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ノルガの打ち明け話でしんみりした空気を打ち払うようにして、注文したものに手をつける。
シュウには、ちょっと話してくるだけ、などと言ってしまったけれど・・・聞かれたら何と答えようか。
そんなことを考えながら、私は注文したサンドイッチを食べていた。
「ミイナちゃんはさ、団長のどこに惚れたわけ」
全部を飲み下したところを見計らったかのように、にやにやしたノルガが言う。
「ぅえっ?」
完璧な不意打ちに、動揺を隠せない私は、ただうろたえてしまって、それがまた彼の笑いを誘ったらしい。
・・・笑われて余計に顔に熱が集まってしまったじゃないか。このやんちゃっ子め。
「教えてよ。ね?」
小首を傾げると、急に大人びて見えるからずるい。
「うーん・・・そうだなぁ・・・」
熱くなった頬を押さえて考えた。
思い浮かぶのは、いろいろな場面で、浮かんでは消える彼の言葉やしぐさに、熱がまた集まってくるのを感じる。
「・・・やっぱりだめー」
言ってから、少し笑ってしまった。
まだ本人とも、そういう話をしていないのだ。優先順位をきっちりつけておかないと、拗ねてしまうだろうから、ノルガにはまた今度だ。
目の前の彼は、そんな私を眩しいものを見るように目を細めて見つめると、頷いた。
「ミイナちゃん、団長のこと幸せにしてあげてね」
その優しい表情に、私も思わず微笑んで頷いた。
そして考えた。
「そういえば・・・ノルガ」
「ん?」
いい機会だから、教えてもらっておいた方がいいかも知れない。
そう思った私は、ノルガにこの世界で気になっていることを質問することにした。
「まだ、時間大丈夫だよね?
あのさ、匂い匂いって、シュウもジェイドさんも言うんだけど、それって何なの?」
「匂い・・・?
・・・ミイナちゃんのいた所には、匂いって必要なかったの?」
「匂いはあったよ?・・・いろいろ、食べ物とかの」
真面目に答えれば、彼が穴が開くほど私を見つめた。
「・・・世界を跨ぐと、違うもんなんだね・・・」
やっとのことでひと言告げると、彼は「わかった」と神妙な表情で頷いて、教えてくれた。
「こっちの世界でも、いろんなものに匂いがあるよ。
でもまぁ、さっきの話だと食べ物だとかは、ミイナちゃんの所と変わらないみたいだね。
団長や俺の言う匂いっていうのはさ、うーん・・・情報、みたいなものかな」
「情報・・・?」
「うん。ほら、獣って言葉が話せないけど、匂いで相手のことが分かるって言うでしょ」
「けもの・・・」
言われたことを、ただ繰り返す私を、彼が訝しげに除きこんだ。
「もしかして、ミイナちゃんの所には、獣、いなかった?」
「いたよ、獣・・・ライオンとか、トラとか、オオカミとか・・・」
「なんだ、いたんじゃん」
彼がほっとした様子で息をついたけれど、すぐに「あれ?」と首を捻った。
「でも、なんでそれで匂いがないんだろう?」
「・・・どういう意味?」
「獣はいるのに・・・。
人間になったら匂いを嗅ぐ必要がなくなっちゃったのかな」
「・・・何言ってるの?」
彼の言っている意味がさっぱり理解出来なくなった。
「いやだからさ、ヒトは狼とか馬とかから人間に進化したじゃんね?」
「は?」
「いや常識でしょミイナちゃん」
「はぁ?」
至極真面目なカオで言うから、私も真剣に首を捻る。
どうやら、大きな常識の壁が私の前に立ちはだかっていたようだ。
「な、なるほどー・・・」
ノルガの異世界講座を受けた私は、そのファンタジーさに舌を巻いた。
・・・曰く。
ヒトは狼や馬、羊、獅子、鹿、豹などから進化したために、匂いに敏感である。
「他の男の匂い云々」というのは男性にのみ、伴侶=繁殖相手を嗅ぎ分けるために残った嗅覚で、進化の過程で女性には残らなかったのだという。
もちろん今は獣ではないので、ヒトらしく相手に恋をして、本能を呼び起こすほどの感情を抱いた時に、匂い云々というところに行き着く・・・というのが近年の通説らしい。
そして、男性の匂いは、匂いをつけたいと思って触れた場合のみ、女性に付着する。
伴侶に他の男性が触れたのを感じ取ると、子孫を残そうとする本能が優先されることがあるので、女性は相手が決まったら、他の男性の側には不用意に近づかないのが常識。
個人差はあれど、ある程度の期間共に過ごせば匂いは定着する。
だから、匂いが定着するまでは伴侶のテリトリー内にいるのが一般的。
男性は、繁殖可能になる頃から獣の名残が現れ始めて、個人差はあるけれど、子どもが出来たりして落ち着くことが多いらしい。
残念ながら気持ちが離れるのに伴って、匂いが離れていくのだそうだ。そのあたりの事情は、向こうの世界で恋愛が終わる時を思い出せば理解出来そうだけれど・・・。
「繁殖って・・・生々しいね・・・」
半ば呆けた状態で呟けば、目の前のノルガが苦笑した。
・・・情報量が多すぎて、頭の中がいっぱいだ。
「まあ、それは否定しない」
そのひと言に眉根を寄せれば、「団長みたい」と茶化される。
・・・失礼な。
「あーでも、教えてくれて、ありがとうね。
なんとなく、シュウやジェイドさんの言動の意味が分かった気がするよ」
今まで何も知らなかったから、いろんな人の匂いが、ごちゃまぜになってしまっていただろうな、と想像する。
想像して、自分はゴミ箱みたいな匂いがしていたかも知れない、いうところに行き着いて、なんだか悲しくなってしまった。
今度シュウに聞いてみよう。
喫茶室を出てみたら、廊下は何だか騒がしかった。
よく見ていると、行き交うのは若い女性ばかりだ。
「・・・なんだろ?」
横に立ったノルガを見上げるけれど、彼も不思議そうな表情をしていた。
「なんだろうねぇ・・・」
2人で顔を見合わせていると、どこかから聞き覚えのある名前が聞こえた。
「あー、皇子様の出待ちしようって女の子達がたくさんいるわけか」
「若い子はいいねー、いのち短し恋せよ乙女ってねー」
彼の言葉に、いつか聞いたフレーズを呟くと、頭上からため息が。
「ミイナちゃんも、まだ乙女って年齢なんじゃないの?」
「うーん・・・そうありたいとは思うけど、もう心が所帯じみちゃってるからなぁ」
真面目に言葉を返したら、彼に頭をぽんぽんと叩かれた。
「がんばれ24歳!
じゃ、俺仕事に戻るね。ごちそうさま!」
にかっと笑う表情は、憑き物が落ちたみたいにすっきりしていて、私もつられて笑顔になる。
「うん、いろいろありがとうね」
そしてお互い手を振って別れた。
ノルガは蒼の本部に戻って行ったので、私は王宮の出口へと足を踏み出した。
いろんな話を聞けて有意義だったけれど、もっとこの世界を勉強しないとな、なんて、そんなことを考えながらのんびりと。
オーディエ皇子と同じくらいの年の頃の女の子達が、私と小走りにすれ違う。
カッコイイ皇子様に胸をときめかせた表情で、王宮の奥へと駆ける姿は、とても微笑ましい。
私はほんのり頬を緩めて、部屋で落ち着かずに待っているであろう彼のことを思っていた。
・・・帰ったら、膝枕でも何でもしてあげよう。それから、私のどこを好きになったのか聞かせてもらおう。
・・・獣じみた答えが返ってきそうだけれど・・・。
そんなことを考えて、人の流れに馴染まない速さで歩いていたら、突然頭を引っ張られる感覚と、ちくっとした痛みが走った。
「いっ・・・た・・・」
驚いて咄嗟に痛みの走った部分に触れる。
触れた手を目の前に持ってきても、血が付いたりはしていない。
どうやら、どこかが傷ついているとか、そういうことではなさそうだ。
・・・じゃあ一体・・・?
消えない違和感に、もう一度痛みの走った部分に手を回して、気が付いた。
「・・・あっ・・・!」
触れるはずの物が、ないのだ。今日は自分で髪を結ったのだから、どこに何があるかなんて、大体分かる。
私は慌てて振り返った。たぶん後ろだ。
振り返って・・・そして、目が合った。少し離れたところで、手を振っている人と。
・・・いや、手を振っているのではない。
手の中の、私の、髪留めを見せ付けるように振っているのだ。
全く見覚えのない男が、青いコインの付いた髪留めを奪って、私を見ている。
何も知らない人が見れば、待ち合わせをしている男女か何かに映っただろう。
けれど、私には見えていた。
その男が、私と目が合った瞬間に、にやりと口角を上げたのが。
一瞬にして、怒りが血液に乗って全身を駆け巡る。
そして私は迷うことなく、背を向けて走り出した男のあとを追っていた。
「・・・っはー・・・っ・・・ぁーっ・・・」
階段を駆け上がって、長い廊下を突っ切って、角を曲がったところで視界から男の姿が消えた。
必死に追ってきた私は、足を止めてやっと、自分の心臓がばくばく音を立てているのを自覚する。
・・・こんなところでも、日頃の運動不足の弊害が・・・。
見失ってしまっては仕方ないので、深呼吸してなんとか息を整えた。
・・・コインのことは、シュウに謝るしかないか・・・。
・・・あと、蒼の本部に盗難届けを出す必要があるかも知れない・・・。
そんなことに考えを巡らすうちに、呼吸がずいぶん楽になってきた私は、肩を落としてゆっくりと来た道を戻ろうとして、足を止めた。
正確には、体が硬直した。
目の前には、銀色の、何か。
最初は驚いて体が強張ったけれど、突き出されたそれが何かを理解したら、小刻みに震えが上がってきた。
太陽の光を受けて鈍く輝くそれは、あと数センチ近づけば私の喉を簡単に切り裂くだろう。
「・・・私に、お茶を淹れていただけませんか、子守殿」
普段聞かない声なのに、耳に入った瞬間に鳥肌が立つのを感じる。
ああ、嫌だ。
底なしに嫌悪を感じるのは、シュウの匂いが染み付いたせいなのか。
この世界の生まれでなくても、獣の本能を持っているような気がして、場違いにも可笑しさがこみ上げてきた。
「・・・残念ながらそれは、子守の仕事ではありませんね」
辺りに人の気配はない。
きっと、オーディエ皇子の追っかけが押し寄せて、その対応に追われているのだろう。
階下から、人のさざめきが聞こえてくる。
誰か1人でも、勘違いして階段を上がって来てくれたらいいのに。
そう思いながら、声の主に言葉を返すと、私は必死に震える体に力を入れた。
すると、舌打ちが聞こえたと思った刹那、体をぐい、と引っ張られて無理やり歩かされる。
引き摺られるようにして、長く伸びた廊下にある部屋の1つへと押し込められた。
背中をどん、と突き飛ばされれば、何歩かたたらを踏んでから振り返る。
同時に、かちゃり、と鍵の掛けられる音が、やけに大きく耳に響いた。
そこにいたのは、夜会の時にお茶を吹っかけてやった、白騎士。
・・・しつこそうな奴だと思ってたけれど・・・。
「何を・・・」
衝撃を受けつつも動揺を悟られまいと、歯を食いしばって表情を凍てつかせる。
誰かに気づいてもらえなければ、きっと、このまま私は危害を加えられる。
そう限りなく確信に近い予感を抱いて、視界に映るもの全てに目を走らせた。
こちらは完全に丸腰なのだ。ナイフをちらつかせて、下品な笑みを浮かべる男から逃げるには、何か武器になるものを手に入れなくてはならない。
護身の護の字も知らないような私が、どうにか出来るとも思えないけれど、とりあえず大きな音でも出せれば・・・。
「抵抗しようとしても無駄ですよ。
今、この辺りに配置されていた人員は、オーディエ皇子の警護にまわされてますから」
言われて私の耳が、女の子達の黄色い悲鳴を捉えた。
階下ではオーディエ皇子が姿を現したのだろう。
興奮した群集にいくら大きな音を立てても、無駄だと悟った私は打ちのめされた。
揺らいだ心が表情に出てしまったのか、私の顔を見て、彼の笑みがいっそう強くなった。
「逃げ出したとしても、女性のあなたでは私に追いつかれてしまう。
大声をあげても、しばらくは誰にも聞こえない・・・」
絡みつくような視線が、足元から這い上がってくる感覚に、自分の腕を抱く。
まずい。気持ちが負けそうだ。
白騎士が、何気ない動作でナイフを投げる。
直線を描いたそれは、私の頭の横を通り過ぎて、すとん、と部屋の壁に突き刺さった。
条件反射かのように、首をすくめて、一瞬、目をぎゅっと閉じて。
開けた時には、白騎士が目の前にいた。
頭が判断するより早く、身を引こうとして手が捕まった。
「・・・やっ、」
気持ち悪くて振りほどこうとしても、相手の力には適わない。
目が合えば、こちらを見下しているかのような、からかっているかのような、なんとも腹立たしくなる目つきで、私を見つめていた。
・・・ほんと、気持ち悪い。
「あなたの、思慮に欠けた言動のせいで、」
気持ちが悪いのに、目を逸らしたら負けてしまう気がする。
見つめる目に、ほの暗い何かが灯るのを感じて、背中を嫌な汗が伝った。
・・・ああこれ、本当にまずい。
「私は騎士のコインを返上させられた」
・・・それはあんたが勤務中に女を口説いたからだ!
心の中で叫ぶけれど、口に乗せるだけの勇気はなかった。
掴まれた手に力が入らない。
白騎士が瞳に憎悪を滲ませて、空いている方の手を私の頭へと伸ばした・・・。




