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シュウとジェイドさんに言われた事を心の中で反芻しながら、深呼吸を繰り返す。
扉の向こうは静まり返っていて、時折塔の外を飛んでゆく鳥の鳴き声が遠く聞こえていた。
ドアの目の前に立ち振り返れば、少し離れたところでシュウ、ジェイドさん、ディディアさんの3人が待機しているのが見える。
その面持ちは三者三様で、それが少し可笑しくて、緊張が少しほぐれた。
マートン先生の幽閉されている部屋に入るのは、私1人。
離宮でシュウに蹴り飛ばされて気を失った彼は、この塔で意識を取り戻して以来、誰とも口をきこうとしないそうだ。
そこで彼が狂ったように研究してきた、渡り人である私と対面すれば、なにかしらの突破口になるのではないか、なんてものすごく他力本願な手法に頼ることにしたのだそうだ。
シュウは、先生が興奮して、シェウル君の時のように私を消滅させようとするかも知れない、ということを懸念していたようで、最後まで眉間のしわが消えることはなかった。
離宮での一件では、私にもシュウにもよく分からないうちに事が終わっていて、結局、何が起きれば渡り人が消滅するのかを知っているのは、おそらく先生だけなのだろう。
しっかりした解答をもらえない限り、私は薄氷の上に立っているような、頼りない存在のままだ。
何も知らないのに飛び込むのは、確かに無謀だと言えるし、怖くないのかと問われたら、そんなもの怖いに決まっている。
今だって手も足も、震えているのに。
それでも利用されても構わないと思える私は、マートン先生が何を考えているのか知りたいという気持ちの方が強くて、どこか気持ちが昂ぶったまま、この扉の前に立ち尽くしていた。
彼と、ある程度の距離をとること。
何かあったら、すぐに彼から離れること。
何かあったら、とにかく声を上げること。
何もなくても、不安になったらすぐに部屋から出ること。
シュウとジェイドさんから交互に注意事項を言い渡されたけれど、競うように言葉を並べてくるのだから敵わない。
いちいち全部を正面から受け止めていたら、夕方になってしまうので、有り難く聞き流させてもらうことにした。
カンカン。
鉄の扉は、叩くと耳につく嫌な音を立てた。
分かりきっていたことだけど、返事はない。
私は、耳元で煩く鳴り響く鼓動を聞きながら、震えの強くなりそうな手を叱咤して、ゆっくりと重い扉を押し開けた。
部屋は南向きなのか、窓からの自然の光で満たされている。
壁が厚く造られているからなのだろう、部屋の中は外から見た印象よりもずっと狭かった。
幽閉するための部屋なのだとしたら、この広さもきっと罰に含まれるのかも知れないな、などと変に冷静に部屋の中を見回す。
床の上に、食事の載せられたトレーが置かれているのに気づく。
そして、白い塔の白い部屋の、白いベッドに腰掛けて窓の外を見つめる彼に、そっと、慎重に声をかけた・・・。
「マートン先生・・・?」
聞こえるか聞こえないか、分からないくらいの囁き。
振り絞った声が若干震えを帯びてしまったのは、実際に囚人となった彼を目の前にして、恐怖心が心の大半を占めたからなのかも知れない。
発した声は、ほんの少しだけ壁に跳ね返って部屋の中に響いた。
あまりの静けさに、私の心臓の音まで部屋の中に響いているように錯覚してしまう。
一度だけ後ろを振り返って、ドアが開け放たれていたのを確認して胸を撫で下ろすと、私は大きく息を吸い込んだ。
「マートン先生」
今度はしっかりと彼を見据えて呼びかける。
視界の端で、私の身を包む服の裾が翻った。
目に入る色は、白い部屋に鮮やかに映える。
その時、何故だか自分が消えてしまうことなど、絶対にないと言い切れるくらいの強い気持ちが湧き上がった。
彼は変わらず、ぼんやりと窓の外に視線を投げている。
今の彼にとっては、私などこの部屋の空気と同じなのかも知れない・・・。
けれど、相手が反応するまで呼びかけるだけの根気など私にはない。
そんなカウンセラーじみたことを望まれて、ここに来たわけではないのだ。
・・・何か、彼の心を動かすことを・・・。
集中しようとして、無意識に胸元の琥珀に指先で触れる。
つるんとした感触は、今までコインを触っていた指には物足りない気もしたけれど、ひっかかりのない滑らかさに苛立ちが薄らいでゆく。
そして、息を吸った。
「どうして、あんなことしたんですか」
質問ではない、糾弾。
「あんなことしてまで、異世界に、渡りたかったんですか」
頭の中は冷静すぎるほど冷静だった。
そこにあるのは苛立ちではなく、静かな怒り。
言葉が凍り付いて刃となって、相手に向かって飛んでいく。
「そんなことに、ひとの命と同じ価値があると思ってるんですか」
彼はまだ、こちらを見ない。
「異世界に渡って、何をしたかったんですか。
自分の研究を、確かなものにするためですか。
シェウル君は、自分が渡り人だってことも知らないまま・・・っ」
・・・シェウル君。私が初めて出会った、渡り人。同じように世界から切り離された、小さな点。
懐かしい話など出来なくても良かった。ただ、その存在があることが嬉しかったのに。
少年の姿を思い出して、喉が震えた。
リオン君と3人で、お庭で鬼ごっこをして。
まだ1人でバッタを捕まえられないリオン君のために、一生懸命バッタを追いかけて。
一人っ子だった彼は、お兄ちゃんと呼ばれて心底嬉しそうに笑ったのだ。
そして、母親に駆け寄って・・・。
遅かれ早かれ、秘密を抱えたままの親子関係は、いつかは破綻していたのかも知れない。
でも、その時を他人の手で迎えさせるのは、絶対に間違っている。
感情が急に膨れ上がって、鼻の先につん、とした痛みが走った。
それは鼻の先から胸の奥のほうへ、私の手の届かない場所まで突き抜ける。
「お母さんに失望したまま、消えてしまったんですよ!
まだ・・・っ、まだ8歳だったのに!あなたのせいで!」
実の子どもじゃないのかと尋ねた時の、シェウル君の表情が蘇って、視界がぼやけ始める。
自分の思いが相手の耳に届かないことが、こんなにも悔しくてやるせない気持ちにさせるのだと分かるのと同時に、ぶつけてもぶつけ足りない怒りが、涙と一緒にこみ上げた。
「先生にも、お母さんがいたんじゃないんですか?!」
これじゃダメだ、ともう1人の自分が警告しているのが分かる。
こんなに感情を荒立たせてしまって、私の方が完全に振り回されている。
「・・・亡くなった、渡り人のお母さんがいたんでしょう・・・?!」
悲嘆や絶望が涙と一緒に溢れてきて、罵倒しようと声を張り上げたのに、それ以上の言葉が出てこなかった。
そんな自分にもやるせなくて、もう無駄だと悟る。
皆には悪いけれど、私には言葉の駆け引きなんて出来ないのだ。
結局自分の感情だけで泣き喚いたあげく、もう背を向けようとしている。
そんな自分が情けないけれど、これ以上は心がどうにかなってしまいそうだった。
私は涙を袖口で乱暴に拭って、彼に背を向けた。
そして開け放たれた扉へ向かって一歩、踏み出したその刹那。
ふいに背中に気配を感じて、とっさに振り返った。
視界が反転して、目に入ったのはマートン先生の、手。
ぎりぎりと、奥歯が軋む音と、耳鳴りがする。
「・・・マ・・・なん・・・?!」
言葉が喉から先に上がってこない。
息が、出来ない。
頭がぼんやりしてきて、次第に視界がぼやけてきた。
苦しくて手探りで自分の喉に手を伸ばすと、彼の腕に更に力が込められる。
「・・・は・・・ぅっ・・・」
そして、ゆっくりと自分の体が宙に浮いたところで、ああ、首を絞められているんだ、なんて雑音の混じる思考回路で認識した。
冗談じゃ、ない。
必死に足をばたつかせて抵抗するけれど、彼の虚ろな瞳は私の苦しみに歪む顔を見て、うっすら細められる。
「・・・かあさん・・・」
私はその時初めて、彼がすでに壊れていたことを知った。
どこかで、ガシャン!と何かのぶつかる音がする。
足からも力が抜けて、体が操り人形のようにだらしなく垂れた。
いよいよ視界が暗くなってきて、鼓動が弱く、鈍くなったのを感じて、息を吐く。
やってきたその時の気配に、私は身を任せるよりほかなかった・・・。
そして、目の前が真っ暗になった刹那。
「あ・・・ぁああぁぁああぁあ!」
真っ暗な中、咆哮に似た怒号が聞こえたのと同時に、天を向いていた頭が横にされるのを感じた。
そして、背中を軽く叩かれる。
「・・・がっ・・・ぐっ・・・」
自分のものとは思えないうめき声が口から漏れたあと、酸素が体中に入り込んでくる。
一気に大量に入ってきたそれに、体をくの字にして咳き込んだ。
「ミナ、ミナっ」
まだ視界はぼやけて体に力が入らないけれど、耳だけは研ぎ澄まされていて、聞こえた声がシュウのものだとすぐに分かる。
・・・ああ、まだ私はここに存在していた。
お尻のあたりに床の冷たさと感じた後、背中に感じるのはシュウの手の温かさなのだと理解して安堵すると、次第に慣れてきた目を動かして彼を探す。
まだ酸素が十分に取り込めていないのか、目の奥がチカチカしているけれど、そんなことはどうでも良かった。
白い、囚人服が目に入った。
「・・・かあさん・・・かあさん・・・」
か細い声に違和感を覚えながらも目を遣ると、片方の腕がおかしな形に成り果てたマートン先生が横たわっていた。
うわ言を呟く彼は、壊れてしまった玩具のようなのに、その瞳は確実に私を射抜いている。
その瞳に宿る、異常な妄執に気づいた瞬間、寒気が走った。
「かあさん、かあさん・・・」
請い願うような口調に、私はついに直視出来なくなって顔を背ける。
彼は私の黒髪の向こうに、亡くなった母親を見ているのだと直感したからだ。
すると、視界に誰かの足が入った。
見上げたそこには、ジェイドさんとディディアさんの姿が。
そしてシュウが私を横抱きにしたまま立ち上がり、2人と目が合う高さになる。
「大丈夫ですか・・・?!
壁が厚くて、異変に気づけませんでした。
蒼鬼殿だけは、何か、かすかな音を聞き取ったのか走り出して・・・。
間に合って、よかった・・・」
ディディアさんが申し訳なさそうに眉を八の字に下げた。
「はい」
掠れた声が情けなくて、短く言えば、彼女が俯く。
「ミナ・・・」
ジェイドさんが、昨日のような、歪んだ表情で私を見つめていた。
まるでジェイドさんが、私を傷つけたようなカオをしている。
何を言うでもなく、ただ空色の瞳が苦痛に歪む様子を見つめ返すと、彼が泣きそうな表情を浮かべた。
「すみません・・・あなたを守るだなんて・・・」
ただ一言謝罪を受ける。
そこにどんな思いが込められているのかは分からないけれど、私がここでこんなことを言うのは間違っているのかも知れないけれど。
「大丈夫です・・・シュウが、来てくれたので・・・」
私の言葉に、ジェイドさんが目を見開いた。
自惚れていいのなら、こんなことを言う私は最低だ。
でも彼に、私を傷つけただなんて思って欲しくはなかった。
傷つけたのは私なのだ。責任など感じて欲しくなかった。
「・・・シュウがいるから、大丈夫です・・・」
掠れた声はきっと、喉が痛むせいだけじゃない。
私を抱きかかえた彼が、腕にほんの少し力を込めた。
マートン先生はいつの間にか、気を失っていた。




