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白の本部への報告も終わり、私は寮に戻って来ていた。
・・・そういえば、ディディアさんしかいなかったけれど・・・。
いや、今朝のことを思えばヴィエッタさんに会わずに済んだことを感謝するべきか。
自分の部屋の鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで回せば、カチャ、と小気味良い音が耳に響く。
休日でもないのに、日の高いうちに自分の部屋に戻ってくるなんて、なんだか不思議な気分だ。
鍵を小物置きに置いて靴を脱いでいると、足元に紙切れが落ちているのに気づいた。
・・・誰だろう。
拾い上げて、四つ折にされたそれを開けば、可愛らしい書体でメッセージが書いてある。
差出人は、アンだった。
そういえば、都合の良さそうな日を教えてくれる約束をしていたのだ。
けれど紙切れには、残念ながら時間を取ることが出来ない、院長も会いたがっていた、という旨の文章が綴られている。
・・・そっか・・・。
少しばかり残念な気持ちが広がるけれど、それぞれ仕事や用事がある。
それに、会いたければ私の方から孤児院に帰省するのが道理というものだろう。
残念だけど仕方ない・・・そう自分を納得させて、私は気持ちを切り替える。
王都にやって来てから、今まで自覚はしていなかったけれど、ほんの少しホームシックのようなものを患っていたのかも知れない。
院長に会ったら、いろいろ話したいこともあったから・・・。
夕焼けの中、王宮の近くにある食料品店で買い物を済ませた私は、寮に向かって歩いていた。
保存の利く缶詰もいくつか買ったから、両手が痛い。
安売りしていたから、と野菜と果物も買ってしまった・・・。
珍しく欲張ってしまった私は、両手にかかる負荷に後悔していた。
「うぅ・・・」
攻め込まれた時に優位になるように、城は高台に建てられているから、帰り道はほどんど上り坂だ。
帰り道のことを考えずに買い込んだ私のような無謀な者のためなのか、年配者のためか、所々にベンチが置かれている。
普段は気にも留めていなかったけれど、今日ばかりはありがたくベンチに荷物を置いて、少し休むことにした。
腰掛けて、両手を握ったり開いたりしてみる。
手のひらが赤い。
「あぁ、疲れたぁ・・・」
自分で両手を揉みほぐして、伸びをひとつ。
そして見上げた夕焼けの空がなんだか物悲しくて、ため息が零れた。
図書館で資料を片っ端から読んでいるけれど、何も収穫はない・・・解っていたことだけれど、もう帰ることは出来ないのだろう。
いや、帰る方法が見つかったとしても、時間がどれだけ進んでいるかも分からない故郷に帰ったところで、生きていけるかどうか・・・。
行方不明で捜索願が出されているかも知れないし、死んだものとされているかも知れない。最悪、私が存在していたこと自体が、なかったことになっているかも知れない。
そして考えに考えを重ねて、最後にたどり着くのは、この世界で自分がどう生きていくか、だ。
根無し草のような存在の私は、強風が吹きつけたら、あっという間に飛ばされてしまうんだろう。
・・・そういうことも含めて、ずいぶん前に納得したはずだった。
「・・・不毛すぎる」
もう、こんな風にぐちぐち考える自分すら、いやだ。
何かを振り払うように首を軽く振ると、私は買い物袋から水のボトルを取り出した。
キャップを開けて、まだ少し冷たいそれを流し込む。
回転しすぎて熱のこもった頭が、すぅっと冷えていく感覚に、いくらか心が落ち着いた。
手の中でボトルが転がる様子を、なんとなく見る。
私もボトルの中の水のように、さらさら流れていけたらいいのに。
壁にぶつかって波が立っても、何もなかったかのように、元に戻れたらいいのに。
どうしようもないことを考える自分を、もうひとりの自分が冷静に見て苦笑いする。
ため息を吐きつつ、そのまま体を休めていると、ふと、体の異変に気づいた。
・・・両手が、透けているのだ。
「・・・え、え・・・?」
瞬きを数回しても、ぶんぶんと振ってみても、どう冷静になっても透けている。
鼓動が煩いくらいに騒いでいるけれど、それを深い呼吸で押しとどめる。
握ったり開いたりする感覚はあるし、ぱちぱちと手を打ち鳴らしても、ちゃんと音もした。
けれど、手を目の前にかざすと、向こう側の風景が透けて見えた。
最初はうっすらと。
しかし、呼吸に合わせるかのように、その後ゆっくりと透明度が増してゆく。
その様子を目の当たりにした瞬間に、言いようのない恐怖が背中をせり上がってきた。
手が、消えそうなのだと理解した途端、悲鳴をあげそうになる。
吐きそうなくらいに、くらくらして、息が上手く出来ない。苦しい。
どう考えたって、尋常じゃない。
・・・怖い、怖い怖い怖い!
辺りには誰もいない。
脳裏に団長の顔が浮かんだけれど、誰かに呼んできてもらうことも出来ない。
全力疾走で寮まで戻るという選択肢が思い浮かぶけれど、頭がくらくらして立ち上がることも出来そうになかった。
両手を組んで、力を込める。祈るように。
ギリギリと骨が軋む音が伝わってくるのに、組んだ両手はやはり透けていた。
自分の手なのに、自分の思う通りにならない苛立ちすら覚える。
・・・どうして。
視界に入ると、言い表せない恐怖と嫌悪が沸き起こるので、見えないように目を瞑る。
目を瞑ったら、今度は絶望が私を飲み込もうと大きく口を開けた。
・・・直って・・・お願い直って・・・!
一気に沸き起こった感情が渦を巻いた中で私は、泣きそうになりながら祈るような気持ちで、ぎゅっと手にも目にも力を入れた。
手は痛いし、目だって力みすぎて瞼がおかしくなりそうだ。
それでも全てを飲み込んだ恐怖の方が勝っていて、私はそれをどうしたら自分を保っていられるのかが分からなくなってしまっていた。
迷いなく叫ぶことが出来る名前が見つからないことが、絶望に拍車をかけようとしている。
どれだけ時間が経っただろう、唐突に、声がかけられた。
「ミイナちゃん?
何やってんの?」
・・・この声・・・。
心臓が鈍く動いて、身動きが取れずに重く沈んでいた体が呼吸を始める。
私は、自分の名前が呼ばれたのを聞き取って、ゆっくり目を開けた。
力を入れすぎたのか、焦点が定まらずに視界がぼやける。
「ノルガ・・・?」
掠れた声が出た。
「うん、どしたの?大丈夫?」
いつもと変わらない、いや、少し落ち着きのある声に、私は明らかにほっとした。
知っている人が側にいることが、こんなにも有り難いと感じたことはない。
私は彼の問いかけに、ゆっくり頷いた。
全身が強張っていたのだろう、体中がぎしぎし音を立てている気がする。
深呼吸をすると、酸素が全身に染み渡って、いくらか動きやすくなった。
視界が少しずつ戻ってくる感覚にも安堵を覚えて、私はぎこちなくも笑顔を浮かべる。
「うん、大丈夫・・・」
まだ声は掠れているけれど、彼に向けて言葉を発することは出来るようだ。
そんな自分に胸を撫で下ろしていると、彼が怪訝そうな表情で私を見ていることに気づく。
私、というか、その視線は私が組んだままにしていた両手に注がれていた。
はっとして両手を後ろに回そうとしたところで、ばっ、と素早い動きで両手を掴まれる。
見られた・・・!
脳裏を掠めていったのは、透けていた自分の両手。
透けて、向こう側が見えていた。
あんなもの、きっと、気持ち悪がられるに決まっている。
囚われの両手が、彼の目の前に晒されている状況に、私はぎゅっと目を閉じた。
そして、彼の呼吸が止まる・・・。
「ミイナちゃん、この手、どうしたの・・・?!」




