後編
◇◇◇◇◇◇
拘置所の個室の中。藤田は部屋の隅で膝を抱えて座っていた。目の前にしゃがんだ伊藤には、まったく反応する気配はない。虚ろな目は何も見えていないようだし、小さく動き続ける口も、意味のある言葉を発していない。口の中からは、黒く細い繊維のような靄がチラチラと覗いている。
大浦里美と一緒だ。
「フザケヤガッテ。フザケヤガッテ!」
口からというよりも、藤田の身体そのものから響いてきた。
「オレヲバカニスルナ! オレヲバカニスルナ!」
突然、藤田の口から大量の黒い靄が噴出した。伊藤は咄嗟に身を退いた。強い恨みの念に飲み込まれそうな気がしたからだ。
「おい、どうした?」
職員と話していた松本が、急に動いた伊藤に声を掛けた。
「ああ・・・・・・ いえ、何でもないです」
もちろん、松本に藤田の姿は見えない。
「ここしばらく、国選弁護人との面談以外、外部との接触はないそうだ」
「そうっすか」
がらんとした部屋。差し入れをしてくれるような友人も親族もいないようだ。
「同じ夜に、山田を殺した藤田と、山田に付きまとっていた大浦が死んだ。なあ、これは偶然か?」
松本は額の汗をハンカチで拭いながら、伊藤に問うた。
伊藤はしゃがみ込んで、何もない白い壁を見ている。そうして思考を巡らせているにか、それとも何かが見えるのか、松本には分からない。
「偶然 ・・・・・・ なんすかねぇ」
口調は相変わらずだが、サングラスをかけた伊藤の横顔はこわばっていた。
拘置所を出た車は、すぐに赤信号で止まった。ハンドルを握っているのは松本だ。ふと視線を感じた伊藤は、助手席の窓に顔を向けた。すると、窓のすぐ外に山田が立っていた。白いスーツを着て、両手をスラックスのポケットに入れ、口元を歪ませて嗤っている。後方から走ってきたバイクが、山田の身体をすり抜けていった。
伊藤はごくりと唾を飲み込んだ。その動揺を感じ取ったのか、山田は身体を折って伊藤の顔を覗き込む。窓のガラスを突き抜けて、山田の顔が近づいてくる。
「手間、省いておいたよ」
信号が青になり、車が動き出す。山田の顔は車内に残ったまま、後方へ消えていく。伊藤がサイドミラーに目を遣ると、山田はさっきの場所に立ったまま車を見送っている。何台もの車が、その身体をすり抜けていった。
山田は笑っていた。伊藤の背筋が冷たく震える。大浦里美と藤田潤一、彼らと同じ黒い靄が山田の姿を覆っているのが見えたからだ。
◇◇◇◇◇◇
「あ~あ」
講義が終わり、あくびをしながら校内を歩く。気分は上がらないし、身体はどうにもだるい。おかしな夢のせいで、寝た気がしない。テレビのニュースの件で、頭は迷路の中をぐるぐる回っていた。弟のことも心配だ。
「お腹すいた」
心配事があっても腹はへる。結局、朝食は食べなかった。母親はサンドウィッチを造作ってくれたが、玄関を出たところで持っていくのをやめた。絶妙に黄身が半熟のハムエッグサンドにとって、この暑さは危険だろう。
今は十一時半を過ぎたところ、食事にしようと外に出てきたのだ。
「冷やし中華が食べたい」
気付けば口に出していた。学食にはないメニューなのだが、どうしてもそれが食べたい。そんなわけで、学校の近くにある町中華に行きたいのだが、誰か一緒に行ってくれる知り合いがいないかと周りを見渡す。ファストフード以外の店に、ひとりで行くのは苦手だ。しかも、あの町中華はボリューム満点で、客はほとんど男性なのだ。ちょっと気後れしてしまう。しかし、こういう時に限って、知り合いは見つからない。
キョロキョロしていると、いきなり声を掛けられた。
「つかさちゃん」
「えっ? 何で?」
目の前にタカがいる。強い陽射しと熱気にうんざりしている人波の中で、白いスーツを着て涼しい顔で微笑んでいる。
「どうして ・・・・・・?」
昨夜のことは夢ではなかったのか。今この瞬間も夢なのでは、と思ってしまう。しかし、すぐにその考えを打ち消した。じりじりと肌を焼く陽射しが痛いからだ。夢なんかではない。
「会いたくなっちゃって、来ちゃった」
昨夜と同じように、笑みを浮かべている。でもどこか違う。昨夜のタカにも違和感を覚えたが、それよりもさらに。なんというか、妖しさが増している。冬に会った時は、もう少し好青年だったはず。
「つかさちゃん。一緒においでよ」
タカが手を差し出した。
その手をとってはいけない。頭のどこかで声がする。しかし、何かに操られているように、つかさは腕を上げた。
「あ、いたいた! つかさ!」
突然大きな声で名前を呼ばれ、つかさは振り返った。友達が二人、手を振りながら近づいてくる。
「お昼、食べにいこうよ」
「あ、うん」
友達に返事をして向き直ると、タカはもう消えていた。
「あれ? 」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
必死に動揺を隠しながら答えた。アレが見えることは、友達には内緒にしている。
「お昼まだでしょ? どこかに食べに行こう。スープカレーがいいかなって話してたんだけど」
「私、冷やし中華がいい」
どんなに動揺していても、不吉な予感に苛まれていても、そこだけは譲れない。
◇◇◇◇◇◇
靖国通りの渋滞はひどいものだった。いつも混雑しているのだが、これほど動かないことは珍しい。信号が変わっても、交差点を通過できない。
「ああ、事故っすね」
歌舞伎町入り口付近、事故処理をしている警察車両と警察官を見て、伊藤が言った。救急車も来ている。片側四車線の道路。そのうち、二車線が塞がれているのだ。
停止した車内から事故現場を見ていると、不意にその姿が目に入った。
山田高志。この場所でホストは珍しくない。最初は別人だと思った。山田に似た感じのホストはたくさんいるだろう。曜日に関わらず、二十四時間たくさんの人が行き交うこの街で、その男が放つオーラは特別なものだった。禍々しい笑みを浮かべて、事故現場を眺めている。
ほんの一時間前には拘置所の近くにいたはずで、ここまでどうやって移動したのか。いや、歌舞伎町で死んだ山田が、拘置所に現れたことがおかしいのだ。伊藤が知る限り、幽霊はひとりで遠くまで行けないはずだ。誰かに憑りついて来たのか。
そんなことを考えて頭に浮かんだのは、長谷川つかさだった。お人好しっぽいあの娘なら、山田に言いくるめられて引き受けてしまう可能性もある。
◇◇◇◇◇◇
スマートフォンが鳴ったのは、午後の講義が終わり、廊下を歩いている時だった。
『伊藤さん (サングラス刑事)』
成仏したはずのタカが現れ、伊藤刑事から連絡がくる。何かよくないことが起こってる、と確信した。
「はい、長谷川です」
『ああ、どうも。新宿署の伊藤です。お久しぶり』
軽い調子の声だが、つかさは緊張する。
「お久しぶりです」
『いま大丈夫? もしかして、誰かと一緒?』
「は?」
『まあ、人じゃなくても』
質問の意図を理解したつかさは、辺りに目を凝らした。タカの姿は見えないし、独特の冷気もない。
「今はひとりです。でも ・・・・・・」
つかさは声を潜め、昨夜からのできごとを説明した。
◇◇◇◇◇◇
靖国通りの交通事故。歩道から飛び出してきた四十代の男が、走行中のトラックに轢かれた。その男は、悪質な客引き行為や恐喝で何度も検挙されている。歌舞伎町では有名人だ。
「信号待ちをしていたら、急に道路へ飛び出していった」
目撃者はたくさんいて、みんな口を揃えてそう言った。
山田は長谷川つかさの元にも現れた。自宅と学校に。しかし、それはおかしい。幽霊はひとりで遠くへは行けない。死んだ場所に縛られるからだ。誰かに憑りついたとしても、そう都合よく行きたい場所に行ってくれるはずもない。ひとりでどこへでも行けるというのなら、山田は別の段階に入ったことになる。
溜息を吐きながら顔を上げると、新宿駅東口から出てきた長谷川つかさの姿が目に入った。最後に会ってから八か月以上経っていて髪型も変わっているが、すぐに彼女だと分かった。もちろん、そうでなければ刑事は務まらない。
「すみません、無理言っちゃって」
長谷川つかさは恐縮しながら頭を下げた。
近くに山田はいない。気配も感じない。伊藤はホッとした。もしかしたら、長谷川つかさは山田に操られているかもしれないと思ったからだ。それを確認したので帰ってもらいたかったのだが、彼女にそのつもりはないようだった。仕方がないので、一緒に歌舞伎町へ向かった。
「弟さんの件は、関係ないと思うけど」
電話で話した内容には、つかさの弟のことも含まれていた。おかしなことが同時多発的に発生し、不安この上ないのだ。
「このまま居座られたら ・・・・・・ 。どうしたらいいんですかね?」
アレと同居するなんて耐えられない。何より、弟が心配でならない。このひとなら、対処法を知っているかも。
「お祓いにでも行ったら?」
その口調からは、『親身』どころか『興味』すらも感じなかった。つかさは大いに失望したものの、伊藤刑事がタカの事件に集中しているのだろうと考えるようにした。
「昼間、ここで事故があった」
四方八方を人に囲まれ、流されるように横断歩道を渡りながら伊藤刑事が言った。
「ちょうど車で通りかかって、そこに山田がいた」
伊藤刑事は背後を親指で示した。つかさは反射的に振り向いた。そこにタカの姿はなく、たくさんのひとの顔や後姿が見える。いつもと変わらない新宿の喧騒。
太陽はまだ沈んでいないのに、ネオンのせいで空が暗く見える。他の場所より、歌舞伎町の夜は長いようだ。
チェーンの量販店や飲食店を抜けると、段々ディープな界隈に入っていく。タカが働いていたホストクラブとは別の方向だ。どこへ行くのか分からず、ただ伊藤刑事が進むままについて行く。
道の真ん中に、看板を抱えたお爺さんが立っている。看板には、肌も露わな女性が劇画タッチで描かれ、とても口には出せないような宣伝文句と値段が書いてある。
「いくら歓楽街とはいっても、さすがにこれはマズいんじゃ ・・・・・・」
つかさの呟きは、あちこちから流れてくる音楽にかき消された。
「シゲさん」
なんと、伊藤刑事がそのお爺さんに話しかけた。
「よお、伊藤の旦那!」
お爺さんも笑顔で応えた。
タカを捜しに来たのではないのか。それとも、このストリップ劇場にタカがいるのか。これからそこへ行くつもりなのか。
「いやいやいや、ムリムリ」
慌てているつかさを見て、お爺さんはにっこり笑った。
「こりゃあまた、可愛らしいお嬢さんを連れてるねぇ」
そう言って伊藤刑事を肘でつつくお爺さんの身体を、前方から歩いてきたサラリーマン風の男性がすり抜けていった。
「あ!」
このお爺さんも幽霊。納得したつかさに、伊藤刑事が紹介した。
「サンドイッチマンのシゲさんだ。歌舞伎町のことは何でも知ってる」
「おう、俺が歌舞伎町の生き字引よ。ま、もう生きちゃいないけどな」
シゲさんは、所々歯の抜けた口を大きく開けて笑った。
看板は抱えているのではなく、身体の前と後ろに肩から掛けているのが分かった。二枚の看板に身体を挟まれているからサンドイッチマン。
「へぇ~」とつかさは納得した。
「おねぇちゃんも俺のこと見えるの? 新人の刑事さんかな? てっきり旦那のコレかと思ったよ」
シゲさんは笑いながら小指を立てた。仕草が昭和すぎる。
挨拶が終わると、さっそく伊藤刑事が最近の動向を訊いた。この歌舞伎町に若い子が集まるようになった、とシゲさんは言うと、表情を曇らせて首を振った。子供たちを犯罪に巻き込む悪い大人がいるのだ、と。
それはこっち側、すなわち生きている人間の話。それから、あっち側の話が始まった。
「ちょっとアブないヤツがうろついてるんだよなぁ」
シゲさんの眉間に、深い皺が刻まれた。
「若くて二枚目でさぁ、ありゃぁホストだな。どす黒い『気』を身に纏ってて。悪霊になるのも、時間の問題だな」
つかさの背筋に悪寒が走る。それと同時に、大きな喪失感に襲われた。生前のタカは知らないが、とても優しいひとだったのに。
「ありがとうシゲさん」
「おう、またな! 伊藤の旦那! ねえちゃん、悪い男に騙されんじゃねえぞ! 困ったことがあったら、いつでも来な。おっちゃんは、いつもここにいるからな!」
看板に挟まれたシゲさんは、笑って手を振っている。その姿を、サラリーマンのグループが通り抜けていった。
暗くなるほど賑わいが増す路地を歩きながら、つかさはふと思う。シゲさんは成仏しなくていいのだろうか。
「ああして歌舞伎町を見守ってる。何十年も。それがシゲさんの生きがいなんだ」
「そうですか」
『生きがい』という言葉が正しいのか、つかさにはよく分からない。とにかく、シゲさんは幸せそうだ。この街が、シゲさんの居場所なのだろう。
伊藤刑事は人ごみの中をすたすたと歩いていく。奥へ、奥へ。つかさが足を踏み入れたこともないような場所へ進んでいく。すると、電灯もまばらな暗い細道があった。左右にはコンクリートの壁が並び、所々に突き出た換気口から油と煙草の匂いがする空気を吐き出している。ひとりだったら、絶対に通らないような道だ。
前を行く伊藤刑事が立ち止まった。白いワイシャツの肩越しに見える通りは、ただでさえ頼りない街灯の光を吸い込んでいるような闇が淀んでいる。
「長谷川さん、君はここで待ってたほうがいい」
「えっ?」
不穏な気配はつかさも感じていた。伊藤刑事の言う通り、これ以上進まないほうが賢明だろう。頷きかけた時 ──
「やっほ~」
「!」
つかさのすぐ横、黒ずんだ壁の中からタカが現れた。
「おふたりさん、お揃いで。てか、やっぱり付き合ってんじゃないのぉ?」
以前と同じ軽い調子の声だったが、その姿はもう別人だ。全身から、黒くて細い繊維のような靄が湧きたっている。
「山田、おまえどうして── 」
伊藤刑事を遮ってタカが嗤った。
「成仏したはずなのに? 何でまだここにいるのかって?」
伊藤刑事の前に、顔をグッと近づけた。
「俺も最初はそう思った。成仏できるはずなのに、何でまだここにいるんだろうって。で、すぐに分かった。ムリなんだよ。悔しくて悔しくてしかたないんだよ」
「藤田やったのおまえだろ?」
「そうだよ。ていうか、驚かせようとしたら、アイツが勝手に死んだんだ」
伊藤刑事の問いに、タカはニヤッと笑って答えた。
「捕まったアイツが、どんなに辛い目に遭ってるか見たくてね。死ぬほど苦しんでくれてたらいいと思ってた。しばらくそのことだけ考えてた。そのことしか考えられなかったんだ。そしたらね、行きたい場所に行けるようになったんだよ」
タカの言葉の抑揚に合わせるように、街灯が明滅する。
「そうしたらさ、あいつは弁護士と相談してたんだよ。なんとか刑を軽くしようってさ。そんな話ばっかしてんだよ! 俺のこと殺しておいて、責任逃れしようとしてるんだよ。そんなのってアリかよ!」
吐き捨てるように言うと、頭上の街灯の明かりがパンッと音を立て消えた。つかさは短く悲鳴を上げたが、身体は硬直してしまって動くことができないでいた。
周りの闇がさらに深くなる。伊藤刑事はサングラスを外した。別の通りから届くネオンが、その横顔を紫色に染める。
「それからさ、あのストーカー女も死んだよ」
伊藤刑事は黙って頷いた。知っていると言いたげに。
「ま、驚かしたら、勝手にベランダから飛び降りたんだけど。それにしても、あの女は異常だよ」
タカは顔を顰めた。落ちくぼんだ目元が影に覆われる。
「気に入った相手には徹底的につきまとうんだ。目をつけられたら終わりなんだよ。こっちは何も悪くないのに。あの女、もう別の標的を見つけてたよ。その男の子も同じ目に遭うんだ。どこにいても不安で、街を歩いていても、しょっちゅう後ろを振り返らなくちゃいけない。もう、ノイローゼになりそうだったよ」
そう言ってからタカはニヤッと笑った。
「次の被害者が出る前に始末したんだ。これは良い行いでしょ?」
「山田、おまえ人相悪くなってるぞ」
「そう?」
タカは妖しく笑った。影に縁どられた目がギラギラと光っている。まるでハロウィンの時期に見る、目だけが光る骸骨の人形みたいだ。
「あの客引きにしてもさ、みんな迷惑してたんだよ。しょっちゅう因縁つけてきて、金巻きあげようとしてさ。特にホストが嫌いみたいで目の敵にしてたよ。まぁ、アイツとんでもなく不細工だからね、しょうがないか」
「おまえ、性格まで悪くなってるぞ」
そう。そういうことは、口に出して言ってはいけない。反感を買うだけだから。以前のタカなら、心得ているはずのことだ。
それなのに、今のタカは他人への悪意を隠そうともしない。
「なんだよ、ガッカリだな」
タカが落胆の声をあげた。
「アンタなら、俺の気持ち分かってくれると思ったのに。因果応報って知ってるでしょ? それに、昔っから祟りとかよくある話じゃん。アンタ、そういうのにもいちいち首突っ込むの?」
「そのての話に興味はない。だけど、お前とは関わっちまったからな。放っておけないし、こんなことは認められない」
伊藤刑事はきっぱりと言った。
「じゃあ俺を逮捕する? もう死んでるのに? 誰が俺を裁けるの?」
タカは勝ち誇るように笑ったが、すぐに険しい顔になった。
「悪いことしてるヤツがのうのうと生きてる。そんなの我慢できるかよ!」
タカの周りで蠢く靄が濃くなった。まるで軟体生物の触手のように、つかさと伊藤刑事のほうへ伸びてくる。
「や、やだっ」
つかさは思わず声をあげた。タカがつかさへ顔を向ける。
「怖がらないでよ、つかさちゃん」
タカは蠱惑的な笑みを浮かべた。
「つかさちゃんの周りにもさぁ、嫌なヤツいるでしょ? 俺がやっつけてあげるよ。だからさ、俺と一緒にいて。協力してよ」
「え?」
猫なで声の提案に、つかさは耳を疑った。
「彼女を巻き込むなよ。関係ないだろ」
伊藤刑事が呆れた声で言う。
殺人の片棒を担げなんて、そんなことできるはずがない。つかさは大きく頭を振った。
「これ以上、罪を重ねるのはやめて。タカくんの魂を汚す手伝いはできないよ!」
軽い。我ながら軽い、とつかさは唇を噛んだ。その証拠に、タカは蔑んだような目でつかさを見ている。
「別にかまわないけどね、生きてる時も友達なんていなかったし。ひとりでも大丈夫だから」
嘘なのはすぐに分かる。そうでなければ、あんなに苦しそうに顔を歪めてはいないはずだ。
タカの周りの闇がさらに濃くなった。
「邪魔するつもりだったら、許さないから」
タカに纏わりついていた黒い靄が、ポタポタと地面に落ちていく。やがてそれが固まって球体になった。震えながら伊藤刑事とつかさに向かって転がってくる。
『フザケルナ、フザケルナ』
『オマエガワルイ、オマエガワルイ』
黒い塊はザラザラした声を発しながら、つかさと伊藤刑事の足に絡みついた。
「やだ、やだ!」
つかさは慌てて足をじたばたと動かし、黒い塊を追い払おうとした。
『オマエガワルイ、オマエガワルイ』
『ノロッテヤル、ノロッテヤル』
その声を聞いていると頭痛がしてくる。意識がぼぅっとして、身体が重く気分も悪くなってきた。
「なんなの、これ?」
つかさは今にも泣き出しそうな声をあげた。
「悪意の成れの果て、みたいなもんだよ」
伊藤刑事が黒い塊を蹴飛ばしながら言った。それでも黒い塊は諦めず、もぞもぞと縋りついてくる。
「あんまり邪険に扱わないでよ。こいつら俺のこと慕っててさぁ、可愛いもんだよ」
「お前、こいつら操ってるつもりかも知れないけど、それは逆だぞ。お前のほうが操られてるんだ。そのうち取り込まれるぞ」
伊藤刑事の忠告にも、タカは鼻で笑って応えた。
「それもいいんじゃない? 生きてる時に友達なんていなかったって言ったでしょ。こいつらが初めての友達かもね」
『コロセ、コロセ』
黒い塊の声は一層高くなる。つかさの頭は濃い霧に包まれたように重苦しく、立っているのも辛い。ビルの壁に手をあて、身体を支えようとした。その瞬間、壁から噴き出してきた黒い触手のようなものが腕に絡みついてきた。
「きゃあ!」
「怖がらないで。君のことも気に入ったみたいだよ。仲間になってあげて」
タカが妖しく嗤う。ものすごいスピードで、もとの人格が抜け落ちていっているようだ。
つかさにしても疲労困憊で、このまま飲み込まれてしまったら、どんなに楽だろうと思い始めていた。それはいけないと分かっていても、抗う力が奪われていく。
「もう、だめだ ・・・・・・ 」
気を失いかけた時、締め付けられていた腕が軽くなった。伊藤刑事が、つかさの腕に絡みつく黒い塊を剥がしている。
タカが舌打ちをした。
「なんだよ、むかつくなぁ。俺は仲間外れかよ」
不機嫌に歪んだ声は、地の底から響いてくるようだった。身体の周りに蠢いていた影もさらに濃くなり、タカの白い頬に茨のような痣を作っていく。
「お前は彼女に助けられたんだろうが! もうやめろ!」
つかさを助けているせいで、伊藤刑事は膝のあたりまで黒い塊に覆われてしまっている。それでも自我を保っているのだ。自分もしっかりしなきゃ、とつかさは歯を食いしばった。
タカが足を一歩踏み出した。目は赤く、怒りに燃えているようだ。
「タ、タカくん ・・・・・・ 」
恐ろしい姿を見た途端、つかさの気持ちはすっかり萎え、伊藤刑事の背後に身を隠した。
「山田、お前そんな姿で恨みや妬みを抱えて、永遠に彷徨うことになるんだぞ。それでいいのか?」
タカは口の端を歪めて笑った。
「願ったり叶ったりだね。これからは何でも好き放題できるってことだよね。俺は不滅になったんだ」
そんなの嘘だ。絶望を強がりで隠しているだけ。タカ自身も分かっているはずだ。そして、タカのことを愛しているひとたちも、せめてこころ安らかにいてほしいと思っているに違いない。
「タカくん、あなたはもう ・・・・・・ いくべきところにいかないと ── 」
「うるさいなっ! もう手遅れなんだよ!」
憤怒の声は激しく、地面やビルの壁を波立たせる。つかさはよろめき、地面に両手をついた。その腕に黒い塊がくっついてくる。
『コロシテヤル、コロシテヤル』
つかさの目の前で黒い塊に裂け目ができ、ギザギザに尖った歯が現れた。
「や、やだ ・・・・・・ 」
恐怖で叫ぶこともできない。腰が抜け、地面にへたりこんだ。
「もう、だめだ」
歯をむき出した黒い塊が鼻先まで迫り、つかさの目に涙が滲んだ。
突然、白い光が浮かび上がった。強い光ではなく、ふんわりとした柔らかな灯りという感じだ。光源は、タカと伊藤刑事の間にある。黒い塊がつかさの腕から落ちた。
タカの動きが止まった。
「あ ・・・・・・ あれは?」
つかさが伊藤刑事の背後から顔を出し、目を凝らした。三十センチにも満たない、白くて小さな雪だるまのような、鏡餅のようなシルエットが浮かび上がった。上にはふたつの小さな三角形。下部からは、ゆらゆら揺れる尻尾が生えている。
「猫?」
伊藤刑事の声は裏返っていた。
「ルナ!」
それまで超然としていたタカだったが、声には明らかな動揺が滲んでいた。
「どうして?」
つかさは咄嗟に、ルナは死んでしまったのかと思った。寂しさのあまり、食べることもできず。でも ──│ 。
ルナは、死者とは何かが違う。ルナを包む白い光に熱を感じるのだ。同じことを伊藤刑事も感じていたようだ。
「あれは、生霊か?」
つかさは保護猫シェルターで見たルナの姿を思い出した。長い距離を移動するため、つかさに憑りついたタカをルナは感じ取った。そして、ケージ越しのつかさの指に頬を擦り付けていた。ルナがタカと暮らし始めたのは、掌に乗るほど小さな頃だったはず。タカとタカの部屋、それがルナの世界のすべてだったはず。
自分の身に置き換えようとしても無理だ。想像すらできない。ルナがどれほどの思いでタカを求めていたかなど。
それでも、ルナはタカの腕に飛び込むわけでもなく、足元にすり寄ることもしない。座ったまま動かず、尻尾だけがゆらゆら揺れている。
「な、何だよ。そんな目で俺を見るなよ!」
タカは今までに見たことがないほどうろたえていた。
「お前だって被害者なんだぞ! 悪いことなんか、なにもしてないのに! こんなの、許せないだろ?」
ルナは動かない。タカは今にも泣きそうに顔を歪めている。
「ずっと ・・・・・・ 一緒にいたかったのに ・・・・・・」
タカの頬を涙が伝う。その涙が洗い流したのだろうか、タカの頬についていた痣が薄くなった。それまで纏っていた虚勢が剥がれ、恥じ入るようにタカは自分の身体を抱きしめた。
「こんな姿 ・・・・・・ お前に見せたくなかった」
ルナは座ったままで、タカを見つめている。ふんわりとした光の中で、その背中には強い意志が感じられた。愛する者が、これ以上堕ちていくのを許さない。
「俺はこれからどうなる? きっと地獄行きだよね」
タカは肩を落とし、自嘲気味に笑った。それから顔を上げ、縋るような目でルナを見つめる。
「う、生まれ変わりってあるのかな? だとしても、俺は無理そうだけど ・・・・・・」
俯いたタカの唇は震えていた。言いたいことがあるけど、それを言う資格が自分にあるのか、迷っているように見える。そして、決意したように顔を上げた。
「もし、もしもだよ。奇跡か間違いでも生まれ変わることができたら ・・・・・・ 何百年後か、千年後かもしれないけど。きっとルナも何度も生まれ変わって、もし同じ時代に生きていたら ・・・・・・ 」
溢れだした大粒の涙が頬を伝うと、タカの顔はつかさが初めて会った時と同じように綺麗になった。
「また、俺のこと見つけてよ」
ルナを包んでいた白い光が大きくなった。
つかさの腕や伊藤刑事の脚から落ちた黒い塊が、あたふたと地面の上を逃げ惑っている。互いを罵る言葉を発しながら、我先にマンホールの隙間に滑り込んでいった。
「もう行くよ」
タカが寂しそうに微笑んだ。
「俺のこと、忘れないでね」
タカの願いにルナが応えた。名残惜しいのか、長く尾を引く鳴き声は悲しみに満ちていた。
ルナは自然の理を分かっているのだ。タカの魂が、ここに留まっていてはいけないことを。たとえ死んでしまっても、幸せになるための努力は続けなくてはならない。
神様に近いのは人間などではなく、もしかしたら四つ足の毛むくじゃらなのではないか、とつかさは思った。
白い光とともに、タカは消えていった。ルナはタカがいた場所をみつめながら、もう一度鳴き声をあげた。その悲し気な声は、ルナの姿が消えた後もしばらく空気を震わせ続けた。
◇◇◇◇◇◇
「次はカラオケだなー」
「いいっすねー」
急に背後から声が聞こえて、つかさはハッと我に返った。振り向けば、路地の先に広がる歓楽街に、たくさんのひとが行き交っている。今いる場所は、薄汚れた壁を街灯がぼんやりと照らす、ただの路地裏に戻っていた。
「大丈夫?」
呆然としているつかさに、伊藤刑事が声を掛けた。つかさは声が出せず、ぎこちなく何度も頷いた。
「だから来るなって言ったのに」
咎めるというよりも、申し訳なさそうに伊藤刑事は言った。
確かに怖かった。こんな怖い目に遭ったのは初めてだ。
「でも、来てよかったと思います」
つかさは指で涙を拭った。タカを見送ることができたのだ。
これから行く場所がどこであろうと、彼は上手くやれるだろう。密かに垂らされた蜘蛛の糸を、きっと手繰り寄せることができる。ルナと再び、巡り逢うために。もしかしたら、蜘蛛の糸ではなく、猫の尻尾かもしれないけど。
◇◇◇◇◇◇
「いやぁ、意外だなぁ。お前がねぇ」
ナビに従って右折をしたあと、父親が呟いた。
「今まで動物を飼いたいなんて、言ったことないのに」
「そうだっけ?」
つかさは車窓からの景色を眺めながら答えた。自分の身に起きたことなど言えるわけがない。死ぬほど心配するだろうから。
時間貸しの駐車場に車を停め、買ったばかりのキャリーバッグを持ち、住宅街の狭い路地を歩く。
「前にね、友達に付き合って来たことがあるの」
父親と二人で出掛けるなんて、ここ最近はなかったことだ。多少の気まずさを感じながら、つかさはぎこちなく喋る。いつの間にか、遠い存在になってしまったように感じた。
シェルターに着くと、以前も対応してくれた女性がつかさを覚えていた。
「来てくれて嬉しいわ。おもちちゃんと打ち解けたのはあなただけだし。なにか絆のようなものを感じたのよね」
あの時は、飼い主のタカが憑りついていたから。今回は、あの時のように甘えてきたりはしないだろう。
そう思いながら、古い民家をリフォームしたシェルターの年季の入った廊下を歩く。途中にある部屋には廊下に面した窓があり、中では数匹の猫が気ままに動き回っている。父親は興味深そうに部屋の中を見ていたが、先を促されると渋々といった様子で再び歩き出した。
ルナは以前来た時と同じケージの中にいた。こちらに背を向けて。
「ルナ」
小さな声で呼びかけた。無視されることを予想して。
ルナはゆっくりと振り向き、つかさを正面から見つめた。その青い目は哀しみを帯びていて、つかさは胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「この猫か?」
父親の質問に、つかさは黙ったまま頷いた。気になる猫がいると伝えてあった。
「うん、可愛い顔してるな」
父親はうんうんと頷くと、他のケージを覗きにいった。
「このところ元気がなくてね」
女性がケージを開けながら言う。手には、猫が暴れないよう洗濯ネットを持っている。
「数日前には、ずっと寝ててね。獣医さんに診てもらっても異常はなかったんだけど、心配してたのよ」
ケージの開いた扉から、ルナは静かに飛び降りた。そしてつかさの前に座る。ルナにはすべてが分かっているようだ。持参したキャリーを開けると、ルナは自分から中に入った。
「まあ、すごい!」
女性は心底驚いているようだ。
「長年猫を飼っているひとでさえ、こんなにすんなりとはいかないものよ」
キャリーの中を覗き込むと、ルナは箱座で目を閉じている。
ルナはすべて分かっている。つかさは確信した。お互いのなかに共有しているものの存在。一緒にいれば、タカの最後の願いを叶えることができるだろう。
「忘れないよ。タカくん」
つかさはキャリーの扉を閉めた。
部屋を出て、応接用の広間で手続きや注意事項の冊子をもらい、説明を受ける。その間、父親は壁に貼ってあるポスターを眺めたり、置いてあるパンフレット等を手に取っている。
「それでは、なにか気になることがあれば、いつでも連絡してください」
「はい。色々とありがとうございます。あれ、お父さん?」
父親は壁際に置かれた長机で、アンケートか何かの記入をしていた。隣に立つ、つかさと同年代の女性と談笑しながら。
「お父さん、もう行くよ」
「おう。行くか」
記入した用紙を女性に渡し、代わりに何かのチラシを受け取っていた。
車に戻り、シートベルトを締めると、父親がつかさにチラシを渡した。
「譲渡会? 来月って、もうこの子がいるのに?」
多頭飼いしているひともいるが、長谷川家では動物を飼うこと自体が初めてだ。ルナだけでも家族の生活は激変するだろう。いきなり二匹も三匹も、となったら大変だ。父親がこんなに無責任な人間だったとは。つかさは呆気にとられた。
父親は駐車場から車を出すため、左右に目を遣りながら答えた。
「いや、譲渡会でのボランティアを募集してたから申し込んだんだ」
「えっ? お父さんが? どういう風の吹き回し?」
「うん、あの猫たち見てたらなぁ。なにか役に立てればいいなと思ったんだ。譲渡会は日曜日だし。ま、俺に釣りの才能はないみたいだからさ」
それはみんな知っている。それにしても、釣りに行かない休日は家でゴロゴロしているだけの父親が、ボランティア活動なんて想像ができない。会社ではちゃんと仕事をしているのだろうが。
「へぇ~、へぇ~、すごいねぇ」
つかさは純粋に感心していた。
「お前の名前も一緒に書いといたから」
「はぁ?」
予定も訊かずに、なんて勝手な。つかさは眉をひそめたが、実際予定もないし、休日に父親とボランティア活動というのも悪くないかもしれない。そう思ったものの、なるべくもったいぶってから了承した。
◇◇◇◇◇◇
家に着き玄関を開けると、ここ数日漂う淀んだ空気に包まれる。水分を含んだような生臭さに気分が悪くなる。
「ただいま」
キッチンでは母親が夕食の支度をしており、弟の祐輔はソファにぐったりと座り込んでいる。今日は朝から「疲れが取れない」「寒気がする」とぼやき、今も長袖のジャージを首元までファスナーを閉めて着ているのだ。それもそのはず、祐輔の肩には、びしょ濡れの女の幽霊が覆いかぶさっているのだから。
「猫、見せて」
それでも我が家のニューカマーには興味があるようだ。
つかさがキャリーの扉を開けると、ルナはゆっくりと出てきた。脚を一本ずつ丁寧に伸ばした後、大きな欠伸をした。物怖じしない性格のようだ。
「うわ、可愛いなあ」
祐輔が身を乗り出してルナを覗き込んだ。それにつられて、幽霊も祐輔の肩越しに顔を出した。
「シャー!」
ルナは歯をむき出して激しく威嚇した。
「ハハ、威勢がいいな」
祐輔も物怖じしないタイプだ。ただ、幽霊に憑りつかれているせいで、笑い声に力はない。
そこで驚くべきことが起きた。それまで飄々としていた女の幽霊の顔が引きつり、我が物顔でくつろいでいた祐輔の肩から慌てふためいて下り始めた。壁を伝うイモリのような動きで、かなりキモい。それからジタバタと床を這い、閉じた窓をすり抜けて外に出た。さらに通りに面したフェンスを乗り越え、女の幽霊は姿を消した。
気付けば、母親もキッチンから居間に来ていて、つかさの隣で一部始終を見つめていた。目を見合わせ、もう一度窓の外を見遣る。女の姿はないし、気配もまったく消えている。家の中の空気も浄化されたように感じる。
「と、とにかく良かったわね」
母親も驚いているようだ。
「なんか暑いな」
祐輔はジャージを脱いだ。頬に血色が戻り、元気になったように見える。ルナがソファに飛び乗り、祐輔の横で毛づくろいを始めた。あっという間にこの家に馴染んだ白い猫を、弟は嬉しそうに見つめている。
祐輔をタカの代わりだと思っているわけではないだろう。でも、この世に未練を残したタカを送り出したルナには責任があるのだ。タカがいない一生を幸せに生きるということ。そうでなければ、タカは安心できないだろう。
「コイツ見てたら腹減ってきたな」
祐輔はルナの背中を撫でている。
「コイツの名前さ、『大福』にしようよ。ほら、この白くて丸い背中がさ、大福にそっくりじゃん?」
「はあ?」
「あら、可愛いわね。じゃあ『大ちゃん』て呼ぼうかしら」
まったくの熟考もない、その場の思い付きの提案に母親も賛同した。
「ちょ、ちょっと待って。この子の名前はもう ── 」
「大ちゃん、お腹空いてる?」
「にゃあ」
「ちゃんとキャットフード買ってあるのよ。大ちゃん、チキンとマグロ、どっちがいい?」
「にゃあ」
もう勝手に呼び始めている。しかも、ルナもそれに反応している。
「ねぇ、あなたの名前は『ルナ』でしょ?」
つかさはルナに詰め寄った。
つかさを見つめるルナの青い目はどこまでも深く、数えきれないほどの生命を包む海を思わせた。
〈 了 〉




