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小鳥のさえずりが耳を揺らして、ゆっくりと意識が浮上していくのを感じる。
・・・まどろみの中で、何度も何かを呟いていた気がする。
そしてそれを思い出したくて、何度か寝返りを打って・・・飛び起きた。
「・・・あ、れ?朝?」
見れば窓が開いたままになっている。
・・・そうか。
昨日は、月を見ているうちに寝入ってしまったみたいだ。
ほんの少し、喉に違和感を感じて、はっとする。
つい最近ご迷惑をおかけしたばかりなのに、風邪など引いてはいられない。
しかもこのゴシップ満載なこのタイミングで。絶対にあり得ない。
そう気合を入れて、はちみつ入りの紅茶でも飲もうとキッチンへ向かう。
昨日は夕飯も食べずに寝てしまったから、おなかはぺこぺこだ。
不幸中の幸いとでも言うべきか、食料はたっぷりある。今日は夜会だから出勤がお昼過ぎになっているから、今から軽く食事を摂って、そのあと支度をしても十分時間はある。
私は腕まくりをして、まずはお湯を沸かすために薬缶を手に取ったのだった。
朝のうちに、はちみつ紅茶を飲んだことが良かったのか、出勤する頃にはすっかり喉の違和感もなくなって、私はレイラさんの自室へやって来ていた。
やはり昨日のように、王宮に入った途端に好奇の視線に晒されたけれど、もうそんなことで萎れてなどいられない。
今日は顔を上げて、いつものように歩いてきた・・・きてやった、くらいの気持ちだ。
昨日は気づくだけの余裕がなかったけれど、夜会が催されるからなのか、王宮内はいつもよりも浮ついた雰囲気に包まれていた。
すれ違う人が、普段よりも多いように思える。
それも、騎士や侍女ではなくて、たぶん貴族と呼ばれるような人達だと思うのだ。
煌びやかな装いをした人を先頭に、荷物をたくさん抱えた人が連なって歩いていた。
・・・今夜の夜会で関わる機会がないことを祈ろう。
ソファに座ってそんなことを思い出していると、レイラさんが寝室から出てきた。
ピンク色の、シルエットの緩やかなドレスを身に纏ったその姿は、絵本から抜け出てきた本物のお姫様のようだ。
というか、本物のお妃様なのだけれど。
惚れ惚れと見とれていると、ばっちり目が合って微笑みを向けられる。
「今、リオンが着替えていますから、それが終わったらミーナさんもお願いしますね」
時々思うけれど、この方は自分が妊婦であることを忘れてしまう傾向にあるらしい。
側に控えていた白侍女さんが、なんとか彼女を座らせようとして声をかけている。
シェウル君親子と対面した時も、終わってから急に疲れを感じたようだし・・・側でいつも見守っている私達からしたら、心配でハラハラしてしまう。
「・・・わかりました。
レイラさんも、少し座ってて下さい」
私からも声をかけると、彼女は渋々といった感じでやっとソファに腰を下ろした。
「レイラさん、とっても楽しそうですね」
「ええ!」
話しかければ、それはもう嬉しそうに頬を染める。
女の私から見ても、とてもじゃないけれど1人子どもを産んだとは思えないくらいに、初々しくて、とても可愛らしい。
「わたくしの実家、髪結いなんです。
花嫁さんや、綺麗になりたいっていう女の子達相手に、髪を結い上げてあげるんです」
「へぇー。素敵なお仕事ですねぇ」
私の言葉に、レイラさんは頬をピンク色に染めたまま、うっとりと頷いた。
何かを思い出しているのだろうか、彼女はため息を零す。
「わたくしはまだ、見習いだったんですけれどね。
いつか、自分の店を持つのが夢で・・・陛下におねだりしているんです」
「それは・・・なんていうか、叶うといいですね・・・」
自分の店を持ちたいお妃様・・・大繁盛しそうな気もする。
心の中で呟いた私に、その後もレイラさんはドレスの話や髪型の話を生き生きとしてくれて、私はそれに適当に相槌を打っていた。
そして、白侍女さんに声をかけられた私は、将来が楽しみな姿に変身したリオン君と交代して、レイラさんの寝室へ入ったのだった。
そこからは早かった。
あっという間に服を引っぺがされて・・・脱がされたのではない。文字通り引っぺがされた・・・簡素なドレスを着せられたかと思ったら、瞬く間に化粧も髪結いも終わっていた。
さすがプロだ。動きに無駄がなかった。
目の前に鏡がなかったから、どんな仕上がりになっているのかが、とてつもなく不安だけれど・・・とりあえず、ドレスがきつくなかったので良しとしよう。
その後、ひと通り身支度の済んだ私達の元へ、白い制服に身を包んだバードさんが合流。
白の騎士団の正装なのだそうだ。備わっている渋さが、いつもの4割増し。
一緒に入ってきた護衛の白騎士達も、いつもの3割増しで格好良い。
・・・ただ、いつもよりも人数が多いことが少し息苦しく思えるけれど・・・。
今日の護衛だという騎士達の自己紹介に、レイラさんとリオン君が頷いて答える。
私はそれを少し離れた場所から見守っていた。
あまりじろじろ見つめるわけにもいかないので、遠巻きに、息を潜めて。
自己紹介が終わり、移動するまで時間があるというので、白侍女達がお茶を淹れてくれることになった。
いつもよりも人数が多いので、準備が大変そうだ。
私も手持ち無沙汰なので手伝うと申し出ると、彼女たちは笑顔で頷いてくれる。
当初はぎこちなかった部屋付きの白の彼女たちと私の関係も、最近はそれなりに打ち解けたものになっていた。
名前で呼び合うほどの距離でもないけれど、それなりに世間話くらいは出来る間柄だ。
それに、コインがなくなっても何も聞かず、何も言わず、普段と何も変わらずに接してくれたことが有り難かった。
そんな彼女たちと一緒にお茶のワゴンの前で準備を・・・という時に、横から声をかけられる。
「子守殿」
「・・・え?」
声のした方を振り向けば、1人の白騎士が横に立っていたことに気づいた。
「お茶の用意など、綺麗なドレスが汚れてしまいませんか」
不躾だとは思いながらも、目の前に立つ彼を凝視してしまう。
明るい髪色の、目元がなんだか軽そうな人だった。
いや、人を見た目で判断してはいけないし、普段の彼を知っているわけではないけれど・・・誰だ、いつもの3割増しだとか言ったのは。
目の前の白騎士は、決して格好良くはないと思う。
「・・・いえ。
大丈夫です」
少しの間目を合わせた後、視線を手元に戻してお茶の用意を続ける。
足りないものでもあったのだろうか、隣にいた侍女さんがその場を離れる気配がした。
すると、絡んできていた騎士が、急に私の手を取る。
「・・・っ」
触れられた場所から悪寒が走って鳥肌が立った。
ひんやりとした感触、骨ばった細い指・・・ひとつも知りたくない。
私は感じた嫌悪を、そのまま口から吐き出した。
「離していただけますか」
「・・・つれないことを仰るのですね」
甘ったるい微笑みを投げかけられる。
その乱暴なまでの甘さに、吐き気がこみ上げた。
どうして言葉のままに理解してもらえないのだろうか。
・・・馬鹿にされているのか。
そう直感して、思わず空いた方の手を強く握りこんで拳を作ってしまう。
睨みつけるようにして視線を上げた。
目が合えばまた微笑まれて、そのまま拳を振り上げたい衝動に駆られるけれど、そこは仕事中だと自分を律する。
・・・大人の対応をしなくては。
騎士を殴って騒動を起こして、結局団長が皮肉のひとつでも言われる事態になるくらいだったら、ここで私が我慢していた方がいい。
彼にがっかりされたくなかった。
・・・手に触られたくらいのこと、これは私の外皮だ。ただの、皮膚。
そんな私の葛藤を知るはずもなく、目の前の騎士は笑顔を浮かべている。
空気が読めない人を、罵らずに遠ざける方法など全く思いつくあてがない私は、怒りを抑え込もうとして途方に暮れてしまった。
そんなことをしているうちに、騎士の手が私の髪に触れる。
夜会のドレスに合わせて、後れ毛を作ってくれたのだろうけれど、それが良くなかった。
・・・ああもう、気持ち悪い。
なんだか視界が揺れている気すらしてきた。
聞きたくもない声が、耳元で囁きかけてくる。
「噂通りだ・・・。
もう、青いものは身につけていないんですね」
そんなことを聞かれても、私は知らない。
あれよあれよいう間に支度が終わって、鏡を見ていないのだ。
「綺麗な肌に、青い染みが出来ていなくて安心しました」
その言葉が耳に入った瞬間、頭が真っ白になった。
目の前がチカチカして、血が逆流してるんじゃないかと思うくらいに耳の辺りが熱い。
言葉の駆け引きが苦手な私でも、これだけあからさまな表現をされれば嫌でも理解出来る。
気づいた時には、準備していたお茶を思い切り騎士の制服にぶちまけていた。
「ああ、すみません。
片手しか使えなかったもので、手が滑ってしまいました」
「・・・・・・・・・!!」
ナルシストな騎士の顔がいびつに歪んで、怒りを露にした。
罵詈雑言が飛び出さないのは、騎士としての矜持が1ミリくらいは残っているからなのか。
真っ白だった制服が、一箇所だけ茶色く染まっている。
その染みを目にした瞬間に、自分が何をしたのか実感した。
・・・ああ、ごめんなさい団長。私、沸点低かったみたい・・・。
しかしこれでは、夜会には参加出来ないだろう。
・・・ざまあみろ。
内心で、絶対に口には出来ないような悪態をついて気持ちがスッキリしたところで、周囲の視線に気づいた私は、この場をどう収めていいのか困り果ててしまった。
すると、怒りのあまりに震えていた彼に、レイラさんの凛とした声がかかる。
「残念ですが、あなたには護衛から外れていただきます。
ああ、言い逃れはしないように。
しばらく前から、わたくしもバードさんも、あなた方のやり取りを見ていましたから。
・・・ミーナさん、こちらへ」
初めて見る王族らしいレイラさんに、私は素直に従った。
彼女の側に寄ると、今度はバードさんが彼を強制退場させようと、他の白騎士達に命じる。
戦慄いていた白騎士は、バードさんの背に庇われた私に向かって何かを喚きながら、数人の白騎士に抱えられて連れて行かれた。
レイラさん曰く「勤務中のあの行動は、ディディアさんの逆鱗に触れますから、きっと厳しく処罰されますよ」とのこと。
聞けば、ディディアさんをはじめバードさんも、もちろんヴィエッタさんも、普段から素行が悪かったらしいあの騎士にコインを返上させる機会を、待ち望んでいたらしい。
・・・それなら、お茶をかけたりしても私が咎められることはないのだろう。
ほっと胸を撫で下ろしてやっと、私は自分の手が少し震えていることに気づいた。
日が落ちて、辺りが薄暗くなってきた頃、いよいよ夜会が開かれようという時間になった。
王宮から少し離れたところにある、離宮と呼ばれている場所が会場になっているらしい。
出勤してきた時に遭遇した行列のようにして、ぞろぞろ連なって徒歩移動だ。
道もレンガで舗装されているし、短い距離なので全く苦ではないのだけれど・・・。
どうやら貴族たちからは、歩きにくいだの、王宮内に大広間を作れだの、いろいろと苦情が寄せられているらしい。
王族は意外と庶民に近い感覚を持っていて、好感が持てるし住み良い国だと思うのだ。
けれど、貴族が頭が悪くて仕方がないようでは、紅の騎士団のような監視役が必要になるのも頷ける。
頭の悪い連中が権力と財力を手に入れたら、その他に欲しいのは地位くらいのものだろう。
・・・国の中枢にいる人達は、本当に大変だ。
「ミミ、気をつけてね」
「ん、ありがとう」
それに比べて、私の職場はなんと穏やかで温かいのだろう。
今も、リオン君は私と手を繋いで歩いているのだけれど、どうやら本人は私をエスコートしているつもりらしい。
レンガの隙間にヒールが引っかからないように、たまに声をかけながら歩いてくれる。
小さな手に先導されて、思わず微笑んでしまった。
舗装された道は街灯が照らしていて、足元にも照明が整備されているので、これなら真っ暗になってからの帰り道も転んだりしないで済みそうだ。
暗くなってきた空にも月や星が浮かんでいるし、良く晴れた夜になりそうで良かった。
そんなことを考えていると、大きな扉の前にたどり着いた。
離宮の扉をくぐると、そこは大きな玄関ホールだった。ここだけで、子どもが遊べるくらいの広さがある。
夜会の間は、正装した騎士たちが警備をするようだ。白の比率が高い気がするけれど、紅も蒼もところどころに見えている。
王族の警護、会場の警備、不審者の取り締まりに貴族達の密会など、目を配らなくてはいけないことが山のようにあるのだろう。
・・・本当に、大変な仕事だ。
そんな感想を抱いた瞬間、彼の姿が思い浮かんで慌てて呼吸を整える。今は仕事中だ。
まだ招待客を入れる時間ではないのか、至るところで打ち合わせらしているらしく、騎士達は数人ごとに固まって話をしている。
その間を縫うようにレイラさんが通ると、道をあけてすかさず頭を下げた。
リオン君と手を繋いだ私は、申し訳ない気持ちで頭を下げた騎士の間を通り抜ける。
リオン君はレイラさんと共に高砂のような場所に用意された椅子に座って、入り始めた招待客から挨拶を受けている。
彼の場合は、愛想を振りまいて招待客を笑顔にさせて・・・という感じなのだろうけれど。
もちろん、陛下とチェルニー様も一緒だ。
その隣に座っているのは、帰省中だというオーディエ皇子なのだと思う。遠目に見ているから細かいところまでは分からないけれど、綺麗な顔をしているから、年頃の少女達のアイドル的な存在に違いないだろう。
私はというと、高砂から横に少し離れた場所に立って、陛下達の様子を見守っていた。
BGMに、管弦楽の生演奏が流れているのが心地良い。
今のところ招待客はわずかで、いつも陛下と一緒のジェイドさんの姿も見えないし、3つの騎士団の団長達の姿も見えない。
・・・今はその方がありがたいような気もするけれど。
そういえば、高砂に上がる前の陛下とチェルニー様に挨拶をしたけれど、コインのことについては一切触れられなかった。
それが彼らの気遣いなのか、それとも別の何かがあるのか・・・。
そんなことをつらつらと考えながら陛下達を眺めていると、唐突に声がかけられた。
「ミーナさん!」
子どもの声に我に返って、振り向くと、そこにはシェウル君の姿が。
「シェウル君!
・・・あれ?夜会に招待されたの?」
見たところ1人でいるようなので、尋ねてみると、彼は頷いた。
「はい。
・・・僕はご挨拶だけしたら、母と帰るんですけど・・・。
あ、父と母は、知らないおじさんと話しています。あっちの方で」
「そっか。
そういえば、お父様が10の瞳のうちの1人、なんだっけ?」
「はい」
10の瞳というのは、陛下の治世を見守るための貴族を指す呼び名のこと。
具体的に何をしているのか問われれば、詳しいことは何も知らない。
・・・これまで私には、一生関わり合いのない人達のことだと思っていたから、調べようとも聞こうとも思わなかったのだ。
かろうじて知っているのは、その見守り役の貴族は5人だ、ということくらいだ。
そのうちの1人が、シェウル君のお父さんということになる。
「・・・あ、リオン君だ~」
「・・・お話したい?」
自分をお兄ちゃん、と慕う小さな皇子様を見つけて声音が上がるシェウル君。
聞いたところによると、兄弟はいないようだし、彼のことを可愛い弟のように思ってくれているのかも知れない。
なんだか私は嬉しくなって、にこにこと彼を見下ろしていた。
すると彼はご機嫌なのか、ふんふんと鼻歌を歌い始める。
「・・・?」
まただ。
何かが引っかかった。
「ねぇ、シェウル君その歌・・・?」
「あ、ごめんなさい。
小さい時からずっと好きなんです。
・・・何の歌なのか、全然覚えてないんだけど・・・」
「そ、っか・・・」
そしてまた、彼は同じ旋律を口ずさむ。
どうしても引っかかった私は、彼の真似をして自分でも鼻歌を歌ってみることにした。
管弦楽の演奏に紛れて、きっと誰にも聞こえないだろう。
そう思って何度か同じメロディを奏でたところで、カチリ、と足りない何かがはまった感覚に目を見開いた。
小さく息を飲む。
・・・まさか。
幸い、隣に佇む少年には気づかれずに済んだようだった。
私、この歌を知っている。
向こうの世界で、留学していた頃のこと。
ナーサリーやドロップインで、良く歌った遊び歌。
就学前の親子が一緒に歌う、遊び歌だ。
ベビーシッターのアルバイトをしていた私は、いろんな歌を覚えたのだ。
・・・けれど、まさか。
そうであって欲しい、けれどそんなはずはない・・・くるくると気持ちが入れ替わるのを自覚しながらも、鼓動が速くなっていくのを止めることが出来なかった。
・・・ねぇシェウル君。
君は、渡り人なんだね。




