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「・・・まなと、か・・・」
シュウの呟きが虚空に消える。
私が日記帳を読み終わって少しした頃、他の場所を調査していた騎士たちが、紛失した史料を探し出したとロウファに報告に来た。
彼はやる気のない態度でそれを受けると、特に興味も湧かなかったのか「全部補佐官殿の執務室行きで」と指示を出して、見つかった物の確認すらしなかった。
人との距離感といい、おちょくっている感じといい・・・紅の団長でなくなったら、一体何が残るのかと思わせる人柄に、私は冷めた感情を抱いてしまう。
彼は一体、何に興味があって、何のために仕事をしているのだろう。
「なるほど」
ジェイドさんが硬い表情で頷いた。
そしてソファに身を沈めて額を手で覆うのを見て、ああ、今は執務室で報告をしている最中だった、と我に返る。
どうも、あのロウファというピンク色の髪をした紅の団長は、その存在を思い出すだけで十分に、私のペースを乱してくれるようだ。
・・・これはきっと、関わったらもっと大変で、疲れることになる。
紛失した史料をジェイドさんと一緒に確認した後、桜さんの日記を見せながら書いてあった事実を伝えると、彼らはそれぞれ思うことがあるのか黙り込んだ。
私は彼らが何を思うのかが気になりつつも、どうしたらマートン先生に桜さんの思いが伝わるのか、そればかりを考えていた。
言葉を投げかけても、耳には入らないだろうし・・・。
「ミナ」
ジェイドさんに呼ばれて、視線を上げる。
そのまま続きを待っていると、彼は言葉を選ぶ様子を見せながら話し出した。
「・・・思い出してもらえますか?
あなたが頭痛を感じる以前に、何か嫌なことや、苦痛に感じることがなかったか・・・」
唐突な、脈絡のない質問に一瞬面食らった私は、ジェイドさんの表情の真剣さに、聞き返すことも出来ずに頷いて、思いを馳せた。
頭痛のする前・・・。
「確か、蒼の騎士団が巡回に出る前日は、シュウと食事をして・・・。
それからは図書館で史料を漁ったり、陛下達と夕食をご一緒させてもらって・・・。
その、陛下達と夕食を摂った翌朝、頭痛が・・・」
思い出せる限りの自分の行動を思い出す。
「でも、特に苦痛を感じたことなんて・・・」
思い当たることがなくて、ゆるゆると首を横に振る。
すると、ジェイドさんは言った。
「精神的に追い詰められたり、何かを我慢したり・・・そういうことは?」
尋問するような言い方に、体が強張る。
そんなことを言われても・・・と思いつつも、彼に従って自分を振り返ってみれば、はた、と思い至ることがあった。
・・・言いたくない。
なるべく顔色を変えないようにして首を振れば、彼はため息を吐いた。
「そうですか・・・。
マートンの母親が夫の愛情を感じられず、精神的なストレスが蓄積された結果、
彼女の命が削られていったのではないかと思ったものですから・・・。
因果関係が分かれば、あなたが同じ道を辿るのを防ぐことが出来るのですが・・・」
口を噤んだままの私に、かすかな微笑みを投げて、彼が言う。
彼は病院で、私の体が透けるのを見ているのだ。
私が消えてしまわないように考えていてくれたことは、本当に嬉しいしありがたい。
けれど、その優しさを感じてもなお、胸にしまいこんだものを見せる踏ん切りのつかない私は、とても狡いのだと自覚する。
「そう、ですね。
日記に書かれていた【彼】って、夫のことだったんでしょうし」
そして、話題の中心を変えたくて、桜さんの日記の内容に話を戻す。
「彼は、外に愛人でも?」
シュウが隣で体をソファに沈めて、誰にでもなく尋ねた。
執務室には私達3人しかいないからか、どこか投げやりな態度を隠そうともしない。
・・・そういえば彼は、他人の恋愛沙汰には興味がないのだ・・・。
内心でため息を吐きつつ、横目で彼を見ていたら、ジェイドさんが言葉を発する。
「それは確認のしようもないですね。
でも【彼が家に帰ってこない】という内容からすると、仕事か愛人か、といった
ところでしょうけど・・・。
あなた方がマートンの自宅へ赴いている間に、彼の家のことを調べさせたのですが、
領地の管理などで苦労したような気配もありませんでしたし・・・ね」
「・・・そっか・・・」
なんとなく、桜さんが夫と上手くいかなくなったことが原因なのだと分かってきて、寂しい気持ちになってしまった。
ここまで感情移入してしまうのは、故郷を同じくするからなのか。
久しぶりに向こうの世界のことを考えて、らしくもなく後ろ向きになっている自分に気づく。
「大丈夫ですよ」
ジェイドさんが向かいで微笑んだ。
久しぶりの、甘さにあふれる表情を目の当たりにして、思わず見とれてしまう。
この綿菓子のような柔らかい微笑みに、私は何度心が解けたことか。
「ミナが傷ついたら、そんな髪留めはベッドの横にでも投げ捨てて・・・。
最後には、私が綺麗に髪を結い直してあげますからね」
完全に油断していた私はややあってから、彼が「傷つくようなことがあったら、大人な方法で慰めて、髪を結ってあげる」ということを言いたいのだと気づいた。
気づいてしまった瞬間、次々に昨日の場面が脳裏をよぎる。
ジェイドさんの熱を帯びた瞳、やわやわと蠢いていた大きな手、流されてしまえと囁く声・・・そして、最後には昨日のジェイドさんの真っ赤な唇を思い出して、体が火事になったんじゃないかと思うくらいに熱を持つ。
ああ、耳元で囁かれなくてよかった。体が爆発していたかも知れない。
頭のどこかでそんなことを考えながら、大きく乱されてしまった心を落ち着けようと呼吸をしていると、案の定隣から殺気が飛んできた。
いや、私の向かいへ飛んでいった。
「・・・おや、どうしました?」
「いや・・・なんでも・・・?」
ジェイドさんまでも、瞬時に甘さのあふれる空気を打ち消して、その瞳に剣呑な光を宿してシュウを、ひた、と見据える。
・・・この人達は・・・。仕事をしなさい、仕事を。
それに、こういうことは、2人だけで誰にも迷惑をかけない場所でお願いしたい。
結果的に友情が芽生えてそれが愛情に発展したとしても、この際受け入れるから。
結局、睨み合いはしばらく続いたけれど、ふいにジェイドさんがにこやかに「そうそう、身内だけで晩餐をすることになりましたから、ミナも出席して下さいね。明後日の夜ですよ」と私に告げて、そのまま解散となった。
私がマートン先生に首を絞められたことを心配してくれた彼は、ディディアさんに伝えておくから、という前置きをして、晩餐まで休暇をとるように言ってくれたのだった。
・・・なぜかシュウにも。
それからは、私のことはジェイドさんがディディアさんに伝えてくれるというので、白の本部へ報告には行かずに、シュウについて蒼の本部へ向かった。
騎士団は交代制で勤務することになっているため、朝と夕方になると本部が騎士達でごった返す。
さらに蒼は治安を守るための騎士団ということもあって、もともと女性の事務官や騎士は少ない。
なんというか、男くさい場所へ何の心の準備もせずに立ち入ってしまって、すごく後悔した。
・・・男子校の文化祭、男子クラスの体育授業の後・・・そんな雰囲気だ。
しかもゴシップ満載の私が、その相手と連れ立って入ってしまったのだから、遠巻きに投げられる視線が痛い。
シュウは副団長を呼んで、隣でジェイドさんから休暇の話をもらったことを伝えたり、副団長から今日の報告を受けたりしていて、私に意識を向ける余裕はなさそうだ。
・・・というよりは、針のむしろ慣れしているから、何も感じていないようだった。
すると、黙って視線に耐えていた私の腕をつつく何かを感じて、何だろう、と振り返る。
「・・・っ!」
その人は、しーっ、と指を口元で立ててウインクする。
この状況だ、顔を見てほっとしてしまったのは言うまでもない。
名前を呼びたくなるのを、ぐっと堪えていると、こっちにおいで、と手招きされた。
シュウは相変わらず真剣に話をしているし、ちょっとくらい・・・とその人について少し離れた場所へと移動する。
「ごめんね、ミイナちゃん」
「え?」
私を呼んだ人、ノルガが両手を合わせて可愛く謝罪をした。
弟感がまた上がった気がする。
「こないだは、急に・・・」
なぜ謝られたのかが理解出来なかった私が聞き返すと、彼は声のトーンを落として私の耳元に口を近づけて言った。
「・・・キスしちゃって」
「・・・っ!」
そんなことを忘れていた私は、自分が赤面していくのを感じて俯く。
・・・どうしてそんなこと忘れてたんだろうか私は。
シュウといろいろあったことが衝撃的だったのもあるけれど、こんな自分が情けなくて恥ずかしくて、なかなか顔を上げることが出来なかった。
するとノルガはそんな私をどう思ったのか知らないが、にっこり笑う。
「でも良かったー、ミイナちゃんと団長がくっついたみたいで」
「え?」
・・・それは、私に好きだと言って、キスまでした人が言う台詞だろうか。
彼の言葉に驚いて、呆気にとられてしまった私は、開いた口が塞がらなかった。
「もうさ、むせ返りそうなくらい、団長の匂いが駄々漏れだよ。
団長って考えに考え抜いてるくせに、思い切ったら凄そうだもんねぇ」
「え?」
戸惑ってしまって頭の中が真っ白になってしまった私に、彼は満足そうに頷いている。
「俺、ミイナちゃんのことも大好きなんだけど、団長のことも大事に思ってるからさ。
・・・ああ、違う違う、そこは、女の子が好きで、健全な成人男子。キスするくらい。
まぁ、明日にでもデートして詳しく・・・」
言葉が耳から流れ入ってくるけれど、理解が追いつかない私の肩を抱こうと彼が腕を伸ばした時だ。
「あだだだだ!」
彼が身をよじって悲鳴を上げた。
その声を聞いた瞬間、私は我に返る。
「・・・シュウ!」
シュウがノルガの腕をねじり上げて、拘束しているのだ。
突然のことに思わず声を上げれば、彼の眉間のしわが目に入った。
何か勘違いしていそうな気がして、私は彼の腕に慌てて触れる。
「違うの違うの!ノルガを放して!」
何が、と言いたそうな彼を正面から見据えていると、仕方なしというふうに、彼が腕を放した。
・・・大丈夫かなノルガ・・・。
「もぉー、ちゃんと見極めてから手を出してくださいよね」
腕をぷらぷらさせつつ、ジト目でシュウのことを見ているのを見る限りは、それほど痛かったようにも思えないけれど・・・。
そんなノルガの様子もどこ吹く風、シュウは、ふん、と鼻を鳴らした。
どうやら不機嫌スイッチの入った彼の気は、まだ治まっていないようだ。
私は思わず、そっと腕に触れた。
・・・これじゃ恐怖政治だ。団長ともあろう者が。
この独占欲をどうにかしないと多方面に迷惑をかけそうな気がして、どうしたものかと内心でため息を吐いてしまう。
嬉しい恥ずかしい、そんな気持ちのずっと手前に、周囲に迷惑がかかってしまっている現実をまず受け止めなくてはいけなさそうだ。
すると、ノルガが回復したのか腰に手を当てて、挑発的な笑みを浮かべた。
この子はこの子で、困ったもので・・・。
「今度ミイナちゃんのこと手放そうとしたら、もう知りませんよ。
腹ぺこのハイエナが周りに沢山いるってこと、忘れないで下さいよね!」
その台詞に、シュウの眉間のしわが一層深くなったのを、私は見逃さなかった。
・・・だからノルガも、そのしわ寄せが全部私に来るということを知っておいて欲しい。




