
それでもその痛みは、彼の吐息が耳元で聞こえてくると薄らいでいった。
彼の口の中に残るアルコールにやられてしまったのか、私はだんだんと意識が遠のいていくような気がして怖くなる。
必死に彼にしがみついていると、彼が私の足を撫で始めた。
相変わらず酸素を奪う口付けは繰り返されていて、私は力の入らなくなった瞼を閉じる。
「ミナ・・・っ」
酸素が足りないのは彼も同じようで、乱れた呼吸の合間を縫って、焦れたような、ものすごい色気を纏った声が降りかかってきたのを感じた。
・・・これはもう駄目だ。
そう観念した時には、私の意識は闇の中へ沈み始めていた。




