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・・・どうしてこう、上手くいかないの・・・。
思えば2年前のあの日、この世界に渡ってきたところから、特に変わり映えもしない代わりに波乱万丈のひと欠片もないはずの私の人生の歯車が、少しずつ噛み合わなくなってきたのだ。
拾われたのが院長だったことは、本当に運が良かったと思う。
いや、こちらに渡ったことだって、決して運が悪かったとも不幸だとも思ってはいない。そんなふうに思って苦しむなんて、誰も得をしないと解ったから。
けれど、団長に出会って王都へやって来て・・・そのあたりから、これまでに起こらなかった波乱万丈が寄ってたかって襲い掛かって来ている・・・そんな気がする。
本当に、特別なことなんて、何一つ望んでいないのに。
自分が苦しいのを誰かのせいにするのは、もうやめたのに。
・・・神様なんて、大嫌いだ。
沈黙の支配する部屋で、私は静かに、神様に罵詈雑言を浴びせていた。
何の神様で、いるのかどうかも知らないけれど。
これだけ強い気持ちで念じていたら、一度くらいは助けてくれはしないだろうか。
・・・自分でも情けないほど、他力本願だ。
「・・・」
恐ろしいくらいに静かに佇んでいた彼が、かすかなため息を吐くのが耳に入った。
まさか私の心の動きが聞こえていたり・・・なんて、ひやりとしてしまう。
寮の玄関先での出来事の後、彼は私の荷物を取り落とすことなく、ご丁寧にもきちんと私の部屋まで運んで、しかもキッチンに、これまた丁寧に袋からそっと出して置いてくれた。
その手つきからは、私が感じた表現しようもない怒りのようなものを窺うことは出来なかったけれど、その代わりに、彼が私に対して何の感情も向けてくれないのを感じ取った。
ただでさえ、どす黒い何かが渦巻いた目を見て怖気づいてしまった私が、そんな彼に声をかけられるわけがなく・・・結局、遠巻きに彼が荷物を運んでくれているのを見ているしかなかったのだ。
そして今、荷物を運んでくれた彼は何故か、窓の外を見つめて佇んでいる。
その間、ずっと無言。無表情。
眉間のしわだなんて、そんなもの確認出来るわけがない。
今朝彼がこの部屋に無断で入って来て、朝食を作ってくれていただなんて、一体誰が信じられるだろう・・・。
そうしてもらった張本人がそう思うくらいに、今の私には彼が別人に見えるのだ。
彼の背中を見つめながら、この状況の出口を考える。
私が謝ればいいのか・・・それも違う気がする。
たぶん彼は不機嫌だ。その原因は、きっとノルガが私にキスをしたことだろう。あれからずっと、無言でいるし、視線が私に降ってくることもない。
・・・けれど、そもそも私と彼は交際関係にないのだ。
まかり間違って私とノルガに何かが起きても、彼がその怒りを私に向けるのは何かが違うと思う。
その代わりに私だって、彼が他の誰かと仲良くしても・・・。
・・・毛色の珍しい、ほろ酔い気分で少しだけ手をつけた女が、他の男とキスしてる現場に居合わせて怒っている、ということなのか。
それならあり得るけれど・・・ノルガも匂いが云々言っていたし、マーキングのつもりなのか。縄張りを争っているつもりか。
いや、さすがに私にも団長と恋愛関係未満のぬるま湯に浸かった状態を続けてきた、という自覚はあるのだ。
だから、ノルガの暴挙には私が怒りたいくらいだ。
私が示した拒絶の意志など、あの力の前では汲み取ってもらえない限り、伝えようがない。
ノルガと次に会う約束は、きっと守らないだろう。
ああもう何にせよ、私が考えて分かるわけがない。
私には窺えもしないのだから、素直に聞いてみようと、意を決して口を開いた。
すると、ほぼ同時に団長がこちらを振り返る。
咄嗟に強張った体をそのままに、私は気づいた。
全身から発していた怒りのオーラが、かけらも感じられないのだ。
それどころか、なんだか落ち着き払って静かに私を見つめている・・・。
何かがおかしい、と頭のどこかが警鐘を鳴らすのに、それが何なのかが、私の心は全く感知出来そうにないのが悔しい。
しっかりしろ私の心。いつからこんなに鈍くなった。
必死に深い緑の中を探っても、何一つ分からない。
そして、私が何かに焦っている間に、彼が口を開いた。
「・・・ミナ」
もう何度も聞いた、心地よいバリトンの声が私の名を呼ぶ。
最近では「お前」と呼ばれることの方が多かったような気もするけれど、それはそれで居心地が良かったのだと、今さらに思う。
彼の気の許す範囲に、私が入れている実感があったから。
同時に、今なら素直に話が出来るかも知れないとも思った。
「・・・はい」
ところが、返事をした私に彼の口が、思いもしなかった言葉を紡いだ。
「そのコインは、まだ必要か・・・?」
「・・・え・・・?」
言われたことの意味が掴めない私は、無意識に聞き返していた。
言葉だけが、耳の中でくるくる回り続けている。
本当によく分からなくて固まっていると、彼は何も言わずに近づいて来た。
私が何も言えずにいるのを、彼はどう受け取ったのだろうか。
手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで来て、彼は立ち止まる。
自然と見上げるような姿勢で彼の瞳を見つめても、深い緑色の瞳からは何の感情も読み取れなかった。
今朝までは、目が合えば穏やかに揺れていたのに。
そして、私をじっと見つめていたかと思うと、おもむろにその両手を私の首の後ろに回した。
とくん、と鼓動が跳ねる。
「・・・え?」
彼の両手が私の見えない所で動いているのが感じられて、ふいに焦燥感がやってくる。
彼は、何をしている?
私に、何を聞いた?
何かが麻痺してしまったかのように、考えが纏まらない。
鼓動が速い。
いつかも2人してこんな格好で、会話をした。
それなのに何故、今の私はこんなにも焦りや不安を感じているのだろう。
答えが見つからないまま、彼の両手が離れていく。
それと同時に、胸元にあったかすかな重みが、ふわっと浮いたのを感じた。
次の瞬間、彼の手に、青いコインが収まっているのを目撃する。
そしてやっと、悟った。
私を安心させてくれていたコインが、持ち主のもとへ帰っていったことを・・・。
彼の手が、私の頬に触れた。
いつも温かいそれが、今は何故か冷たい。
窓際にいたから冷えてしまったんじゃないか、なんて、この場にそぐわないことを考えてしまうのは、この状況を正面から受け止める度量がないからなのかも知れない。
深い緑の瞳が、瞬きもしないで私を見つめている。
もう何度もこんな風に見つめられたのに、今が一番ドキドキしているなんて、私の心臓はきっと壊れているのだ。
私も、彼をじっと見つめ返す。
ふと、彼が目を伏せた。
私は、何でもいいから感じ取りたくて、必死に心のアンテナを張り巡らせた。
けれども彼が何かを発することはなく、視線を私の目に合わせると、微笑んだ。
もう何も考えられなくなって、私は彼の表情に釘付けになる。
そして彼は微笑みを崩さずに、そっと私の頬を撫でると、その手をゆっくりと離した。
何か言わなくちゃとか、あの手を掴まなくちゃとか、そんなことを考えていたら、彼は颯爽と部屋から出て行ってしまった。
そもそも、彼の歩幅は広いのだ。
バタン、とドアの閉まる音に我に返って、自分の頬を押さえる。
そこにはもう、彼の手の気配を感じることは出来なかった。
胸元が、頼りない。
そしてドアの側、小物置きに部屋の合鍵が置いてあるのを見て、言葉を失った。
虫の音の響く部屋の中、買いこんだ物を片付けることにした。
買いすぎたようだ。私には、十分過ぎるほど。
ひと目見て収納しきれないのが分かった私は、ため息をつく。
缶詰も果物も、よく考えたら私1人でこんな量必要ない。
「そ、っか・・・」
そして思い至った。
・・・私、無意識に団長の分も数に入れてた・・・。
「こんなに食べきれるかなぁ・・・」
独りごちて、自嘲した。
片付けてからはもう、何もする気になれずにシャワーを浴びた。
水のつぶてが落ちてくる中、鏡の中の自分を見つめる。
私はあの時、どんな表情をして彼を見ていたのだろう。
尋ねられた時に、どんな目をして彼を見ていたのだろう。
そんなことを思って、鏡の中の自分を見つめていた。
・・・ああもう、どうしよう。
鏡の中の自分は、これまでにないくらい酷いカオをしていた。




