II / 『空絶』
「ん?」
まだ何も知らない、伊藤和士火は、不思議な感覚を感じとった。
暗い閃光、”空”から連れ戻されたかのような……。
……青天白日な光の世界に向かおうとしていたし、確かに”死”を実感していた……。
死の安寧と静寂を無下にされた驚愕が、彼の魂を震撼させて慄かせている。
ぶるぶる、と体が震えるように小刻みに振動をする。
視界が妙に低い、――?
灰紫色の靄のような瘴気が、ゆるりと漂っている。
薄闇の世界――、蝋燭のような灯火が、薄気味悪く点々と灯っている。
わけがわからない困惑した思いを落ち着かせようと、深く息を吸い込んで吐くと、――声が思わず漏れた。
「……なんだ…………。なにが起こって……。
ここは……一体……どこだ」
伊藤和士火の心が、自由と反応を求める——。
この世界での一歩を踏み出し始める……。
うにゃり、—— 、うにゃうにゃうにゃ、——————。
永遠なる流動体の奇妙なゆっくりとした一歩——
何かが……とんでもない何かがはじまる、そんな一歩だった。
実際は、ただ、気持ち悪い、流動体が、流れるように蠢いているだけだ。
仮足と言われる足を突き出すと――、粘液状の身体が崩れるように垂れ下がって伸びた。
神経が微かに揺らぐ。
五感を研ぎ澄まし、ぎこちなく、たどたどしく粘体が前に這い動いていく。
不快で重苦しい不安と恐怖が、彼の心を覆っていく。
しばらくすると――。
——己は、一体誰だ!? 変だ――自分の、身体はどうなってる!?
そう思ったとたんに突然、目の前の視界が滑り落ちた。
彼に、痛みの衝撃が突き抜ける――。
自分の頭を手でガードする。
刹那、彼は《絶望と底知れぬ恐怖》が心を支配する――、
自分に手がないということがわかったことだけじゃない――もっと多様で多層な恐怖だ。
彼の細胞が、階段の縁にこびりつく。
奇妙なぬめぬめとした液体は、階段に跡を残してゆく――。
転がりながら《不気味な身体》が一瞬見えた――。
彼は、その光景(自分)に電撃が走り――絶句する――。
不定形の蠢く身体が!!
……永久変形をしながら伸び縮みしながら動いていたのだ。
決まった形を持たない不定形な身体は、長い階段を落っこちていく――。
周りの風景と自分の身体が、くるんくるんと回転している――!
全てを一瞬理解したかのような不確かな直感が走る。
――頭が不意に真っ白になる。
身体が自由に動かない――
!!!!!!!!!
突然、まだ転生まもない人間だった時の身体が、幽体離脱する――。
人型の身体が、両手をいっぱいに拡げながら。
幽体が、ふわふわと宙に浮かんでいく。
自分を見た。
スロモーションで転がる粘液状の自分を、否、――モンスターを、
(あああ……ああ……あ……俺の身体が……どろどろの……あああああ……ゼリー、モンスター!!! )
「崩れたスライムの化け物!! あああ!! あああ!! あーー!!! クソがぁぁぁああああああ!!! どうなってるぅぅぅー!!」
彼は、感覚が凍り――、ないはずの心臓が止まりそうになった。
そして――幽体は引っ張られるように元に戻った――。
彼は、階段の下の赤黒い汚れた絨毯が敷かれた場所まで落っこちていた。
身体が、波打ち、のたうちまわるようにもがき動く。
しかし、自分で自分のことは、見ることができない――。
しばらくすると彼はあきらめ、自分自身の光景を思い出す。
――ああ、モンスターだ……、俺は怪物だ…………
「あああ……。俺の身体はなんだ……。
……ああ…………一体俺はどうしちまったんだ…………!」
彼は、仮足を突き出すと無意識に天井を仰ぎ見た。
破断しない柔軟な体が突然動かなくなって止まった――。
しかし厳密には、彼特有の《特殊性能》である”永遠変形”は生じて、永遠に動き続けていた。
スライムでもない、不思議な色をした粘液状の生命体ーー
小さいが、生まれたての赤ちゃんぐらいの大きさがある。
――潰れたような外見、あの有名なスライムを失敗させたような姿――。
吐きたい衝動が全身に迫り上がる――。
「オエッッッァァァァァァ!」
しかし、吐くものはなかった。
——粘体の身体が奇妙に縦に伸びて、ぶるぶると波打っただけだった。
恐怖というような不快感、絶望が頭を侵食する。
心臓を重く重く揺さぶり続ける何かーー。
それは、
困惑――苦悩――憂鬱――絶望――虚無――唖然――……。
襲いかかる。
虚しい、
理不尽な、理不尽な、
狂った狂気、狂気、狂気…………。
***
彼の目の前に広がるのは、絶望と、苦しみだけではない。
さらなる悲劇がやってくる。
彼の運命は過酷とさせる何か、
この世界の現実がやってきた!
《勇者》――。
”魔王”と”勇者”の世界――。
この世に〈魔王〉現れる時、勇者が現る――。