16:エンゲージ
純白の長髪を流し、タイトな漆黒のローブを纏った長身の女が気付けば目の前に立っていた。白くゆったりとしたローブを纏っていた前回とは大分印象が異なる。
飾り気のない服だが、その分体のラインがよくわかる。あるのかどうかもわからない彼女の心臓を守るものはより主張を激しくしており、それが目に入った瞬間から僕の血流が変化していくのを感じる。
「やあやあ発情期の諸君、僕が神だ」
俗物っぷりに拍車がかかっている。
どうも前回よりテンションが高いようだ。
現れ次第揉んでやるくらいのつもりでいたのだが、戦闘の疲労から僕は今身動きが取れず、この女が目の前にいるにもかかわらず指一本触れることすら出来ない状態だ。
無理に力を入れてみても体がもぞもぞと動くだけで、起き上がることなど到底できそうにない。
あまりにも惨めである。
「ほんとに神様?」
栞ちゃんが尋ねる。
僕としても半々くらいに捉えている事項だ。
「勿論。さて、お疲れ様。今回の異界種も、君達が山羊目玉と呼ぶ彼の者と同程度には強力な相手だった。目をかけた子達がなかなか優秀なようで嬉しいよ」
強すぎるとは思っていたが、やはり海星も山羊目玉クラスの相手だったらしい。クジ運が悪すぎる。
それはそれとして、動けないからといってみすみすこの機会を逃すのはよろしくない。
前回去り際に考えてやろうと宣っていたはずであるので、ちょっとお願いしてみることにする。
「優秀な人間には報酬を惜しまないのが人の上に上手く立つコツだ。わかるよな?」
「ふむ。君は今回何をしたのかな?」
「あいつの擬態を看破したのは僕だ」
「否。君は僕からの御告げを伝えたに過ぎない。あの夢は僕が見せたものだ」
仮眠中に見た鳥籠の悪夢。
誂えたかのように見たあの夢は、どうやらエリアによる誘導だったらしい。
実際あまりにも都合のいいものであったし、そう言われれば納得はできる。
そして言われた通り、僕は今回大した事をしていない。志木ほど何もしていないわけでもないはずだが、水を供給したのも寝床を確保したのも僕ではないし、海星を殺したのも結局は僕ではないのだ。
ここで喚くのもみっともないので、大人しく引き下がり、別の話を振る。
「制限が厳しいとか言ってたけど、夢を見せるだなんて、結構干渉できるものなんだね」
「現界以降の僕の存在の大部分はユウくんに由来するからね、君に対しては結構自由が効くんだ。心を読んだりだとか」
にやりと口角を上げて答える。
どこか無機質なところのある容姿とその仰々しい自称に反して、この女の表情はとても豊かだ。
読心能力はどうやら僕に対してだけ機能するものらしい。納得がいかない。
ユウくん呼ばわりに関しては、既に栞ちゃんからもそう呼ばれているわけで、今更僕の心を揺らすほどのものではない。
僕も成長したものだ。
「ユウくん、か……こいつの元恋人とかなのか?」
志木がまた見当外れなことを言う。本人が神様だって言ってるだろ。
それに内面にしろ外見にしろ、現実にこんな女がいるわけがないだろう。
「当たらずも遠からず、といったところかな。本人の名誉のためにあまり詳しくは言わないでおくよ」
含みのある言い方をしながらこちらへその斜視気味の真紅の双眸を向けてくるが、思い当たる節がない。
しかし、あながち適当な言葉であるとも思えない。初めてこいつの姿を見た時、何か引っかかるものを感じたのだ。
「そうそう、今更だけど、お告げだけじゃなくてその籠手も僕からの恩寵だ。と言ってもゼロから生み出したわけでもなく、生成されるものに些細な細工を施しただけなんだけどね。インベントリに収めてごらん」
肩から先を動かすくらいであればそこまで支障はないので、言われた通りに籠手を収納する。
すると『優れた神の籠手』だったはずの名称が変化していることに気付く。
今の名は『エリアの籠手』だ。
これはこいつが『優れた神』を自称しているという話だろうか。過大評価もいいところだ。
胡乱げな目でエリアを見上げていると、また僕に向かって口を開いた。
「君にはもう一つ渡しておきたいものがある。君はあの異界種を海星と呼んでいたかな。これは君らが今まで手にしたアイテムとはその存在の格からして一線を画す、海星のエーテルを用いて創り出した正真正銘僕お手製の神器だ」
そう宣うエリアの手の中には指輪があった。
非常にシンプルなデザインの、ルビーのような宝石が嵌め込まれた指輪だ。ルビーそのもののようにも見えなくはないのだが、目を凝らせばそれよりも赤みが強いことがわかる。
その輪の細部──爪や腕の部分は、一体どんな物質で構成されているのか、一切の淀みのない純白。
まあ神様謹製である指輪の構成物質など気にしても仕方がないのかもしれない。
「この指輪は現実世界でも機能する。接触部分が汚れることはないから、一日中、風呂に入る時も寝る時も決して外さないように。それと、別の指に付け替えることもしないようにね」
そういって僕の側に屈むと、エリアは僕の左手を取り────その薬指に、そっと指輪を嵌めた。
「えっ?」
僅かに声を上げたのは、千紗ちゃんか、栞ちゃんか。
当のエリアは少し息が荒く、頰が僅かに紅潮したその顔はどこか恍惚としているように感じられる。
「おい」
「なに、初めから、僕と君は結ばれる運命にあったということさ。あんな紛い物でなく、僕を選んだ方が君も幸せになれるだろう」
紛い物。
これについても思い当たる節はない。
そしてこの色ボケ女神、冗談を言っているという様子でもない。
目が本気だ。血走っている。赤い瞳と合わせて非常に怖ろしいビジュアルになっている。
臆さずに反駁する。エリアの行動もまあ大変魅力的ではあるのだが、僕は既に千紗ちゃんに操を立てているのだ。
「僕の幸せは僕が決める」
「君の幸せとは、僕が幸せであることだ。そういうふうにできている」
何故だか分からないが、この自称神様はとんでもなくその心根を拗らせているようだ。
僕に心酔しているような素振りを見せ、また、その愛は余りにも重すぎる。
外してはならないなどと脅しながら、動けない、立場の低い相手の薬指に指輪を嵌めるなんてのは時と場合によってはかなりの問題になるような行動だ。
指輪のデザインが明らかにエリア本人を模したものであるのもまた重たい。
千紗ちゃんたちも呆気にとられたようにこちらを見ている。
この女の異常性に気がついてきたのかもしれない。無論僕は初めからある程度そのように考えていた。
「なんで急にこんな露骨な好意を向けてくるんだ?」
「君からしたら急かもしれないが、僕は生まれて数日の存在なんだ。人生、もとい神生の殆どを君を思って過ごしていたし、思いの全てが君を向いていると言ってもいい」
「生まれて数日?20万年前からいたんじゃなかったのか?」
「星の声を聞いて昔の事を知ったというだけの話だ。僕という存在が生じたのは君が狩場に連れ去られるより僅かに前。現代の曖昧で不確かな信仰と意識によって、原初の僕たる意識が生み出された。そして君の中に浮いていた存在の残滓と融合し、今の僕があるというわけだね」
信仰。意識。
そんなものによって神が生み出される。だとするならば、この世界はとっくに神で溢れかえっているはずだ。
「神ってなんなんだ?」
「さあ?星は僕にそんなことを教えてはくれない。ただ漫然と『僕は神である』という意識があるだけだ。それに、それ以外に僕を形容する言葉があるかい?」
「色ボケメンヘラ女」
こういうのはメンヘラとはまた違うのだろうが、罵倒語としてそれなりの力を持っていそうなのでそう言っておく。
「そう、僕は神でしか有り得ないんだよね」
無視される。
少なくともメンタルの強靭さは神の領域にあるらしい。
「為すべきことは為した。時間が来るまでは君とずっと話していてもいいような気分なんだが、一応今後のために前回の続きでも話しておくとしよう」
前回の続き。
言われてダンジョンが崩壊したために途中で途切れた言葉があったことを思い出す。
「人の魂はエーテルの増幅炉だ。消耗したエーテルは許容値まで自然回復するようにできている。栞ちゃんが魔力と呼ぶものもエーテルだし、千紗ちゃんが錬金術の行使によって消耗しているものもまたエーテルだ」
僕の頭に手を翳しながら口述する。
深いところにある記憶を読もうとでもしているのだろうか。
「君達にレベルアップという形で認識されている、外部からのエーテルの蓄積による魂の昇格によってその許容値が増える。それは直接扱えるエーテルの量が増えるということであり、ダンジョン内において君達はエーテルを筋肉に流し、脳に流し、或いは魔法として放出し、その恩恵を十全に振るうことができる」
エリアの両手が僕の頭に触れる。
覗かれているという考えが念頭にあるからこその思い込みなのかもしれないが、頭の中を何か白いものが走るようなピリピリとした感覚がある。
「ステータスの振り分けだなんていうのも結局は補助輪なんだ。エーテルの扱いを嚮導しているにすぎない。vitalityとstrength 、mindとintelligenceにそれぞれ一切の関連がないなんてことがあるわけもないしね」
つまり、デジタルでゲーム的に見えていた僕らのステータスは、その実アナログで曖昧な区分だったらしい。
まあ僕が想定していたものともある程度一致する話である。
「君達の世界──あちらを現実としよう。現実においてエーテルが及ぼす影響というのは微々たるものだけど、数人分の魂に内包される量と同等のエーテルが一箇所に集まるとなると話は変わってくる。例えばそれが人であれば、そいつは魔法のような異能を獲得していくわけだ。そして前回の話の続きになるわけだが、そんな性質を持ったエーテルの塊である魂をそのままの形で、つまり生きたまま喰らい続けた異界種はその存在が膨らみ、そのまま現実に直接干渉可能になる」
「あの白い蛆か?」
「あれはまた別だ。存在が膨らんだわけではなく、エーテルで構成された肉体を無理矢理現実に堕とされた眷属の姿。モノリスを作る以外に異能を持つわけでもなく、大した力もなく、その上安定した魂を持つ者に対しては触れることさえできない欠陥品だ」
必要な部分は読み取り終えたのか、今度は僕の髪を弄び始めた。
癪だが悪くない心地だ。
「狙われるのは手首にいくらでも傷跡があるような人間とか、そうでなくとも社会から不要とされ、自分を世界の不適合者と見るようになった人間だとかだね。そういう魂を持った人間は少しだけ現実からズレて、蛆のいる場所と噛み合う。そして自分達より現実に近い魂を喰らいスペックが上がった蛆達によって、めでたく真人間まで巻き込むモノリスが構築されるというわけだ」
「モノリスを見つけるにはどうすればいい?それで困ってたんだが」
「魂の変質した君達であるならば、ぼーっと過ごしていれば見つかるよ。君達は焦り過ぎだ、生成に立ち会うなんてレアケースは本来そうそうあるものじゃない。まあ一刻も早く見つけたいというのならそれなりに理に適ったやり方だったとは思うけどね」
「その、存在が膨らんだ異界種って、私達に何をしているんですか?」
「ここまで話しておいてなんだが、長い時間をかけて人の魂を喰らい続け、現実にまで容易く干渉可能になった異界種は、その実大したことが出来ない。その成り立ちが邪魔をする。人間の信仰の影響を受けすぎるんだ。災害となって自我を失うことは彼らの望むところではないし、大人しく捧げられた生贄をつまみながら諸々の娯楽とちょっとした破壊活動に勤しむくらいが関の山だろうね。後先考えなければ国一つくらい簡単に滅ぼせるだろうけど」
「まるで神様みたいだな」
「擬神、半神、まあそのあたりの言葉が似つかわしいような存在だろうね」
「行き着く先がそんなものなのに、なんであいつらは必死に僕らを喰らおうとするんだ?そんなに魅力的な報酬じゃあないと思うんだけど」
「それが霊子体たる彼らの本能だからね。人間だって100年もすれば死んで土に還ってしまうのに、生きようとして必死に森羅万象から命を奪うだろう。知性体と言っても結局はそんなものだよ」
髪を弄っていたはずのエリアの手が僕の背筋をすうっとなぞった。
戦闘の興奮と痛みで未だ敏感になっている神経が過敏に反応する。
それに伴い筋肉が強張り体が跳ねると、彼女は満足そうな吐息を漏らす。
顔も少し上気しているようだ。本気で色狂いにでもなったのだろうか。
「お前本当にどうしたんだ。前は全くそんな素振り見せなかっただろ」
「最初からこうだったよ。それに僕という存在がそもそも君に惹かれるように出来ていて、時間が経つほど、距離が近いほどその感覚は強くなるみたいなんだ。恋する乙女とはこんな気分に支配されているものなんだね」
ここまで拗らせたものを恋する乙女などと同列に扱っていいのだろうか。
こいつが人間なら近々医者か警察のお世話になっているだろう。そういう度合いだ。
「ゆめゆめ僕を襲おうなんて思うなよ。僕は合意の上でお互いがお互いを求めるのが好きなんだ」
「経験もないのに好きも何もないだろうとは思わなくもないが、まあそんな野暮な真似はしないから安心してくれたまえよ。僕も君と同じく──和姦が好きなんだ」
エリアが口の端を釣り上げる。
僕が襲われることを拒んだのはあくまで千紗ちゃんと栞ちゃんの視線を気にして取ったポーズなので、別に無理矢理襲ってくれてもよかった。女性優位は別に嫌いでもないのだが。むしろ満更でもないのだが。
僕の内心を分かっていてそう言ったのだろうから、やはりなかなか趣味が悪い。
「あの、エーテルって結局どんなものなんですか?」
千紗ちゃんが尋ねる。聞きたかった事を聞いたというより、話の流れを切るための質問だろうか。
まあ僕に抱く感情がどんなものであれ、目の前で乳繰り合われたら多少なり苛立ちを覚えるだろうね。
「人間によっては決して知覚されることがないが、確かに存在し、人間の選択や行動、殊に精神的活動に影響を及ぼすエネルギーだ」
答えるエリアには特に応えた様子はない。一貫して薄い笑みを浮かべている。
「君は賢い。才能と気分というものについて考えてみるといい」
「……わかりました」
「僕からも聞きたいことがある。栞ちゃんが回復魔法を使えないのはなんでだ?」
「使えない、なんてことはないはずだよ。魔法の行使のような形であれ、エーテルの利用というのは要は想像力と制約の問題なんだ。そこさえクリアできればいい」
言いながら、エリアは志木の方へと歩いていき、傷口に手を翳す。仄かな翠色の光を発したエリアの左手は志木の傷を跡一つも残さずに治していた。
「お、おお……凄いな……」
「わざわざ僕が治さなくても、帰還時に治るようにしてはあるんだけどね。デモンストレーションだよ」
想像力と制約。
制約については、山羊頭の呪術を鑑みるに『強力なものを使いたいならコストを払え』という事なのだろうか。
だとするならば、エリアは今、何を対価にして志木を治したのだろう。
考えていると、ダンジョンの崩壊が始まった。これについてもよくわからない。
「重ね重ね言うが、僕は君達が異界種を殺して回ることに期待している。君達の手によって救われる人間は長期的に見れば大勢いるんだ。こんなものは結局僕のエゴで、多数を守る為に前線に立たされる君達には悪いとも思うがね。許してほしい、君達人間を庇護することが僕の存在理由であり僕を本質的に満たすものなんだ。本来はね。アデュー」
「本来はってなんだ、おい────」
追求も虚しく僕達の意識は途切れ、所々白い光を放つ空間を捉えていた視界が暗転する。
気がつけば路地の入り口に立っていた。
高層ビル、車、ガードレール、コンクリートで舗装された道。視界に入る人工物群が紛れもなくここが僕達の世界である事を伝えてくる。
いや、山羊目玉の世界では廃ビルのような場所を見た。これらだけでは判断できないか。
携帯のホーム画面を見ると、やはりダンジョンに入る前の時刻が表示されていた。
通行人の視線がちらちらとこちらへ飛ばされる。僕ら、特に千紗ちゃんと志木は立ってるだけでなかなかに人目を引く。
「肉体的な疲れは取れてるけど、今回は前回と比べればそれなりにハードだったし今日は解散しておこうか。じゃあまた、モノリスを見つけでもしたら連絡を取ろう。あ、デートのお誘いは大歓迎だからね」
「絶対誘いませんけどね」
志木と栞ちゃんに非日常を経験した後の心の内というものを聞いておきたい気もしたが、まあ今でなくともいいだろう。
それに、僕は僕で、現実でやりたいことがある。
千紗ちゃん達に手を振ると、僕は真っ直ぐ家へと向かった。
が、結局全員同じ駅を経由して帰るので、鉢合わせることになってしまった。
解散とか言った手前こうなると気まずく、少し恥ずかしいところがある。
無言で一緒に立っているというのもなんなので、適当に話題を振る。
「千紗ちゃんってどんな男の人がタイプなの?」
そこそこ無難で僕に実益もある話。いいチョイスをした。
「知的な人ですね」
撃沈だ。
僕がそういうタイプじゃないことを理由にそんな要素を挙げたんじゃないだろうか。僕が知性で千紗ちゃんに遠く及ばないことは既に悲しいくらいに判明しており、せいぜいが痴的な人といったところだろう。
「へえ、なるほどね。よくわかるよ、僕も頭のいい子が好みなんだ」
「そうですか」
必死の返しも顔色ひとつ変えずにいなされる。以前は多少なり可愛らしい反応を見せてくれていた気がするのだが。本格的に脈なしなのだろうか。泣きそうだ。
「し、栞ちゃんはどんな人が好みなのかな?」
「んー、優しい人かなー」
にっと笑ってこちらを見る。女の子の笑顔というものはこちらのメンタルがやられている時だと尚のこと魅力的だ。惚れそう。
「本当のところを言うと栞は面食いなんですけどね」
「ち、千紗ちん?」
千紗ちゃんが口を挟む。対外的には優しい人が好きだと言っておくけど実際のところはどうであるとか、そういう生々しい部分は聞きたくなかった。
栞ちゃんは困ったような顔で千紗ちゃんを見ている。長年友人であったはずの彼女が若干当惑しているところを見るとやはり千紗ちゃんは普段からこうという訳ではないのだろう、機嫌でも悪いのだろうか。
「ええと、俺が好きなのはだな」
「幼女だろ。わかってるから言わなくてもいいよ」
無理に話に混ざろうとした志木は僕の八つ当たりを受けて泣きそうな顔になっている。
この気まずい空気のまま電車に乗り、その後は特に会話をすることもなく別れた。どうしてこうなったんだ。