明日を夢見る少女(3)
桜葉の勘はバカにできない。そう思ったのは、GWの終わりのことだった。
GWも終わりが近づき、クラスに親しい友人がいない状況ではどこに遊びに行くということもなく。いつきさんも何度かご飯を作りに来てはくれたが、特にどこかに行こうなどと言う話も出なかった。
妹からは「帰ってこないの?」というメールが来たが、当然帰るつもりはなかったので「バイトを始めたから」と適当にごまかした。
ただ部屋でごろごろしながらマンガを読んでいたら、ふと、いつも買っているマンガの新刊がそろそろでてるんじゃないかと思い当たった。二ヶ月、二ヶ月、三ヶ月の間隔だから、おそらく今月発売のはずだ。
週刊雑誌自体はゴミになるので買わず、基本コミックだけで連載を追いかけている身としては新刊の情報は直接本屋に足を運んで得るしかない。
思い立ったが吉日とばかりに、俺は着替えて駅前の本屋に出かけた。
「むう」
目的のコミックは、GWの始まる前、四月の終わりごろに発売されていたらしく、新刊しか置かない駅前の小さな本屋では既に売り切れてしまったようだった。
お店の人に、このあたりに大きな本屋はないかと尋ねると、三駅ほど離れたところに大きめの本屋があるということで、そこへ向かう事にした。
一度読みたくなったら、どうにも読まずにはいられない。
来月出るとかならともかく、先月既に発売されていると聞いてはじっとしてはいられない。
俺はこの街に来て初めて、駅を利用した。
三駅先とだけ聞いて、駅名すら確認しなかった俺に問題があったのだろう。十分ほど電車に揺られて、それなりに大きな街に出たはいいものの、目指す本屋の場所の場所がまったくわからなかった。それなりに大きい本屋なら駅に広告版とか案内とかあるんじゃないかと思っていたが、それはちょっと甘かったようだ。
ちょっといきあたりばったりで、適当すぎたか、と反省するものの、マンガ読みたいという情熱は一向に冷めることなく胸の奥で轟々と燃え盛っていた。
駅の売店なり、その辺のコンビニでガムでも買って、道を尋ねればよかったなと思ったのはとっくに駅が見えなくなってからのことで、というか、もう、駅がどっちの方向だったのかすらわからない。
方向音痴は自分が方向音痴だと思っていないというが、俺は方向音痴じゃないぞ。たぶん。道に迷ったことは多々あるが、目的地につけなかったことは一度もない、というのが俺の数少ない自慢の一つなのだ。
桜葉じゃないけれど、俺にも自分の趣味に関しては妙な勘が働く。あるということさえ知っていれば、なんとなくこっちの方、というのが漠然とわかるのだ。勘に従って、なんとなくこっちぽいと当りをつけて適当に道を曲がって進んでいると、目的地と思われる大きな本屋の前に出た。
俺の勘も捨てたもんじゃないな、と一人でにやりとしたもののあんまり適当に歩きすぎて、来た道をまったく覚えておらず、着いたはいいものの帰りはどうしようかと少々不安になっていた。
なんにしろまずは目的を果たすべき、と俺は本屋に入ってマンガの階を確認し、すぐに目的のコミックを手に入れた。ついでに面白そうなものを二、三買い、ついでに小説でもと他の階に移動し、予定よりお金を使ってしまった。
会計を済ませて、一階の出入り口から外に出ようとしたところ、出入り口側の会計で袋を受け取っている少女に目が留まった。若草色のスカートに、薄い水色の上着。髪はゆるく三つ編みにして、右肩から前の方に垂らしている。ふち無しの眼鏡をかけていて、レンズの向こうの双眸はどこか遠くを見つめるようで、なぜか寂しげに見えた。
私服のせいか、すぐにぴんとは来なかったが、後ろ姿に見覚えがあった。というか最近は話しかけると、すぐ俺に背を向けてしまうので後姿しか見ていないので気が付いたというか。
朱雀のやつだ。男だと主張していた割には、すごくスカートが似合っている。というか、もともと女にしか見えないヤツだったが、スカートを装備したヤツは二百パーセント女の子だった。
思わず苦笑いをこらえながら、追いかけて声をかけようとしたところ、先に店を出た朱雀が、店に入ってこようとした男性客にぶつかって、「きゃあ」と尻餅をついた。
もしかしたら、あいつら、ふっとばされるか? あの怪力のナゾを、この目で確認できるチャンスかもしれないな、と眺めていたら、朱雀はぺこぺこと頭を下げて何度も謝っている様子。
ああいう格好で問題を起こすと、いろいろ困ったことになりかねないから、押さえたのだろうか。
微妙に違和感を感じたものの、朱雀の後を追いかける。
なんとなく、声をかけるよりは後をつけた方が面白そうな気がして、つかず離れず、朱雀の後を追いかける。朱雀は妙に足が地に着いていない様子で、あっちにふらふら、こっちにふらふらと、まっすぐな道さえもまっすぐに進まない。
具合でも悪いのか、それとも平衡感覚に問題でも抱えてるのだろうかと、学校での朱雀の様子を思い返してみるが、特にふらふらと歩いていたような記憶はなかった。とすると、やはり熱でもあるのだろうか。先ほど怪力を振るわなかったのも体調のせいだったのだろうか?
そんなことを考えながら、朱雀の後をつけて数十メートル歩いて、ふと、端からみたら、俺ってストーカーなんじゃなかろうかと気がついた。
こんな風に学校外で偶然会う機会なんていうものがそう何度もあるとは思わなかったが、朱雀の方だってああいう格好をしている時に、俺なんかと会いたくはないんじゃなかろうかと、俺にしては珍しく常識的な考えに従い、きびすを返そうとした時のことだった。
ちゃらちゃらした格好の、軽そうな茶髪の男二人組が、信号待ちをしていた朱雀を両側から囲んで何やら熱心に話しかけていた。どうやら、ナンパか何かのようだ。朱雀は困った様子で、何度も断っているようだが、野郎二人はしつこく食い下がり、しまいには朱雀の肩に手を回してどこかに連れて行こうとする始末。
おいおい、そんな格好してるけどそいつ男だぞ?
俺はちょっと笑いを抑えきれずに、噴出してしまった。
朱雀は、困った様子で何度も男の手を振り払おうとするが、しつこい男はついには腰に手を回す。その手がいやらしくうごめいて、徐々に下の方へ移動していく。
俺は、朱雀が男二人を痛快に吹っ飛ばすところを見学しようとぼんやり眺めていたのだが、どうにも様子がおかしい。朱雀は泣きそうな顔になってきて、きょろきょろと周りを見回すばかりであの怪力を披露する様子がない。
「やめてください!」
朱雀の荒げた声が、ついには俺のことろにまで聞こえてくるようになって、流石にやばいんじゃないかと思ったので、早足で駆け寄って、男の一人の肩を叩いて声をかける。
「君達に、ひとつ忠告してもいいだろうか?」
「なんだてめぇは?」
間近で見ると、とても頭が悪そうな男は、ヤニで染まった並びの悪い歯をむき出しにして、俺を睨みつけてきた。
「そいつ、男なんだが。君達は同性をお茶に誘う趣味があるのだろうか?」
親指で朱雀を指差して、にやりと笑う。
朱雀を見ると、ひどく驚いた顔で、俺の顔を見ていた。
だいじょうぶ、俺にまかせろ。目だけでそう告げて、朱雀にだけ見えるように、左手で指を折りながらカウントダウンする。
「おとこぉー? た、たしかに、こんなにかわいい子が女の子のわけがない……?」
「ま、まさか、今流行の男の娘ってヤツですかぁー?!」
茶髪男達が、驚愕の叫びを上げる。朱雀の腰に回していた手が、さっと離される。
今だ。
「走れ、朱雀!」
朱雀の手をつかみ、後ろも見ずに駆け出す。
初めて触れた朱雀の手は、あんな強力なパンチを繰り出せるとは思えないような、ひどく華奢な感じで、強く握り締めたら骨が折れてしまうんじゃないかと思えた。怖くなって、咄嗟に手首に握り替える。
「……っでもでも、男の娘でも、かわいければいいじゃんって、あれー?」
「……むしろそっちのほうが萌えるぜって、おやー?」
男達が間抜けな声を上げている間に、計っていた信号の変わるタイミングで、うまく男達を置き去りにすることができた。大きな通りだからしばらく信号はかわらないはず。今のうちに距離を稼いでどこかの店にでも入ってしまえば、もうやつらにこちらを探すことはできないだろう。
「はぁ、はぁ」
信号を渡りきった時点で、朱雀が肩で息をしていた。
そういえばこいつ、身体弱いんだっけ。無理させるわけにもいかないか。
「大丈夫か?」
声をかけるも、まだ足を緩めることはできない。ああいう手合いはしつこいものだから、完全にまかないとややこしい事態になりかねない。
「あまり、だいじょうぶじゃ、ない、です」
もう少し距離と取りたいところだったが、しょうがない。
目に付いたコーヒーのチェーン店に入り、アイスカフェモカを二つ注文して二階の窓際の席に陣取る。下の通りを眺めながら、カフェモカをずずずとすすっていると、先ほどの男達が何か言い合いながら、とぼとぼと歩いていくのが見えた。しつこそうな感じだったが、意外とあきらめのいいヤツだったようだ。
「あ、あの」
息を整えた朱雀が、おずおず、と言った様子でこちらに声をかけてきた。
近くで見ると、やっぱり朱雀のヤツはかわいい顔をしている。上目遣いにこちらを伺う様子は、小動物のようで、いつも俺にツンケンした警戒の眼差しを向けているのが嘘のようだった。
「なんだ、カフェモカ嫌いだったか?」
「いえ、あの、ありがとう、ございました」
雑誌か何かの入った紙袋を胸に抱えたまま、朱雀は小さく頭を下げた。
「なんだよ、朱雀、らしくないな。そういう格好すると、性格まで丸くなるのか?」
いや、性格だけじゃないな。近くで見ると、頬の輪郭といい、体つきといい、いつもの朱雀よりもやや丸みを帯びていて、より女の子らしいというか……。
むむむ。雑誌で押し隠しているが、胸もあるように見える?
「あの、先ほどお会いした時から不思議に思っていたのですが、なぜあなたはわたしの名前を知っているんですか?」
「朱雀、ちょっと確認したいことがあるんだが、調べる許可を得たい」
朱雀が何か問いかけていた気がしたが、それよりも朱雀の胸だ。今日の朱雀は服の上からでもはっきりわかるほどの膨らみがある。
「え、は、はい。何を確認したいのでしょう、きゃあ!」
朱雀の持っていた雑誌の紙袋をひょいと取り上げて、テーブルの上に置く。
「あ、あの、何を?」
「それ、パッドなのか?」
ストローで朱雀の胸を指して問う。
みるみるうちに、朱雀の顔が赤く染まり、朱雀はふるふるとかぶりを振った。
「ずいぶん出来がいいなと思って。ちょっと触ってみてもいいか?」
「え、あの、きゃあ!」
手を伸ばすと、朱雀は胸をかばって、俺を警戒の眼差しで見つめた。
……いつもはこの目なんだよな。うん。
警戒の目で見られるほうが落ち着いてしまうというのは、なんか毒されてる気もするが。
「結局、あなたもそういう目的だったわけですか……お礼なんか言って、損しました」
立ち上がって席を立とうとする朱雀を、まぁまぁ、と引き止める。
「ああ、すまない。ただの興味であって今回の目的じゃない。作り物なんか触ってもつまらないだろうし」
柔らかそうに見えるけれど。朱雀が男である以上、それは本物ではありえない。
「作り物……?」
「お前いつも、俺のこと避けるだろう? だから、たまたま会えた、こういう機会にしっかりと話をしておきたいんだ」
「……なんだか、話が良くわかりませんけれど、もしかして、兄の、お友達なんですか?」
首をかしげながら、立ち上がりかけた朱雀が席に戻った。
「あに?」
「先ほどから、わたしのことを男だと言ったり、なんだかわたしの胸がニセモノだとか作り物だとか、女装でもしているように言われるのが疑問だったんですけれど、わたし、一応、女ですよ?」
少し怒ったように、朱雀が言った。
「確かに少々ボリュームは足りないかもしれませんけれど、男に見えるほど薄くはないですよね? あなたの言う朱雀というのは、わたしの兄、一純のことではないでしょうか? わたしは葉摘。妹です」
失礼にならない程度に、朱雀の胸に目を向ける。
「朱雀の妹だって?」
「ええ」
「いや、どこからどうみても、朱雀なんだが」
「確認させろといっても、触らせませんよ?」
言いながら再び雑誌の紙袋で胸を隠す朱雀。
「いや、さすがにもう、その気はない」
どうみても女性にみえる相手が、自分が女だと主張しているのに確認のため触らせろというのは筋が通らない。それよりも問題なのは、目の前の少女が俺の知っている朱雀であるかないかということだ。
「メガネ、取ってみてくれないか?」
俺が言うと、朱雀妹は肩に垂らした髪を背中に回し、それからゆっくりとふちなしの眼鏡をはずした。
正面から見ても、朱雀そのものだ。
「よく、そっくりだって言われます。でも、兄妹なんですよ? 双子とかじゃない、普通の。わたしがふたつ下になります」
「双子ですら男女ならそこまで似ることはないのに、ちょっと似すぎじゃないか?」
「……そうですね。もしかして、まだわたしを兄が女装していると疑っていますか?」
「いやどちらかというと……」
言いかけて、朱雀が本当は女で、たまたま女性の格好をしているところを見つかったので妹とごまかしてるんじゃないか、という考えをなんとか頭から追い出す。
俺は朱雀を男と認めた。そして目の前の少女は、自分は俺のいう朱雀ではなく、妹だと主張している。本人が主張していることを、今の所疑う理由はない。見た目が似すぎているというだけで、主張を否定することは出来ない。
今、目の前にいる少女を朱雀一純と疑うことは、朱雀が男であると認めた、自分を否定することにもなる。目の前の少女が、別人であることを認めなければならない。
でも、微妙に見た目に違和感がある割りに、どうしても俺の目には同じ人物にしか見えない。
なんで俺は、この少女を朱雀だと認識してしまうのだろう?
「別に証明する義務があるわけではないですけれど。これで信じていただけますか?」
言いながら、朱雀妹が肩に下げたポシェットから、生徒手帳を取り出してこちらに差し出してきた。うちの学校のものではない。
「映画を見に行った帰りなので、たまたま持っていたんですが」
どうやら中学のものらしい。記述された年度は確かに今年のもので、去年のものだったりしない。わざわざこんなものを偽造するとも思えないし、本物なのだろう。
しかし、それは確かに朱雀の妹、朱雀葉摘が存在すると言う証明の一つにはなるのかもしれないが、目の前の少女が妹かどうかという判断には使えないような気がする。生徒手帳に貼られている写真すら俺には朱雀にしか見えないし。
「……」
俺がまだ疑っていることに気がついたらしく、朱雀妹は、はぁ、と深くため息を吐いて言った。
「ここまでする必要があるのか、非常に疑問なのですが……わたしの髪に触れてください」
言いながら、朱雀妹が先ほど後ろに回した三つ編みを右肩から前に垂らす。
そっと垂らした髪の先っぽを俺の方に差し出し、もういちどため息をつきながら朱雀妹は、不快を顔に表したまま言った。
「よく知らない他人、それも異性に髪をさわられるのは非常に不愉快なのですが。引っ張ってもかまいません。かつらやウィッグの類でないことを確認してください」
言われるままに、三つ編みの先に触れる。ややぱさついた感じはあるが、触った感じは確かに人工の物ではなさそうだ。
「痛くしたら怒りますけど、納得行くまで引っ張ってください」
ふむ、と軽く引っ張ってみる。しっかりとしている。
もうちょっと力をこめて、ぎゅっとひっぱってみると、痛かったのか、朱雀妹が頭ごとこちらに引き寄せられていた。
「い、痛いです!」
「……すまない」
手を離すと、少し涙目で髪を整えながら朱雀妹が言った。
「確かに兄とわたしは非常に良く似ているとは思いますが、兄は髪、短いでしょう?」
言われて初めて髪の長さが明確に違うことに気が付いた。
髪型とかこんなに違うのに、なんで俺はひとめで目の前の少女を朱雀だと認識したんだろう。
髪を結んで前に垂らしていたから、後姿がそっくりだっただけなんだろうか。
「わたしが、兄とは別人であると、納得していただけましたか?」
俺の目には相変わらず、目の前の少女が朱雀であると見えていたが、証明された以上はうなずかざるを得なかった。桜葉みたいに身長がころころ変わるような例外もいるが、一般人の髪はそう伸びたり縮んだりはしないものだ。
「いろいろすまなかった。今後は髪の長さで判別することにする」
「ずいぶんと後回しになりましたが、お名前を聞いても、よろしいでしょうか?」
朱雀妹が、俺の顔を見ながら言った。警戒しているのか、紙袋は胸に抱えたままだ。
「俺は水無神、俊一郎だ。朱雀一純と同じクラスで、あいつには避けられているので残念ながらまだ友達と呼べるほどの関係にはなっていない」
「兄は、ちょっと気難しいところがありますから」
紙袋を胸に抱えたまま微笑む、朱雀妹。
「あいつは、家でもあんな感じなのか?」
「学校での兄を知るわけではありませんが、あんな感じ、と言われてすぐに想像が付いてしまうというのは、やっぱり家でも同じということなんでしょうか」
俺の言葉に、ちょっと寂しげな笑みを浮かべて朱雀妹が言った。
「昔は、明るい……。そう、明るくて、まるでわたしを照らす太陽のようだった。でも……」
「事故、か。本人にちょっとだけ聞いたが、ひどい事故だったらしいな?」
「……」
「すまない。あまり他人が詮索していいことでもないな」
「いえ」
黙り込んでしまう朱雀妹。
まずった。朱雀兄のことを聞きたかったのだが、あいつのことを聞くとどうもよくない方にいってしまいそうな感じだ。
話題を変えるために、呼びかけようとして、ふと目の前の少女のことをなんと呼んだらいいものかと疑問に思った。朱雀は朱雀だが、朱雀、と呼びかけていいものだろうか。
「えーっと」
「はい?」
「君のことは何と呼んだらいいだろうか。両方とも朱雀だから呼びにくいな。イズミのやつには名前で呼ぶことを拒否されたので、君の事を名前でハヅミさんと呼んでもいいだろうか?
初対面で名前を呼ばせろと言うのは不快感があるかもしれないが」
俺の提案に、朱雀妹はちょっと考えているようだった。
「わたしは年下ですし、さん、でも、ちゃん、でもお好きなように。いっそのこと、名前を呼び捨てでもかまいませんよ?」
ちょっと悪戯っぽく朱雀妹が笑った。
「いや。俺は女性を名前で呼び捨てにするのは妹と恋人だけと決めている。男ならいざ知らず、君を呼び捨てには出来ないな」
「あら、それってわたしを恋人にする気はないって意味ですか?」
「これまでのことは謝るから、そういう冗談はやめてくれないだろうか?」
以前どこかでやったような会話だな、と思いながらため息をつく。
「ちょっとした仕返しです。本気には取らないでくださいね?」
くすくすと笑いながら、ようやくカフェモカに口をつける朱雀妹。
「……わたしはたぶん、人並みの幸せなんて手に入れられそうにありませんから。わたしの事情に、あなたを巻き込む気はありません」
「それは、どういう……」
言いかけて、それは聞いてはいけない質問だったということにすぐに気が付いた。
「兄は、道路に飛び出したわたしを守ろうとして、身体が半分に千切れるような目に遭いました」
朱雀妹は無表情に微笑んで、俺をじっと見つめた。なぜか、目をそらせない。そらしてはいけない気がして正面から、朱雀妹と見つめあう形になる。
「それでわたしが無傷だったなら、また違ったお話だったのかもしれません。でも……」
手にしたカップの中の氷が、カランと音を立てて転がった。
「結局わたしも、生きているのが不思議なくらいの大怪我をしたんです。今のところ、日常生活に支障ない程度には身体は動きますけれど、表面は傷だらけ、中身はぼろぼろなんですよ」
朱雀妹がそっと目を閉じた。
「兄はわたしを救えなかったと自分を責め、わたしは兄を巻き込んでしまったと自分を許せない。あの事故は、わたしと兄の人生を終わらせました。わたしは、わたしたちは、あの事故から一歩も進めていないんです」
何もかける言葉が見つからず、というよりかける言葉なんてあるはずもないのか、何か言わなければいけないのに何を言うこともできなくて、沈黙が場を支配した。
「だから、水無神さん。あなたも、わたしたち兄妹に係わろうとしないでください。終わってしまっている人に係わると、ろくなことにはなりませんよ?」
「……」
これが、朱雀が他人を拒絶する理由なのか?
「あなたが兄の知り合いでなく、ただの行きずりの関係であれば、もう少し楽しい会話が出来たかもしれませんね?」
寂しげに朱雀妹は笑って、「では、失礼します」と言って席を立とうとした。
俺は、どうしても納得がいかなくて、去ろうとする朱雀妹の上着の裾をつかんで引き止めた。
「終わっているなんていうことがあるものか。生きてるんだろう? 君は、君達は!」
俺の父のように、死んでしまったわけではない。
命を失ってしまったわけではない。
「生きている限りは、終わってなどいないはずだろう?」
「水無神さん、あなた安っぽいドラマの見すぎなんじゃないですか?」
裾を俺につかまれたまま、朱雀妹は無感情に微笑んで、俺を見下ろした。
「心臓が動いていれば生きていることになるんでしょうか? 身体が動いたとして、その身体が自分のものでない場合、それでも生きているといえるんでしょうか?」
朱雀妹は、乱暴ではなく、そっと押さえるようにして俺の手を裾からはずした。
「たぶんもう二度と会うことはないでしょうけれど。ありがとうございました。さようなら」
胸に紙袋を抱えたまま、朱雀妹が俺に背を向けて歩き出した。
行ってしまう。朱雀妹が行ってしまう。
行かせてしまっていいのか?
既に人生が終わっているなんて言葉を、認めてしまっていいのか?
どうすればいい。たぶん、これは水流先生が言っていた選択肢のひとつなんだろう。
しかしゲームじゃないから、三択で選択肢が表示されるわけではないし、正しい答えがある
とも限らない。
それが正しい選択なのか、わからなかった。正しいと思ったわけでもなければ、確信があったわけでもない。むしろ、桜葉のことと先のことを考えると、それは最悪、いや最低の選択だったのかもしれない。
「……待ってくれ、葉摘。君の事を、呼び捨てにする、正式な許可を得たい」
俺の呼びかけに、告白に、朱雀妹の足が止まった。
「水無神さん、あなた、先ほど御自分で言われた言葉、覚えていますか?」
こちらに背を向けたまま、朱雀妹が言った。
「それとも、先の言葉は、ただの戯言で、たいした意味などないのでしょうか?」
「俺は、女性を名前で呼び捨てにするのは、妹と恋人だけと決めている。つまり、君を恋人にしたいと、俺と付き合ってくれないかと言っているんだ」
「水無神さん、あなた、馬鹿なんですか?」
振り向いた朱雀妹が、やや呆れた様子で様子で言った。
「わたしは、係わらないでほしい、と言ったんです。なのに、付き合えだなんて、ふざけてるんですか?」
「俺には、君の言葉が、助けてくれっていう叫び声に聞こえた」
「あなたの勘違いです」
「勘違いで悪いか?」
「悪いです。あなたの安易な同情で、わたしが勘違いしたらどうするんですか?」
「恋なんて、所詮全部勘違いだ。だから問題ない」
「暴論です!」
「君が、本当に、本心から、俺に係わらないで欲しいと思っていたのなら、君はあんな話を俺にするべきじゃなかった。君はただ、適当な話でもして、さようならを告げるだけでよかったんだ。そうすれば、俺は朱雀のやつには、かわいい妹がいるんだな、程度しか思うことはなかったと思う。俺自身には、君に係わるだけの積極的な理由なんかなかったんだから」
「……」
「でも、今は違う。君に積極的に係わりたいと思う。具体的に言えば、君を変えてやろうと思っている。自分の人生が、既に終わっているだなんて、そんな寂しいことを二度と言えない様にしてやろうと思っている。俺は、君のその言葉を、絶対に認めるわけにはいかない」
「……拒絶がかえって興味をひきましたか。それにしても、ずいぶんと悪人なセリフですね? 言えないようにしてやろう、だなんて」
「俺が自分の意思で、君を変えると決めた。君の意思がどうであっても。それは決して善でもなければ好意でもないよ。悪意はないけど、きっと悪ではあるな」
「ひどいひとですね、あなたは」
「ああ、俺は最低だよ」
「わたしのことを好きでもないのに、つきあえと言い、あげくの果てにはお前を変えてやるですか。あなたは傲慢です」
朱雀妹はため息をついて、それからゆっくりとこちらに歩いてきた。
「でも、少しだけ、あなたに興味が出てきました。いやらしい言い方になりますが、あなたが、わたしを変えることなんて出来ないということを理解したときの顔を、見てみたくなりました」
朱雀妹は、席に戻り、胸に抱いていた雑誌の紙袋をテーブルの上において、片手で頬杖をついた。やや半目で、下から見上げるようにしてこちらを睨みつけてくる。
「それで? わたしをどうやって変えるつもりですか? 本気で、わたしを、変えられると思っているのですか?」
「まずはお互いを知ることからだな。いろいろ、話をしよう」
「話をして、それで? それでわたしの考えが、変わるとでも?」
「仲良くなろう。君が、君自身の意思で、俺を君の事情に巻き込もうと思えるようになるまで」
「いいんですか? わたし、その気になったら、水無神さんの意思に関係なく、巻き込みますよ? わたしの事情に」
「巻き込めって言ってるんだから問題ないだろう?」
「……やっぱり馬鹿です。わざわざわたしに係わって、あなたに一体、何の得があるというんですか? 言っておきますが、わたしの身体は、醜い傷跡だらけですよ? 仮に、わたしが、あなたの恋人になったと仮定して、そんな傷物で嬉しいですか?」
「君の身体を目的としているわけではないし、外見はさほど重要じゃない。それにさっき言われたが君を変えようというのは好意や同情じゃなくて、ただの俺の傲慢だ。君は、俺の都合なんか気にしなくていい」
「……責任、とれるんですか?」
「高校生なんてガキだからな。取れる責任なんていったって、たかが知れてるから、責任をとれると断言はしない」
「無責任です!」
「最悪、一緒に人生終わらせるくらいの覚悟はあるよ。文字通りの意味で」
「……その言葉、人生が終わってる人間は、命を失えという主張に聞こえますよ?」
「俺は、生きている人間が人生終わっているだなんて嘯くことを認めたくないんでな。君を変えることが出来なかったら、自分の主張を貫くために君を殺して自分も死ぬさ」
「傲慢な上に、自分の思うとおりにならなかったらわたしを殺す、とか無茶苦茶ですね」
「人生が終わっているという人間が、自分の命を惜しむのか?」
「……わたしの命は、わたしのものじゃありません。だから、人生が終わっていても、生きることをやめることは出来ないんです」
「ひとつ教えて欲しい」
「なんでしょう?」
「君は、それをよしとしているのだろうか? 君の言う、人生が終わったままの状態で生き続けていくことを」
「……」
「先に言ったように、君の意思にかかわらず君を変えるつもりではあるが、君自身が変わろう、変えようと思っていてくれていた方が、俺にとっては都合がいい」
「答える前に言っておきます。わたしは、とっても、嘘つきです。今まで水無神さんに言った言葉の中にもいくつもの嘘が混じっていますし、これから言う言葉の中にもいくつもの嘘が混ざることがある、という前提で聞いてください」
「……人生が終わっているという言葉が、君の性質の悪い冗談だったらいいのになとは思うが」
「それは嘘や冗談で言ったつもりはないです」
「そうか」
「わたしはこれまで、人生が終わったままでいいと思っていましたし、きっと、これからもそうだろうと思います。わたしと兄の今の関係が変わる、壊れるということは、おそらく、わたしか兄の死、あるいはその両方を意味することになるでしょう。わたしは、それを、そうなることを望んではいません」
「……そうか」
自分が嘘つきだと宣言した上での言葉はウソなのか本音なのか。
俺には朱雀妹の言葉の真意はわからなかったが、こうして目の前に座って俺と話をしているということは、そのこと自体が変化を望んでいるとみなしてもいいのではないだろうかと思った。
「逆に、わたしからも聞かせて欲しいことがあります」
「なんだろうか」
「今言ったように、わたしは、今のわたしの状況を変えるためには、わたし、あるいは兄、またはその両方の死が必要だと確信しています。わたしが変わっても死、変わらなくてもあなたがわたしを殺すという。あなたはそこに、何の意味があるというのですか?」
「前提が間違っていないか? なぜ君の人生が終わっているという発言をやめさせると、君か朱雀、あるいはその両方が死ぬことになるんだ?」
「……理由は言えませんが、確実にそうなります」
「なら、そうならない方法をなんとか見つけるさ」
「ありませんよ、そんな方法は」
「なきゃ作るまでだ」
「……やっぱりあなたは、馬鹿で無責任です」
「おまけに傲慢で最低だぞ?」
「……なんで、わたし、あなたとこんな話をしているのか、わからなくなってきました」
「じゃ、重い話はこの辺で切り上げて、もうちょっと素敵なおしゃべりでもしよう」
「は?」
「いや君もさっき、もう少し楽しい会話が出来たかもっていってたろう。俺も楽しい会話がしたい。っていうかぶっちゃけ普通の会話に飢えている」
「……もしかして、友達いないんですか?」
なんだか非常に哀れみの眼差しで朱雀妹が俺を見つめた。
「今、少々学校で誤解が広まっていて、腫れ物扱いされている。同級生にさんづけで呼ばれるのは非常に精神衛生上よろしくない」
「あなたの今までの言動から考えると、自業自得なんじゃないかと思えますけれど?」
「いや、まぁ、実際そうなんだが」
朱雀兄に関係することでもあるわけなので、一瞬迷ったが、誤解に至った理由を簡単に説明する。
「一応確認しておきますが、本当に誤解なんですか? まさか顔が同じだからわたしに付き合えなんて言ったとか、そういうオチだったりしませんよね? 狙いは兄のほうだったり、しないですよね?」
「……女ってのはなんでそんなに男同士が好き合う話が好きなんだ」
「あら、男の方だって、女の子同士が好きあうお話、嫌いじゃないでしょう?」