62
「ミナ」
数歩先を歩いていたシュウが、振り返って私の名を呼ぶ。
私は白い、高くそびえる塔から視線を外した。
日が傾いて、いくらか赤みの強くなった日差しに、彼の茶色い髪がキラキラ輝いているのを目を細めて受け止めた私は、何も言わずに彼に駆け寄った。
「マートン先生、見てくれるかな」
「さあな・・・」
いつの間にか、繋がれた手に疑問を感じることもなくなった私は、やはり環境に適応する能力が突出しているらしい。
隣を歩く彼が返した言葉も、決して冷血なわけではないのだと知っている。
「枯れる頃に、また花屋に行けばいい。
ずっと目の前にあれば、いつかは目に入るだろ」
・・・ほらね。最後まで聞けば、こんなに優しい。
少しは彼のことが解りつつある自分に、胸を張りたくなった。
調子に乗った彼のおかげで、またしても体がぎっしぎしに出来上がった私は、日がだいぶ高くなった頃にのそのそと起きだした。
彼も隣で泥のように眠りこけている、と思い込んでいた私ががらんとしたベッドから抜け出してリビングで見たのは、完璧にセッティングされた、素晴らしいブランチだった。
幸せなのに、同時に敗北感を味わった時の気持ちは、なんとも表現出来ない。
・・・いや、おいしかったし彼も嬉しそうだったし、よかったのかあれで・・・。
ともかく、夕食は晩餐会だからと、昼間は2人で出かけることにしたのだ。
街に出て、私の買い物に付き合ってもらった後、私はある花が窓辺に揺れているのを見つけて花屋へ、彼は用事を済ませて来ると言って、別行動を取った。
私の見つけた花は、桜。
この世界にも桜があったなんて、と感動したのもつかの間、目の前に現れた懐かしい花を、マートン先生に見せてあげたくなったのだ。
この際、季節に関係なく咲く桜でも構わない。
そしてたった今、花器と一緒に買った何本かを、終わりの塔の入り口で警備にあたっていた蒼騎士に、お願いしてきたところだ。
囚人、しかも壊れてしまって会話もままならない者に与えることは出来ないかも知れないけれど、それでも母親と同じ名前を持つ花を、彼の元に置いて欲しかった。
これは、私のエゴ以外のなにものでもないけれど。
いつか、桜の花が彼の寂しさを少しでも埋めてくれたら、いい。
部屋に戻って支度をしたら、あっという間に夕暮れ時だ。
うっすらと白く輝く月と、赤く沈む太陽を交互に見ながら、久しぶりに心の弾む思いで王宮に入った。
・・・入り口で呼び止められて、昨日の小火について聴取したいと言われたけれど、そのあたりは、隣の彼が言いくるめてくれた。
結局聴取は明後日以降に落ち着いたのだけれど・・・私が疑われているのかと尋ねれば、たまたま私を呼び止めた蒼騎士は、彼の眼光に怯んで、首をぶんぶんと振るばかりだった。
・・・たぶん、こういうのが世間の誤解を助長するのだと思う。
そうしてやって来たのは、いつだったかお礼の焼き菓子を配った時に、ジェイドさんを探して辿り着いた広間だ。
あの時は・・・と回想しそうになって、慌ててそれを打ち消そうと赤面した私を、彼は目聡く指摘する。
何でもないと言い張れば、彼がふいに私の髪に手を伸ばした。
そこにあるのは、青いコインの付いた髪留めだ。
丁重にお断りしたのだけれど、珍しく私の気持ちよりも我を通した彼は、私の髪を綺麗に結い上げてくれた。
これは、こういう髪の結い方が好みだというアピールなのだろうか。
ともかく、彼の選んだ服に、彼が結い上げた髪で、私は今夜の晩餐に臨んでいるわけだ。
そんなに張り切らなくても・・・と半ば呆れつつ、私は彼のしたいようにしてもらった。
それにしても、いつの間にこの服を用意したのだろうか。
いろいろと考えを巡らせているうちに、紅騎士が広間の扉を開けてくれたようだ。
重い音と共に視界がひらけて、そして、彼の手に先導されて一歩踏み出した、その時。
「ミイナ!」
聞き覚えのある、子どもっぽい芯のない声に、耳を疑った。
咄嗟に声の主を探そうと視線を彷徨わせた刹那、私は嗅ぎなれない匂いを漂わせる腕に、ぎゅうぎゅうと抱きしめられていた。
・・・苦しい。香水臭い。
呼吸と嗅覚をやられた私は、呻き声を出す以外に何も出来ない。
「会いたかったよ~」
・・・私は会いたくありませんでした放して下さいリュケル先生・・・。
もう勘弁してくれ、と思ったのと同時に先生の腕が引き剥がされて、彼が私をその背に庇う。
やっと呼吸が楽になって息をつくと、大きな背の向こうでは、先生と彼の応酬が繰り広げられていた。
「ちょっと!何するんだ蒼鬼!!」
「煩い医師もどき」
子どもと鬼がじゃれ合ってるみたい・・・などと、絶対に口にしてはいけない感想を抱きつつも、なぜリュケル先生がここにいるのかと考えを巡らせた。
・・・今日の晩餐は、身内だけだとジェイドさんが言っていたような・・・。
先生は医者だから、王宮内で診察でもしていたのだろうか。
疑問符が頭の中を埋め尽くした私は、ただ目の前の応酬を見ているしかない。
そんな時、ふいに背後に気配を感じて振り返る。
目が合ったその男性は、どこかで会ったことがあるような、ないような。
白髪に茶色い髪の混じった、とても渋くて格好良いおじさまだけれど、私の知っている格好良いおじさまなんて、バードさんくらいのものだ。
なんだろう、と不思議な既視感に内心首を捻っていると、おじさまの隣に綺麗な女性が並んだ。
その人もまた、どこかで見たようにも感じられて、ますます不思議な気持ちになった私は、どこかぼんやりしながら会釈をして、口を開いた。
その時だ。
彼を挟んだ向こうにいたはずのリュケル先生が、歓喜の声をあげた。
「姉さま!」
「・・・リュケル」
綺麗な女性が、ふんわり微笑んだ。
・・・リュケル先生の、お姉さん・・・?
不思議に思いながらも、姉弟の再会らしき場面を見守っていると、彼が唐突に声を漏らした。
「・・・お久しぶりです、伯父上」
・・・伯父?
彼の言葉に何かが引っかかった。
「ああエル、元気そうで良かった。相変わらず男前だなぁ。
ラズの話では、どうやらお前にも良い縁が出来そうだと聞いたが・・・」
彼と親しげに会話をし始めたおじさまが、ふいに私に視線をよこす。
その優しい目つきで、何かを探られているような気がして、落ち着かない心地になる。
ラズ、と呼んだ人が誰なのかも分からないし、私は完全に置いてきぼりを食らっていた。
いや、どちらかというと、このまま空気のように存在を無視して欲しかったのだけれど、そうもいかないようだ。
おじさまの視線に彼が微笑んで、私を見つめた。
糖度の高い視線に耐えかねて目を逸らそうとしたところで、彼がふいに私の肩を抱いた。有無を言わせない重力に、体が傾いて彼にぶつかる。
「相変わらず耳が早いですね。
良い縁とは、あの人も凝った言い回しをする・・・」
バリトンの声が、触れた部分から伝わってきて、なんとも恥ずかしい。
私は戸惑いを懸命に隠しながら、軽く会釈をした。
「り、リオン皇子の、子守をしています。ミナです、よろしく、お願いします」
「私はアシュベリアの父、イルシュダート。
エルの母親の兄だ・・・よろしく、ミーナ」
「あ、あしゅ・・・?」
カタカナの羅列に、頭の回転がついていけない。
彼の名前もそうだったけれど、私は長い名前は苦手なのだ。
「陛下の名だ。アシュベリア。
陛下陛下と呼んでいると、忘れてしまう者が多いらしいが」
知らなかったのか、と頭上から苦笑気味に言われれば、私は赤面するしかない。
「・・・じゃあ、陛下のおとうさん・・・?」
半ば自分に問うように呟くと、シュウもおじさまも笑って頷いた。
「前、陛下・・・?!」
陛下の父ということは、陛下が陛下になる前は陛下だったということだ。
・・・だから、どこかで見た気がしたのか。
騎士団の本部やレイラさんの部屋の写真立てに、絵姿が飾ってあったのを思い出す。
おじさまは私の慌てふためく姿を笑い飛ばしてくれた。そんなところは、陛下によく似ている。
「ラズの言っていた通りだ。
良い娘だな、エル。とても可愛らしい」
最後の部分だけ妙に艶っぽく流し目で言われて、ふいを突かれた私は頬に熱が集まってしまった。
どうやら前陛下は、他の王族方と同じように、とても親しみやすい人柄のようだ。
「イルシュさま、」
リュケル先生と感動の再会らしきやり取りとしていた綺麗な女性が、前陛下の腕にそっと触れるようにしてやってきた。
その白くて綺麗な手を、前陛下は格好良く取って、さりげなく肩を抱く。
見とれてしまうのは、私が元来のおじさま好きのせいなのか。
女性と私の目が合って、ふんわり微笑まれた。リュケル先生と違う。
「初めまして、わたくし、イルシュさまのつ、妻のリリーメロウと申します」
妻、のところでどもって、頬がピンクに染まるさまは、女の私でも惚れるかと思うほど可愛い。
「わ、私はリオン君の子守をしている、ミナと言います。
リュケル先生には、いつもお世話に・・・」
・・・間違えた。
リュケル先生にはあまりお世話になっていない。
口をついて出た社交辞令に、隣の彼が手のひらにぎゅっと力を込めたのが分かる。
その後しばらくイルシュ様とリリー様・・・そう呼ぶようにお願いされてしまって私が根負けした・・・と、リュケル先生を交えて5人で立ち話をして、席についた。
小さな晩餐会だと聞いていたけれど、給仕さん達が私達に飲み物を配ってくれる。
これからやって来る方が知っている顔なのも嬉しいけれど、お互いの席が近いことに安心する。
一家で食卓を囲む感覚が、なんとも言えず心地良い。
緩やかな空気に浸っていると、ジェイドさん、続いて陛下やチェルニー様たちがやって来た。
リオン君とオーディエ君が手を繋いで入って来て、その後ろからレイラさんも。
皆さん普段よりは、少しだけドレスアップして来たようだ。
それぞれが挨拶を交わしながら席についたところで、私はまだ1つ空席があることに気づいた。
しかもそれは、私の左隣だ。
右隣には彼がいて、不思議そうにしている私に喉を、くっ、と鳴らした。
「やだ、何・・・?」
その様子が引っかかって尋ねれば、彼は黙って首を振る。
その表情は緩んでいて、なんだか釈然としないものを感じた。
なんだか、からかわれている気分になって拗ねていると、そっと扉の開く気配がして、振り返る。
「え?院長?」
静けさの中に、私の素っ頓狂な声が響いた。
現れたその人は、私の良く知る、しらゆり孤児院の院長だったのだ。
王都に来ていたのは知っていたけれど、もう帰ったとばかり思っていた。大体、孤児院の院長がなぜこの場にいるのか。
思いもしない方向からの不意打ちに、何が何だか分からず開いた口の塞がらない私が目を見開いていると、隣に座っていたはずのシュウが立ち上がって、私の左隣の椅子を引く。
すると、見慣れた微笑を浮かべて、院長がその椅子に腰掛けた。
「・・・え?」
ぎぎ、と体が錆びた音を奏でそうなぎこちなさで振り返ると、院長が必死に笑いを堪えていた。
「・・・え?!」
同じようにぎこちなく、反対側に座る彼を見遣れば、これまた同じように笑いを堪えている。
「えぇぇ・・・?!」
突然の展開に呆然と彼を見上げていると、反対側から声がかかった。
「ふふ、ごめんなさいねミーナ」
心底楽しそうに、全く悪びれずに院長がこぼす。口元を手で隠す仕草がとても上品だ。
「・・・ミナ」
反対側から彼に呼ばれて、勢い良く振り返る。深い緑の瞳が、困ったように細められた。
「その人が、俺の母だ」
勢い良く院長の方へと体を捻る。
なんと彼女は肩を竦めて、ぺろっと舌を出した。
「ラエスラズリエル。皆からはラズ、って呼ばれているの」
「はい・・・?!」
「全く、悪戯が過ぎますよ母上」
「うふふ。あー楽しかった」
軽く咎めるような彼の台詞に、悪びれもしない院長の声色が返る。
そして、私の絶叫が広間いっぱいに響いたのだった。
・・・院長が彼の母親だったなんて!
・・・何で誰も教えてくれなかったんだ。
非難の気持ちを込めて視線を右に左に投げかければ、それぞれが私から目を逸らして肩を震わせているのが目に入った。
・・・共犯か!
今まで何度でも告知するタイミングがあっただろうに!
頭の中では、いろいろなことが飛び交っているというのに、私は、ぱくぱくとエサを催促する鯉のように、機械的に口を開けたり閉じたりしていた。
「本当にごめんなさいミーナ。許してちょうだい」
しょぼん、という表現がぴったりなくらいに肩を落とした院長が、俯いて呟く。
心の中で非難を浴びせていた私は、彼女のそれが演技だと分かっていた。
分かっていたけれど、院長の方こそ、私がそこで非難めいたことを言わない人間だと確信して、演技しているはずなのだ。
・・・そういう人なのだ、この人は。
「私の立場を知ったら、よそよそしくなると思ったのよ。
娘だと思って暮らしてきたのに、あなたが離れることを思ったら・・・ごめんなさい」
しんみりと言われれば、怒りがしゅるる、と萎んでいってしまう。
もともと私はこの人のことが大好きなのだから、憤りが続くわけがないのだ。
私は静かに首を振った。
「ちょっと、驚いただけです。
いいです、もう。久しぶりに元気そうな院長に会えて、嬉しいし」
院長が、イルシュ様の妹で・・・つまり、元皇女様ということだ・・・理解は出来たけれど、院長として見てきた期間が長すぎて、恐れ多いとか、そんな感情が全く湧かない。
そうこうしているうちに乾杯して、食事が始まった。
・・・まるで酒盛りだ。なんなのこの人たち。海賊か何かか。
そんな風に目に映ってしまうのは、驚くことが重なって肝が据わったからなのかも知れない。
酒盛りを楽しむ大人たちは、いつの間にか私と彼の馴れ初めなどを聞き出すことに熱中していた。
本当に、ただ親戚の人達が集まって宴会しているだけのような・・・。
一見すると、誰も彼も酔っ払っているようにも見えるけれど、レイラさんとリリー様は飲んでいないようだ。
レイラさんは身重だから当然だけれど・・・リリー様も私と同じように、お酒を受け付けない体質なのだろうか。
ちなみに隣に座る彼は、もう何を何杯飲んだのか定かではない。
「ところでさー、ミイナの名前って、どういう意味なのー?」
ご機嫌なリュケル先生が、私に向かって問いかけた。
なぜ私の名前の意味などを聞くのかは分からないけれど、とりあえず馴れ初めからは遠のいてくれたので良しとすることにして。
私は思い出しながら、答えることにする。
「ええと、私のいた世界には漢字っていう・・・文字があるんです。
その文字の持つ意味が、名前に込められることが多いんですけど・・・。
ミナの【み】は、【未】っていう字で・・・」
手元にあったペーパーナプキンに、自分のグラスに残っていたワインを指につけて「未」を書いてみせた。
ちなみに飲んだのはシュウだ。
「【な】は、【菜】っていう字です」
同じように「菜」を書く。
それを見せると、先生は「ふぅーん、不思議なカタチだねー」と呟いた。
・・・ちゃんと見てるんだろうか。
「・・・で、意味は・・・」
漢字の持つ意味を思い出して、固まった。
「え、何どしたの?」
「ミナ?」
先生とシュウの声が、交代で飛んでくる。
「・・・未は、私の国で、その年を象徴する動物がいるんですけど・・・」
恐る恐る言葉を紡ぐ私に、いつの間にかその場の全員の視線が集まっていた。
・・・リオン君は、オーディエ皇子と少し離れた所に置いてあるピアノに夢中になっているけれど。
ああ、言いたくない。気づいてしまったのだ、私の名前が持つ意味に。
「・・・ひつじ、なんですよね・・・私の名前についてる文字・・・」
搾り出した瞬間、その場の全員が爆笑した。
・・・だから言いたくなかったのに!
あはは、とか、うふふ、とか、楽しそうな笑い声が飛び交って、私は小さくなって俯いた。
まさか世界を渡った途端に、私が羊に変換されていたなんてことはないと思うけれど。
この面白い偶然のせいで、一生からかわれるのかも知れない、と思うと脱力してしまう。
「そっかー、狼と羊だったら需要と供給、バランス取れてるもんねー」
リュケル先生のあっけらかんとした言葉が、笑い声に混じって聞こえてきた。
・・・私、被捕食者として見られてるんだろうか・・・。
夏のぬるい風がそよぐバルコニーで、楽しくて火照った体を冷ます。
思いがけないことが沢山起きたけれど、それすら笑って受け入れられる私はやはり、環境に適応する能力が優れているのだ。
「ミーナ」
ふいにかけられた声に振り返れば、院長が隣にやって来た。
大きく開け放たれた、広間とここを繋ぐ扉の向こうから、皆の喧騒が聞こえる。
まだまだ酒盛りは続くらしい。
「院長・・・」
「院長はないんじゃないかしら」
拗ねたような表情と声が、とても可愛らしくて笑ってしまった。
「そっか、えっと・・・」
「お母さま、と呼んで欲しいわ」
微笑まれて、不本意にもドキリとしてしまう。
・・・それって、一体どういう意味合いの「お母さま」なんでしょうか。
「あの嵐の夜、私の元に落ちてきたあなたは、間違いなく私の娘なの。
言ったでしょう、着飾ってもらいたいのも親心だ、って」
「あ・・・そう、でしたっけ・・・?」
「そうよ、いつも言ってたでしょう?
ついでにあの子もあげるから、私の娘になってちょうだい」
「つ、ついでにくれるんですか」
何かが入れ替わっているような気がするけれど、それでいいのか。
「本当は夜会で、あの子からいろいろ聞いたから、間に入ろうかとも思ったのよ。
でもまあ、結果良ければ全て良しね・・・あ、それから、」
・・・夜会にも来てたのか。もしや擦れ違っていたんですか、私達・・・。
今日は私の知らなかったことを告げられる機会が多すぎて、もういちいち訊き直す気力はない。
するすると耳に入る言葉を、そのまま受け止めた。
「あの子に、渡り人の史料を調べさせたのは私なの。
何かが分かるごとに手紙を寄越させていたから、あなたの知ってることは、
私も知っていると思っていいわ。心配事は、いつでも相談してちょうだいね」
そして最後に「私にも、あなたを守らせてちょうだい」という囁きと一緒に抱きしめられた。
久しぶりに柔らかい温もりを感じたら、不覚にも胸の奥が震えてしまう。
「待ってて下さい、呼びますから。
院長のこと、お母さんって・・・」
いい大人なのに、母が恋しいなんて恥ずかしい。
けれどこの気持ちはきっと、もう帰らないと決めた場所に残してきた、手の届かない人達への思いでもあるのだと思うのだ。
だから、今だけ、少しだけ、甘えさせて欲しい。
そんな思いを抱いて目を閉じた瞬間、院長の腕に、ぎゅっ、と力が込められてすぐに温もりが離れていった。
寂しいと感じてしまうのは、それだけ心を許しているからだ。
ふふ、と院長が微笑んだ。
「・・・ほら、泣かないの。
羊ちゃんを探して、狼が来たわよ」
言葉の最後にウインクをして、踵を返す彼女を見送った私は、入れ替わりに現れた彼を見て、泣き笑ってしまった。
仕方ないな、という風に微笑んだ彼は、ゆっくりと近づいて私を抱きしめる。
院長とは別の温もりに、再び涙腺が緩んだ。
ああ、どうして今日はこんなに感情が波打つんだろう。
「ねえ、シュウ・・・」
何かを話していなければ、思いが溢れて抱えきれなくなってしまう。
「ん・・・?」
深い緑の瞳が、静かに私を映し出す。
もう見慣れたはずなのに、とくん、と鼓動が跳ねたのが分かった。
「私ね・・・シュウのこと、好き」
どうやら今日は、感情が溢れて抑えられないらしい。
そんなこと言って、あとで絶対恥ずかしさに知恵熱が出るぞ、ともう1人の自分が囁いた。
彼の瞳が、大きく見開かれる。
「ほんとはずっと、好きだった。
たぶん・・・孤児院で初めて会った時から・・・」
独白に似た呟きに、彼が少しだけ体を離す。
ああ、この少しの距離ですら、寂しいと感じるようになったなんて。
「俺は・・・そうだな。
お前と似たようなものかも、知れない」
確認しているような、そんな話し方。
「・・・自分が誰かを好きになるとは、思いもしなかった」
苦笑する様子はまるで、参りました、と言われているようでもあって、可笑しかった。
「でも、そんな俺にもこんな日がくるとはな・・・」
鼻先がふつかる。
こんなに近くに寄られても、私はもう呼吸ひとつ乱さずにいられるようになった。
唇が、かすかに触れる。
「ミナ・・・」
「ん・・・?」
触れたり離れたりする唇に、やきもきする。
欲しい、と思うようになるなんて信じられなかった。
「・・・愛している」
・・・どうしよう、広間から誰かが見てるかも。
でも、今じゃなきゃ駄目。
急いた体が勝手に、言葉を紡いだ唇を追いかけた。
ちゅっ、と音を立てて離れて、触れるか触れないかの狭間を漂いながら、呟いた。
・・・いいんだ、他の誰にも聞こえないくらいの声が、ちょうどいい。
「私も、愛してる・・・」
言い切った途端に、魔法が解けたように恥ずかしさがこみ上げた。
・・・どうしよう、爆発する。
起爆スイッチの入った私とは真逆に、ご機嫌スイッチの入ったらしい彼が私を抱き上げた。
あれだけ飲んでおいて、こんなに機敏に動けるのかと感心してしまう。
「ちょ、ちょっとシュウ!
お酒がまわっちゃうよ?!」
そんな私の驚きと心配をよそに、ご機嫌な魔王様に成り果てた彼が、壮絶な色気を振りまいた。
・・・嫌な予感がする。
頬を引きつらせた私を見て、彼が言い放った。
「心配するな。まだまだ動ける。まだまだだ」
・・・2回も言った!
心の中で悲鳴を上げた私を、異論なしと認めたのか、彼が大股で歩き出す。
そのまま広間で酒盛りを続ける皆を一瞥して、帰ることを告げると、それぞれが杯を掲げてそれに応える。
・・・なんで乾杯なんかするの。
高い場所から見下ろす私に、リリー様が微笑んだ。
彼女は飲んでいないはずだから、きっとまともな・・・。
「リ、」
「エルさん。
わたくし、じつは、イルシュさまの・・・お、お子を身ごもりましたの。
高齢ですけれど、が、頑張りました。お2人も、が、がんばって・・・!」
顔を真っ赤にして爆弾を落とした。
言い終えて、きゃあ、と顔を覆う。
「そうか。おめでとう、ありがとう」
真顔で真面目な様子で答えた彼は、では、と大股で広間を出ようとする。
扉が閉まる直前、皆の「えーっ?!」と叫ぶ声が聞こえた。
・・・もしかして、誰にも言ってなかったのか。
どうやら、この国の王族は秘密が大好きらしい。
「あ、の・・・」
「なんだ、今さら取り消しは聞かない」
「いやえっと、」
「・・・」
「違うの、もう1回言って欲しい・・・」
「・・・」
「だめ・・・?」
「・・・愛している・・・」
「・・・うん、私も、愛してる・・・」
「もういいか?」
「うん・・・え?」
「いや、もう黙ってろ」
「えっ・・・ちょ、シャワー!」
「そんなもの要らん」
「じゃ、じゃあベッドに!」
「どこでも一緒だろそんなもん」
「一緒じゃな・・・!」
「俺は、お前が欲しいんだが。
お前は違うのか」
「・・・私も、」
「なら問題ないな」
「・・・んぅっ?!」
「シュウ・・・?」
「ん?」
「あのね、これから・・・」
「・・・うん?」
「よろしく、ね」
「・・・ああ。こちらこそ」
明日も、明後日も、そのずっと先まで、彼の特別でいたい。
それは、今まで特別など願わなかった私が見る、唯一の夢。
彼となら、きっと叶えられると、信じている。




