21
誰かいるな、くらいに見えていた人の輪郭が、歩を進めるごとにハッキリしてくる。
そして、彼だと確信した時には遅かった。
「お疲れー」
その人は、予想を裏切らない軽さで手を振りつつ、笑顔を浮かべていた。
・・・そうきたか。
「お疲れさまでした!」
反射的にくるりと踵を返して早足で逃げる。
やっぱりノルガだった・・・!
「えーっ、ちょっ、ミイナちゃんの荷物持ってきたよー?!」
「ありがとそこ置いといて!」
慌てて呼び止める声に、顔だけ振り返って手を上げた。
・・・どうして平気そうな、何もなかったかのようなカオをしてやって来るの。
昨日の今日で、顔なんか見れるわけがない。
・・・目に入ってきた彼の顔は、左の頬が赤かった。
ニコニコして、毒を吐いて仕返しをしようと思っている・・・かも知れないし、昨日のことを蒸し返されたらどうしたいいのだ。
あれは一時の気の迷いで、接触事故のようなものだったのだと、1日かけてやっと消化出来るような気がしていたのに・・・。
それに団長には、ノルガと一緒にいるところを見られたくない。
別にノルガとは何もないし、団長とも何でもないのだけれど・・・。
いや、見られたくないのは、こんなふうに混沌とした私自身か、と心の中でぶつぶつ言いながら早足で王宮方面に戻っていると、目の前に人が近づいているのに気づく。
ぶつかる前に避けようと、私は顔を上げた。
そこにいたのは・・・。
「そんなに急いでどうした?」
ここで会ったが百年目、とでも言いそうな雰囲気の、腕を組んだ団長だった。
・・・どうしてこのタイミングで遭遇してしまうのだろうか・・・。
悲鳴に近い驚きが、つま先から頭の先まで駆け巡る。
「おっ・・・、お疲れさまです」
かろうじて言葉を返せば、彼は眉間にしわを寄せた。
自分の顔が引きつっているのを自覚して、慌てて両手で頬を揉んで笑顔を浮かべる。
「今日は、早いんですね」
幸い、ノルガが追いかけてくる気配はなかった。
内心ほっと息をついて、思考を切り替える。
少しだけ言葉を交わしたら、王宮の食堂にでも行って時間を潰そう。
その頃にはノルガもあの場から立ち去っているだろうし、目の前の彼も部屋の中に入っていて、私に構うことなどないはずだ。
そう、胸のうちで計算する。
「明日から、西の国境付近を巡回することになった。
5日ほどで戻ることになるとは思うが・・・」
言われて、思い当たる。
「そういえばジェイドさんが、隣国からの難民が、国境付近に押し寄せてるって・・・」
私の言葉に団長が頷いた。
・・・団長、今日も目にクマが出来てるんだな。
この数日間、彼が激務に苛まれていることを想像して、内心で同情する。
「・・・あの、団長・・・?」
覗き込むようにして呼べば、ものすごい威圧感と共に視線が投げられた。
クマが出来ているから、威力が3割増しな気がする。
そして私は、彼の不機嫌の理由を思い当たって、こっそり息を吐いた。
・・・そんなに団長って呼ばれるのが嫌ですか・・・。
「・・・ごめんなさい、シュウ、ちゃんと寝てる?」
そこまで不機嫌になるなら、もういっそのこと敬語も遠慮も必要ないだろう。
毎回こんな雰囲気を出されたら、すれ違う人達が卒倒しかねないから自制して欲しい。
問い直せば、不機嫌オーラがパっと消えた。分かりやすい人だ。
「・・・最近顔を見るたびにクマが出来てる・・・」
・・・あの彼女と一緒にいるところを目撃した日からね。
呟きは心の中に閉まって、彼を見上げた。
「難民の件で、打ち合わせや訓練が続いていたからな・・・」
ため息混じりに、彼が言う。
よほど疲れているのか、腰に手を当てて格好を崩して・・・。
そこで、私は違和感を覚えた。
・・・なんだか、団長、肩で息をしているような・・・。
そのままにしておくのも躊躇われて、咄嗟に私は尋ねていた。
さっきまで、食堂で時間を潰す算段をしていたというのに。
「シュウ?」
「ん・・・?」
夕日に照らされて、その顔色までは読み取れないけれど、返事が鈍い。
私は手を差し出して、彼に言った。
こんなこと、こんな時でなければ絶対にしないのだけれど、今は恥ずかしいとか出すぎた真似だとか、そんな気持ちは横に置いておくことにする。
「ちょっと、おでこ出して・・・」
言われるがまま、彼は私の目の前に顔を近づけてくる。
・・・王族の端くれだというのに私の言葉を疑いもしないなんて、この人はいつも素直だ。
目の前に出て来た広い額に手を当ててみると、思っていた以上の熱が伝わってきた。
「・・・うーん・・・」
手を当てたまま唸っていると、彼が身じろぎする。
私は手を離して、彼の様子を見つめた。
「明日って、シュウが同行しなければいけないんですか?」
「・・・なぜ?」
意図を測りかねたのか、首を捻る彼に私は半ば呆れてしまう。
・・・もしかしてこの人、自分の体調が悪い自覚がないの・・・?
「おでこ、熱かったですよ?」
「・・・問題ない」
一瞬目を見開いた後に、憮然とした様子を浮かべる彼。
少しだけ目が吊り上った気がする。
「今すぐ帰って、寝た方がいいですよ」
「・・・」
返事がなかった。
脳裏にノルガのことがよぎるけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「ベッドで横になって、ちゃんと休んだ方が・・・」
「・・・」
しつこい自覚はあったけれど、彼は案の定、目を逸らした。
そして、ちら、とこちらを一瞥して、ため息をついて腕を組む。
「・・・子どもじゃないんだ、適当に過ごせばそのうち治る」
鼻で笑うなんて、なんだか小馬鹿にされたような感じだ。
まるで、何言ってるんだ、と言わんばかり。
「もう・・・。人が心配してるっていうのに・・・」
親身になったつもりで言ったけれど、聞いてもらえないのなら仕方ない。
彼も大人なのだから自己責任でなんとかしてもらおう、と胸の内で呟いて、小さく息をついた。
・・・予定通り、食堂で夕飯を食べて、時間を潰そう・・・。
そう決めて、別れようと口を開いた時だ。
「・・・そうか、心配してくれるのか」
おもむろに口を開いた彼が、そんな言葉を滑らせる。
きっと気を悪くしただろうと思っていた私は、彼が目を細めて若干嬉しそうにしていることに違和感を感じてしまう。
王宮の方へ足を踏み出そうとしていた私は、知らないうちに深い緑の瞳に見入って、動けなくなってしまっていた。
「・・・なら、添い寝でもしてくれるか?
実はこのところ、よく眠れなくてな・・・」
「・・・っ?!」
唐突に飛び出てきた台詞に衝撃を受けて固まっていると、彼がゆっくりと、見せ付けるように口角を上げたのが分かった。
・・・きっと熱があって、頭の回転の仕方がおかしくなってしまっているのだ。きっとそう。
ならば私が言うべき台詞は、もう決まっている。動揺なんて、している場合ではない。
「・・・からかわないで下さい・・・」
言いながら言葉に力を込める。
低い声で、気を抜いたら浮いてしまいそうな自分の心を、あるべき場所に繋ぎとめた。
「そういうことは、彼女さんにでも頼んで下さいね」
体のどこかで、針が刺すようにチクリと痛むのを気づかない振りで、彼を睨む。
しかし本人はどこ吹く風で、私を余裕の表情で見下ろしていた。
・・・もしかして、私に寝ていろと言われた腹いせのつもりなのか。
「・・・そうか、彼女か」
また鼻で笑う。
「今のところ、添い寝を頼めそうな女性は、身近に1人しかいないんだが」
きっとあの黒髪美人のことだ。
「・・・そうですか。じゃあその人に、」
「頼んでるだろ」
私の言葉を遮って、彼が言った。
「・・・は?」
彼の言っていることが理解出来ずに問い返すと、いつかと同じ目で、私を見ていた。
どんな言葉を紡いだらいいものか分からなくて、私はその目をじっと見つめる。
すると、彼の方が口を開いた。
「・・・君の思い浮かべた彼女というのが、誰を指しているのか分からないが・・・」
本当に思い当たることがないのだろうか、彼は小首を傾げる。
相変わらず体調はあまり良くなさそうだったけれど、本人はさして気にも留めていないようだ。
私は現金にも彼の体調よりも、その口から紡ぎ出される言葉の先が気になってしまう。
「ミナが同じベッドで寝てくれたら、きっと気も休まるだろうな」
言葉が耳に入った瞬間、顔が熱くなるのが自分でも分かった。
・・・よく平然とそんなことが言える。
火照った頬を両手で押さえて、私はなんとか声を絞り出した。
「・・・またそういう・・・っ。
本当に、からかわないで・・・」
「いや、真面目に言っているんだが」
首を傾げた彼が、私の狼狽ぶりを不思議そうに眺めている。
・・・悔しい。
年の差の分だけ、彼に余裕があるように感じてしまうのだ。
もちろん私みたいな、彼からすればこの世界での人生経験もあやふやな小娘と、対等な会話が成り立つとも思えないけれど・・・。
「・・・だって、あの、喫茶室で、黒髪の女の人とお茶してるの見ましたよ・・・?」
やっとのことで言うと、彼は目を見開いて驚いていた。
まさか見られているとは思わなかったのか。
しかし、彼は言葉を失うほど驚いたかと思えば、すぐにふわっと笑みを浮かべる。
「・・・ああ、あれは、君が思っているのとは違う」
「ちがう・・・?」
深呼吸をして落ち着いて、彼の意図を探る。
深い緑の瞳が全く揺るがない気配に、その言葉は嘘ではないのだと思えた私は、やっと本当に真っ直ぐに彼の瞳を見つめることが出来た。
「あぁ。異性の関係など、全くもって有り得ない。
・・・ま、そのうち分かるとは思うが・・・」
・・・男女の関係じゃないのか。
その言葉が聞こえた途端、何かがすとん、と堕ちてきて、私はただただ彼を見上げていた。
すると、その彼が笑みを消して言う。
「・・・それよりも、立ち話もいい加減疲れたな。
実は結構疲れてる・・・。
添い寝はまた今度にして、とりあえず、夕食でも一緒にどうだ?」
「・・・今度も何も、添い寝なんかしません!」
そっぽを向いて、添い寝はきっぱりとお断りする。
彼はそんな私の態度に、困ったような苦笑を浮かべるばかりだった。
・・・そんなふうに笑われたら、私が我侭でも言っているように見えるじゃないか。
言ってやりたい気持ちをたくさん両手に抱えたまま、私は憮然と彼のことを見ていた。
そう思うのに、彼が私を見ているのだと実感すると、ささくれ立った心が潮が引くように凪いでいくのが分かる。
「それで、夕食は?」
彼は苦笑を浮かべたまま、催促してくる。
・・・食欲はあるらしい。
「・・・仕方ないから、一緒に食べてあげます・・・」
翻弄されてしまったことが悔しくて、ついそんな言い方になってしまう私に、彼は、嬉しそうに微笑んで、ひと言。
「そうか」
「あ、でも、食べるなら食堂にしませんか・・・?」
いろいろが消化できたところで、私はノルガの存在を思い出した。
・・・寮に戻ったら、まだ彼が待っているかも知れない・・・。
私に対して、そうするだけの執着があるとは思えないけれど、用心するに越したことはない。
「・・・なぜ」
納得がいかない、とでも言いたげに彼が目を細めた。
それはそうだろう。
この人は、食堂だと周りの人の目を引き付けてしまうのだ。良くない意味で。
体調が良くないのに、人の目のあるところで食事など、消化不良になってますます体調が悪くなるかも知れない。
自分勝手な希望だと分かっているだけに、私は彼の顔を見ることができなかった。
「・・・ええと・・・」
寮へ引き返すだけの勇気はない私が、口ごもったのを見て、彼が大きく息を吐いたのが分かった。
「その・・・」
「・・・ミナ」
威圧感のある声が、頭上から降ってくる。
思わず顔を上げると、彼がこともあろうに、微笑んでいた。
魔王様だ。逆に怖い。
「分かっていると思うが、俺は今、あまり体調が良くないらしい。
気が短くなっていることを伝えておこう」
微笑んだまま言われれば、私は自分の表情が強張っていくのが分かった。
素直に引き返して、寮の部屋で食べた方が寿命の縮まる年数は少なくて済みそうだ。
理由は伝えずに、寮に向かおうと提案しようとした時、私は背後に人の気配を感じた。
「・・・団長。
そんなに凄んだら、ミイナちゃんが可哀相じゃないですか」
・・・この声・・・。
頭を抱えたくなるのを、なんとか抑えて振り返る。
「もうミイナちゃん!
ずっと待ってたのに来ないから、追いかけて来ちゃったよ」
寮の玄関から追いかけてきたらしいノルガが、そこに立っていた。
団長は、彼が近づいてきているのを知っていたのか、特に声をかけるでもなく、彼の様子をじっと見ている。
「・・・ほら、荷物。
持って行ってあげるから、一緒に帰ろ?」
にっこり笑って、持って来たらしい私の荷物を持ち上げる。
私は真っ白になった頭で、どう言葉を返したらいいものかと必死に考えていると、ノルガが空いた手で私の手を握ってきた。
「・・・えっ?!」
「ほら・・・、送ってあげるから、帰るよ?」
驚いて手を振りほどこうとするけれど、握りこまれてしまって、どうしようもない。
・・・そういえば似たようなことが、前にもあったような・・・。
自分でも意外なほど冷静に、その手をどうしたらいいか考えあぐねていると、ふいに団長と視線がぶつかった。
その表情からは何も伺うことが出来ないけれど、彼は私がどうするのか、観察しているようにも見て取れた。
「ミイナちゃん?」
ノルガの訝しげな声が、私の耳を通り過ぎて行く。
強く握りこまれた手は痛いのに、それすらどこか遠く感じた。
・・・そうか。
思い至って、私は口を開く。
「・・・シュウ・・・」
小さい声で、短く囁くように呼べば、彼はすぐに動いた。
「ノルガ、彼女は私と約束があるんだが」
団長の硬い声が響いて、ノルガは手に力を込める。
私は痛みに顔を顰めるけれど、彼はもう私の反応など目に入ってはいないらしい。
2人は私の頭上で視線を交わしたまま、しばらく動く気配がなかった。
降り注ぐ緊張感に、呼吸をすることすら憚られた私は、内心でそっとため息を吐く。
どれくらいの時間が経っただろう、先に口を開いたのは団長の方だった。
「・・・それは、ミナの荷物か」
彼はノルガの持っていた私の荷物を一瞥する。
「運んでもらったことには礼を言うが、ここからは私が持って行こう」
手を差し出した団長に対して、ノルガは一向に荷物を渡す気配がなく、それどころか、団長をまっすぐ見つめて言った。
「いえ、ここは団長が引いて下さい。
・・・俺、今からミイナちゃん口説くとこなんです」
不敵な笑顔が浮かんだノルガの顔に向かって、私は驚いて声を上げていた。
「何言ってるの・・・?!」
口の中がカラカラに乾いてしまって、上手く声が出せない。
そんな私を見て、ノルガが意地悪く口角を上げた。
「そんなこと言って・・・。
昨日は、膝枕もキスも、させてくれたじゃない」
あぁ、
最悪だ。




