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・・・目が冴えて眠れない。
ほぅ、と息を吐きベッドから這い出して、テーブルに置いてあった水差しを手に取ると、頼りない月明かりに目を凝らしながらグラスに水を注ぐ。
もうだいぶ温くなったそれを一気に飲み干すと、またひとつ息を吐いた。
眠りに堕ちそうになるたびに、あれやこれやを思い出してしまうのだ。
マートン先生の母が、私と同じ黒髪に黒目だったこと。
団長の、唇の衝撃や、ストレートな言葉。
そのたびに、言い知れぬ不安と、素直には認められない気持ちが襲ってきた。
文字通り、混乱していると思う。
・・・もういっそのこと、今日は眠れなくてもいいや・・・。
睡眠を諦めて、それなら体だけは休めようと、もう一度ベッドに横たわった。
窓の外には、雲の隙間から月が覗いている。
時折、若い男達の声・・・歌い声なのか叫び声なのか・・・が聞こえてくる。
きっと巡回から戻った蒼の騎士たちだろう。
帰還して気が抜けたのか、へべれけに酔っているようだった。
いつもなら耳について不快で仕方ないと思うけれど、今日だけは、しんとした静寂の中にいると自分の声が聞こえすぎて、気が滅入りそうだから助かる。
・・・マートン先生とは、仕事以外で接点を持たないようにしておこう。
付き纏いで監視がついたくらいだから、用心するに越したことはない。
団長のことは・・・あれはお酒のせいなのだ。きっと。
そう思い込もうと頑張れば頑張っただけ、その場面が脳裏に蘇ってくる。
1人きりで顔が熱くなって、それを振り落とそうと首を振るなんて、滑稽だ。
今さらどれだけ乙女なんだと、自分につっこんでしまう程に。
あれだけのイイ男に甘やかされて、直球で求められて・・・これだけ全身平凡な身でも、実は魅力的なんじゃないかと錯覚してしまいそうになるので困る。
この世界では私はいい大人だし、もうちょっと身の程をわきまえないと、いつかしっぺ返しを食らうような気がして、首を振った。
・・・そして、ほんの少しだけ願うのだ。
この夢が、ずっと続けばいいのに、と。
「・・・あれぇ・・・?」
鳥の囀りに、目を覚ました。
眩しいほどの日差しが部屋を満たしている。
「・・・あ、さ・・・?」
完全に寝不足だ。
いつ眠りに堕ちたのかも分からないし、全く寝た気もしない。
再びくっ付きそうな瞼を必死に開けて、身を起こした。
そこで気づく。
「ん・・・?」
ふんわりと、バターの香りが漂っているのだ。
続いて、旨みのきいた、スープのような・・・。
「・・・うそっ?!」
瞬時に最悪の状況が脳裏をよぎって、悲鳴に近い声が出た。
昨日は火を使ったのは朝のはずだし、火の始末はちゃんとしたはずなのに!
まさか、火事?!
「起きたか」
声のした方を見て固まった。
「・・・?」
訝しげに眉間にしわを寄せる彼。
固まる私。
見つめ合ったまま時が過ぎ、間がもたなかったのか、彼が一言。
「おはよう」
自分の身に起こっていることが理解出来ない私は、目を擦る。
すると、それを見ていた彼が、ふっと息を漏らすのが聞こえた。
そして理解した。
これは、あれだ。
「・・・不法侵入」
指を指しつつ、恨めしげに目を向けて言い放てば、彼は鼻で笑った。
・・・朝からこの余裕感はなんなんだ。
寝起きの顔も、髪を下ろしたままの姿も見られてしまった。
・・・なのに、そんなに落ち着き払っているなんて。
血圧が上がる。
「不法ではない」
・・・そもそも、どこの法に沿った言い分なのか分からないが・・・と前置いて、彼は制服のポケットから、ひとつの鍵を取り出した。
そして、これ見よがしにプラプラと揺らす。
「お前がこの鍵を寄越したんだろ」
「・・・しまった・・・じゃなくて!」
勝ち誇った表情に、一瞬負けそうになった気持ちを立て直した。
「緊急時に助けてもらうために渡したんです!
こんな、女性の部屋に無断で入り込むなんて・・・」
どうしてこう、私ばかりが振り回されなくちゃならないのか。
昨夜降参しかけたことを思い出し、私は、半ば八つ当たり気味に言葉をぶつけてやった。
まだ眠くて機嫌が悪いのは、大目に見て欲しい。
不機嫌オーラを隠さない私を見て、彼は目を細めると、つかつかとこちらへ近づいてきた。
そして、彼はまだ私が座り込んでいるベッドに腰を下ろす。
・・・ち、近い・・・。
ぶわっと膨れ上がった何かが、一瞬で萎んでいったのを感じて、私は彼と距離を取ろうと身じろぎした。
そんな私には構う様子もなく、彼は口を開く。
「・・・一応ノックはした。
返事がなかったので、突入した」
「突入って、これは夜襲か何かですか・・・」
表現がどことなく物騒で、思わずつっこんでしまう。
言いながら彼の顔を見上げると、その表情が甘さに溢れていて、私の中に居座ろうとしていた不機嫌オーラをますます萎ませた。
・・・ああ、弱くなってるな私・・・。
「体調が気になって、朝議の前に顔を見ようと思ったんだが・・・。
驚かせてしまったな」
気遣わしげに響く声音と、額に添えられた手を感じて、顔に熱が集まってきてしまう。
どう頑張って抑えても、昨夜のことが思い出されてしまうのだ。
出来れば向こう一週間くらい、半径1メートル圏内に入らないで欲しい。
それから、その綺麗な目で見つめないで欲しい。
・・・そうしてくれたら、なんとか気持ちを立て直せると思うから・・・。
私が自分と葛藤している間に、彼は額から手を離して呟いた。
「若干熱いような気もするが・・・食欲はあるか?」
「あります」
風邪を引いた子どものように、こくん、と頷くと、彼はほっとしたように微笑んで言った。
「そうか、それなら大丈夫だろう。
スープとオムレツを用意してある。
まだ時間はあるから、焦らずに食べられるものを口にするように」
彼は言い聞かせるように、ゆっくりと私に伝える。
私がそれに、ただこくこく頷いていると、彼がおもむろに動いた。
いつかのように、額にキスをされる。
昨夜のように熱に浮かされたキスではなくて、慈しむような、心に染みるキスだ。
なんだか心地よくて、思わず目を閉じてしまった。
そのまま眠ってしまいたい衝動と戦っていると、彼が唇を離して、立ち上がる。
そして「仕事中、無理はするな」とだけ言い残して部屋を出ようとする彼を、私はなんとなく引き止めてしまった。
「シュウ」
「ん?」
ドアノブに手をかけたまま、彼が振り返る。
決して、明確な言葉が浮かんで呼び止めたわけではなかった。
「・・・えっと・・・あの、ありがとう」
はにかんで言葉をかけると、彼は口元を上げて頷いた。
「よっ・・・と」
勢いをつけてベッドから飛び降りて、思い切り伸びをした。
また、新しい1日が始まる。




