私も浮気をしましたので婚約破棄に同意いたしますわ。えっ、理由⋯⋯ここでお伝えしてもよろしくて?
数ある中から作品を選んでいただきありがとうございます。
「アマレッティ、俺との婚約を破棄してもらおう!」
「はい、承知しました」
このやり取りは五秒ほどの出来事だった。
「そうかそうか、嫌だと言ってももう遅いのだ、えっ?」
「ですから、承知しました」
あまりにも流れるようなやり取りに、元婚約者のギブリスは目を見開き二度見してきた。
(何のための十年間だったのだろう)
今までの努力は一瞬で意味のないものになった。
「そういうところが可愛げがないんだ。ここにいるティアを見てみろ! 儚げて手折られてしまいそうなほど華奢だろう」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
「ふふっ、ギブリス様ったら」
どこか満足そうなティアはわざとらしくギブリスにしなだれる。
豊満な胸元を包む布が、彼女が息をするたびにわずかに揺れる。
「早く私と出かけましょう。私欲しいネックレスがありますの」
甘ったるい話し方のティアの声が耳に残る。唇の横の黒子に、ギブリスの視線が吸い寄せられて離れない。
(たしかにわたくしはあの方のようにはなれませんわ)
──もう、ここにアマレッティを繋ぎ止めるものはなかった。
会話にすれば、ほんの数往復。
ここで離れなければ、人だかりが出来てしまう。
アマレッティはドレスを柔らかく持ち上げると、お手本のような角度でお辞儀をする。
「それではわたくしは──」
すると、顔を上げる前にギブリスの声が降ってきた。
「なぜすぐに婚約破棄に同意した? 何か隠しているんだろう?」
ギブリスの言葉に胸にちりっと熱い不快感が広がった。だが、表情には出さずにアマレッティは顔を上げた。
濃い茶色の短い髪、切れ長の瞳を強調するような眉に、小ぶりだが綺麗な形の鼻でバランスもよい。学園でもギブリスの容姿は良い方だった。
私も最初はその彼の瞳に映りたいと思う時もあった。
だが──。
「わたくしも心に決めた方がおりますの」
「男か?」
「えぇ」
(わたくしもちゃんと言っておかなきゃいけませんものね)
アマレッティが投げたボールはギブリスの手をすり抜けたようだ。
今頃になって、こんな顔もするのだと知った。
「アマレッティ、浮気していただと!?」
渡り廊下の小広間中にギブリスの声が響き渡る。
そのギブリスの大声に大勢の生徒が振り返り、遠くの生徒はこちらに近づいてきた。
無神経なギブリスの行動にこのままでは終わらないことを覚悟した。
(はぁ、野次馬の人だかりが出来上がりましたわね)
「⋯⋯よく俺という存在がいて浮気をしていたな!」
「はい」
ギブリスの声は少し震えている。
アマレッティは短く答える。
「婚約中に他のやつに惚けるなんて何を考えているんだ⋯⋯」
「はい」
(私もギブリス様にお聞きしたいわ)
その驚いている彼の反応を見ていると、眉間の皺が深くなる。
一呼吸、二呼吸⋯⋯。
「誰だ? いつから? 理由を話すまで帰さないぞ!」
(なぜあなたが裏切られたような顔をするのかしら)
アマレッティが何とか気持ちを落ち着けようと深呼吸を試みている。
しかし、血が逆流してくるように顔が熱くなる感覚が抑えられない。
皮膚の内側から、言え、と叩かれる。
「ギブリス様、ここで理由を話してもよろしいのですか?」
「当たり前だ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ。ここで全部話せ!」
「⋯⋯承知しました」
ぷつりと何かが切れる音がした。
アマレッティの心を堰き止めるものが崩れ始めた。
(この十年間をもう終わりにしていいのね⋯⋯)
アマレッティにとってこの話は浮気の一件だけではなかった。
* * *
アマレッティがギブリスと出会ったのはお互いの領地が隣接しており、同じ伯爵家であったから。
社交の場で顔を合わせることになったのは必然であった。
最初は両親に連れられてやってきた大規模なお茶会。
何度か家族で顔を合わせる度に、両親たちは親しくなった。
両親たちから歳が近かったアマレッティとギブリスの将来を楽しみにする弾んだ声が聞こえてきた。
無理やり作らされた二人の時間。
それでも彼を格好良いと感じていたし、アマレッティも自然と婚約して⋯⋯将来を約束するものだと思っていた。
アマレッティはギブリスより親しくなる令嬢も子息もいなかったものだから、男の人とはこういうものかと思っていた。
そのうち令嬢の友人もできた。
彼女はある子息に恋をした。
意を決して声をかけた彼女は彼と交際を始めた。
そのうちお茶会で彼と話してみると何とも大人びていた。彼女を慈しんでいるのも直接的な言葉はないものの伝わってくる。
(ギブリス様とは全然違うわ。世の中の殿方はこういうものなのかしら?)
肺が軋んだのをアマレッティは気づかないふりをした。
『お前は何をやっても駄目だな』『お前は俺の後ろにいればいい』『俺がもらってやるんだから感謝しろ』
小さい頃からかけられてきた言葉。
友人の交際相手と話してから、ギブリスは普通ではないのではないかと思い始めた。
誰にも言えなかった。
『令嬢は婚約者を立てるものだ』
婚約の際にギブリスの母親から聞いた言葉だ。
アマレッティは期待されていると感じ、深く頷いたのだった。
ギブリスを立てるために、領地の関係を学び、他の貴族の家族構成や趣味趣向を探る。
お茶会の時にさりげなく会話をリードしギブリスを立てる。最初の頃はありがたられた。
それもそのうち当たり前になり、『会話をリードするな』と言われた。
アマレッティは出しゃばってしまったと反省し、ギブリスには事前に伝えるようになった。
しばらくのうちはうまくいっていた。
それもそのうち『話が長くて覚えられない』『要点だけ話せ』と言ってくる。
『要領が悪いんだから、努力しろ』『俺に目をかけてもらえるなんて、もっと感謝しろ』
日に日に増えるギブリスの言葉はアマレッティの心に遠慮なく刺さる。
林檎にナイフが小気味よい音をたてて刺さるように──。
* * *
「ギブリス様が最後に可愛いと言ってくださったことをわたくしは覚えておりません」
「長年の付き合いなんだから、そんなの言葉にしなくてもわかるだろう? そんな態度だから言われなくなるんだよ」
アマレッティの心は言葉のナイフで刺さなくても既に形をなくした桃のようだった。
熟れきった果物は形を保てずに果汁を垂らしながら潰れる。
アマレッティは口を噤みながら、唯一の支えを思い出していた。
シーバス・ステルスシア伯爵子息。
遠くから見ているだけでよかった。
高身長の優しげなオリーブ色の瞳。茶色の髪はふわりと風に吹き上がる。
話さなくてもいい。見ているだけで、心が落ち着いた。
あの日、図書館の一番上の書架に手を伸ばしたアマレッティ。その震える手は本に届かなかった。
そこへそっと手が伸びた。その手はアマレッティに本を差し出した。
「ありがとう⋯⋯ございます」
消え入りそうなアマレッティの声にシーバスは口元を緩めて答える。そして、そのまま行ってしまった。ギブリスと違って見返りを求めない姿に気になり始める。
そうすると学園でシーバスを見つける度に心臓が跳ねる。彼はアマレッティだけでなく分け隔てなく優しかった。
目が離せない。
それは長年感じることのなかった異変。シーバスを見るたびに口元が緩んだ。
ただ見ているだけだから⋯⋯この時間がいつまでも続いてほしい。
アマレッティは体中に温かなものが広がっていった。これが恋だと気づくのに半年かかった。
「それで浮気相手は誰なんだ?」
「お相手は言えません。片思いなのです」
ギブリスは鼻をふんと鳴らし小馬鹿にした態度だった。
今までだったら気が付かなかった。
彼の存在があったから心が戻ってきた。
「そんなことないだろう。浮気なんだから、何度も会って、その続きもしているんだろ?」
「えっ? 私はその方をお慕いしているだけです。話したことはありません。
心が別の方に向けば浮気ではないのですか? それともギブリス様は⋯⋯」
アマレッティとギブリスの会話にざわめき始める生徒たち。
「ギブリス様は完全に黒」「人としてない」「アマレッティ様、可哀想」
ひそひそとしているが会話は漏れる。
「ちょっと失礼します。お二人は婚約を破棄されたのですよね。これから両家で話し合いがなされるでしょうから、資料のお手伝いをいたしましょうか?」
後ろから丁重な提案をしてくれる男性の声。
振り返るとアマレッティの想い人のシーバスだった。
アマレッティの顔は赤くなり、心臓が爆発しそうだった。声を出したいのに掠れて空気だけが漏れていく。
「おぉ、気が利きますね。それではお願いします。あなたはたしか──」と明るい声のギブリス。
「シーバスと申します。あちらの部屋で詳しいお話を聞いても?」
彼の鋭い眼光は誰にも気づかれなかった。
* * *
その後、一波乱があった。
シーバスによって詳しく問いただされていて書面化されたものは両家に送られた。
法と契約を得意とするステルスシア伯爵家は、引き続きその問題の仲裁にはいる。
書面を見た両家は驚いた。
婚約破棄以前に度重なるギブリスのアマレッティの人格を否定する言葉の数々。
アマレッティの努力と裏腹に、命令口調や感謝を強要する言葉が度々上がる。
アマレッティの父親は我慢できずにその資料を握り潰した。
それでも収まらず拳を強く握ると怒りに身体を震わせた。
長期にわたる人権を侵害するような言葉に医師への治療歴も添えられている。
すべてはシーバスが掛け合ってくれた。
必要な情報を纏めて伝えてくれた。
その嬉しさに涙が頬を伝う。
それを見たアマレッティの母親は、今まで気が付かなかったことを詫び強く抱きしめた。
「辛かったわよね。気が付かなくてごめんなさい」
「いえ、シーバス様が私のために動いてくれたことが嬉しいのです」
辛さは分からなかった。途中から痛みは鈍くなっていたから。どこか他人事みたいだったのだ。
そこから救い上げてくれたシーバスへの感謝のほうが心が動いた。
その言葉を受けて、アマレッティの父親は立ち上がった。大柄な彼は立ち上がるだけでも空気がカチリと変わる。
「我慢の限界です。この件に関して、婚約の破棄はもちろんのこと、娘が受けたことは許しがたい心の暴力だ。きっちり話し合って対処させていただく」
低く、重いその声はギブリスの父親を震え上がらせた。
「も、もちろんでございます!」
ギブリスの父親は何度も頭を下げた。
「ちょっと待ってくれよぉ! 俺が何をしたっていうんだ?
ただの言葉の綾じゃないか。
なぁアマレッティ?」
ギブリスは最後まで喚いていた。言っても分からない人がいることをアマレッティは改めて感じていたのだ。
パキリと音がする。
ティーカップの持ち手が折れた。
アマレッティの父親はギブリスの前に立った。
「感情のままに首を飛ばすほど、私は愚かではない。
だがな──お前がこれまで娘に浴びせてきた言葉と行い、すべてを書面にして、法の場で一つ残らず白日の下にさらす。
逃げ場はないと思え」
ギブリスは情けない声を出しながら、足を何度も突っかけ、挨拶もせずに部屋を走り去っていった。
アマレッティの父親が静かに席へと戻ってくると、シーバスの手にはインクの染み出したペンが握られているのが目に入った。
その後、詳しい調査と、裁判については書面のやりとりで行い、最後に裁判官の前で両家の判決が下された。
あの日会ったティアとは別れたらしい。
ギブリスの父親も激怒し、正式に相続権は剥奪された。
ギブリスは領地を離れ、辺境に近い農村地へ送られることが決まったという。
そこで待つのは、名ばかりの監督ではない──逃げ場のない、実務としての労働だった。
婚約は破棄され、アマレッティが受けた数々の言葉の暴力に対する慰謝料がまとめられた。
ようやく事がすべて終わると、シーバスはアマレッティと屋敷の庭園にあるベンチへ腰掛けた。
「アマレッティ嬢、お疲れ様でした」
「いえ、私こそ心の支えになっていただいてありがとうございました。感謝しても感謝しきれません⋯⋯」
(本意ではなかったといっても、こうしてシーバス様と時間を過ごせたことを一生の思い出にしよう)
アマレッティはシーバスに最後の挨拶をするように顔を綻ばせた。
交わせた視線をすぐに解いて反対の方を見てしまったシーバス。
怒らせたのかとアマレッティは胸を押さえてシーバスの瞳を覗く。
心なしかシーバスの顔が赤いように見える。
「あの、答えられればで良いのですが⋯⋯まだお慕いしているのですか?」
「えっ? どういうことですか?」
喉がきゅっと締まった。
「ですから、婚約破棄の際に仰っていた方をまだお慕いしているのですか?」
こちらを向いたシーバスの瞳は少し熱が籠っているように見えて、視線を逸らせない。
アマレッティは混乱していた。
まるでシーバスがこちらに興味があるように見えて、照れているのかと錯覚する。
(最後になってもいい。この気持ちを伝えたい)
何度も挫けそうになったアマレッティの心を助けてくれた彼に感謝の気持ちを込めてちゃんと伝えよう。
(そしたらちゃんと前へ進める気がするから)
「わたくしがお慕いしているのはシーバス様です。庭園で貴方を見かけた時から心にきらきらとしたものが湧いてきました」
優しい眼差しも、穏やかな声も無くした心を取り戻させてくれた。たくさんの感謝をしたい。
「⋯⋯本当ですか? それは、よかった!」
いつも落ち着いていたシーバスから少年のような弾んだ声が上がる。
アマレッティは目を見開いて二度瞬きをした。
「実は私も貴女の可愛らしい声に恋に落ちていました。狡賢いとは分かっていましたが、貴女に近づきたくて、婚約破棄の手伝いを買って出ました」
熱い⋯⋯彼の綻ばせた笑顔が太陽のようにアマレッティを照らす。
喉の奥が痛いほど締まる。
(嬉しいはずなのに⋯)
顔を両手で隠すが、隙間から漏れてくる涙までは隠しきれなかった。
「すぐじゃなくてもいいです。待ちますから、婚約を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
アマレッティは顔を隠すのだけでも忙しかったから、彼の目は見れなかった。
でもあの澄んだ瞳は煌めいていたはずだ。
アマレッティは大きく頷いた。
* * *
二人が交際を始めることを伝えると、両親は祝福してくれた。
アマレッティは心の底からほっとため息をついた。
それからデートの度に優しくレディファーストをしてくれたし、アマレッティの言葉一つ一つに反応して相槌を打ってくれた。
お互い相手のことをもっと聞きたいなと譲り合うことも多かった。
荒れ果てた心は元に戻ることはまだないが、シーバスの細やかな心遣いはアマレッティの心に何度も沁みた。
いつも話し役を譲ってくれるので、不思議に思って聞いてみた。
照れているのか目を伏せて「貴女の声をもっと聞いていたいから」と言われた日のことは絶対に忘れないと心に誓った。
あの頃の夢を見る。
ギブリスのしかめっ面に身を縮めるアマレッティ。
ギブリスが何かを叫んでいる。
アマレッティは頭を抱えてうずくまる。
そこへなぜかシーバスが出てくる。
あ⋯⋯これは夢なのね。
アマレッティの手を優しく握り、助け出してくれた──。
「んっ⋯⋯」
「起きましたか?」
アマレッティは目を擦る。
どうやら寝てしまったようだ。
手に温かさを感じ、目をやると大きなシーバスの手に包みこまれていた。
二人の指には婚約指輪が光る。
(早く結婚指輪に変わらないかな?)
「シーバス様、私は今幸せですよ」
「アマレッティ⋯様なんかつけないで。貴女の前ではただの一人の男です。私も今、幸せです」
交わる視線。
瞳に自分だけが映ることに甘く密やかな気持ちで溢れた。
「……シーバス」
その名を呼ぶと、彼は少し驚いたように、そして嬉しそうに微笑った。
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ギブリスの両親について気になるとのお声をいただきましたので、後日談を追加しました!よかったらこのままお読みください。
【後日談】
アマレッティの父親─エルセリオ伯爵と
シーバスの父親─ステスルシア伯爵の初対面の日。
大柄の体躯の二人が並ぶと周りが小人に見えるほどの存在感がある。
先日、婚約を破棄したドレイガル伯爵家について腹の虫が治まらないエルセリオ伯爵。
「実はアマレッティ嬢と親しくさせていただきましてからシーバスのあんなに嬉しそうな姿は初めて見ます」
鎧のような隙のないステスルシア伯爵の顔が綻ぶ。それを見たエルセリオ伯爵は自分と同類であることを直感で確信した。
「いやぁ、こちらも嬉しいばかりです」
「して、ドレイガル伯爵家についてどこまでやりましょうか? この件に関してシーバスもかなり怒っていまして。それにあんなに可愛らしいお嬢様にこんな仕打ちをされて、このままでは終われませんよね」
エルセリオ領は産業が盛んな地域。
ステスルシア領は伯爵家でありながら法に明るい家門。一線を置かれている。
この二つの家門の影響力は大きい。
「ははは、法と言えばステスルシア伯爵家ですな。心強いばかりです」
二人は固い握手を交わした。
まずはギブリスの母親から。
『表で裁き、裏で根を断つ。社交界は“記録”が一番よく効く』
アマレッティとシーバスの母親からの強い希望なので即採用。
アマレッティの手記に残っていた『令嬢は婚約者を立てるものだ』──調停を使うことで『その教えが、アマレッティの尊厳を踏みにじる結果を正当化していた』として“間接的加害”扱いを貴族および社交界に広める役目となった。
そしてギブリスの父親および家門。
『家門を潰すには対外的な事実が必要』
両家の総意。
今回の出来事を大々的に評議会の課題として提出。
エルセリオとステスルシアの各方面から水面下の根回しで、年二回しかない中央評議会で議論された。
その結果、中央から外され、辺境寄りの役職に左遷が決まる。
ドレイガル伯爵家は大波乱。
ギブリスの母親は実質的に社交界から干されることになった。
あれからギブリスの父親も一度も中央に戻ってこない。
そんな母親と父親たちの報復を知らないアマレッティとシーバスは「お母様たちはよくお茶会を開いているそうよ」「お父様たちも気が合うみたいでよかったね」と喜んでいる。
お読みいただきありがとうございました!
それにしても浮気ってどこからなんでしょうね?
誤字脱字がありましたら、ぜひご連絡お願いします!
[追記]
1/31(土)朝 日間総合43位!皆さまありがとうございます!




