急性日射病
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
やあ、つぶらやくん。貴重な連休、いかがお過ごしかな? 僕はちょっとスキューバダイビングに行ってきたよ。日帰りでね。
――ん? 海水浴の時期にはまだ早いんじゃないかって?
確かに、単純に泳ぐのだったらもう少し待った方がいいだろうね。でも、スキューバダイビングだったら別だ。スーツとインナーの使い方によっては、年中、海の中へ潜ることができるよ。冬場なんか、プランクトンが少ないおかげで視界は良好、その時期にしか会えない生き物もいて、好んで潜る人も結構多いみたいだよ。
あ、でも楽しむばかりじゃないね。君も知っているだろう? ダイビングして浮き上がる時、急に浮上してはならない、ということ。
水の深いところでは、水圧があらゆるものを縮めようとする。僕たちが吸っている空気もしかりだ。周りからの圧力を受けて、ぎゅっと縮まっている。
浮上するとは、その圧迫をなくすこと。抑圧がなくなったら、のびのびしたくなるのも道理。そして急激に膨らんでしまった結果、惨事が起こってしまうというわけだ。
急激な変化には犠牲が伴う。これもまた創作でよく扱われるテーマだろう。その変化と注意ごとに関する話があるんだけど、聞いてみないかい?
事件は、晴れた日のとある小学校の昼休みに起こった。
校庭に一番乗りした男の子。チャイムと共に二階にある教室を出て、階段の三段飛ばしを敢行した彼は、二番手に大きな差をつけて昇降口から飛び出したはずだった。
ところが、校舎からいくらも離れないグラウンドの端っこで、その子は仰向けにぶっ倒れていた。見事なまでの大の字に、彼はすぐさま保健室へ運ばれた。
意識を取り戻したのは、一時間が経過した頃。保健の先生が話を聞いたところ、グラウンドに出て空を見上げた時、太陽を目にしたそうなんだ。「うわ、まぶしい」と手をかざすや、とたんにめまいがして倒れ込み、気を失ってしまったとのこと。
先生がこれまで見てきた児童の中にも、いきなり倒れてしまう人は時々いたが、それは前もって病気持ちであることが伝えられていたりして、備えはできていた。しかし、今回の彼は、これまで健康優良児で通っていて、これまで風邪などを引いたりしたことはない。
憶測で病気の可能性を示唆するのもはばかられ、少しベッドで休んでもらった上で、教室へ帰したとのこと。
しかし、その日以降も失神する人は現れ続けた。いずれも天気が良い日、ふと頭上を見上げるとめまいに襲われ、そのまま意識を失ってしまうとのこと。
ついには先生方の中にも倒れる人が現れ、子供に特有の事例というわけではないことが判明。保健の先生は、倒れた人のいずれもが太陽を見上げてほどなく意識を失うため、この症状を仮に、「急性日射病」と名付けたそうなんだ。
意識は、さほど長い時間を置かずに回復するものの、一度発症した者は以降も、めまいや頭痛、倦怠感などの、貧血に酷似した症状が見られるようになった。
医者に行って診てもらった方がいいかも、と保健の先生は助言するものの、そこで先立ってくる考えは、医者にかかることで潰されてしまう己の時間について。
「この程度の症状で、医者に通っている場合か。それよりもっとやりたいことがあるんだ」
そういって、たいていの人は素人判断に身を任せ、自分の職務、欲望を優先してしまう。異状が見つかれば問題だし、異状がなければ骨折り損だと悪態をつく。ならば、見ぬふりを続けた方が、精神衛生的に好ましいという結論だ。それが、実際の自分の命にかなっているかどうかは別として。
太陽をじかに見てはいけない。普段から言われていることが、今や別の重さを持ちつつあった。児童たちは日中、できる限り上を向かないように心がけている。
陽の光に原因があると思われていたが、なかなか尻尾を掴むことができない。やがて件の症状を見せる人も少なくなり、急性日射病の話題はどんどん下火になっていったという。
だが、とある児童の不気味な発言は、今も聞いた人の心の中で、暗い影を落とし続けているんだ。
彼は急性日射病を極端に恐れており、休み時間はもっぱら教室か図書室で過ごしていたという。
机に座り、本を読む。そうしている限り、直射日光が目に入ることはないと、彼なりに考えてのことだった。
しかし、その日の帰り際。5コマ目で終わったから、まだ陽は高く、彼はうつむき気味に下校していたそうだ。あの急性日射病があって以来、ずっと続けていること。周りの児童たちも、ほとんどが似たような姿勢をとっている。
まだ夏までは日があると思っていたのに、後頭部がじりじりと灼かれ、くすぐったさに似た感覚を覚えてしまうほど、日差しは強い。
――思うように被害を広げられなくて、業を煮やしているんじゃないか?
そう考えてしまう彼は、ますます地面の影を注視し始める。人や障害物なども影で判断して、かわす道をとり続けた。
家の近くまで来る。あとは右手にある自動販売機と、その脇に備え付けられたベンチの前を通れば、何歩も行かないうちに玄関へたどり着く。
だが、そのベンチに誰かが腰掛けているようだった。自販機の影の横に、ベンチのものとは異なる形の影が、行く手を遮るように伸びている。
「嫌な感じだな」と、彼は小さく頭を上げて、ベンチに腰掛けた人物を見る。
背広姿の男性。だらしなく腕を広げて寄りかかり、のけぞっている姿勢からは疲労の濃さがうかがい知れる。その体のそばに、添え物のごとく、ちょこんと置かれている茶色い皮製の仕事鞄。外回りの最中なのだろうか。
があ、があと怪獣の鳴き声を思わせる大きないびき。「こんなところでさぼっていて……どこからばれても知らないぞ」と、彼は反対側の道路に待避しつつ、前を通り過ぎようとする。
その時、顔を上げてしまっていたからか、足下に転がっている小石に気がつかなかった。うっかりつま先で蹴飛ばしてしまい、スライス回転がかかった石は、右へ右へと転がっていく。そしてよりにもよって、寝ている男の足へ直撃。
「うがっ?」ととぼけた声をあげる、背広姿の男。頭がぐらっと動き、今にもこちらを向いてきそうだ。
とっさに知らんぷりして逃げ始めた彼だけど、男の異変に目を見開かざるを得なくなった。
パチリとまなこを開いた男。その時、彼の顔面はまだ空を仰いでいたんだ。あの太陽が照っている空を。
男の悲鳴が響いたかと思うと、その眼球から立ち上ったものがある。
炎の柱。理科室のガスバーナーが出すような、およそ10センチ程度の高さの青い炎が、男の双眸から飛び出していたんだ。
慌てて目を手で押さえようとする男だったが、無駄だった。青い炎はふたをしようとした男の手を容赦なく焼きにかかる。よく熱して油を引いた鉄板に、肉を乗せた時とほとんど同じ音が、男の手から響き渡る。
もう彼は一目散に逃げ去った。自分の家に飛び込み、靴を脱いで、ランドセルを放り捨てながら居間へ。
親はいない。トイレにでも行っているのだろうか。
110番や119番の通報など、思いもよらなかったと、彼は後に語る。この時は、あの人、あの場所から離れたくて仕方がなかったとのこと。
二十分後。うつむき加減に家の中で震えていた彼の耳に、パトカーのサイレンが聞こえてくる。続いて救急車も。
音はあの自動販売機の近くで止まって、動かない。その間に、母親がトイレから出てきて、サイレンの原因について心当たりはないか尋ねたけれど、応答は「知らない」の一点張り。やがてパトカーたちが居なくなった時には、彼は震える場所を自室に移していたし、母親も夕飯の準備に取りかかっていたそうだ。
彼はそれからもずっと、日中は上を向かないように心がけたのだが、この日を境に、急性日射病の話はほとんど聞かなくなってしまったのだという。