空を見つめる少年(2)
鼻歌が聞こえる。涼子のヤツ、今日は妙に機嫌がいいようだな、とうっすらと目を開け、見知らぬ天井に気がついた。
それから自分が既に家を出たことを思い出した。
そっか、俺、家をでたんだった。
夢だったのか、昔のことを思い出していた気がする。
とすると、今の鼻歌は涼子じゃなくて……。
起き上がって流し台の方を見ると、桜葉がコンロの前で何やら楽しげに鼻歌を歌っていた。
邪魔になるのか、頭の後ろの方で髪を結んでいる。どこから持ってきたのか、薄い水色のエプロンまでつけて、桜葉は何かを作っているようだった。
「起きた? 朝ごはんもうすぐできるよ」
じっと見つめていると、俺の視線に気がついたのか、左手にフライパン、右手におたまを持った桜葉が、エプロンの裾をひるがえして、こちらを振り返った。
「ああ。うん」
状況がわからないのは相変わらずだが、どうやら俺は、謎の布団空間の中でそのまま眠ってしまったらしい。なんだろう、誰かに短い半生を語って聞かせたような気もする。
枕元の目覚まし時計を確認する。思っていたより時間は経っていなかった。
洗面所で顔を洗って、部屋に戻って初めて気がついた。
「……?」
ここは、俺の部屋じゃなかったのか?
壁際に積み上げておいたダンボール箱はなくなっていて、変わりに知らない家具が並んでいた。テレビもいつの間にか地デジ対応の大型テレビに変わっている。
俺が顔を洗っている間に布団も片付けられてしまったらしく、代わりに縦長の家具調コタツがでん、と部屋の中央に据えられていた。
桜葉はその上に料理の載った皿を並べているところで、こちらに気がつくと、にっこり微笑んで言った。
「座って、しゅんちろ。一緒にご飯食べよう?」
俺はその声に応えることなく、コタツのコードを探してコンセントを引っこ抜いた。
「勝手を言ってすまないが、コタツの電源は入れないで欲しい」
「あ、勝手に片付けちゃってごめんね? わたしの趣味でいろいろ家具とかも入れちゃったから、気に入らなかったら言ってね」
桜葉はそう言って、エプロンをはずして正座すると、コタツに膝先をいれた。
髪をくくっていたゴムもはずして、長い黒髪を背に流す。
「……俺の部屋だったのか」
俺も用意された席に胡坐をかいて座る。もちろんコタツには足を入れない。
たまご焼きと、メザシ。豆腐とワカメのみそ汁に大根のサラダ。
「はい」
桜葉がご飯をよそおって差し出してきたので、礼を言って受け取る。
「ああ、ありがとう」
桜葉は自分の分もご飯をよそおうと、
「じゃ、いただきます、しよう?」
と言った。
これはさすがに言葉通りの意味だろうと俺はうなずいて、箸を持ったまま、いただきますと言った。
「ちゃんと、手を合わせて、ね?」
料理に箸を伸ばそうとしていた俺を、桜葉がやんわりと止める。
「いただきます」
「いただきます」
二人そろって手を合わせて、いただきますと言った。
箸を伸ばして、たまご焼きをぱくりとひとくち。
甘い。砂糖が入っているようだ。
次に、みそ汁をひとくち。出汁はイリコのようだ。味噌は白味噌。
ごはんをぱくり。うん、炊きたてだ。
そこで桜葉の視線に気がついた。じっとこちらを見て、自分は箸を持ってはいるものの料理に手を付けようとはしていない。
「食わないのか?」
「おいしい?」
なるほど。俺の感想が気になるようだ。
「他人に作ってもらったものに、文句を言うつもりはない」
「それって、おいしくないってこと?」
「いや、やや好みと違うところがあるというだけだ。口にすると文句を言ったことになるので詳細は控えさせてもらうが」
俺はたまご焼きは塩派で、みそ汁は白よりはあわせ派だ。赤味噌でもいいけれど。
「わたしは、しゅんちろの好みを知りたいな?」
桜葉がどこからともなく取り出したメモ帳とペンを片手に言った。
「ただ作るより、どうせならしゅんちろの好きなご飯つくってあげたいし?」
「では、この料理の感想と言う形じゃなくて、俺の好みを伝えると言う形で答える」
めしを作ってもらってその上さらに偉そうに好みを語るのは好きじゃないのだが、知りたいと言うのに答えないのも非礼にあたると思ったので言うことにする。
「基本的に嫌いな食べ物はない。出されたものは残さず食べろと教育されたので、口に合わない物でも残さないようにしている」
「残さず食べられるものでも、あんまり口にしたくないものがあったら教えて欲しいな?」
「……イナゴの佃煮とか、虫系はあまり何度も口にしたくはないな」
「了解。ゲテモノ以外はおっけーっと」
「あと、おかずとして食べるなら甘いものはあまり好みでない。おやつやデザートとしてならありだが」
「たまご焼きは塩ってことだね」
「味噌汁は、赤で大根とネギ入ったやつが好きだな」
「あー、赤味噌はつくってないんだ」
「この味噌は自家製なのか?」
「うん。紅おばあちゃんが作ってる」
「あくまで好みの話だから、気にしないでくれ」
それよりそろそろ食べる方で口を動かしたい。
「ありがとう。ご飯のじゃましちゃってごめんね?」
俺の内心を読みでもしたように、桜葉は急に口をつぐんで、自分の分を食べ始めた。
しばらく二人で黙々と食事を続ける。
うちでは、食事中にテレビはつけないし、会話をすることもなかった。食事は静かに取るものだと、親には教わってきた。桜葉のところも食事は静かに取る家なのだろうかと思った。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
俺が食べ終わるのとほぼ同じくらいに桜葉も食べ終わったようだった。
食べ終わると同時に、桜葉が俺の湯のみに新しくお茶を注いだ。
「さて、そろそろ説明してもらえるのかな?」
うちの場合、会話は食事の後にするものだった。桜葉の家もそうなのではないかとあたりをつけて口を開いた。
自分に害の及ばない限り、基本的に身の回りのことには無頓着な俺だが、さすがに今の状況をただ受け入れるほど無神経でもないつもりだ。
「何を聞きたい?」
桜葉が、自分の湯のみにお茶を注ぎながら答えた。
「名前しか聞いた覚えがないからな……。できれば順を追って、桜葉樹という少女が、何者で、何の目的で俺の前に現れたのかと、欲を言えば缶ジュースの秘密と謎の布団空間の秘密も知りたい」
「じゃあ、わたしのことから話そうかな。何者かって言われても説明は難しいけれど、年齢は十五歳。しゅんちろと一緒。でもって同じ高校に進学予定のはず。入学式は一緒にいこうね?」
「……同い年? 二つか三つは下だと思っていた」
それに同じ高校だと?
「でもって、端的に立場を言ってしまうと、わたしはこのアパートのオーナーということになるの」
「大家さん?」
「そんなかんじ。ここの土地と建物がわたし名義になってるっていうだけで、管理はみどりさんがやってくれてるんだけどね」
「みどりさんというのは、一階にいた管理人のおばさんだな?」
「おばさんなんていっちゃだめー! みどりさん、まだ二十代なんだよ?」
「……それは失礼した」
義母が非常に若作りなため、俺は年上の女性の年齢を察するのが苦手だ。どうしても身近な年上の女性である義母の見た目から年齢をはかるので、実年齢よりやや上に見てしまうことが多い。
「賃貸契約の時にもたぶん話を聞いてると思うけど、ここの形態って賃貸アパートっていうより下宿屋だから。わたしが勝手にいれちゃった家具なんかは自由に使っていいけど、傷つけたり壊したりしたら、弁償してもらうよ。あと、電灯切れたとか、ガス水道がおかしくなったとかは全部みどりさんに言ってね? カギ預ければ、掃除とかもしてもらえるよ。ただし貴重品の管理は自己責任でね」
「そんなことまで頼んで、いいのか?」
「寮みたいなものかな。ご飯は基本的に出ないけど、時々はわたしがつくってあげる」
「それはサービスの一環?」
「個人的な、ね? 美沙さんのとこにはたまにお菓子差し入れたりもするけど」
「美沙さんというのは一階のゲーム好きの女子大生のひとだよな?」
「よくゲームで対戦してあそんでるよ」
「ふむ。で、大家さんだとして、なぜ朝っぱらから俺の部屋のベランダなんかに?」
「えっと……」
俺の問いにそれまでぽんぽんと答えていた桜葉が、急に口ごもった。
「……正確なところをいうならば、昨日の夜からだったりして」
「あの格好でずっとベランダにいたのか?!」
「そうじゃなくって、んと、みどりさんにしゅんちろ来たって連絡受けてからすぐ来たんだけど、しゅんちろいなくって。お買い物かなーって思って、お部屋でずーっと待ってたんだけど、しゅんちろ帰ってくるなり、ばたんきゅーってお布団に倒れこんじゃったから」
「部屋にいたのか……」
おいおい。昨晩の俺ぼけすぎだな。
知らない女の子が部屋の中にいたのに、まったく気がつかずに寝ちまってただと?
「うん。起きるの待ってたら、明け方にベランダに出ていっちゃったから、慌てて追っかけて作戦開始したの。きれいな日の出だったよね?」
「ああ。いい日の出だった。その後の経緯はだいたい共有してると思うので説明は不要だが、目的はなんだ? なぜ俺に会いに来た?」
「今朝も話したと思うけれど、もう一度言うね? 正確な日時はよくわからないんだけど、しゅんちろの服装からしてたぶん夏。高校生だって言ってたから、しゅんちろが高校で留年とかしなければ、今年の夏か、来年の夏か、再来年の夏のどこかで、しゅんちろは過去に旅することになる。それは、今現在から数えて、だいたい八年前。わたしが七歳の時、しゅんちろに初めて会ったんだ」
「にわかには信じがたい話だが。それでそのときに、俺と再会の約束でもしたのか?」
「八年前に会ったしゅんちろが、わたしに初めて出会った日のことを教えてくれたの。それが今日。みどりさんから連絡あったときは、一日早いってちょっとびっくりしたけど、ちゃんとお話できたのは今日だったから、結局しゅんちろが言った通りの日時に出会えたことになるね。第一印象って大事でしょう? わたしのことをしっかりと認識してもらうために、ずいぶん前からいろんな出会いのパターンとか考えたのに……。いきなり胸揉まれるとは思いもしなかったよ……」
「とりあえず許可を得ずに身体に触れたことは謝っておく。すまなかった」
まさか同い年とは思いもしなかったからな……。あと手が触れたことは認めるが、揉んだ覚えはないぞ?
「ぱんつとかも見られちゃうし……」
「そっちは自業自得だろう。俺がスカートめくったわけじゃないので謝らないぞ?」
「……いただきますされそうになっちゃったし?」
「それは誤解だ」
むしろ、桜葉の方から何度も迫ってきていた気がするが。
「とりあえず、わたしの事情はそんなとこ、かな?」
桜葉の話をよく考えてみる。
過去、俺が桜葉に会っていないとした場合、または未来において過去に行った俺が桜葉に出会った日時を告げなかった場合、桜葉が大家であっても今日この日、この時間に桜葉がここに現れる必然性はなかった。
一階の大学生のところにもよく行っているという話しだから、そのうちに今日のような押しかけイベントが発生することはあったのかもしれないが、それが今日である必然性はない。
ということは、どこが始まりなのかは知らないが、未来で過去に行くという「俺」は、過去に影響を与えることで今日ここで桜葉に出会う運命を確実な物にしているとも考えられる。
仮定に仮定を重ねて推論しても、なぜ、今日ここで、桜葉に出会う必要があったのかがわからない。それは、いずれ訪れると言う過去に行くイベント発生?で明らかになるのだろうか。
「……」
今は考えてもわからないことだろう。そもそもタイムトラベルなんてものが実際に起こりうるものなのかどうかがまず怪しい。
それよりは実際にこの目で見た、缶ジュースの秘密が気になるところだ。
「あと、よかったら缶ジュースの秘密を……」
「企業秘密って言ったよね?」
桜葉が、ちょっといじわるな目をしながら言った。
「……君の身体を調べる許可を得たい」
手をわきわきとさせながら、一応許可を求める。
「許可しません。いただきます、しないって三回もいったくせに!」
「どうしたら教えてくれる?」
「しゅんちろの主張を尊重するから、わたしのことをいつきって呼び捨てにしろ、とまでは言わないけど、わたしのことを、しゅんちろの恋人になりうる女の子だって認めてほしい」
「男の俺の方からこういう聞き方をするのはいやなんだが、それ、俺に対する告白だと取っていいのか?」
俺の問いに、桜葉はしばらく答えなかった。
コタツの上のみかんをひとつ手にとって、皮をむいてひとつぱくりと口に入れ、それからお茶をすすってひどく渋そうな顔をした。
「……そうとってもらっていいよ。でも時期が来たら、ちゃんとした告白は別の言葉でする。
それか、わたし自身の力で、しゅんちろにわたしのことを呼び捨てにさせて見せる」
「未来で過去に行ったという俺は、当時七歳だったという桜葉樹になにをしたんだ?」
当時の桜葉が、俺に憧れたとか、惚れたとか、そういうものともまた微妙に違う感じを受けるんだが。
「……ちょっと口では言えない様な事を、さんざんされた、とだけ言っちゃう。責任はとってもらわなくちゃね?」
「未来の俺、七歳児にいったい何をしたーっ!?」
「……」
無言で桜葉が、頬を染めた。両手で頬を押さえて、恥ずかしげにイヤイヤとかぶりをふる。
「いや、とっても気になるんですけどその態度」
「今わたしが口にしたら、未来でしゅんちろが過去に行った時にそれをしない可能性があるし、そうするとそれをされなかった七歳のわたしは、しゅんちろに会いたいと思わなくなる可能性があるでしょう? そうすると、今ここに、わたしがいることと矛盾することになりそうだから、言わない」
桜葉は、そういって意味ありげに微笑んだ。
「わたしは、しゅんちろと出会えたを嬉しく思っているの。そこにつながらなくなる可能性はほんのちょっとでも排除したいから、何をされたか、については絶対に言わない」
「そうか。そういうことなら俺も聞かない」
本人の口からそういうことをした、と言われると、やらなくなる可能性が高い行動というのが何なのかはとても気になることではあったが、こうして出会えた以上、その縁を自分から断とうというのも望むところではない。
「ありがと。しゅんちろも、わたしと出会えたことを嬉しく思ってくれてるってことだよね?」
「人の縁は、どんな奇縁であっても大事にするものだ」
……家族という縁を作るのに失敗した俺が言えるセリフではないかもしれないが。
「で、話を戻すが、具体的に俺に何をしろと? 何をすれば、桜葉樹が恋人になりうる人物だと俺が認めたことになる?」
「しゅんちろの提案の二番目を受け入れます。敬称つきでいいから、わたしのことは、いつきって呼んで欲しいな?」
敬称つきでかまわないということは、いつきさん、と呼べということだな?
「……樹さん」
「うれしい」
桜葉が微笑んだ。なぜか何か光の粉のようなものが舞って、桜葉の周囲がきらきらと輝く。
「お互いにお互いを認めたから、もう、しゅんちろにも見えるはずだよ?」
桜葉がそういって、右手の人差し指の先で、くるくると小さな円を描いた。
その輪の中から、青白く輝く球体が現れ、一瞬それは猫の顔になって、にゃん、と鳴いた。
「猫の、魂?」
「男の子が、いっけーふぁんねるーとか叫びたくなるようなシロモノなのです。わたしは叫ばないけどね?」
桜葉が人差し指をくるりと回転させるごとに、ひとつの輝く球体が現れ、全部で六つの球体が桜葉の頭の周囲をくるくると回り始めた。
「桜葉の家は、猫を使って災いを祓う技をもった家なのです。わたしは七代目になる予定」
七代目で、六つの球体。
ふと、今朝方桜葉が連れていた三毛猫を思い出した。あの猫が、七つめの球体になるのか?
「この子たちを呼び出す技の一環なの。缶ジュースは、”向こう側”に入れといて、懐から出すふりをして”向こう側”から引っ張り出したの。血が重要だから、今のしゅんちろにはこの技は使えないけど、桜葉の家に婿入りしたら、猫魂のいっぴきくらいは憑いてくれるかも?」
「そういうものなのか?」
「そういうものなのです」
ちくしょう、その技術があれば手ぶらで学校に通えると思ったのに。
桜葉が小さく指を鳴らすと、猫魂が一斉に消えた。
「あの謎の布団空間も、何か似たような技なのか?」
「あれは缶ジュースとは逆に、しゅんちろを”向こう側”へ引っ張り込んだ感じ?」
なんか怖いんだが。そんな得体の知れないところに連れ込まれていたのか俺は。
「さて、まだ聞きたいことはある? スリーサイズについては聞かれても答えないけど」
「今のところはないな」
当然、全部同じ数字が並んでそうなスリーサイズなんかスルーだ。
「じゃ、そろそろ片付けようか?」
二人で食器を流しに運び、桜葉が洗って、俺が拭いてなおした。
俺はそれほど背が高い方ではないのだが、二人で並んで立つと桜葉は俺より頭ひとつ分くらいは小さくて、同い年というのがどうにも信じられなかった。小学生でも通用するかもしれない。
桜葉は作業の邪魔になるからか、またゴムで髪をくくってポニーテールにしていた。ゆれるしっぽを見ながら、妹の涼子のことをちょっと考えた。実家にいた頃は、こんなふうに、よく涼子と並んで食事の片付けをしたものだった。
そんな俺の視線を感じたのか、俺の顔をちらりと見て、なんか新婚さんみたいだよね、って桜葉が笑った。
俺は黙って桜葉から目をそらし、背中で否定した。今はまだ、そんな関係じゃない。
今は、まだ。
「明日、入学式、一緒に行こうね? 朝、迎えに来るから、早起きして待っててね?」
片づけが終わると、桜葉はそう言って俺のトレーナーを着たまま帰っていった。
濡れたセーターやスカートなんかは結局洗わずに、謎の収納空間”向こう側”とやらに詰め込んだらしい。管理人のみどりさんのところで服を借りて、着替えて帰ると言っていた。
脱衣所を覗き込んで、貸そうとしていた男物のパンツやランニングがそのまま残されているのを発見した。
やっぱり男物は着ないよなー、と思ったが、同時に桜葉のやつノーパンでトレーナー穿いてたのかってちょっと変な気分になった。洗って返すとは言っていたが、あのトレーナーはちょっともう、俺が着ちゃいけないような気がした。