小話 彼の秘密4
かさっ
草を踏みしめる音に、体が強張った。
彼が少し前へ出て、私の視界がほんの少し広がる。
広い背中から少し横に視線をずらしたところに、黒い服の裾が見えた。
白くて細い腕も見える。
声の主は、線の細い体つきをしているらしい。
そんな感想を抱いた次の瞬間、私は息を飲んだ。
彼女の細く華奢な手に、短剣が握られていたのだ。
・・・もしかして、さっき飛んできた短剣は、彼女が・・・?
そんな想像が、体を硬直させる。
そうか、だから彼は、私を背に庇ったのか。
私は笑いそうになる膝を叱咤して、せめて彼女を刺激しないように気配を消すこと、そして、彼の些細な変化に気づけるように、神経を尖らせた。
吹き抜けのようになっているこの場所は、風の通り道らしい。
時折強い北風が吹きつけては、競うようにして木々の間へと抜けていく。
そうして、寒さを感じる余裕もないまま時が過ぎ、2人が睨み合っていた、刹那。
ひゅぅっ、と息を吐く音に気を取られた私の手を、彼が、ぐいっ、と引いた。
突然のことに私は声も上げることが出来ないまま、その引力の向かう方向へと体が傾くのを感じて、たたらを踏む。
背後で、カンッ、と硬い音が響いた。
そして、私の視線のかなり先の方へと、短剣が突き刺さる。
それを見て、背筋が凍った。
寸でのところで、悲鳴を飲み込む。
「・・・蹴った・・・?!」
彼女が呆然と言葉を漏らす。
蹴った、とは・・・おそらく、短剣を、だろう。
ちらりとだけ見える彼女の手には、もう短剣がなかった。
・・・でも誰が。
そう考えて、そんなことをするのは彼をおいて他にはいない、ということに思い至った。
やっとのことで立っている私を庇うようにして、彼が再び彼女に向き合う。
「怪我は」
硬い、私が夜会で消滅しそうになった時のような声をかけた彼の表情は伺えない。
けれどその背中が、神経を張り詰めているのが分かった。
たぶん、今狙われたのは、私。
直感を疑うことなく、私は頷いた。
「平気」
怖がっているなんて、絶対に気取られてはいけない。
ううん、怖がってるのはもう知られてるはずだ。
でも、私がそれに負けそうだなんて知ったら、彼の神経がもっと尖ってしまう。
守られることしか出来ないなら、せめて、騒がず慌てず、万が一のことが起きても彼の判断を狂わせるようなことだけは、してはいけない。
震えそうになる喉に力を入れれば、呼吸が苦しくなった。
思わず胸に手を当てる。鼓動が、うるさい。
「そうか・・・」
自分の投げた短剣を蹴られて呆然としていた彼女が、口を開いた。
「あの時は、刺されてやったってわけ・・・?」
「・・・あの時・・・?」
彼女の台詞に、思わずひとりごちる。
はっと気づいて口を噤んだけれど、遅かった。
「必死に守ろうとしてるその人は、あなたが蒼鬼だって知ってるの?」
何かを含んだ声に、彼が平然と「ああ」とだけ返す。
2人の表情が見えないもどかしさに、彼の背に視線を這わせる。
「何をしてきたか、知っていて一緒にいるの?」
「さあな」
「その人に聞いてるの、あなたじゃない」
少し大きく響いた声に引きずり出されるようにして、私は彼の背から、そっと顔を覗かせる。
彼と話していても何も伺えないだろうから、苛立っているのだろう。
皮肉を言っても、怒りや悲しみをぶつけても、彼には変化が起こらないから。
変化を悟られないようにする術が、身に着いてしまってるから・・・。
「・・・全部を知ってるわけじゃ、ないけど・・・」
私が顔を出すのを止めなかったということは、少なくとも急に攻撃を仕掛けられても大丈夫だという算段がついているのだろう。
彼の胸の内を読んで、私はこっそり彼女に向かって言葉を放った。
彼女が、きつい目つきで私を睨む。
年の頃なら、大体12歳くらいだろうか。
まだ女性らしい体つきではないようだけど、子どもかと問われれば、微妙な雰囲気が漂っている。
殺伐とした雰囲気を纏ったせいかも知れない。
もう辺りは暗くて、髪の色などはほとんど分からないのに、その瞳だけはとてもくっきりと、主張する何かを湛えていると分かった。
「・・・人殺しよ」
きっぱりと言い切った表情からは、明確な敵意と怨恨が見て取れる。
絶対に許さない、という意思が目に見えるようだった。
「・・・そうでしょうね」
言いながら、私の中の何かがふつふつと湧いてくる。
怒りでも、反感でもないけれど、とにかく言葉をぶつけたい衝動に駆られた。
人殺し。
その理屈、戦場で剣を振るったら大抵の騎士はそう呼ばれることになるじゃないか。
彼女の眉が、ぴくん、と跳ね上がった。
小さく息を飲んだのが分かって、私は感情に飲まれそうになる自分を意識して抑える。
「そんなことは、もう知ってる。
彼が戦場で剣を振るってきたことも、誰かの命を奪ってきたことも・・・」
出来るなら、この背中から飛び出してしまいたい。
けれど、彼の腕が私を背後へ押し留めようとしていた。
「世話になったという人を殺したことも?」
「え・・・?」
世話になった人と、彼女のお父さんというのは、もしかして・・・。
「私の父さんよ。
・・・蒼の騎士団・・・この人の前の団長だった」
彼は、何も言わずに静かにことの成り行きを見守っている。
私は、突きつけられた事実に、愕然としていた。
「前の団長・・・あなたの、お父さん・・・?」
「そう、この人が殺した。
・・・毎年毎年、花なんか持って、祈りだなんて・・・!」
私の目を見て、ぶつけてきているはずの言葉が、頭の上をすり抜けていく。
怒りが燃える瞳が、彼に向かっていた。
もう彼女の手には短剣はないけれど、どうやってでも彼を傷つけてやろうと考えているのが、強く伝わってくる目をしている。
「・・・許さない。
あなたが幸せになるだなんて、絶対に・・・!」
押し殺した声が、彼女の悲しみと悔しさがそれほどのものか、思い知らせてくる。
怒りのあまりに震えたこぶしが、痛々しい。
彼が団長になったのは、5年前。
まだほんの子どもの頃に父を失って、それからずっと、この子は前に進むことが出来ずにいるのだろうか。
前の団長が、それ相応の裏切りをして、陛下の処断で切り捨てられたのを、まだ受け止められずにいるということなのだろうか。
・・・なら、彼も・・・?
「シュウ」
彼女には聞こえないように、かすかな囁きを彼に伝える。
彼の腕が震えたということは、聞こえたのだろう。
「私も、大切な人を奪ってやる・・・。
そして、ずっと苦しんで生きればいい・・・」
彼女には、言葉はあまり意味を成さないのだと分かって、私は彼の背に隠れた。
そして、低い声で恨み言を放つ彼女には耳を貸さずに、私は囁く。
どうか風の音が、囁きをかき消しませんように。
「今日は、外で夕食済ませて帰ろうね。
それから、泡のお風呂にして、一緒に入ろう」
背中にそっと口付けた。
私は、そこに傷がいくつもあるのを知っている。
「私、目を瞑ってる。何も見ない。
だから、早く彼女を何とかして・・・私と一緒に帰ろう」
言って、言葉の通り目を閉じた。
次に目を開けた時には、全てが終わっていた。
「目を」
彼の言葉に目を開けると、草むらの上に彼女が気を失って転がっていた。
「・・・気絶させた」
「うん・・・」
後ろめたさの残る言い方に、私も頷くことしか出来なかった。
こうする以外、穏便にことを済ませる方法は見つからなかったのだろう。
それに、彼を焚きつけたのは私だ。
あの時彼は、ことの成り行きを静かに見守っていたのではなくて、過去を晒されて、明確な悪意を向けられたことに少なくとも動揺していたのではないかと思った。
なんとなく、そんな気がしたのだ。
だから私は、彼に囁いた。
あんな言葉、聞いていたら彼の頭がおかしくなってしまう。
私には剣を持つだけの力はない。
彼を背に庇って、飛んでくる短剣を振り落とすことなんか、到底出来っこないのだ。
けれど、彼の心を傷つけるものから守るために、言葉を吐くことは出来る。
例えば私の放った言葉が他の誰かを傷つけるとしても、それで彼を守ることが出来るのなら、絶対に迷わない。
この優先順位は、一生覆ることはないだろう。
手足を縛って猿轡を噛ませて、傍から見れば誘拐犯かと通報されそうな姿にして、私達は彼女を家まで送り届けた。
母親に、泣きながら謝られたことが衝撃的だった。
てっきり、母娘で恨んでいるのかと思っていたから・・・。
帰り道彼に話を聞いたら、母親の方には事件の直後に報告と謝罪をするために会っていたそうだ。
彼女はしっかり事の次第を理解して、「彼も裏切っていることに疲れていたようだったから、解放してもらって、ほっとしているかも知れない」と話してくれたらしい。
裏切りには気づいていなかったけれど、夫が思い悩む姿を影ながら見て、胸を痛めていた、とその時聞いたという。
その時、娘の方は父の死のショックで失声症になり、一時入院していたのだそうだ。
重い空気を振り払うことが出来ないまま、適当に食事を済ませて、部屋に戻る。
暗い部屋に照明が灯って、馴染んだ部屋の匂いを吸い込んだら、ほっと息が出た。
「毎年、この時期に花を手向けに行っていたんだ。
何日かかけて、墓標を掃除したりもしていた・・・」
彼が静かに話し始めた。
私の囁いた通りに、泡のお風呂を作って一緒に入って。
「そっか。だから何回も1人で出かけて行ったんだね・・・」
湯気が包んでくれているからか、勇気を出して私の方から、指先を絡める。
すると、彼の視線が一瞬揺らいだ。
大丈夫だよ、と絡めた指に力を込めると、彼の目元がいくらか和らぐのが分かった。
「去年は、彼女が墓標の前にいて・・・罵詈雑言を浴びせられた」
「うん・・・」
浴びせそうだもんね、彼女。
浴室は声が響いて、話すのがゆっくりになる。
話をするには、ちょうど良かった。
「そして、今年の初夏・・・夜盗が出たと通報があって、イルベ方面へ出向いた」
「うん」
「そこで、短剣を投げられた」
「・・・え?」
唐突な話に、理解が一瞬遅れる。
短剣を、投げられた?
彼が自嘲気味に顔をゆがめて、私に言う。
「殺気を感じて、感づかれないように探ったら、彼女がいた。
・・・だから、わざと、刺さるようにしたんだ・・・」
「・・・だから、孤児院に来た時に、短剣が刺さってたの・・・?!」
しかも、左肩の下あたりだったのを思い出して、私は胸が締め付けられた。
今もかすかに傷が残っているから、分かる。
あれは、心臓を狙って投げたのだと・・・。
彼女は、そんなことをしたら自分が罰せられることなど、知っていただろうに。
「・・・それで気が済むなら、そうすればいいと思った。
運悪く体が使い物にならなくなっても、それはそれで構わなかった」
彼の声が、力なくお湯の中へ沈んでいく。
私は何と言ったらいいのか、必死に言葉を探していた。
その頃の彼が、自分を蔑ろにするほどに疲れきっていたのかと思うと、心が痛いのだ。
そして思う。
彼が擦り切れてなくなってしまう前に会えて、良かった。
「あの時は、そう思っていた・・・」
「そ、っか・・・」
相槌すら上手く打てない自分がはがゆい。
胸の奥が震えてしまって、言葉が出なかった。
「泣くな・・・」
鼻の奥がつん、と痛んで、目がちかちかする。
泡のついた手で擦ると痛いから、涙の落ちるままに任せて、私は鼻をすすった。
彼がそっと抱き寄せて、膝の上に座らせてくれる。
私は力いっぱい、彼の首元に抱きついた。
「シュウの代わりに、泣いてるんだよ」
震える喉元を必死に抑えて言えば、彼が低く笑う。
どこか、照れ隠しのように。
「そうか、ありがとう」
「過去は、今日に置いて行けばいいよ」
涙を抑えるために、いつもより大きな声を出した。
浴室によく響く。
「だって・・・私の過去なんて、あっちに置いてきちゃったんだもん。
もう何にも残ってない。
だから、シュウの過去がここになくたって、私は気にしないよ。ね?」
蛇口を捻って手をすすいだ彼が、その指で私の目に滲んだままの涙を拭いてくれた。
私には、このシュウがいればいい。
そう思って深い緑の瞳を見つめれば、彼の口元が綻んだ。
私達の間には、不思議な引力がある。
今もそれが働いて、自然とお互いの距離が縮まり始めていた。
ああ、今こんなことしちゃったら、のぼせちゃうかも知れないな。
そんなことを考えながらも、私はその引力に逆らえたためしがない。
そっと、触れるだけの口づけ。
湯気のせいなのか、少し湿った唇が気持ちよくて。
もう一度、と目を閉じた。
そのまま口づけが深くなっていったのは、まあ、当然といえば、当然。




