51
「少し、話をしましょうか」
ジェイドさんの穏やかな声色に、それまでの切迫した雰囲気が溶けていくのが分かって、自然と頬の緊張が緩んだ。
すると彼が席を立って、こちらへ歩いてくる。
そうだ、まずは手紙のお礼を・・・そう思って口を開きかけた時だ。
「手紙は、無事に手元に届きましたか」
口にするより早く、彼に言われてしまう。
「はい、すみません連絡もしないで・・・ありがとうございました」
お礼よりも謝罪を先にすることになって、目を伏せる。
目に映った絨毯の片隅に、彼の靴先が入り込んだ。
そして、頬に温かいものが触れて顔を上げる。
「よかった、まだ、残っていてくれて・・・」
私の頬を、親指で撫でながら甘く微笑む。
何とも言いがたい感触がくすぐったくて、思わず身を捩った。
すると今度は、ゆっくりとした動作で抱きしめられる。
あまりに自然にそれをやってのけるから、しまった、とすら思う暇がなかった。
そして、シュウのように力強く腕を回したりはしないけれど、この腕の中も居心地がとても良いことを知ってしまった。
好意が伴っていることを知っているから、なのかも知れない。
自分を好いてくれている人を嫌うなんて、よっぽど性格に難がなければ難しい。
まして、目の前の彼は本当に良い人なのだ。
けれど、私は選んでしまったから、言わなくてはいけない言葉があるのだ。
「ジェイドさ、」
「あなたが消滅しかけたと聞いた時は、本当に・・・」
「・・・大丈夫ですよ、もう」
出鼻を挫かれた私は、心配してくれている彼に安心してもらう方を優先した。
「いいえ、そうではないんです。
一度、見てしまっているんですよ私は・・・」
彼が腕に力を込めた。
耳元で響く声が、少し掠れて聞こえる。
「あの病院で、あなたの体が一瞬透けたのを・・・」
それは衝撃だった。
一瞬呼吸が止まって、鼓動が早くなる。
あの時から消滅への秒読みが始まっていたのだとしたら、昨日の一件は決して偶然じゃない。
起こるべくして起こってしまったことなのだ。
上手く息が出来ない自分の唇が、かすかに震えているのが分かった。
・・・この人も、私に言わずにいたのか・・・。
「だから、あなたが消滅しかけたと聞いて、後悔しました。
手紙なんて温い方法を取るべきではなかった・・・ミナ」
抱きしめる腕を緩めることなく、彼が囁く。
私はまだ、打ち明けられた衝撃をやり過ごすことが出来ずに、呆然としていた。
彼に言わなくてはいけないことがあるのに、それが頭の隅へと追いやられてゆく。
「私なら、危険な目に遭わせたりしないのに・・・。
・・・どうして、今朝になってエルの匂いなど・・・」
急に艶めいた声色に驚いて我に返る。
はっとして見上げた青い瞳に、いつかのような熱が灯って、私を映し出していることに気づく。
そして息を飲んだ瞬間には、私は彼の口付けを受けていた・・・。
「ん、ぅ・・・っ」
息苦しくて呻いた私に、彼は離すまいと腕に力を込めた。
・・・なんなんだこの獣じみた人は。誰なんだ。
私の知らない彼の姿に戸惑っている間にも、唇は少し乱暴にも、角度を変えて私を貪ろうとしてくる。
どうにか腕を突っ張っても、赤子の手を捻るように押さえ込まれてしまう。酸素が足りなくて力が入らないのだ。
そして息継ぎすら許さないような貪り方に、私は焦りを感じ始めていた。
今までにキスをしたことくらいはある。もっと、大人なお付き合いをしたことだってある。
・・・だから分かる。私が抗っても、彼を振りほどくことは難しいだろう。男の人なのだ。
どれくらいの時が経ったのだろうか、もはやどれほどの間、口付けを受けているのかも分からなくなってしまった頃だ。
突然、体が宙に浮いた。
視点が定まらない感覚に思わず目をぎゅっと閉じていると、背中が固い物に触れたのが分かる。ふいに浮遊感がなくなって、そっと目を開けると、そこには天井が・・・。
そして、私は自分が円卓に横たえられたのだと理解した。
・・・どうしよう。
間近に彼の顔がある。
唇が赤い。きっと、もともと皮膚が薄いから・・・。
頭の隅で考えて、その赤さに息を飲んだ私は言葉を失った。
すると、彼は綺麗に微笑んだ。
「こんなに唇を赤くして・・・」
そっと私の唇に指で触れて、壮絶に色気のある声を発する。
耳に入るとそれは、背中を走ってつま先まで突き抜けていった。
頭が痺れる。
「私の目の前でこんなに可愛い姿を見せるのに。
・・・どうしてエルの匂いなんかさせてるんです・・・?」
手が、腰を撫でた。
「あの、ジェイドさん・・・?!」
「何です?」
今なら会話が成り立ちそうだと、私は咄嗟に言葉を探していた。
この際、私の唇をぷにぷにと押したり撫でたりしている彼の指先は、無視して。
「私、あの、昨日っ・・・」
焦って、喉元につかえた言葉が出て来てくれない。
そんな私と会話するのは無駄だと思ったのだろうか、彼が、くっと喉を鳴らした。
「・・・ちょっと黙っていましょうか」
言って、私が反論するより早く、再び口付けが降ってくる。
同時に腰を撫でていた方の手が上に下に彷徨ったかと思うと、意を決したかのように、上に向かって這い上がってきた。
・・・どうしよう、ぞわぞわする。
「んっ・・・んんーっ!」
本格的に危機を感じた私は、必死に首を振って嫌がっていることを伝える。
最初は鼻から抜ける声で失笑していた彼が、さすがに続くと煩くなったのか、唇を放して片方の手で私の額を押さえた。
「どうしたんです・・・?
気持ち良いでしょうに、求められるのは・・・」
その声が、背中を走り抜ける。
・・・正直、気持ち良いですよ。あなたのような綺麗な顔立ちの大人の人に求められたら、本能が反応してしまいますよ。でも、違うんだよジェイドさん・・・。
私はやっと解放された口で呼吸を整える。
今までに見たことのない彼の表情に、負けそうになっている自分を心の中で叱咤した。
胸の上で私の呼吸と共に上下している彼の手のひらが、布越しなのにやけに熱く感じられる。
それなのに額を押さえる手が冷たいのは何故なんだろうと考えて、ああ、私の体が熱くなっているからか、なんてぼんやりと思考回路が働いた。
「何を耐えているんです」
そんな私を現実に引き戻そうとしているのか、ジェイドさんがわざと耳元に口を寄せて、声を落として囁いた。
「え・・・?」
掠れた声が、自分の口から出る。
息が上がってしまって、脳に酸素が回ってこない。
私のかすかな呟きを聞いた彼は、それはそれは満足そうに微笑んで言った。
「流されそうなのを、一生懸命堪えているんでしょう・・・?」
胸の上で蠢いていた手が、するすると音を、わざと音を立てているかのような動きで下に下りていく。
そして、腿の内側に冷たい手が触れたのが解って、私は体を強張らせた。
彼の目は、楽しそうに細められたまま、私を見つめている。
私は完全に、翻弄されていた。
今までの彼から想像も出来ない強引さに、憤慨する気持ちよりも先に、何故、と戸惑ってしまう私は、やはり流されそうなのだろうか。
「いいんですよ、このまま流されてしまいなさい」
冷たい手が、さわさわと往復している。
その度に体の中が熱くなって、どうしようもない気持ちが波になって襲ってくるのだ。
・・・この人、どうしてこんなに手馴れてるの・・・?!
このままでは、私が私でなくなってしまう。
「・・・やめて、くださいっ」
何かに飲み込まれる直前、私はやっと言葉を搾り出した。
彼の手を探し出して、ぎゅっ、と体から引き剥がそうとありったけの力を込める。
しかし、彼は目を細めて笑い声を漏らした。
・・・どうしてそんなに、楽しそうなの。
「そんなことを言って・・・。
こんなふうにして、エルの匂いも染みこんだのでしょう?」
その言葉が耳に入った瞬間、脳裏をシュウの顔がよぎった。
私が浮かされていた熱も、ジェイドさんの手の冷たさも、何もかもの感覚が突然ぷつりと途絶える。
そして、私が消えるかも知れないと解った時のシュウの表情が脳裏を掠めていった瞬間に、私の中の何かが爆発した。
爆発は、胸の奥で起きて頭を真っ白にしたかと思った時には、私をすっかり飲み込んでいて。
目の前に、呆けた表情をしたジェイドさんがいた。
気づけば私に纏わり付いていた、ねっとりした何かがなくなって、鼓動が早鐘のように打ち付けている。
そして一瞬の間をおいて、私は自分が彼の頬を引っ叩いてしまったことを悟った。
手が、痛い。
じんじんと痺れる感覚に、頭が麻痺してしまいそうだ。
今になって、横たわった円卓が固くて背中が痛むのを感じる。
少しずつ私が冷静さを取り戻してきた頃、彼がおもむろに私に背を向けた。
「・・・すみません・・・ちょっと、飲まれてしまいました・・・。
行ってください。
このままでは、あなたを滅茶苦茶にしてしまいそうだ・・・」
そう言った彼の声は、今までに聞いたことがないくらい沈んでいた。
誰もいない廊下が、今はありがたい。
機械的に足を動かしながら、私は思い出していた。
私に背を向ける前、彼が顔を苦しげに歪めたのが一瞬だけ見えたのだ。
・・・あれは、ジェイドさんがいけないと思う。
私のいた世界の常識では、合意の伴わないあれは、やってはいけないことだ。
それが世界を跨いだ途端に覆されるのなら、この世界の価値観は、狂っているとしか言いようがない。
けれど・・・と同時に思う。
私にも3割くらいは・・・いや、この際自分がどれくらい、なんて考えるのはやめておこう。
本当は気づいていた。
傷つけたくない、上司だから嫌われたくない、どっちつかずのぬるま湯に浸かった関係をいつまでも続けていたい・・・そう思うのは、結局は自分が傷つきたくないからだ。
好意を寄せてくれた相手に正面から向き合えない弱さが、結果的にジェイドさんを傷つけた。
そして、それが打算的で意気地なしの自分にも跳ね返ってきただけだ。
あんな風にされたのに涙が出ないのは、きっとそういうことなのだ。
「最低・・・」
呟きは、虚空へと消えていった。
どんな気分になろうとも、どれだけ疲れていようとも、仕事を持つ人間は働かなくてはいけない時間というものがある。
ましてそれが、替えのきかない職業だと、簡単に休んだり出来ないものだ。
私もそれに漏れることなく、最悪に自己嫌悪な気分を抱えたまま、レイラさんの部屋を訪ねていた。
ノックの後に、白侍女さんの返事。
自分の名を告げると、いつものようにドアが開いた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
何気ない挨拶を交わして部屋に入ると、早速私に向かって飛びついてくる小さなかたまりが。
「ミミーっ!」
予想はしていたから、とっさに身構えて抱きとめる。
・・・子どもはいつも真っ直ぐだ。
「ごめんね、お話が長引いちゃって。
何してたの?」
目線の高さを合わせて問えば、彼はきらきらと目を輝かせて教えてくれる。
「あのね、お絵かき!
明日ミミが病院に、お兄ちゃんにお見舞いだから、持っていってね!」
「うん・・・?」
内容が全く伝わってこないので、私は曖昧に頷くしかない。
困ってしまって辺りを見回せば、レイラさんが出てきてくれた。
「ミーナさんは明日、白と紅の調査要員に加わると、ディディアさんが」
それを聞いて円卓の間で話していたことだと思い至った私は、今度はしっかり頷くことが出来た。
・・・きっと、病院云々はリオン君を傷つけないための嘘だ。
私はそれを理解すると、目の前にいるリオン君に再び視線を合わせた。
そして大きく頷いて見せる。
「わかった。
会えたらちゃんと渡してくるよ。
もし会えなかったら、お母さんに渡してお願いしておくね」
私の言葉に嬉しそうにするリオン君を見て、胸が痛む。
でも、今すぐにシェウル君がいなくなってしまったことを伝えるのは、違うような気もする。
もう少し、周りの大人達が傷ついたリオン君を受け止める余裕を持ててから、なんだろう。
結局今日は、マートン先生の件で白も紅も忙しくて、リオン君の子守はほとんど自室で過ごして終わってしまった。
出歩いたといえば、厨房におやつを貰いに行ったことくらいのものだ。
この状態が続くようなら、リオン君が発散できるような何かを用意する必要があるな、なんてぼんやり考えながら、私は寮へ戻ってきていた。
部屋に入ると、持ち歩いている物を定位置に戻してから、無造作にベッドの上に横になる。
西日でほんのり茜色に染まる天井を、ぼんやりと眺めて寝返りを打つと、ジェイドさんの手紙が目に付いた。
【抱きしめて盾になり、全ての悪意からあなたを守る覚悟もあります】
書かれていたフレーズが頭の中に響く。
多少言葉を綺麗にして並べたのだとしても、王都に来るまではここまで誰かに強く好かれたことなど、一度もなかったと思う。
あっちの世界でそれなりに付き合った男の子・・・シュウやジェイドさん、ノルガに好意を寄せられてからは、今まで付き合った男性は男の子だったのだと知った・・・が、時々囁いてくれた言葉が、どれだけ安っぽく薄っぺらかったか、今ならよく分かる。
彼らが体を重ねる度に囁いた、愛してる、守りたい、なんて台詞、今聞いたら思い切り鼻で笑ってしまいそうだ。
そう思えるくらいに、3人は恋愛対象としてとても魅力的だ。
特にノルガは、巡回から帰って来たら急に大人っぽくなっていて、驚いてしまった。
弟か犬だなんて、あと3年くらいしたら言えなくなってしまいそうだと思ったことは、誰にも言わずに胸に秘めておこう。
それに、3人にここまで口説かれて、艶やかな視線を送られてしまうと、自分がイイ女になったのではないかと錯覚してしまいそうになる。
勘違いしてはいけないと自分を戒めるけれど、どこか気持ちが浮ついてしまって、どっちつかずのままでいたいと、彼らに甘えてしまっていた。
裏を返せば、彼らの好意が私の勘違いなのだと突き付けられるのが不安で、ただ単に自分が傷つくのを恐れていたのだと、今ならいえる。
私は自分の程度を、良く分かっているつもりだから。
・・・上司だ後見だと、それらしい言い訳までして・・・。
なんて浅ましい。
なんて狡い。
そんなふうに、またしても自己嫌悪に陥ったところで、ドアがノックされた。
「・・・どうした」
静かにドアを閉めた彼が、新聞紙の上に靴を脱いで部屋に入ってくる。
・・・鍵を、かけ忘れていたようだ。
「ごめんなさい、荷物、まだ・・・」
制服のままだったから、きっと上の部屋に帰る前に寄ってくれたんだろう。
彼は、私がベッドの上に横たわって動かないでいるのを、不審に思ったようだった。
他には目もくれずにこちらに近づいてきて、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。
・・・心配性の彼のことだから、熱でも出たかと眉間にしわを寄せて、私の額に手を置くんだろうな・・・。
何も言わずにそんな事を考えていたら、本当にその通りにするから、小さく笑ってしまった。
深い緑の瞳が、何も言わない私の中の何かを探るように、小さく揺れていた。




