25
次の日、私はいつものように仕事に精を出していた。
早めに休んだのが効いたのか、体調はすっかり良い。
結局、あの眩暈というか、ふらっとする感覚は、あの一度きりだった。
明日も仕事だからと、気合を入れて夕食もしっかり食べたら、程なくして眠気がやってきて、それに抗わずに横になったら、あっという間に朝が来たのだ。
・・・なんだったんだろう・・・。
図書館で、キッシェさんはふらつく私を軽々と抱き上げて、受付まで戻ってくれた。
けれどそこで力尽きたらしく、仕事が終わるまで座って休むとのことだった。
・・・身を削って連れ戻ってくれて、ありがたいけれど、同時に申し訳ない。
それにしても、剣を振り回すのが大好きというだけあって、その腕力には感心してしまった。
どうりで、私を両手で運ぶのなんて造作もないわけだ。団長にお世話になった時のような安定感があった。
あの女性らしい外見・・・主に顔つきだけれど・・・からは、想像もつかない。
そして今は、リオン君がお庭で乗馬の練習中だ。
乗馬の先生は、白の団長のディディアさんが務めてくれている。
今は少しずつ車が普及しているけれど、大人数での移動となると、やはり馬に頼ることになるのだそうだ。確か、団長が孤児院に滞在していた時も、馬の姿を見た記憶がある。
リオン君の剣と乗馬の先生を、白の騎士団の2人が担当しているのには目的がある。
普段のリオン君の様子や、お稽古の上達具合を直接確認することで、公の場に出る場合などの護衛の仕方に活かすのだそうだ。
・・・本人は、そんな大人の思惑に気づく様子もなく、今日も楽しそうに乗馬を楽しんでいる。
ちなみに、白の団長であるディディアさんは、おっとりした雰囲気を纏っているものの、逆鱗に触れるとすばらしく恐ろしいらしい。
女神様が裁きを下す様子を見てみたいけれど、矛先が私に向いたらきっと寿命が劇的に縮むと思うので、こっそり想像するだけにしておくことにした。
かくいう私も白の一員ではあるので、決して無縁ではないことを肝に命じようと思う。
さて、そんな敵に回すと人生が変わりそうな団長は、現在リオン君の横について歩いて、リオン君の愛馬の手綱を握っている。
リオン君はまだ4歳なので、愛馬といってもポニーのような、小型の馬に乗っている。
・・・それがまた可愛い。見ているだけで、ほのぼのする・・・。
ディディアさんから、「ミーナさんも挑戦してみては」と誘われたけど・・・ちなみに、彼女は私のことを「ミーナさん」と呼ぶ・・・私はそれなりの運動神経しかないので遠慮しておいた。
動物は大好きなので、いつか馬とも触れ合えたらいいな、とは思っているところだ。言わなかったけれど。
そして、今のところリオン君は乗馬を楽しんでいるようで、子守である私が側についている必要もなさそうなので、少し離れた木陰に敷物を敷いて、休憩場所を作っていた。
白の騎士が散り散りになって警護にあたってくれているので、彼らの分も用意しておく。
初夏から夏に入りかけたこの時期は、木陰に入ったり適度に水分を取らないと、熱中症になってしまうかも知れない。
木陰の中には、お稽古の時が休憩と同義のバードさんがいる。
「・・・ふぅ、暑いですねぇ・・・。
・・・座ります?お茶でも入れますよ」
敷物の上に座って見上げれば、手伝ってくれていた彼も頷いた。
持ってきたカゴから水筒などを取り出してお茶の用意をしていると、彼が腰を下ろす気配がする。
そっとグラスを手渡せば、渋いお顔を和らげて、お礼を言ってくれた。
昨日は思わぬ告白をされて驚いたけれど、一夜明けても私に対する態度が変わる様子はなかったので、私も何もなかったかのように振舞わせてもらっている。
きっと、団長から私のことを頼まれているのは本当なのだろう。その証拠に、私が気がついた時には必ず彼が側にいる気がするのだ。
・・・もちろん、リオン君を守ることが彼の仕事なのだけれど。
ともかく、そんな不思議な彼は、隣で私の差し出したお茶を飲み干している。
視線を遠くに投げると、木々の間を通って届いた風が、汗ばんだ背中に心地よく吹き抜けた。
私もお茶をひと口飲んで、ほっと息をつく。
ディディアさんとリオンくんの会話を、かすかに聞きながら、彼に話しかける。
「・・・ディディアさん、とっても綺麗ですよね。
ヴィエッタさんも素敵だし、白の騎士団に所属したい人、結構いるんじゃないですか」
2人が並ぶと迫力もあるし、その場がとても華やぐのだ。
実際、ジェイドさんに連れられて挨拶に行った時などは、事務仕事をしていた人達の目が、ハートになってはいなかっただろうか。
すると、隣の彼が頷いた。
「そうですね、確かに希望者は多いですね。
団長を白百合。副団長を白薔薇・・・そう呼んで熱を上げる者も多いと聞きます」
「白百合と、白薔薇・・・・・」
いい響きだけれど、どこぞの歌劇団を連想したくなる呼び名だな、なんて感心していると、彼は笑い声を漏らした。
なんだろう、と首を傾げてその様子を見ていると、続けて話してくれる。
「いつだったか、その才能を妬んだ騎士が、白鬼、と呼んだことがあったようです。
何を以ってそう表現したのかは定かではありませんが・・・きっと、女性が団長を
務めることに反感でも抱いたのでしょうね。しょうもないことです」
そこまで言って、彼は渋い表情を見せる。
・・・その先、ちょっと想像できます。
「その時、彼女は笑顔を浮かべながら、一瞬の動きで抜刀したそうです」
抜刀、と聞いて連想することは1つしかなかった。
「・・・う、打ち首ですか」
「いえいえ、まさかそんな。
陛下の許可なく味方を斬り捨てるのは、緊急時以外は禁止されていますから」
彼の言葉が耳に入って、ふいに思い浮かんだのは、団長が前任の団長を切り捨てたこと。
・・・味方を斬るなんて、きっと、苦しいんだろうな。私にはまだ、そういう経験はないし、これからもないことを願うけれど・・・。
あの大きくて温かい手がそれをしたのだと思うと、なんだか切なくなった。
「・・・斬ったのは、その騎士の手首に巻いた紐だったそうです」
思考の海に沈みかけた私は、彼の声に我に返る。
「あ・・・、このコインの紐ですか」
言って自分の手首に巻いた、白いコインを見る。
紐は、防具用のとても強いもので、簡単には切ることが出来ないと団長が言っていたのを思い出す。
「・・・これを一瞬で斬ったってことですよね・・・」
その凄さを考えて固まる。
そんな私の横で、バードさんが苦笑していた。
「その逸話があって、今では彼女のことを白鬼と呼ぶものは、ほとんどいませんね。
まあ、普段は穏やかな美しい方ですから、白百合と呼ばれるようになったわけです」
「なるほど・・・。
じゃあ、世間と王宮内では違うんですね」
「・・・というと?」
興味が湧いたのか、彼が目をこちらに向けた。
この瞳に見つめられると、隠しているものを引き摺り出されてしまいそうで、少し怖い。
きっと本人には、そんなつもりは毛頭ないのだろうけれど。
「私が孤児院にいた時は、それぞれの騎士団には鬼がいる、って聞きました。
蒼鬼、紅鬼、白鬼・・・とっても強くて、鬼のように怖いらしい、とか?
・・・ほとんど、面白半分に伝わってるみたいですけどね」
以前、往来で我侭を言って聞かない子に対して、母親らしき人が「そんなにワガママ言ってると、蒼鬼が迎えに来るわよ?!」などと言っていたのを聞いたことがあるのだ。
その子どもは「やだやだやだ」と必死に首を振っていた。
・・・その時の私は、蒼鬼と聞いて、鬼の形相をした冷徹な騎士を想像したものだ。
・・・団長には、絶対にこの話は出来ない。
「まあ、鬼と呼ばれてはいますが、それが役職ではないですからね」
回想にふけっている私を、彼の言葉が引き戻す。
見れば、彼のグラスが空になっているのに気づいた。
「そうですよね、皆が勝手に言ってるだけですもんね。
・・・おかわり、要ります?」
「いえ、もう結構ですよ。
そろそろ皇子が休憩される頃でしょう」
ごちそうさまでした、と言うのと一緒に差し出されたグラスを受け取る。
そして、リオン君とディディアさんの姿を探した。
スタート地点よりも遠くに行ってしまっているようだけど、方向転換して、こちらに戻る途中のようだ。乗っているのはポニーだけれど、凛々しい表情に、思わず写真に収めたくなってしまう。
・・・向こうだったら、携帯で撮れるのにな・・・。
ほんの些細な場面に、もといた世界のことを思い出してしまう。もう、くよくよしていい時期はとっくに過ぎたというのに。
木陰に差し込む光が、やけに眩しい。
私は軽い眩暈を感じて、額を押さえた。
幸いバードさんが気づいた様子はなく、ゆっくり呼吸をして自分を落ち着かせる。
昨日はたっぷり寝たのに、やはりこれは夏バテか何かなのかも知れない。
どれくらい経ったのか、突然バードさんの硬い声が聞こえた。
「・・・マートン殿ではありませんか」
その言葉にマートン先生を探すと、どうやら私の後ろに近づいて来ていたようだ。
全くその気配に気づかなかった。
「お2人共、お疲れさまです」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、先生が側まで来る。
バードさんは、どういうわけかいつもの笑顔を消して、先生に会釈した。
それを不思議に思いつつも、私はいつも通りに挨拶を交わす。
「こんにちは。仕事中ですか?」
「これから図書館に行く予定がありまして。
遠目に、お2人が見えたものですから・・・挨拶を、と思いましてな」
バードさんのそっけなさを気にする様子もなく、彼は笑顔を保ったまま話す。
「リオン皇子は・・・今日は乗馬ですか」
私が見ていた方に顔を向けて、眩しそうに呟いた。
「はい。
もうすぐ戻ってきますけど、座って待ちますか?」
「いいえ、もうお暇しますのでお構いなく。
研究に役立ちそうな資料を探しに行くところなのです」
手にしている大きな鞄には、本が沢山入っているのだという。
今日は、沢山詰まった本を返却して、新しい本を借りてくるのだそうだ。
「・・・研究って、何の研究をしているんですか?」
ほんの興味本位で、世間話の延長で聞いたつもりだった。
社交辞令と言い換えてもいい。
しかし彼は、真剣な目で私を射抜いた。
その真剣さは、静けさを通り越して何かが渦巻いているように思えて、私は何かを間違えたのだと理由もなく感じてしまう。
「渡り人と、異世界について、ですよ」
彼は戸惑いを必死に隠す私に言った。
その言葉は耳に入ってから一瞬、私の頭を凍らせる。
そして、少しの間をおいてから、やっとのことで私は理解した。
・・・異世界・・・渡り人・・・。
言われたことの意味は解るのに、その単語ばかりが脳内を巡って、何の反応も返せない自分がもどかしい。
心臓が何かに警戒するように鐘を打ち、血が逆流しているんじゃないかと思うほど、全身が戦慄いているのを、変に冷静に自覚した。
・・・彼は、私が渡り人であることを知らないはずだ。
知らないはずであるし、知られるのは危険だと、もう1人の自分が警告していた。
あまりに強い視線に、彼の瞳から目が逸らせない。
その力のこもった瞳の奥には、研究への情熱だけではない何かが、渦を巻いて私を飲み込もうとしているような気がした。
・・・何か、何か言わなくちゃ・・・。
「あ、あの、」
必死に言葉を絞り出した、その時だ。
「マートンさん、ここで何をしているのです」
澄んだ声が響いて、私は我に返った。
いつの間にか、ディディアさんとリオン君が戻って来ていたらしい。
白の騎士が、ポニーを木陰に繋いでいるのを視界の端で捉えて、私は息を吐いた。
そして、ゆっくりと息を吸うと、酸素が脳を満たしていくのが分かる。
ずいぶん追い詰められていたようだ。
ポニーを繋いでくれている騎士の横では、リオン君が甲斐甲斐しく、愛馬に水と果物をあげている様子が見える。
ディディアさんのおかげで、私は生き返った心地でもう一度息をついた。
気づけばバードさんは、少し下がったところで様子を見ている。
「・・・これは団長、今日もまさに白百合のようにお美しいですね」
瞳から狂気じみた情熱を消して、にこにことお世辞を言ってお辞儀をする先生。
まるで別人だと感じた途端に、背中に冷たいものが走った。
誰にでもあるだろう、理屈じゃなく、この人に近づいてはいけない、と感じることが。
まさに今、私はその感覚に陥っていた。
「世辞は必要ありません。
職務中でしょう、戻りなさい」
有無を言わさぬ雰囲気に、先生は肩を竦めて踵を返す。
その腕には、白いコインがきらめいていた。
リオン君の教育の一端を担うのだから、白の騎士団に所属していて当然か。
白の騎士団はディディアさんを頂点として構成されているのだ。なのに、彼は彼女からお叱りを受けることを全く意に介していないように見えた。
彼の背中を見ながら、私は半ば呆然とそんなことを考えていたのだった。
「ミミー!
のど渇いたから、お茶ください!」
「・・・あぁ、うん、ちょっと待ってね」
無邪気なリオン君の声に、私は仕事中だったことを思い出す。
先生の背中を、なんとなく遠くに眺めていたのをやめて、視線を目の前に戻した。
この幼い皇子さまは、早くひと息つきたいところを我慢して、愛馬におやつをあげてから、自分の休憩をとることにしたようだ。
えらいね、と頭をなでつつ汗を拭いてやると、気持ち良さそうに目を閉じる。
・・・レイラさんに話してあげることが、1つ増えた。
冷え切って血が通わなくなってしまった体に、じんわりと温かいものが染み渡っていく。
小さな彼の成長を心に留めて、私は子守らしく、世話を焼くことに徹したのだった。




