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「あぁ、そうだ・・・子守の仕事を受ける覚悟が出来たなら、」
立ち上がった団長は、思い出したように付け足した。
覚悟だなんて、なんだか物騒な響きだけれど・・・と、彼の言葉に若干憂鬱な気分になる。
「それはなるべく、身につけておくようにしてくれ」
「・・・え?」
私を見下ろす彼の目は真剣で、きっと大事なことを言われているのだから、ちゃんと聞かなくてはと分かっているのに、その先は知りたくない、とも思ってしまう。
彼は、うっかり聞き返した私にひとつ頷いた。
「そのコインは私が後見をしている、という証だ。
これを見てなお、君に不利益を働こうとする者はいないはずだ。
・・・少なくとも、王宮内には皆無だろうな」
「え?
でもこれ、騎士の皆さんが持ってるって・・・。
・・・どうしてこれで、団長が後見をしていると分かるんです?」
覚悟といい、不利益を働く者といい、彼の口から怪しげな言葉が次々と飛び出てくるのは、一体どうしてなのだ。
訝しげな表情を隠すことも忘れて、私は彼に尋ねていた。
すると、素知らぬ顔で彼が答える。
「それは騎士団団長の紋章だから、私を入れて3人しか持っていない」
・・・開いた口が塞がらない。まさかそんな物をくれてしまうとは。
サーっと全身の血が引いていくような気がして、思わず叫んでいた。
「た、ただの飾りだから、取っても問題ないって!」
「その通りだ」
声を荒げてしまったのを一瞬後悔したけれど、それをぶつけられた本人が、全くもって動じないのはなぜなのか。
私が1人で騒いでいるだけのような気がしてきて、余計に怒りがふつふつと湧いてくる。
「問題あります!大有りですよね?!
なんでそんな大事な物をホイホイくれちゃうんですか・・・?!」
そのうちに見下ろされていることすら癪に障るようになって、私も勢い良く椅子から立ち上がると、何食わぬ顔で気だるげに佇んでいた彼に詰め寄る。
昂ぶった感情に任せて、私は彼の襟首を掴んで思いっきり揺さぶってやった。
今日は王都に帰還する日だから、団長らしく勤務用の制服をきっちり着ていて、襟が掴みやすいのも悪かったと思う。
何を着ても格好良いなどと、本当に癪だ。
「・・・本当信じられない!」
まだまだ言い尽くせない感情があったけれど、満足ゆくまで揺さぶった私は、とりあえず手を離して息をつく。
こんなに大声を出したのも、やけくそになって人に突っかかったのも久しぶりだ。
その間沈黙を守っていた彼は、不思議なことに眉間のしわも発動せず、黙って私のしたいようにされてくれていたのだけれど・・・。
「・・・悪かった」
そしてひと言、他に思いつきませんでした、という感じの謝罪をくれた。
そこでやっと、私もはっと思い出す。
・・・目の前に佇む彼が、蒼鬼と呼ばれる蒼の騎士団団長だったことに。
今度こそ血の気がサっと引いて、指先まで冷たくなるのが分かった。
咄嗟に言葉を並べようとするけれど、声が思うように出てこない。
「・・・ご、ごめんなさ・・・ちょ・・・調子に乗って・・・!」
「いや、全く構わないが」
自分のしたことを自覚して震え上がる私を、彼は腕を組んで静かに見下ろしていた。
ちらりと見上げた時に目に入った彼の瞳に、怒りが燻っているようには思えなかったし、彼自身の口からそんな台詞をいただいたけれど・・・。
警察の偉い人に掴みかかるような、そんな無謀なことを仕出かしたのだ。
「・・・ごめんなさい」
小さく、消え入るような声しか出せない自分が情けなかった。
彼の顔を見ることも出来なくなって、私はじっと俯いたまま硬直したように動けない。
「・・・そう、固くならないでくれるか」
ため息混じりに言われて、その言葉に首を勢いよく振った。
これでも、自分の身の丈を自覚して生活しているのだ。
いっそのこと一喝してくれた方が、気が楽になるというのに。
そんなことを考えていると、大きなため息が頭上から降ってきた。
「・・・ミナ」
その刹那に聞こえてきた言葉に、自分の耳を疑った。
思わず顔を上げて、団長の顔を凝視してしまう。
すると彼は苦笑した。
深い緑色の瞳が柔らかく細められて、なんて優しいカオをするのだろう、だなんて。
「君に持っていてもらった方がいいと、判断したのは俺だ。
それに、騎士として忠誠を誓う相手は、陛下であり、国家であり、国民だ。
それはどの騎士も変わらない。それが、騎士という職業だ」
さらに彼は言い募る。
まるで、息継ぎをするのも惜しむように、次々と言葉を紡ぐ。
今までで一番長く話しているんじゃなかろうか。
その饒舌さに、私は自分が仕出かしたことなどすっかり忘れて、半ば見とれるようにして聞き入ってしまった。
「手首のコインは、騎士として働く意思を表示するためのものだ。
国と雇用契約を結んだという証でもあり、他人に譲渡したり預けたりは出来ない。
だが、剣のコインは・・・・・」
彼がひと呼吸置いて続ける。
私は、静かに彼の言葉を待った。
「騎士として一人前になった時に、信頼する人間に、渡す習慣がある。
だからそのコインは、君が持っていても全く問題ない」
異論は認めない雰囲気に私は、こくん、と頷く。
それでいいのか、ともう1人の自分からの囁きには、耳を塞いでしまった。
「そういう、ことなら・・・でも、本当に大丈夫なんですか・・・?」
理詰めの説得にも、最後のひと欠片の不安が、言葉を紡がせる。
それに対して彼は、苦笑しながらも頷いてくれた。
「本当に大丈夫だ。
君は王宮で子守をする、俺は君の後見をする。それだけだ」
半ば呆れたように言われて、それならとりあえず問題ないのだろうと判断して、私はもう一度頷きを返した。
それに、かの団長から信頼に値すると言われて、嬉しくないはずもない。
・・・私のことをきちんと見てくれる人が、この世界に一体何人いるというのか。
少し寂しい現実ではあるけれど、生きていくということにおいて、他人に必要とされたり認めてもらったり、ということは大事な要素だと思うのだ。
だから、コインを渡す相手に選んでもらえたことは正直嬉しい。
先程の失態は許されたのだろう、と思えることが出来た私は、顔を上げたまま彼に言う。
「・・・あの、団長、私の名前、もう一度言ってもらえますか・・・?」
可笑しなお願いだと分かっているけれど、どうしてももう一度聞きたかったのだ。
彼は一瞬ぽかんとした後、ふっと口元を緩めた。
「・・・ミナ」
「やっぱり・・・!」
「何がだ?」
私の確信を持った言葉に、説明を求めるように団長の言葉が追いかけてきた。
「私の名前を、ちゃんと発音出来たの、団長が初めてなんです!」
思わず笑顔になってしまう。
なんでもないことなのに、心の底から嬉しさが湧いてきた。
自分の名前が、正しく呼ばれることがこれほど嬉しいものだなんて。
こちらに来てから、きちんと名前を呼んでくれる人に出会えなかった私は、なんだか別の自分になってしまったような、大切な何かを失ってしまった気持ちになったものだ。
生まれ出て、両親に付けてもらった名前・・・。
それまでは肌身離さず持っていたはずなのに、世界を飛び越えた時に、どこかに落としてきてしまったことが、とても、とても悲しかった。
だから今、もう一度私の名前を他人の口から聞くことができて、嬉しい。
嬉しくて仕方がなかった。
「そうか」
そして頬が緩むのを止められない私を、団長は温かい目で見下ろしていた。
「はい」
私も団長を見上げ返すと、ふと天体盤が目に入った。ずいぶん時間が経ってしまったのか、太陽の位置が、だいぶ高いところに届こうとしていたのに気づく。
もしかしたら、そろそろ子ども達も食堂に集まり始める頃かも知れない。
「・・・ところで」
そんなことを考えていると、ふいに団長が言った。
「君は俺の名を覚えて?」
「え・・・?」
私はその真意を汲み取れずに首を傾げる。
そして少しの間を置いて、ああ、と気がついて口を開いた。
「ああ、えっと・・・しゅ、ばり・・・?」
うろ覚えのまま口に出せば、団長の眉がちょっと下がったのが見えた。
そして短く息を吐いた後に、呆れ半分なのが良く分かる声色で言う。
「シュバリエルガ、だ。
・・・君は、物覚えが悪いのか」
気を悪くしたのだろう、今までにない発言だった。
襟首を掴んでも表情ひとつ変えなかった彼が、眉間にしわを寄せている。
「・・・ごめんなさい・・・。
団長の名前を言うことなんて、ないと思ってたから・・・」
言い訳がましくなってしまうのは、仕方ないと思う。
私は少し出自が変わった一般庶民なのだ。分かっていただきたい。
「ああ、まあ、そうだろうな・・・。
・・・いや、そうか、そうだな」
そこまで言って、一度言葉を切った。
何かを考えながら話している様子に、私は内心で首を傾げつつ、彼の言葉を待った。
「・・・君は俺の部下ではない。後見人と、被後見人だ。
そうなると、君を名前で呼ぶ機会が増えると思う。
だから、というのもおかしいが、こちらも名前で呼んでもらえると助かる」
「私が、団長を・・・?」
・・・団長を、名前で呼ぶ?
言われたことを胸のうちで反芻する。
そして気づいた。
私が呼び捨てにされることなど、大したことではないけれど、私が彼を名前で呼ぶというのは、大層な問題なのではないのか。
「いやいやいやいや、いろいろ問題になりませんかそれは?!」
「本人がいいと言ってる」
「他の騎士達が、不満に思うかも知れませんし!」
「そんなことにこだわる人間は騎士団には要らん」
「団長のファンに刺されたらどうしてくれるんですか!」
「そんな奴らは一掃してやる」
「発言が乱暴ですよ!」
「俺は蒼鬼だ。問題ない」
「えぇっ?!」
一向に譲らない彼に、不満の声を上げた私は、咄嗟に首にかかるコインの紐に手をかけた。
「・・・じゃあコインを返却します!
子守の話もなかったことにしましょう!」
手をまわして、紐の結び目を探り当てる。
上手く働かない両手がもどかしい。
「いや、それは無理だな」
彼の冷静な声が降りかかってくるけれど、それに構っている余裕はなかった。
「いえ、お返しします!」
そして、必死になって結び目を・・・。
「・・・取れない?!
う、嘘でしょう?!」
顔面蒼白。そして絶句。
「ど、どうして?!」
涙目で彼を見上げれば、満足気に頷いていた。
「取れないように、きつく結んだからな」
「そんな・・・!」
「ちなみに、鋏で切ろうとしても無駄だ。
それは防具を作るのに使う、強度の高い紐だからな。
・・・そうだな、俺か、他の団長にしか解けないだろう」
いっそ爽やかにすら見える表情で言われて、私は言葉を失ってしまう。
言葉に出来ない思いが、ぐるぐると頭の中を巡っておかしくなりそうだ。
そして深呼吸をして脳に酸素を送ると、ようやく口が働いてくれる。
「ぜ、前言撤回します。
蒼鬼は本当に蒼鬼でした・・・」
私のささやかな反撃を、団長は一笑に伏した。
そして、紐を解くのに奮闘した私の指を取る。
気がつけば、指がじんじんと熱を持っていて、どれだけ必死になっていたのかと、自分で自分に呆れて、ため息が漏れてしまった。
「・・・悪かった。やり方が強引だったのは謝る。
コインが、他の人間の手に渡ると厄介なのでな。防犯だ・・・」
団長の声は、少しだけ沈んでいた。
その顔してそんな声で言われたら、許さないわけにはいかないじゃないか。
自分で思うより、私はこの人に弱いのかも知れない。
指をなでられて、痛むかと聞かれたら、
「もういいですよ」
と言うしかないのだ。
そして、彼の名前をそっと口にしてみる。
「・・・シュ、バ、リ、エル、ガ・・・でしたっけ・・・?」
今まで男の人を呼び捨てるなんて、数えるほどしか経験がない上に本当に久しぶりで、胸に広がった違和感に戸惑ってしまった。
特にこちらの世界では、ユタさんやリュケル先生・・・いや、リュケル先生は女性として数えた方がいいのだろうから数に入れていいものか・・・。
そんなことを思っていると、深い緑の瞳が瞬きをしているのことに気がついた。
なんだか可愛いな、なんて、言葉にしたら気を悪くするだろうか。
「この世界の名前って、長いと言いにくいんです。
団長が・・・、しゅ、ばりえる、が、さんが私の名前を発音しにくいのと似てますね」
微笑んで言えば、彼の眉間にしわが寄る。
思いのほか、彼の感情は分かりやすいかも知れない。
私はそんな彼に苦笑しながら、続きを話した。
「だから、シュウ、って呼んでもいいですか?
それなら、躓かないで言えそうなんですけど・・・」
それなら私でも上手に発音できます、と微笑む私に、彼も一瞬目を見開いたかと思うと、すぐにその頬が緩んだ。
「上出来だ」
その後、渡り廊下を並んで歩きながら、これからの話をした。
「そういえばシュウ?」
「ん?」
「机の上の書類、あとちょっと仕分けが残ってるけど、大丈夫ですか・・・?」
「あぁ・・・なんとかなるだろ」
「・・・本当ですか?
今ちょっと、嘘の匂いがしましたよ?」
「・・・。
どうせ仕分けた後は事務官の仕事だ。
仕分けからやったところで、大した違いはないだろう」
「・・・可哀想なことをしますね・・・」
「・・・あいつらはそれが仕事だ。
君は俺の部下ではないからな、この後のことは気にする必要はない」
「いや、あの、それはいいんですけど・・・あ、」
「どうした」
「・・・ええと、気づいてないかも知れませんが、さっきから地が出てますよね」
「地?」
「はい・・・自分のこと俺って言ってますけど、大丈夫ですか?」
「・・・言っていたか」
「はい、言ってました」
「それは、あれだ。
気が緩んでいるんだな。許せ」
「いや、私は別にどっちでもいいんですけど。
私はもう、あなたのこと蒼鬼じゃなくて、お兄さんみたいに思ってますから」
「・・・そうか・・・」
「はい。だから、いいですよ」
「ん?」
「私はこっちの常識とか、価値観とか、まだ馴染みきってないですから。
私の前では、団長らしくしてなくても、全く問題ない、と思ってます」
「・・・そうか」
「ええ。
それに私ね、お兄ちゃんがいるんです。
向こうの世界で、学校の先生をやってます」
「そうか」
「お兄ちゃんも、学校では自分のこと僕、って言うみたいなんです。
でも家に帰ってくると、俺、って言ってました」
「そうか」
「だからきっと、団長も・・・っと、シュウも」
「うん」
「そういう場所があっても、いいんじゃないかと思うので」
「あぁ」
「私のこと、妹だと思ってもらっていいですよ。
・・・あ、ちょっと調子に乗りすぎましたね。ごめんなさい」
「・・・いや・・・」
「・・・そういえば、シュウは、今おいくつですか?」
「32だ」
「・・・うちのお兄ちゃんよりも、年上でしたね・・・」
「・・・そうか」
「はい」
「ミナは、家族が恋しいか?」
「・・・それはもちろん、です」
「そうか」
「今も会いたいですよ。
でも・・・そうですね・・・私はここで、人生の残りを楽しもうと決めましたから」
「そうか」
「はい。
だから、王宮でも頑張ります!」
「あぁ、困った時は俺を頼るといい」
「ありがとうございます、本当に」
「・・・ああ」
「私、いつか自立して一戸建てを買って、院長の老後の面倒を見るつもりなんです」
「そうなのか?」
「はい、院長が母代わりだと思っているので・・・。
だから、そのためにも自分の力で生活出来るようになりたくて・・・」
「そういうことなら、俺もそれを支えよう」
「・・・?
はい、お願いします?」
「あぁ、任せておけ・・・」
つらつらとそんな会話をして、一緒にお昼を食べて、団長は王都に帰還した。
食堂でも、その容姿と威厳が目を引いて、ついでに一緒にいた私にもチクチクと視線が刺さったけれど、それは彼の一瞥が黙らせてくれた。
たまたま居合わせた子ども達など、驚いて職員の影に隠れたくらいだ。
思わず笑ってしまった私に、彼が一瞥をくれたけれど、もはやそれに動じる私ではなかった。
他の人達は、彼に視線を投げられると硬直しているようだったけれど、私は少し違う。
あの目で見つめられるたびに、ふわふわと落ち着かなくなるのだ。
違う違う・・・と自分を諌める。
彼は私の後見人で、お兄さんのようなもの。
私は物語のヒロインではない。
そんな造りの顔をしてはいないし、特別になれるだけの資質はないはずだ。
たまたま強い男の人に出会う機会があって、たまたま気に入られた。
でも、それは珍しいからで私がヒロインだからじゃない。
これは現実。私はこの世界で現実を生きなくちゃいけないのだ。
夢を見るなんて、この世界に飛ばされただけで十分。
特別でも、ヒロインでもない私は、誰かに依存しないで、まずは自立しなくては。
そのために、私は王都に行く。