6:呪術
殴り抜いた山羊目玉の上半身が轟音を立てながら吹き飛ぶ。
見た目より大分質量があるような挙動だ。
既にLv5である僕のSTRは25、初期値の5倍であり、どう反映されているのか正確にはわからないがものすごく単純に考えれば僕の力も5倍になっているはずだ。
実際破壊力はそれに近いのだろう。この悪魔のような存在はそう易々と上下にちぎれたりするもののようには思えない。
本来拳や肩にかかっているはずのとんでもない反動はほとんど感じられなかった。拾った装備の恩恵だろう。
この感じだと先程のレベルアップで手に入れたスキルのお世話になることもなさそうだ。少々もったいなく感じるような気持ちもあるが、あれはそんなに信用できるものでもなさそうだったので、頼るしかないなんて場面が無いに越したことはない。
山羊目玉の上半身はまだ意識がありそうな動きを見せていたので、勢いを殺さずにそのまま襲いかかる。
その山羊の頭蓋を粉々にするつもりで腕を引く。
「『呪術:掌握』『ライト・サンタナ』」
山羊目玉により信じられない速度で詠唱が行われた。
本当に間の抜けた化け物である、それは先程こいつ自身が偽名だと断じていたはずだ。
そしてやはりその声は頭のあたりから聞こえてはいない、目玉のどれかがスピーカーになっているんだろうか?
肺のあたりまで潰れているはずなので、人間のような身体構造であったなら声などとっくに出せなくなっているはずだ。
山羊目玉にはもう為す術はないだろう。
下半身が糸が切れたように動かなくなっているところを見ると、考える器官は上半身のほうにあるのだと思われる。このまま上半身を丸ごと潰せば完全に絶命するだろう。そうでないならば僕にはどうしようもない。
僕はほとんど勝利を確信していた。
蓋を開けてみれば余裕の攻略だ。
「『睥睨の束縛』ッ!」
その異形が初めて声を荒げ、先程よりさらに早い速度で先程までとは別の呪文を唱えると、籠手を纏った拳が異形に触れるその直前で僕の体は不自然に静止し、一切の力が抜けて床に倒れ込んでしまった。
体を動かすことが出来ない。
酷い痛みが襲ってくる。
パリン、と硝子細工が割れるような音を立てて、先程脳が浸されていた、青白く光る筒がひとつ壊れた。
中に入っていたはずのものは見当たらない。
「────やれやれだ、貴様の呪術耐性がこれほどのものだとはな。恐るべきことだ。対象の名を用いる呪術というのは本来防ぎようがない程に強力なのだが……前の光の戦士とはモノが違うようだな」
山羊目玉が口にしたのは両方とも僕の名前ではないので、名前を媒介とした呪術であるというなら効かないのも当然だ。
一々口に出すのが面倒なだけなのか、偽名の上から偽名を名乗るなんて頭の悪そうな行動はそもそも彼にとって想定の埒外であるのか、その可能性については何も言及してこない。
「しかし多大なコストを必要とするタイプの呪術は一切の耐性を無視して効果を発揮する。君でさえこの通りだ。お陰で魂をひとつ浪費するハメになってしまったが……。そして掌握以下の呪術が通じない以上、非力な私が君の魂を吸収する方法は殺してしまうもの以外に存在しない。非常に残念だ。先程までは浮かれていたが、今回の狩りによる収支はマイナスに傾いてしまうだろう」
先程の現象と山羊目玉の言動とを照らし合わせると、こいつの言う魂とは脳そのもののことなのだろう。ホルマリン漬けにされた脳をひとつ消費しての呪術とやらの行使だったのだ。
実際にこの拘束は強力で、筋力でどうにかなるものでもなさそうである。
脳から体への命令が遮断されているような感覚がある。
辛うじて首から上は動かせるし、内臓もどうにか動いているようなので問答無用であらゆる動きを止めるようなものではないみたいだけれど、しかしこんな手段があるのなら結局僕が何をしようとこいつには勝てなかっただろう。
つまりこれは、僕が想定していた状況の一つである、アレだ。
「やっぱり負けイベントなのかよ、リアルな感覚があるゲームだと中々キツいぜ」
「……ここをゲームだと?その体は紛れもなく貴様自身のものであるはずだ。誇り高き光の戦士が絶望的な状況を前に現実逃避とは……悲しいものだな。くくっ」
嘲笑する山羊目玉曰くここは現実らしい。
メタ的な発言は許されていないようだ。
状況を打破したい気持ちもなくはないのだが、どうにも妙案が浮かばない。
とにかく口を動かして時間を稼いでみることにする。
「僕を殺さなければならないってのはなんでだ?このまま頭にストローでも刺して脳漿をちゅーちゅー吸い上げることもできそうだけど」
「我々が取るのはそういった形の食事ではないのだが……まあいい、貴様の問いに答えるならば、貴様に通用しそうなものが死の概念を直接与えるある上位呪術を置いて他にないからだ。上位呪術には様々な制約が絡んでくる。同時に複数の上位呪術の行使ができないだとか、身動きが取れなくなるだとかな。制約によって身動きを封じられるまでもなく、そもそも今は下半身がないのだが……貴様を殺して得た魂の欠片で修復するとしよう」
複数の呪術の同時使用ができない。
死の概念を直接与える呪術。
まどろっこしい言葉選びのせいでいまいち正確に伝わってこないが実にいいことを聞いたようだ。
どうやら僕にはまだこいつを殺すチャンスが残っているらしい。
どうやってもスキルの説明文が出てこないのでその性質は憶測の域を出なかったが、こいつが次に使う呪術次第では先程得たスキルによってこいつを出し抜き、状況を覆せる可能性がある。
勝ちの目は残されている。
集中しろ。
「ペラペラ喋ってくれるのは魂の質を上げるため?」
「言葉選びに少々違和感があるが、おおよそそういうことだ。中々物分かりがいいな、そういう性質は私の好むところだ。貴様のような魂を殺してからでなければ摂取できない事、ますます残念に思うよ」
「なるほどね、見上げた美食家精神だ……違う出会い方をしていたら良い友達になれたかもしれない」
僕は自分の中にあった、目の前の異形を殺したいという小さな欲望、それに意識を傾けた。
自分の中で殺意が膨れていき、少し痛みが薄れていくような気がした。
「安心するがいい、貴様は私の中で生き続ける。一度死にはするがな」
「僕さ、実は死なないんだよね」
「発動さえすれば神でも殺すのが呪術だよ。もっとも射程距離があまり長くない以上、実際に神を殺そうとすれば詠唱中に息の根を止められてしまうだろうし、仮に戯れで殺されてみたところですぐに蘇ってしまうものが大半だろうがね」
神様も実在するらしい。そういえばこの籠手、神がどうとかみたいな名前がついていたような気もする。
「さようなら。『死神の秘儀』」
そう言って、山羊目玉はその目のいくつかを細めた。
パリンパリンと今度は二つの脳が消え、拘束が解けた僕の頭と心臓を無数の針を刺したかのような痛みが襲った。
ぷつり、という音が聞こえたような気がした。心臓が止まり、視界が闇で覆われる────
しかし、それも一瞬のことだった。
僕は意識を取り戻す。
体は鉛のように重く、痛みもまだそのまま残っているが、死の危機に瀕し脳内物質が溢れ出ている今の僕にとっては取るに足らない問題だ。
動ける。
僕を縛るものは何もない。
素早く起き上がると、目の前にあった異形の上半身を叩き潰しにかかる。今度こそさよならだ。
「……ッ!?『睥睨の────」
潰れる直前の山羊目玉は、そのいくつもある目を見開いていたように思う。
振り下ろされた拳によって、山羊目玉の真っ黒な血肉と白い眼球が爆散した。
────僕の勝ちだ。
肉塊となった山羊目玉はもう動かない。
少しして、ドロドロだった山羊目玉の残骸が灰と化していく。
「死なないって言ってあげたのになあ……僕は生まれてこのかた嘘をついたことがないんだよ」
白い灰が舞うのを見ながら適当なことを呟く。
僕はLv5になると同時に『延命』というスキルを取得していた。
任意の起動が出来なかったので、一度だけ死なずに瀕死で耐える、というようなものだと考えていたが、先程の感覚からして一度死んでも瀕死で生き返る、といった類のものなのだろう。
なるほど狂戦士に相応しい代物ではある。
しかし今回の戦闘は徹頭徹尾驚異的な幸運に支えられていた。
例えば下心から適当な偽名を名乗っていなければ千紗ちゃん共々脳みそストローの刑に処されていただろうし、例えば山羊目玉が殺害手段として用いた呪術が地獄の炎を呼び寄せる、なんてものだったら瀕死のまま蘇ったところですぐに二度目の死を迎えていただろう。『延命』を取得できていなければ何をどうしたって殺されていたし、どうも山羊目玉は僕らの会話を聞いていたような口ぶりだったのでその取得を千紗ちゃんに話していてもおしまいだったはずだ。
山羊目玉からしたらイレギュラーの連続か。
そんなことを考えていると、灰が不自然な挙動をしていることに気付く。
舞い上がっていた灰が一点に収束していき────人の形を成した。
ギョッとした。
拘束が解け、駆け寄ってきていた千紗ちゃんが僕と共に硬直する。
まだ何かあるのなら今度こそ終わりである。
辛うじて生きてはいるが、僕は文字通り瀕死の状態なのだ。
出来上がったそいつは白い長髪を靡かせ純白のローブを纏った女性の姿をしていた。
胸がでかい。
その閉じられた目を開くと真紅の双眸をこちらに向け、にこりと儚げな笑みを浮かべる。
信じられないくらいに美人だ。
思わず顔に入れていた力を緩めると横目でこちらを見る千紗ちゃんの顔が少々険しくなった。
妬いてくれているのだろうか。美女二人の視線に射抜かれるということには他の何にも代え難い幸福感がある。
しかし、この女の、この姿……何か引っかかる。
今の僕にはこの御方が友好的であるように祈ることしかできない。
彼女の薄い桃色の唇がゆっくりと開かれた。
「お疲れ様。僕は神だ」
「……本物ですか?」
頭が回らず、間抜けなセリフを吐いてしまった。