梅干しおにぎりがいい
やっぱり不思議な感覚だ。森の中の道を歩いていたはずなのに気がつけば家の灯りが正面で出迎えてくれている。
「¨神意¨ホント凄いな」
右も左もわからない森の中だったのに気がつけば家の前の道に出ている。どの道をどんな出鱈目に進んでも目的地に着けるのだからかなり有用な能力だ。
「まあ無闇に使うものでもないし、自分の担当区域でしか使えないって欠点もあるけどね」
アヤメの泣きを伴った謝罪は凛に届いた。凛の神意から解放されたアヤメは敦の半歩後ろを付いて歩いている。
「それにしても許してもらえて良かったね」
「忘れて、あの事はすぐ忘れて」
アヤメはあの恥ずかしい姿を一秒でも早く忘れて欲しいと切に願う。謝罪しているときも涙を浮かべていたが無事神意を解いてもらえたときはもっと涙を出していた。アヤメはアヤメ自身が思うより凛との関係を大切に思っていたようだ。
そうこうしているうちに家に着いた。木造の古い家だ。玄関の引き戸を開けた。年季の入った扉は重くなっていて動かすたび大きな音が伴う。
「ただいまー」
「おっ邪魔しまーす!」
玄関も廊下も暗い。台所の灯りを導に廊下を歩く。光に乏しい廊下だが、腹の虫を刺激する暴力的な味噌の香りは逃げ場をなく広がっている。
「ばあちゃん、ただいま」
「あら、敦君。おかえり」
開けた扉の先で割烹着を着たいつも通りの祖母――とも代が料理をしていた。この家を覆う味噌の香りはコンロの上の鍋から発生しているらしい。
「寒かったでしょ……あら? ソッチの女の子は?」
「あー……えっと、この人は……」
祖母の反応はある程度予想していた。祖母に引き取られてから恋人はおろか友達さえ招いたことがないのだ。ボッチだから連れて来れる訳ないのだが、そんな敦がいきなり女性を連れて来たわけだから祖母の口が卵型になるのも仕方ない。
どう説明しようかと隣に控えるアヤメに視線を送った。いくら祖母でも『この人神様なんだ』と言えば正気を疑われるだろう。かといって『恋人です』なんて言えるわけもない。友達と言うのが無難かなと思いながら後はアヤメの判断を仰ぐ。きっとアヤメも解答に困惑した顔をしていると予想していたが、アヤメの瞳には哀しみの色が出ている。
一瞬だけ下を向いたアヤメが再び顔をあげる。そこに哀しみの感情は見えない。明るい表情でとも代に向かって会釈をした。
「始めまして! 私は『森ヶ淵神社』の神で名前はアヤメです」
いきなりのカミングアウトに敦が絶句した。恐る恐る祖母の顔を伺う。驚いた顔をしていた祖母だが、息を吐き肩の力を抜くと得心のいった顔になった。
「そう。あなた様がアヤメ様ですか……」
一切疑わない祖母には詐欺に注意するように説教をしなくてはいけないが、今はとも代の発言の方が引っ掛かった。
「待って、ばあちゃん。アヤメのこと知ってるの!?」
敦が聞くと沢山の皺のある額に更に皺を増やして咎めた。
「コラ! 敦! 呼び捨てにするなんてトンでもない! ¨様¨をつけなさい」
すかさずアヤメが前に出てフォローを入れる。
「良いのよお婆さん。私から『友達のように接して欲しい』って頼んだので。なのでお婆さんも友達かもしくは敦と同じように接して。勿論¨様¨も無しで」
思わぬところでとも代に雷を落とされた敦だったが、改めて問うた。敦の質問にとも代が遠い目をする。懐かしい記憶を辿る目だ。
「いいえ、ばあちゃんが直接お会いしたのは今が始めて。敦君のお爺さんから聞いていたのよ」
「じいちゃんから? 何を?」
「『¨アヤメ¨と言う神様が訪ねてきたら梅干しおにぎりを鱈腹食べさせあげてくれ』って」
「梅干し、おにぎり?」
ずいぶんと質素なものを……とアヤメを見る。キラキラとした星空のような瞳とぶつかり、ピースサインを向けられた。
「私の大好物!」
チョキチョキとアヤメの指が蟹みたいに動いた。そのやり取りを見ていたとも代が小さく笑う。
「神様って言っても人間と変わらないのですね。すぐ準備しますので少しお待ち下さい! ほら敦君アンタも手伝うのよ」
「うん。アヤメは居間で寛いでて」
「そうさせて貰うわ」
居間と台所は扉一枚挟んだところにある。磨硝子の扉を開ければ床一面の畳が広がっていてテレビとこたつがアヤメを出迎えた。こたつの横に御神体の入った鞄を置く。この鞄……正確には中にある御神体から二十メートル圏内に台所全部が含まれるので支障なく手伝いができる。
エアコンのスイッチを入れ台所へ戻ろうとする敦をアヤメが呼び止めた。
「お婆さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ?」
「……? 心配しなくてもばあちゃんの方が料理うまいからちゃんと聞くよ」
敦が台所へ行った。磨硝子に二つの人影が並び背の低い方が指示を出し高い方がそれに従って動いている。磨硝子越しに見ているアヤメの心も温まり自然と口元が緩む。祖母と孫。でも実の母と子のようにも見える。それだけで¨愛情を持って敦を育ててきたのだろう¨と容易に想像できた。だからこそ、敦には祖母を大切にして欲しい。
「ごめんなさい。私にはどうすることもできない」
その言葉は敦に届かない。アヤメはこたつの中に脚を入れると膝の上で拳を作った。爪が皮膚に食い込む。その痛みが「気持ちを割りきれ」とアヤメを叱咤する。