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ノルガの手が、熱い。
いや、彼の手に力がこもり過ぎて、私の両手が痛いのか。
ぎゅっと瞼を閉じて、彼に掴まれて宙に浮いている自分の両手から顔を背けて私はそんなことを考えていた。
透けている両手を見ているだろう、彼の表情を窺うだけの勇気は、今の私にはない。
あんな気持ちの悪い現象、理解の範疇を軽く跳び超えている。
だからきっと、私のことを気の迷いで事故だったとしても「好き」だと言ってくれた彼ですら、受け止めるには衝撃的だと思うのだ。
息をするのも精一杯の私は、聞こえてきた彼のため息に、半ば反射的に体がびくつく。
・・・何を言われるの・・・?
「・・・ミイナちゃん・・・」
もう何も言わずに、この場から立ち去って欲しい。
来てくれた時には嬉しくてほっとして、ありがとう、と素直に思ったのに。
私は自分本位だ。
「こんな手になっちゃって」
こんな、なんて言われて、目を閉じたまま私は俯いた。
もう見られてしまったのだから、どうしようもないのだけれど・・・。
現実を受け止めて心の準備をしようとしているところで、彼の一言が耳に入った。
「真っ赤じゃん・・・」
あーあ、と両手をぺたぺた触ったり息を吹きかけたりしている彼。
一瞬遅れて、私は言われたことを理解した。
・・・真っ赤?
疑問が浮かんで、目を開ける。
そして、そろそろと彼の顔を見上げた。
「もー、ミイナちゃん。
一応女の子なんだからねー」
視界に入った両手は、元通りになっていて、ちっとも透けていなかった。
・・・なんで・・・?!
・・・あれは私の勘違いだったの?
それとも、幻覚か白昼夢か見間違いか・・・どの可能性も、これっぽっちも信じられない。
あの言葉に出来ない恐怖感は、絶対に本物だった。
「ミイナちゃん?」
その声に、ノルガが訝しげに私のことを見つめているのに気づく。
どれだけ考え込んでいたのだろう。
私は一旦考えるのをやめて、気を持ち直して笑顔を作る。
「・・・ごめん、ちょっとぼーっとしちゃって。
重い物持ってきたから、手が痛くて休憩してたとこなの」
「・・・そっか・・・」
彼が解放してくれた両手を、膝の上で擦り合わせた。
・・・ちゃんと、私の両手だ。
何も異変がないのを確認すると、やっと呼吸が楽になる。
「ノルガは、何してたの?
・・・またサボり?」
「違います!」
若干声音を上げた彼は、私がいつの間にか取り落としていたボトルを拾い上げてくれる。
私はお礼を言って受け取ると、荷物をずらして彼の座る場所を作った。
「今日は俺、休みだったの。
もうさ、昨日は散々だったんだから・・・」
彼は私の隣に腰掛けながら話し出す。
・・・巡回から戻って、なんだか雰囲気が変わった気がするな。
なんというか、少し落ち着いたような・・・。
夜の気配が濃くなってきた空に、彼の赤毛が綺麗に映えていて、思わず見とれてしまった。
「巡回から戻った途端に、キッシェさんと斬り合ってこいとか・・・!」
「ああ、なんか、キッシェさん嬉しそうだったよ?」
気のせいだと思うけれど、彼が涙目になって私を見る。
いじめられっ子を彷彿とさせる彼の姿に、この人1等騎士だったよね、なんて失礼な感想を抱いてしまった。
ほんの少し前まで、自分が恐怖とおかしな現象に飲み込まれそうになっていたことなど、すっかり頭の中から消えている。
全く、現金なものだ。
「キッシェさんも刃物狂だから、まじで斬られるかと思ったし!
真剣じゃなかったから良かったけど、あの人木刀でも人を斬れるんじゃないの?!」
「・・・お疲れさまでした」
「だからさー」
そこまで言って彼は、がばっ、と私に抱きついてきた。
「えぇっ?!」
突然のことに回避できるはずもなく、私は彼の腕に囲われて身動きが出来ずに声を上げた。
それに、やんわりと、でも力強くて、危機を感じるほどの強引さは感じられなかった。
心の片隅に残る、彼への感謝の気持ちが拒絶させなかったのかも知れない。
この抱きしめ方は、ずるいと思う。
そして、彼が耳元で言った。
「ミイナちゃんに、この頑張りを褒めてもらいたくてさー」
俺頑張ってるんだよ?・・・なんて小声で言われたら、この腕を拒絶する勇気がさらに萎んでしまった。
・・・だから、ずるいと思うよノルガ・・・。
そうは思うものの、不安でいっぱいだった時に現れてくれたのが彼で良かったとも思う。
彼の明るさや、なんでも笑い飛ばしてくれそうなところに、救われた気がするのだ。
言葉には出さないけれど、感謝の気持ちを込めて、彼の背中をぽんぽん、と叩く。
彼は、団長やジェイドさんのように、荒々しい熱で私を巻き取ろうとはしなかったみたいだ。
体はきっちり密着しているけれど、両腕を動かすくらいの逃げ道を、ちゃんと用意してくれていたのだから。
この触れ合いはどこか、母と子のそれに似ている。
「・・・頑張ってるよね、えらいよ」
穏やかな気持ちで囁けば、彼は私の肩に顎を乗せて「うん」と呟いた。
ちょっと、かわいいな。
犬耳が見えた気がするけれど、そこは目を瞑ろう。
「ノルガと、出かける約束してたよね・・・」
「覚えてくれてたの?」
がばっ、と体を離すノルガ。
あれ、目がキラキラ輝いて、しっぽが嬉しそうにパタパタしている様子が・・・。
幻覚のはずなのに妙に説得力があるな、などと思いつつも、私は彼の言葉に頷いた。
ノルガに重い荷物を持ってもらって、寮までの道のりを歩く。
彼曰く、「デート」の日は夜会が終わってからということになった。
夜会のある日までは、貴族が各地から王都にやってくるために、各地の治安が乱れがちになるので、蒼の騎士団は忙しくなるのだそうだ。
貴族が集まるということは、それ目当ての商人達もやって来るし、よからぬことを考える輩も自然と引き寄せられて来る、ということだ。
お仕事ご苦労さまです、と呟けば、彼がため息を吐いた。
彼らのおかげで、私のような民間人が安心して出歩けるのだ。感謝しなくては。
「これ持って階段上がるの大変でしょ、部屋まで持って行こうか?」
寮の入り口が見えてきたところで、彼が申し出てくれた。
辺りはすっかり夜の気配が濃くなって、まばらに立つ街灯が私達を照らしている。
「・・・そう・・・?
じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかなぁ・・・」
一度持って歩いて、重さを知っているだけに1人で持って帰るのを尻込みしてしまう。
いつもなら、男の人に部屋まで行ってもらうのは躊躇するところなのだけれど・・・。
「じゃあ持っていくよ。
置いたらすぐ帰るからさ」
下心も何も感じさせない言い方に、気づけば私はふたつ返事で頷いていた。
そして視線を上げたところで、玄関に人影があることに気づく。
「・・・だん、シュウ・・・」
団長がそこに佇んでいたのだ。
私が思わず漏らした言葉を聞き取ったのか、彼が顔を上げてこちらを見た。
ほの暗い中でも、彼の深いグリーンの瞳が私を見つめているのが分かる。
そこから感情を読み取ることは出来ないけれど、たぶん、ご機嫌ではないと思う。
何故そこにいるのか疑問は湧くけれど、それよりもまず後ろめたさの方が押し寄せてきた。
・・・そこで何故私が後ろめたさを感じるのかも、よく分からないが。
自分で自分に問いかけている間に、荷物もちのノルガが団長に声をかけていた。
「団長、何してるんですか?」
飄々と、どこか挑戦的な言い方をする。
ひとまわり成長した、穏やかで大人な彼はどこにいったのか。
「お前は何をしている」
団長の目に、何かが灯る。
私は気圧されてしまって、何も言えないままそこに固まってしまった。
こんな彼を見たのは、初めてで。
買い物に出ただけなのに、どうしてこんなに緊張感あふれる場面に遭遇してしまうのか。
「今日は休みだったので、街に用事を済ませに。
帰りに彼女が重い荷物を持っているのを見かけたので、送ってきました」
受け答えをするノルガは、なぜか今まで見た姿の中で一番騎士らしかった。
堂々としているのだ。
けれどそれは、自分の上司に対して取る態度ではないようにも思える。
・・・なんだろう、この緊迫したおかしな空気は・・・。
「そうか、ご苦労だった。
ここでいいぞ」
団長がノルガから荷物を受け取ろうとすると、ノルガはすんなり両手の物を引き渡す。
そして、私に向き直るとにっこり笑顔を浮かべた。
「じゃあ、夜会が終わったらね」
その笑顔から、とても楽しみにしている様子が伝わって、私も自然と笑顔になる。
笑顔を向けられたら、笑顔が浮かぶ・・・私が暮らしていた向こうの世界では、なんら不思議なことではないはずだ。
それなのに、団長の視線が怖い。
どんな表情を浮かべているのか気になるけれど、私はノルガから目が離せなかった。
そんな私の心の内を知るはずもなく、ノルガが突然私を引き寄せる。
「・・・っ」
驚きに息が漏れた。
本当に一瞬のことで、瞬きすらさせてもらえない。
そして、かわせるはずもなく、私は彼の口付けを受けていた。
目の前で、長いまつげが揺れている。
嫌だと思うのに、彼の腕が拒絶することを許さなかった。
あのベンチでの抱擁の時には、こんな力こもらなかったのに。
戸惑いも驚きも、悲鳴に似た叫びすらも吸い込まれた私は、彼が離れてからしばらく息をするのを忘れていた。
そして、ノルガが不敵な笑みを浮かべて、正面から団長を視線で射抜く。
それを受ける団長の目は、何かが渦巻いていた。
私を見ているわけではないのに、すぐに感じ取ることが出来た。
あれは確実に、不機嫌を通り越した、どす黒い怒りだ。
怖すぎる。
・・・団長の両手が荷物で塞がっていて、咄嗟に動けないことを分かっていて・・・?!
悲鳴混じりに心の中で呟いて、私は触れられた自分の唇を押さえる。
すると、ノルガが団長に言い放った。
「ミイナから団長の匂いがぷんぷんするんです。
まだ誰のものでもないんだから、匂いなんかつけないで下さいよ」
一瞬の間をおいて息を吹き返した私は、ノルガが去った後の状況に絶望していた。
2度目は、もう事故では済まされない。




