1 罪状は童貞?
「はあー」
俺は深いため息を付きながら帰宅の途についていた。
くたびれた体を引きずり歩くその姿は哀愁さえ感じさせた。
仕事で肉体的に疲れてはいたが、俺にため息をつかせたのはどちらかというと精神的なものの方が大部分であった。
別に仕事で問題があったわけではない。どちらかというと、仕事は順風満帆である。
俺はこれでも歯科医である。
一時期、「歯科医はワーキングプアだ」という情報が出回ったが、それは一部の奴らの話だ。
俺は地方の歯科医院の勤務医であるが、月収60万以上稼いでいる。
バブル期の歯科医は倍以上稼いでいたという話も聞くが、この令和の時代にそこまで稼げる奴などまずいない。
俺も開業すればもっと稼げるのかもしれないが、そこまでする理由も見当たらなかった。
なぜなら、開業すると利益以上に仕事が増えるからだ。
ただでさえ疲れる診療に加えて、経営の仕事など頼まれてもしたくない。
実際、数年前に勤めている歯科医院の理事長から分院長の打診があったが、丁重にお断りしている。
そして最大の理由が、俺は金をそれ程使わないのだ。
すでに貯まった俺の資産は5000万円を超えている。
俺は物欲が無いためか高価な物を買うこともほとんど無い。
洋服などもブランド店で買うようなことはほとんどなく、安物の服を着回している。
酒やたばこのような嗜好品も一切嗜まない。
最近買った物の中で最も高価な物は、趣味のゲーム機本体54800円である。
趣味とはいっても最近は新しいソフトを買うことはほとんど無く、年に2~3本買う程度である。
もちろん、課金などは一切しない。
えっ?子供の教育費とかはどうかだと。
俺には子供がいない。それどころか嫁さんもいない。恋人がいた記憶もございません!
現在40歳で、ヒト付き合いの苦手な俺はこれから結婚する予定もなければ、新しい恋人ができる可能性も皆無である。
自由気ままな独身貴族のこの俺は本気を出せば、1ヶ月一万円生活をすることは可能であった。うん。貴族じゃないな。
話が脱線したが、俺が疲れている原因は最近、悪夢にうなされているからである。
もう、1週間も同じ夢を見ている。内容はほとんど覚えていないが、何者かに裁かれる夢だ。毎回、有罪となり、刑を執行される直前で目が覚めるのであった。
そんな俺は足取りの重いまま、自宅にたどり着くのであった。
◇
俺の自宅は一軒家である。もともと賃貸に一人暮らしをしていたのだが、両親が高齢になったため実家に帰ってきたのだ。
仕事が忙しいため家事を手伝うことはほとんど無いが、週末の買い物や力仕事などは俺の担当になっている。
玄関をくぐると一匹の犬が元気よくお出迎えをしてくれた。
尻尾をバタバタと振り、体を擦り付けては俺に甘えてくる。我が家の愛犬リクである。
「リク、ただいま。飯を食べたら連れて行ってやるからちょっと待ってろ」
俺がリクの頭を撫でながらそう言うと、リクは更に興奮して俺の周囲を元気に飛び跳ね始めるのであった。
そのため、纏わり付くリクを足で蹴りながらリビングまで移動することとなる。
リビングでは両親がテレビを見てくつろいでいた。
俺が帰ってきたのに気づくと母親は晩御飯の用意をしてくれる。
父親は眉間にしわを寄せてテレビを見続けている。
別に怒っているわけではない。単に視力が落ちたため、目を細めないと見えないだけなのだ。
「二人ともただいま」
俺の言葉に母親は「お帰り」と言葉を返してくるが、父親の方は一瞬こちらを見た後、すぐに視線を元に戻すとテレビに集中し始める。
俺の足元ではリクが相変わらず元気に飛び跳ねている。いつもの光景だ。
俺は晩飯を食べ終わるとリクを散歩に連れて行く。たっぷり30分ほど歩いた俺は風呂に入るとすぐさま床に着いた。
こうして俺の一日は終わる。いつもと同じ日常であった。
俺自身としては明日も同じ日常が繰り返すのだと思っていた。
◇
気づくと俺は法廷の被告人席に座っていた。
周囲を見渡すが誰もいない。
裁判官、弁護士、検事と本来いるはずの者たちが誰一人見当たらなかったのだ。
法廷と認識はするのだが、非常に異質な空間だ。
背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じる。
初めは夢なのかとも思ったのだが、肌から感じる空気の冷たさが自身に警鐘を鳴らしているのに気づき、安易な考えは捨て去る。
首や手は動くのだが、何故か椅子から立ち上がることができなかった。お尻が椅子にぴったりとくっついていたからだ。
しばらくすると、傍聴席の方から人の気配を感じるようになる。視線を向けてもそこには誰もいないのだが、明らかに人の足音や衣擦れの音が聞こえてくる。
更には、なにやら話し声までもが聞こえてきた。
「これで7回目だね。いいかげん、飽きてきたよ。」
「いやいや、最高記録は15回じゃなかったかな?」
「流石にそこまでは無理でしょう」
「早く判決が出ないかな?」
「無罪放免って、・・・ないな。」
いろいろな声が聞こえてくる。若い男の声や老いた女性の声、さらには子供の声も聞こえてくる。
彼らの話題はすべて俺についてで全員、有罪を望んでいるのは明らかであった。
「僕は獣に食い殺されるところが見たいな。」
「鳥に生きたままついばまれるのも面白いよ。」
「いやいや、そんなのふつうでしょう。スライムにでも転生させて、野に放つなんてどうかな?」
「スライムになったら思考能力もなくなるでしょう。そんなの面白くないわよ。すくなくともゴブリンとかがいいんじゃない?」
「おいおい、前々回がそうじゃったぞ。そいつはゴブリンキングにまで進化して勇者に討伐されるまで好き勝手しておったぞ。」
「それじゃあ駄目ね。」
何やら会話の内容が俺の刑罰の中身になっていっている。物騒な内容だ。
それにしても、なんだが変な言葉が混ざっている気がする。
「スライム?ゴブリン?なんかのゲームか?それに7回ってどういうことだ?」
俺は国民的二大RPGゲームを思い浮かべる。中には「もはや過去の作品だ」という者もいるが、40歳のおっさんにとってこの2つはやはり青春を謳歌した偉大なゲームであることに違いはなかった。
カンカンカンカン。
突然、法廷に木槌が叩きつけられた音が鳴り響く。
それと同時に傍聴席から聞こえていた声が聞こえなくなり、法廷内がシーンと静まりかえる。
傍聴席から何者かの気配は未だに感じ続けてはいるが、先程よりはかなり弱まっていた。
代わりに裁判長の席から何やら禍禍しい気配が漏れ出し始めた。
俺には霊感などはなく幽霊を見ることなどはできない。もちろん特殊な能力なども無い。
それでも裁判長の席に何かがいることを俺はヒシヒシと感じていたため、誰も座っていない席を凝視する。
体内で警戒警報が最大レベルで鳴り続けている。
「ふっふっふっ。記憶を消されているとはいえ、流石に7度目となると耐性もついてきているな。」
突然、誰もいないはずの裁判長の席から低く重たい声が響いてくる。
俺は目を凝らして席を見るが、やはり誰もいない。
「ふっふっふっ。お前ごとき下等生物に我の姿を見ることはできんわ。それでは裁判を始める。」
その瞬間、周囲の温度が下がった気がした。
悪寒が走る。体がガクガクと震えだす。
生物としての本能がこの見えない相手を危険と判断したのかもしれない。
今から始まる理不尽な裁判に抗議をしようとしたが声を出すことができない。
喉はカラカラになり、上下の唇は乾いて張り付いている。
「そんなに緊張することもない。この裁判は厳正な審議の元に行われる。今回のお前の罪状は・・・」
そこまで言葉が止まった。
相手の表情どころか姿も見えないのだが、その声の調子から言って勿体ぶっているのではなく、単に言葉が出てこず詰まっている感じだ。
(罪状が決まってないのか?どういうことだ?)
危機的状況にも関わらず、俺の頭脳はいつも以上に冴えわたっていた。
いや、この危機的状況を回避するために、俺の頭脳が異常活性しているのかもしれない。
「よし、決めた。今回のお前の罪状はお前が40にもなって童貞であることだ。」
「・・・は?」
俺は何を言っているのか理解できず、思わず間抜けな声を漏らしてしまうのであった。