24 この世界に細菌という概念は
下水道入り口に来た俺は唖然としていた。
俺が想定していた以上にひどい状況であった。
テキーラが真っ青になって嫌がる理由がとてもよく分かった。
まだ入り口付近だというのに強烈な腐敗臭が襲ってくる。
まだ我慢すれば何とかなるレベルだが、換気の悪い中に入ればこの程度では済まないだろう。
下手をすれば命にも関わるかもしれない。
「いや、命に関わるかもしれんな」
俺はポツリと呟くと下水道の壁や床などを確認する。
至る所に緑色のヌメリのある液体が確認される。
「バイオフィルムだな。」
俺はなぜだか確信が持てた。
これが細菌の塊であると。
おそらく、歯科医として長年プラークを見てきた俺はこれらを見分ける術を自然と獲得していたのだろう。
「おい、バイオフィルムってなんだ?」
俺の独り言に気づいたテキーラが俺に問いかけてくる。
テキーラは全く気にすることなくネメリのある液体の上に立っていた。
散々、悪臭が気になると言っていたくせにその元凶に足を載せているのである。
ハッとした俺はウォッカとチップスを確認すると二人も全く気にする様子もなく床や壁を調べている。
どうやら、この世界に『感染対策』といった言葉は存在しないようだ。
「おい、取り敢えず外に出るぞ。」
俺は急いで3人を外に連れ出すとすぐさま洗浄を掛ける。
俺を含めると4人分のMP消費は流石にきつく、魔法を唱え終わった後、気分が悪くなり座り込む。
「おい、大丈夫か?」
「ああ、ちょっと魔法を使い過ぎただけだ。」
「清掃4回でか?」
「ああ、俺はMPが少ないんだ。」
俺の言葉にテキーラたちが「さっきの言葉はマジだったのか!」みたいな顔をする。
俺はテキーラたちをジト目で睨みながら回復するのを待った。
◇
「それで、バイオフィルムとは何なのでしょうか?」
体調が回復した俺にチップスが真剣な表所で質問をしてきた。
俺が転生者であることを知っている彼はバイオフィルムという言葉が何か重要なものであると思ったのだろう。
「ああ、バイオフィルムってのは簡単に言うと細菌の塊みたいなもんだな。」
「細菌とは何でしょうか?」
どうやら、この世界には細菌という言葉は存在しないようだ。
・・・細菌はいるよな?
「細菌か。その説明の前に確認だが、この下水道に入ったやつは病気になりやすいとかの報告はないか?」
「病気ですか?」
チップスは首を傾げウォッカの方を見る。
バトンを渡されたウォッカは少し考えた後、何かを思い出したのかハッとした表情になる。
「た、確かにそういう話は聞いたことがある。若い冒険者が下水道の調査依頼を受けた後、体調を崩すことがあるってな。だが、それが何か関係があるのか?」
「ああ、その病気の原因が細菌だ。」
チップスとウォッカは俺の言葉を理解しようと必死になっていたたが、テキーラはヤレヤレといった表情で俺の言葉を否定する。
「おいおい、ヒジリ。それは違うぞ。病気の原因は魔物の状態異常バフだ。」
テキーラはドヤ顔で「そんなことも知らないのか」と言って説明をする。
まあ、確かに魔物の体に細菌が付着していて、攻撃を受けた時に感染したのならそうかもしれない。
「テキーラ。それじゃあ、お前は下水道を流れる水を飲んでも平気か?」
「何馬鹿なことを言ってるんだ。あんなもん、人が飲むもんじゃないだろ。」
「ああ、間違いなく病気になるだろうな。だが、これは魔物のバフじゃないよな。それに魔物と遭遇しなくても病気になったやつはいるんじゃないのか?」
俺の言葉にウォッカが静かに頷いた。
数は多くないが、時々そう主張する冒険者がいたそうだ。
もっとも、冒険者ギルドでは本人が知らないうちに魔物から攻撃を受けたせいと考えていたらしい。
テキーラは俺の言葉に反論できずに項垂れる。
どうやら、他の二人も細菌のことを否定する言葉が出てこないようだ。
納得?したところで俺は細菌、そしてバイオフィルムについて詳しく説明していく。
まあ、詳しくといってもこの世界の人にとってだが。
俺が本気で説明を開始したら、この世界の人は間違いなく理解できないだろう。
初めの内は中々理解が追い付いていない3人であったが、ウォッカとチップスの2人は次第に理解したのか表情が険しいものになっていく。
チップスは「すごい情報だ」と右往左往しだし、ウォッカは「ここがそんなに危険なところだったのか」と過去に下水道に送り出して病気になったと思われる冒険者たちに懺悔を始めていた。
唯一、理解できていなかったテキーラも「毒の沼地?ああ、知ってるぞ。毒バフのある沼地のことだろ。・・・えっと、つまり、この下水道は毒の沼地の病気バージョンになってるってことなんだな。」と完全とではないが、それなりに理解すると顔を真っ青にしながら「二度と行かない」と吐き捨てた。
「なあ、ヒジリ。なんかいい方法はないのか?このままだと、この下水道の危険度をランクCまで上げないといけない。そうなるといろいろと問題が起こるんだ。」
ウォッカから悲鳴にも似た嘆き声が漏れ出し、その横で「ランクC」と聞いたチップスが顔面蒼白のままあたふたとし始める。
まるでこの世の終わりのように絶望の表情である。
何がそんなに問題なのであろうか?
高度成長期の日本や最近の中国の環境汚染と比べれば、ここの状況ななど大したものではないはずだ。
それにここは剣と魔法の世界である。
「病気になっても魔法一発で治るのではないのか?」と俺は甘い考えを抱いていただ、それはチップスによって見事に否定された。
チップスによると病気を治す魔法というのは高度な魔法でホイホイと使える術師はいないとのことだった。
そのため病気を治すのは高価な薬を服用するか自然に治癒するのを待たねばならないとのことだった。
更に最悪の情報がチップスからもたらされることになる。
「ヒジリさん。何か良い対策はないのでしょうか?このままではこの街は放棄せざるを得なくなります。」
「放棄!?」
「当然です。街の中にランクCの危険地帯が放置されているとなれば当然です。」
「でも、いままでは大丈夫だったんだろう?」
「確かにこの下水道は今までも低ランクの魔物が発生していましたが、問題視されてきませんでした。それは『冒険者ギルドによる魔物の間引きと兵士による監視によって十分管理可能である』という前提があったからです。しかし、ここがランクCに認定されるとその前提が覆されます。」
「それじゃあ、冒険者に今まで通りに頑張ってもらえばいいんじゃないか?」
「病気になるとわかっている場所に行きたがる冒険者はいません。基本的に冒険者は体が資本ですから、危険と分かっている場所には近づきません。高ランクの冒険者なら対応もできるかもしれませんが、彼らを雇い続けるほどの資金はありません。」
チップスはそこまで一気に捲し立てるとチップスの体は力なく崩れ落ちる。
この世界には細菌という概念がなかったことから衛生管理という知識もないはずである。
したがって、このような事態に陥ったら住む場所を廃棄するしかないのだろう。
中世ヨーロッパにおいて黒死病と恐れられたペストの感染者が出た村を為政者が焼き払ったように。
チップスもその未来を予期しているのであろう。
だから、チップスは一縷の望みを転生者である俺に託したのだ。
潤んだ瞳ですがるような表情で俺に懇願し続ける。
だから、これは誰得なんだ。
こんなオッサン同士のBLなんて需要ないだろう。
「はあ、わかった。できる範囲で協力はするが、失敗しても文句は言うなよ」
流石にこの都市が丸ごとなくなるというのに何もしないというのは気が引ける。
なにしろ、ここに来て日は浅いが、すでに幾人かの知人もできたからだ。
俺の頭にバジル、タイム、ダイア、モンド、そして最後にエキドナの顔が浮かぶ。
彼らを見捨てるわけにはいかない。
俺が渋々ながら了承すると、チップスから安堵の笑みがこぼれるのであった。




