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前編

 その小さな生き物は、掌の中で震えていた。小走りで自分の部屋に戻り、人肌に温めた牛乳を与えた。小指の爪ほどの大きさの舌を小刻みに出し入れして、夢中で飲んでいる。

「おい、落ち着いて」

声を掛けると、上目づかいでこちらを見た。それでも、牛乳を飲む舌は止まらない。

小さな身体に宿る、とてつもない生命力を感じた。

 スマートフォンで検索した動画を参考にしながら、洗面所で汚れた身体を洗ってやった。最初こそ激しく震え、哀れっぽい声で鳴いていたが、温かいお湯が心地良いことに気付いたのか、大きな欠伸をするようになった。

 汚れを洗い落とすと、くすんだねずみ色が実は純白だったことに驚いた。小さな顔の半分を占める真ん丸な青い目。鼻の頭は柔らかなピンク色だ。

「なんだ、おまえ美人だな。いや、人じゃないから美猫か」

床の上に胡坐をかき、まじまじと仔猫を見て声を掛けた。そんな誉め言葉には興味もない様子で大きな欠伸をすると、胡坐の脚に身体をくっつけて箱座になった。接している部分がじんわりと温かく、心地よかった。 

 父親が転勤族で引っ越しが多かったから、動物を飼ったことなどなかった。一人っ子だから、誰かの面倒を見たり、頼られることもなかった。さらに、友達と呼べる相手もいない。その時その時で一緒に遊ぶ相手はいたが、転校してしまえばそれっきり。今では、彼らの名前も定かではない。

 大学に通うため上京した後、父親のリストラで仕送りが減ってホストを始めた。先月、大学を辞めたばかりだ。両親には伝えていない。学校から親へ連絡があったかもしれない。でも、今のところ両親から何も連絡はない。

 自分は誰からも必要とされていない。そんな思いはずっと持っていた。それと同じく、誰も必要としない。両親にすら頼れないことが分かった時に、自分でそう決めた。でも、この小さな生き物は、信頼して身を寄せてくれている。

「すごいなぁ」

ふわふわの小さな身体を撫でながら呟いた。

「お前から見たら、俺なんて怪獣みたいなもんだろう?」

電柱の陰から、こっちに向かって必死に鳴いている姿を思い出した。

「俺が悪いヤツだったら、どうするつもりだったんだよ」

仔猫は床の上で丸くなっている。もう眠ってしまいそうだ。

 そのままの姿勢を保ったまま腕を伸ばし、ソファの上にあるクッションを取った。仔猫をそっと抱き上げ、水色のクッションに乗せる。仔猫はもぞもぞと動いて心地よいポジションを探り当てた後、目を閉じて眠ってしまった。ホッとして、急に疲労が襲ってきた。ベッドに倒れこむ。カーテンの隙間から、水色の空が見えた。ビルとビルの間から覗く、切り取られたような東京の空。そこに、白い月が浮かんでいた。触れればぽろぽろと崩れてしまう、砂糖菓子のように儚げな月。クッションの上で丸くなった仔猫とだぶって見えた。柔らかすぎる白い被毛が、呼吸に合わせて揺れる様が。こんなにも小さな仔猫。誰かが守ってやらなければ。

 今まで、誰からも必要とされなかった。でも、この仔猫はそんな自分を選んでくれた。

「ずっと一緒にいるからな。絶対、幸せになろう、な」

胸に湧きあがった熱い思いは、決意とともに溢れ出し、小さな部屋をぬくもりで満たした。




   ◇◇◇◇◇◇


 藤田潤一は、自分の人生を呪っていた。

 運が悪く、何をやっても邪魔が入って上手くいかない。頑張れば頑張るほどドツボにはまる。いつもそうだった。

 県立高校を卒業した後、役者を目指して上京した。小さな劇団に所属したが、もちろんそれで生活はできない。劇団での稽古よりも、長い時間をアルバイトに費やした。

「向いてないよ」

劇団の幹部に言われた。二年ほど活動した後だ。

 まともに台詞のある役はもらったことがなかった。大道具や小道具の裏方に回され、舞台に出ることもない日々も続いた。ある日の酒の席で「もっといい役がほしい」と直訴した時の返答がこれだった。

「表現に乏しく滑舌が悪い。致命的だよ」

 次の日から劇団の稽古には行かなかった。誰にも「辞める」とは伝えず、ただバックレた。誰かが心配して連絡してくると思った。あの暴言を詫びるなら、戻ってやってもいい。だが、誰からも連絡はなかった。

 あんなチンケな劇団じゃ、俺の才能は生かせない。大手の芸能プロダクションばかり、片っ端から履歴書を送った。どこからも反応はなかった。認めたくない。チャンスは間もなく、大きな恩恵を伴って俺を見つけてくれるはずなのだ。


「子供ができたの」

ある日、一緒に暮らしていた女が言った。飲み屋で知り合った女だ。小さな運送会社で事務をしている。部屋の家賃の大半を、この女が払っていた。

「無理だよ ・・・・・・」

子供なんて、自分の人生の計画にはなかった。やるべきことがあるのに、その邪魔をされた気分だ。夢を応援し、支えてくれるはずじゃなかったのか。約束が違う。子供を育てるなんて、いったいどれぐらいの金が必要なんだ。

「分かってるわよ、そんなこと」

彼女の言葉は氷のように冷たかった。そこに込められているのは、明らかに侮蔑だ。

 数日後、彼女は「中絶手術を受けてくる」と言って出て行ったまま、もう戻ってこなかった。内心ではホッとしていた。責任なんて取れない。だいたい、本当に自分の子かどうかも分かったもんじゃない。ただ、彼女がいなければ、この部屋の家賃が払えない。稼げる仕事を探さなければ。

 手っ取り早く稼げると思った仕事がホストだった。何軒目かの面接の日、店の不手際でダブルブッキングされていた。時間もないということで、ふたり一緒に面接を受けることになった。

 もうひとりの星野という男は、とにかく人懐っこく、場を盛り上げるのに長けていた。彼の話術に巻き込まれ、藤田もいつになく饒舌になり、面接は楽しい時間になった。その勢いのまま、ふたりとも即決採用となった。

 ただ、なかなか指名客が取れない状況に対して、星野のほうはめきめきと頭角を現わしていった。それから数年後、三十を目前にした星野は、この店の店長になった。藤田はといえば、何年経ってもうだつが上がらないままだ。


「早く火ぃ点けなさいよ。気が利かないわねぇ」

数少ない指名客のばばあに恫喝された。

 オイルを補充し忘れたライターに手間取った。数回の火花を散らし、やっと小さな火が点いた。

「ほんとにトロいわね。アンタ、ホストに向いてないんじゃない?」

藤田はへらへらと笑いながら「すみません、すみません」と繰り返す。たまに来ては安い酒ばかり頼んで文句を言い散らす。大嫌いな客だ。

 近くの席から笑い声がドッと起きる。若い女のグループで、とても羽振りがいい。その真ん中にいるのは、先月入ったばかりの新人だ。

「こんなの飲んだら俺、酔っぱらっちゃうよ」

高い酒を注がれて困っている。「かわいい!」なんて歓声が響く。あんなガキ、素人くさいのが新鮮でウケてるだけだ。ふざけやがって! 

「アンタのその鼻、ひどいわねぇ。整形しなさいよ」

ばばあはそう言ってせせら笑った。鏡を見てみろ。自分は怪物そのものじゃないか。どうせ、ダンナにも相手にされてないんだろう。だからこうやって、売れないホストをいたぶって憂さ晴らしをしているんだ。

 ふざけやがって、ふざけやがって。あのガキも、どうせ俺を見下しているんだろう。簡単に金が稼げて、バカな女どもから高価なプレゼントも貰えて。人生なんてちょろいと思ってるんだろう。

「ふざけやがって、ふざけやがって!」


 殺風景な小部屋の中、独り言は虚ろにこだまする。差し入れを持ってくるヤツもいない。

「ちくしょう、バカにしやがって!」

頭を掻きむしりながら大声を上げた。

「ハァハァ ・・・・・・」

息を切らし顔を上げると、視界が歪んだ。殺風景な部屋の隅に、黒い靄のような影が落ちている。藤田は目をしばたたいた。細かな黒い繊維が絡まったような影は、ゆらゆらと揺れながら大きくなっていく。

「 ・・・・・・ なんだ?」

冷水を掛けられたような悪寒が走った。黒い靄がどんどん近づいてくる。

「や、やめろ!」

思わず口から出た言葉は、掠れてひどく震えていた。

「クックック ・・・・・・」

次第に塊となっていく黒いものから、嗤い声のような音が漏れてくる。藤田の背中に冷たい汗が伝った。

「来るな、来るな! やめろ! やめてくれ ・・・・・・」

最後は泣きながら懇願していた。




   ◇◇◇◇◇◇


 大浦里美は、新宿区にある自宅マンションのドアを開けた。鼻歌を歌いながらパンプスを脱ぎ捨て、上機嫌で廊下を進む。広いリビングに置かれたソファの上に、高級ブランドのバッグを放り投げた。相変わらず鼻歌を歌いながら、部屋を見回す。カーテンを開ければ、光が溢れる新宿の夜景が広がっている。もうすぐ、この部屋ともお別れだ。来週、港区のマンションに引っ越しをする。推しているアイドルの自宅を突き止めたのだ。

 里美は中堅の商社に勤めている。取締役と里美の父親が同じ大学のサークルに所属していたらしく、バブルという恩恵もあって相当派手な生活を送っていたようだ。詳しくは知らないし興味もないが、会社の取締役は里美の父親に色々と弱みを握られているらしい。皆が就活で忙しい頃、真夏にスーツを着ていくつも企業を回るなんて面倒くさいと思った。父親に「東京で就職したい」と告げると、その取締役と話をつけてくれたのだ。

 とはいえ、都心に建つ高層マンションの家賃を、給料だけで賄えるわけではない。九州で不動産会社を経営する心配性の父親は、東京で一人暮らしをする娘が心配で仕方ない。娘の安全のためなら、出費は惜しまない。

 推しが住むマンションに空き室があることが分かったが、築浅で部屋も広いため、家賃はここの約三割増しになる。すぐに父親に電話を掛けた。最近、この辺りで痴漢が出没しているらしいとでまかせを言った。

「もっとセキュリティのしっかりした部屋を探せ」と、父親は叫んだ。「家賃なんか、いくら高くても構わん」とも。


 テレビの横にあるチェストは処分しようかと考えた。新しい部屋には、大きなクローゼットがある。

「ん?」

推しグッズの中に紛れ、ほとんど忘れてしまっていた物が目に入った。フエルトで自作した、かつての推しの人形だ。胸の真ん中にはさみが刺さっている。

「タカくん、まだいたの?」

彼は歌舞伎町のホストだった。お気に入りで、かなりの金額をつぎ込んだ。

「あなたが悪いのよ。私を避けるなんて」

里美は人形の顔を指で弾いた。

 

 あの頃、好きで好きでたまらなくて、形のあるものが欲しくなって、タカの人形を作った。でも、フエルトと綿だけでは物足りないと思った。

 いつものように店に行き、隣に座るタカが横を向いた瞬間を見計らい、愛しい彼の髪の毛を引き抜いた。

「痛! ちょっ、何?」

一本でよかったのだが、指には三、四本の髪の毛が絡まっていた。逆に、一本だけ摘まんで引き抜くほうが難しいだろう。その髪の毛を、持参したジップ付きのビニール袋に丁寧に入れた。

「ウフフ、秘密」

「 ・・・・・・」

タカが困惑しているのは分かった。怖がってもいるようだ。でも、そんな顔がさらに愛しく見える。彼は、この自分を脅威に感じている。まさに支配者だ。この髪の毛は、タカ人形の中に入れるつもり。これでいつも彼と一緒だ。

 数日後、人形を持って店に行った。タカに見せたかったのだ。でも、彼に会うことはできなかった。いつもは愛想のいい受付係が、この日はよそよそしかった。

 数日後、開店前の早い時間から、店が入るビルの前で見張っていた。トレーナーとジーンズ姿のタカがビルに入っていくのを確認した。そのあと店に行ったが、受付係が嘘をついた。「タカは休みだ」と。頭にきて、その受付係を怒鳴りつけた。

「これ以上騒いだら警察を呼ぶ」

奥から出てきた長髪の店長が、偉そうに言った。こっちは客なのに。

 警察沙汰になって親に連絡がいったら、さすがにマズい。ホストクラブに通っていることがバレたら、仕送りを止められるか、最悪実家に戻されるかもしれない。その夜は引き下がった。

 でも、諦められるはずがない。SNSに何度もメッセージを送ったが、ことごとく無視された。ブロックされているらしい。閉店後にビルから出てくるタカを待ち伏せしたこともある。彼は数人のスタッフに守られるようにビルから出てくると、待たせてあったタクシーに急いで乗り込んだ。

 あんなに金を使わせておいて、逃げるなんて。許せない。すぐにタクシーを追いかけた。週末の歌舞伎町。人が多く、思うように進めないタクシーはノロノロ運転。すぐに追いついて、タカが乗っている後部座席の窓を拳で叩いた。

 あのきれいな顔が恐怖に慄く。運転手は憤慨したように、こちらを向いて何か怒鳴っていた。そんなことは、どうでもいい。

 腹立たしいことに、タカはすぐに顔を背けて運転手に何か指示している。こっちを向け。その怯えた顔を見せろ! こっちには、その権利がある。

「アタシを無視するなんて許さない! アンタなんか死んじゃえ!」

遠ざかるタクシーに向かって、夢中で叫んだ。


「アタシがあんなこと言ったから? だから死んじゃったの?」

もちろん自分で手を下したわけではない。自宅に警察が来て、初めて彼の死を知った。本当に驚いたけれども、罰が当たったのだと考えると腑に落ちた。もう、その頃にはタカへの興味は失せていたし、アリバイもあったから警察はすぐに帰った。

「でも、ほんっとにあの刑事、失礼だったわ。アタシのことをストーカーみたいに ││」

「だって、その通りじゃん」

不意に聞こえた声に驚いて振り向いた。

 リビングのドアの前、黒い靄のようなものが見える。部屋全体が少し暗くなったように感じた。

「何?」

里美は目を凝らした。靄は繊維が絡まるように形をなしてゆく。

「クックック ・・・・・・」

「どうして ・・・・・・ あなた死んだはずでしょ ・・・・・・」

そう口にして理解した。コレは、生きている人間ではない。禍々しい黒いオーラは膨らみ続け、すべてを飲み込んでしまいそうだ。

 里美は後退った。ベランダに出るガラスのドアが背中にあたる。

「まだ、こんなことしてるの? どうしようもないね」

ソレは、チェストの上の写真や推しグッズを見て顔をゆがめた。

「今度はこの彼に付きまとって、追い込んでるの?」

「な、なに言ってんの? 付きまとってなんかいないから! アンタこそなんなのよ! アタシを弄んで! アンタが悪いのよ! アンタのせいよ!」

里美はカッとして叫んだ。自分は上客だったのだ。ホストに批判される筋合いはない。

「まったく反省してないんだね。なんでも他人のせい。アンタは、生きてる価値なんかないよ」

 部屋がさらに暗くなったように感じた。ソレが近づいてくる。

「こ、来ないで ・・・・・・」

里美の背中がガラスにぶつかった。そんなに大きな衝撃ではなかったが、背後のガラスは甲高い音を立てて砕け散った。

 里美はベランダに転がり出た。夏の終わりの湿気を帯びた温風が、身体中にまとわりつく。膝をひどく擦りむいたことに腹が立ち、タカを鋭い目で睨みつけた。

「このバカ! ひどいじゃない!」

「ひどいのはどっちだよ」

口元に笑いを浮かべながら近づいてくる。視界が闇に包まれた。地獄という穴の底は、これぐらい暗いのだろうかと恐怖に痺れる頭の中で考えていた。




   ◇◇◇◇◇◇


 伊藤は隣にいる松本と、ほぼ同時に上を見上げた。

「あそこの部屋ですよね?」

伊藤が訊くと、松本は頷いた。

 このマンションには来たことがある。去年の暮れだ。

 歌舞伎町のホストがビルから転落死し、事件、事故、自殺、あらゆる可能性を考慮して捜査をしていた。ホストクラブの店長だった星野から、この女の危険性について証言があった。

 死亡した山田の上客だったが、そのうち異常な執着を示すようになった。気に入らないことがあれば激昂し、大きな声で喚き散らす。自己中心的で、相手に敵意を持つと脅迫まがいの言動が見られる。暴力も辞さないタイプだ、と。

 星野の言う通りだった。山田が亡くなったことは知らなかったようで驚いていた。山田と関りがあることを確認し、当日の行動を尋ねると途端に顔つきが変わった。激しい言葉で抗議を始め、なだめても聞く耳を持たず、会話にならなかった。やがて、事件があったクリスマス・イブの夜は、男性アイドルグループのコンサートに行っていて、そのチケットを突きつけるように見せてきた。

 この件での疑いは晴れたものの、それまでの山田に対するつきまとい行為は、常軌を逸していると言わざるを得ないものだった。

「あの、ヤバい女ですよね?」

若い伊藤の言い草に、年配の松本は苦笑いを浮かべながら頷いた。


 落下の衝撃で通行人が気付き、すぐに通報。心肺停止の女性は搬送され、病院で死亡が確認された。

 ひとり暮らしの部屋は施錠されていた。管理人に開けてもらった部屋のリビングでは、ベランダに通じるサッシの窓が割れていた。

「誰もいないな ・・・・・・」

「ええ」

 松本の言葉に頷いたが、伊藤には見えていた。リビングの中をうろうろ歩きながら怒鳴り声をあげている大浦里美の姿が。

「アンタのせいよ、アンタのせい! アタシは悪くない!」

すると、叫び声をあげながらベランダに駆けていき、柵を乗り越えて落ちていった。

 伊藤の背中を冷たい汗が流れていく。次の瞬間、大浦里美が再び部屋の中に現れた。

「出てってよ! 出ていけ!」

力いっぱい叫んでいる。すると、大きく開けた口から、細い繊維の塊のようなものが湧きだした。

 伊藤は一歩後退った。話ができる状態ではない。もう正気を失っている。見えていることを気付かれたら非常に危険だ。

「アンタのせいよ!」

ヒステリックな叫び声が耳に突き刺さってくる。

「 ──とう、伊藤!」

大浦里美の声でかき消されていた松本の声が聞こえた。

「はい!」

 松本はベランダに出ていた。伊藤もベランダに向かった。部屋の中にも外にも、割れたガラスの破片が飛び散っている。

「これ、見てみろ」

松本はしゃがみ、ベランダの床に落ちているものを指さした。

「これは ・・・・・・」

フエルトでできた人形だ。部屋からの灯りは全体を照らしていないため、松本はペンライトを点けた。

「誰かに似てないか?」

松本の問いに伊藤は黙って頷いた。山田高志だ。

 大浦里美が山田に付きまとっていた事実があり、その答えに至るのは簡単だった。人形の胸に刺さったはさみを見て、松本は顔をしかめた。

「現代のわら人形か? ひとを呪わば穴ふたつってやつか? うわっ、寒気がしてきた」

無理もない。部屋から出てきた大浦里美が、松本の身体をすり抜け、ベランダの柵を超えて身を投げたのだから。

 この先、大浦里美はこれを繰り返すのだろう。この部屋で。何年も、いや何十年かもしれない。




   ◇◇◇◇◇◇


 ケージの中、横たわって脚を伸ばし、ルナは眠っていた。それでも、周りのケージにいる猫たちが立てる音に反応し、耳はくるくると動く。

 つい最近来たばかりの茶トラが、不安のせいか悲痛な声をあげた。下のケージから「心配ないよ」と優しい声が返す。反対側では、鳴き声に苛立った猫が尻尾をケージの床に打ち付ける音が聞こえる。

 ルナは目を開けた。部屋にはオレンジ色の小さな灯りが点けられている。夜目が効かない人間のためだ。

 窓に目を向けると、カーテンの隙間から月が覗いている。輪郭のぼやけた丸い月。こうして窓の外の月を見ながら、愛おしいあの人を待っている。

 やがて黒い雲が広がり、少しづつ月を隠していく。まるで飲み込んでいくように。

「ニャー」

ルナが声をあげた。それは不安に彩られた、か細い鳴き声だった。



   ◇◇◇◇◇◇


「う~ん ・・・・・・」

つかさはうなされていた。

 九月に入っても猛烈な暑さは続いていた。それでも朝晩はいくらか過ごしやすくなり、一日中稼働していたエアコンにも、やっと休憩時間が与えられるようになった。

 何かが重く圧し掛かるような、息苦しさに目を覚ました。

「つかさちゃん」

自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。声がした窓のほうを向こうとしたが、頭が動かない。

「うう ・・・・・・」

声を上げようにも、奇妙なうめき声しか出せない。動かせるのは目玉だけだ。

「つかさちゃん」

「タ、タカくん ・・・・・・ なんで?」

ベッドの横に立ったタカが、つかさの顔を覗き込んでいた。

「驚いた? 会いたくて来ちゃった」

タカが妖艶に笑った。

 紛れもなくタカなのだが、雰囲気がどこか違う。

「かわいい寝顔だね、つかさちゃん」

 汗が吹き出してきたが、身体は氷のように冷たい。

「フフフ」

密やかな笑い声が部屋に漂う。つかさは力尽きたように、意識を失った。


   ◇◇◇◇◇◇


 つかさが目を覚ました。東に面した窓のカーテンの隙間から、強く陽が射し込んでいる。朝だ。

「うう、寒い」

つかさは毛布にくるまった。

 九月に入ったが、気温は連日三十度を超えていた。朝晩は過ごしやすくなったとはいえ、これだけの陽射しならば気温はそれなりに上がっているだろう。エアコンは点けていないのに、それでも寒気を感じていた。

 夜中にタカが現れたことは覚えているが、現実である自信がなく、夢だったのではないかと思えてきた。なぜか、身体はぐったりと疲れている。

 着替えて一階に降りていくと、さらにひんやりとした空気が漂っていた。

「あ、つかさ」

洗濯機が置いてある洗面所から母親が出てきた。奥からは洗濯機に注入される水の音が聞こえる。

「朝ご飯食べるでしょ、用意するから」

母親は、いつになく険しい顔をしていた。

「ねぇ、何を見ても、祐輔とお父さんには何も言わないで」

「え?」

戸惑いながらダイニングに入ったつかさは、本日数回目の悪寒に震えることになる。

 すでにテーブルで朝食を摂っている弟の背中に、女の幽霊がぶら下がっていたのだ。上下黒のスーツを着た、長い髪の女だ。おんぶのような格好で背中に貼り付き、脚を祐輔の胴に巻き付けている。

「うげっ!」

呻いたつかさを母親は目線で窘めた。

 幽霊が見えるのは、つかさと母親だけだ。父親と弟の祐輔はまったくその存在に気付いていない。もし本当のことを言ったら大騒ぎになるだろうし、見えていることをこの幽霊に知られるのも面倒だ。

 つかさは決して幽霊の方は見ずに、そっぽを向きながら弟の隣に座った。

『もう九月も中旬ですが、今日も暑くなりそうです。朝から気温もぐんぐん上がってます』

「そうかぁ? 今朝はずいぶん涼しいけどなぁ」

父親がテレビのお天気キャスターに異論を唱えた。困惑する父親の顔を、女の幽霊は弟の肩から身を乗り出して凝視している。

 この冷気は、この女の幽霊のせい。では、昨夜タカが現れたのも、この幽霊と何か関係があるのだろうか。

「ああ、なんか身体が重いなぁ。寒気もするし」

祐輔がトーストをかじりながらぼやく。そりゃそうでしょう。背中に成人女性がぶら下がってるんだから。幽霊だけど。

『昨夜、新宿区のマンションから女性が転落し ── 』

つかさは幽霊を見ないよう、興味もないニュースを伝えるテレビに顔を向けていた。

「はい」

母親がハムエッグとトーストを、つかさの前に置いた。祐輔に憑りついた幽霊が、つかさの顔を覗き込む。血の気のない白い顔の所々に青黒いあざ、白濁した大きな目がぎょろりと動く。なぜか全身びしょびしょ。

 やだぁ、気持ち悪い。つかさは溜息をつくと、朝食の皿を持ってキッチンへ向かった。

「だめだぁ、食欲ない ・・・・・・」

「サンドウィッチにしてあげるから、学校で食べなさい」

母親は祐輔の背中に一瞥をくれると顔をしかめた。幽霊は、祐輔の肩に膝を引っかけて逆さまになり、振り子のように身体を揺らしている。母親は小さく舌打ちをした。この家に幽霊が入り込んでいるということが迷惑なのは当然だが、まだ未成年の息子の身体に、妙齢の女が絡みついていることの方が、母親にとっては不快なようだ。

『速報です。昨年末、新宿歌舞伎町でホストの男性がビルから突き落とされて殺害された事件で ── 』

つかさはテレビに顔を向けた。

 去年のクリスマス。幽霊のタカに出会い、歌舞伎町のビルとビルの隙間で死んでいる彼を見つけ通報した。その後、犯人は捕まり、タカは成仏したのだ。

 テレビの画面には、タカが働いていたホストクラブが入る雑居ビルが映っている。

『殺人罪で逮捕、起訴された藤田潤一被告が、収容中の拘置所内で死亡しているのが見つかりました』

映像は、塀に囲まれた大きな建物に変わった。そこが拘置所なのだろう。

『今後、司法解剖を行い、詳しい死因を調べる方針 ── 』

みぞおちの辺りがざわざわとする。

 昨夜、部屋にタカが現れた。そして、タカを殺した犯人が死んだ。これは偶然だろうか。

「どうしたの? 学校でしょ? 早く支度しちゃいなさい」

「う、うん」

母親に促され、胸騒ぎを覚えながらも、つかさはキッチンを後にした。


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