10:化学
「悪いね栞ちゃん、急に呼び出しちゃって」
「大丈夫だよー、授業は午前中だけだし」
「制服姿も可愛いね」
「ありがとー」
ひらひらと手を振って答える栞ちゃん。校則に合わせているのか、長い髪を上の方で一本に束ねてポニーテールにしており、そして何より制服を着ている。
紺色のブレザーにプリーツスカート、Yシャツの上で映える赤いリボン。校則で許されているのかどうかが微妙なラインの丈に折られたスカートから覗くふとももが眩しい。踵にあまり厚みがないローファーと飾り気のない藍色のソックスもキュートだ。
やはり女子高生の制服というのは男として惹かれるものがあるし、僕と志木は男子校出身だから尚のことこういうものに憧れがある。
志木はこの感情を存在しないはずの過去への郷愁だと表現していた。それについては鼻で笑ってやったが制服姿の女子というものに並々ならぬ執着があるのは僕とて同じである。
今度千紗ちゃんも着てきてくれないかな。
「俺には何か言うことないのか」
「栞ちゃんの態度を見習え」
「……」
足をさすりながら、はあ、と溜息を吐く志木。生憎と男に振りまく愛想は持ち合わせていない。
ジーパン履いてTシャツ着ただけのファッションについて特に言うこともない。
「悠一郎さん、なんていうか……切り替え早いですよね……」
「得意なんだ」
楽しく生きる事を考えるなら陰鬱で胸糞悪いことなんてさっさと忘れてしまうに限る。自分勝手に気持ちよく生きていくためのコツその1だ。
「千紗ちゃんも忘れてしまうといい。あれはちょっと、年端もいかない女の子が背負うには重過ぎる光景だろう」
「……私、一度見たもの絶対に忘れないんですよ」
「マジで言ってる?」
「マジで言ってます。こうなったのは高校に入ってからですけど」
衝撃の事実だ。映像記憶だか瞬間記憶だか完全記憶だか知らないが、千紗ちゃんの人並外れたスペックがどんどん明らかになってくる。僕が英単語一つ暗記するのにどれだけ苦労すると思っているんだ。
しかし記憶の忘却というのは人間にとって必要な機能だからこそ存在するものでもあるはずだ。
千紗ちゃんの言葉を信じるならば、彼女はヒトが貪り食われるあの光景を鮮明に記憶しており、そしてそれを決して忘れることができない。
それが彼女の精神衛生上どれほどの負荷となるのか、既に記憶がぼやけているような僕如きには想像することも叶わない。
「僕が支えてあげるからね、千紗ちゃん」
「? はあ、そうですか」
不思議そうな表情で傾けた顔に指を当てる千紗ちゃん。手の先と顔以外は一切露出させず色調も地味目にまとめているがそれが返って唆る。ただの指先がとんでもなく卑猥な器官に見えてくる。
メンバーを確認したところでモノリスの光が漏れてくるほうへと振り返る。多少は急がねばなるまい、他の人間がダンジョンに入ってしまったら事だ。
勿論エリアの細工がある以上僕らのようにダンジョンを潰して帰還できるような人間も少なくないだろうが、それも引率できる人間がいたほうが確実だ。
僕がいまいち正義感に欠けるといっても人の命が理不尽に奪われるのを良しとするわけではない。
「さて、パーティも揃った。いざダンジョンに潜ろうじゃないか……あれ?」
「栞ちゃん達はもうモノリスに惹かれて歩き出してますよ、まだ先ですけど私たちも急ぎましょう」
まさかパーティリーダーたる僕が置いていかれるとはね。やれやれだ、先が思いやられるぜ。
しかしモノリスは良い魂を選んで導いてるはずではなかったのだろうか。
栞ちゃんについてはまだあまり知らないからとやかく言えないが、志木の魂がそんな大層なものだとは思えないぞ。
小走りで進む千紗ちゃんに付いていくと、すぐに栞ちゃん達に追いついた。
しかしその目からは一切の正気を感じられない。ふらふらと、羽虫が光につられるように歩いている。非常に危うく、今ならばなんでも言うことを聞かせられそうな感じがする。
志木は素の顔がアレな上にそんな状態になっているので完全に薬物中毒者にしか見えなかった。
「いや怖っ……僕達もこんな風に釣られてたのか?」
「この現象が怖いと言ってるのか志木さんが怖いと言っているのかわからないのが怖いところですね」
千紗ちゃんもちょっと元気になったようで、会話の中身が軽い。心なしか顔色も回復して見える。
それはそれとして、一つ懸念があった。
「……今更だけどさ、これ4人でダンジョン入れるのかな?山羊目玉は2人呼んだとか言ってたよね?」
「……エリア様の細工を信じましょう」
千紗ちゃんの言葉からは時々エリアへの謎の信頼がうかがえる。洗脳されていないだろうな。
栞ちゃん達が視界に入ると、既にモノリスに手を伸ばそうとしていた。僕は慌てて千紗ちゃんを抱えて走り出す。栞ちゃんの手に重ねるようにしてモノリスに触れると、すっと意識が刈り取られる────。
◯◯◯
今回僕らが立っていたのは森の中だった。長いゴボウみたいなものから樹齢千年の御神木みたいなものまで、不自然なほど多様なサイズの木がある程度間隔を開けてまばらに生えている。
見通しが悪いのに加えて上方からの攻撃にも警戒が必要になりそうな地形だったが木を除けば他の植物などは生えておらず、動こうとして足を取られるなどといったことがなさそうなのは幸いだろうか。
そして何より、空がある。太陽がしっかりと登っている。どうなってるのか知らないがダンジョンという雰囲気ではない。
「森ですか、虫とか多そうで嫌ですね」
千紗ちゃんは僕と同じく覚醒しているが、志木と栞ちゃんはまだ気絶している。僕らにはそういう耐性もついたのだろうか。
エリアの言葉を信じるなら経験値が入ってレベルが上がっているはずなので、この間に確認しておくことにしよう。
意識のない2人を見ていると他にも色々できそうだと思えてくるが、紳士たる者気絶している栞ちゃんの体をいじくり回すなんて品のない真似はしないのだ。
もし千紗ちゃんの目が無ければ欲望に負けていたかもしれないが、僕はifの話はしない主義なので根っからの紳士だと言っても過言ではないだろう。
ステータスウィンドウを開くと、やはりレベルが大きく上がっていた。一気にLv20だ。
「Lv20になってるね。大盤振る舞いだ」
「私もLv20ですね。山羊目玉は悠一郎さん一人で倒してたので私には経験値が入ってないかと思ってたんですけど均等に分配されてます」
いい情報だ。志木たちに弱らせた敵のトドメを刺させてレベリングすることも考慮していたんだけどその必要はなくなったな。
まず籠手を装備しておく、体のつくりに対して力が強くなりすぎた僕はもうこれなしに戦闘することが難しそうだ。
手に入ったSPを当然全てSTRに振り、これでその値は100を超えた。晴れて3桁の大台に突入、当然他のステータスは5だ。
スキルを見てみると、やはり見慣れないものがいくつかある。『神秘耐性』『結界破壊』『加速』の三つだ。神秘耐性は山羊目玉の言うところの呪術耐性のようなものだろうか?
今はあまり変化を感じないので『加速』は恐らく能動的に発動させるスキルだろうが、この不親切な世界のことだ、体が付いていかず関節が外れるなどといった事態が起こる可能性がある。
いつ襲われるかもわからないここで試すのは好ましくないだろう。
結界破壊に関しては微妙なところだ。タップしても反応がないが、結界とやらがある時のみ発動可能なものなのかもしれない。
ちらっと千紗ちゃんの方を見ると巨大な木を丸々一本消滅させているところだった。
どうなっているんですか?
「千紗ちゃんもスキル増えてたりした?」
「はい、三つほど。特に有用そうなのは『即席構築』ですかね、こんな風に物質の形を変えて武器にしたりできるみたいなんです」
そう言って形の良い尻をズボン越しに見せつけるかのように屈み、キィンという音を立てながら白い光を放ちつつ地面を撫でた千紗ちゃんの手にはダーツの矢のようなものが握られていた。
小さな動作でそれを少し遠くの木に向かって投擲し、宙を舞っていた木の葉を縫い止めてみせる。
「便利でしょう?」
「……そうだね…………」
僕と千紗ちゃんの想定する化学者像はちょっとズレているようだ。
針を投げる動作にスキルによるアシストは入っていないと思われるので、今の一連の動きからは千紗ちゃんのステータスがいかに上昇したかというところまで想像できる。どう振り分けているのかまでは流石にわからないが、今の動作にはSTRとDEXが必要になってくるだろうからその辺りにまでしっかり振っているということだ。
さすがにステータスによる補正抜きでこんな真似が出来る女子高生がいるとは思えない。これは瞬間記憶能力なんてものより余程非現実的な光景だ。
今なら千紗ちゃんは志木と殴り合いになってもボコボコにできそうだ。
「さっき木を消してたスキルは?」
「ああ、『有機分解』ですね。触れた有機物をかなり細かく分解するみたいなんですけど、触れなければ発動できない点と体力を結構消費するような感覚がある点でちょっと使い勝手が悪そうなんですよね……実際に何が持ってかれてるのか分かったものじゃないですし」
インパクトのある光景を見た後だったので少々意外な評価にも思えたがまあペナルティがあるというのなら妥当なところだろう。
一通り話し終えると千紗ちゃんは調合素材を探しに行くと言って離れてしまった。
そういえば『調合』なんてスキルを持っていたなあ、まともなものを作れた記憶がほぼないためか忘れてしまっていた。
僕達が離れてしまうことには少々不安があったがまあ今の千紗ちゃんは結構強そうなのでボス部屋にでも入らなければ大丈夫だろうと考え、僕は志木と栞ちゃんのそばで見張りをすることにした。
気を張り詰めて周囲を警戒する過程で少々栞ちゃんのスカートの中身が見えてしまうくらいなら千紗ちゃんも許してくれるだろう。
白だ。
◯◯◯
「……ん……?うおっ!?どこだここ!?」
大袈裟に驚きやがって、ダンジョンに潜るって説明しておいただろうが。やはりこんな魂が呼び込まれるとは思えない。
「わーお……本当だったんだ、いくら千紗ちんの話でも信じきれてないところがあったんだけど……凄いねえ」
「あ、ああ、ダンジョンか……こんなとこなんだな……」
目覚めてすぐの反応に若干の知性の差を垣間見てちょっと悲しくなった。
「やあ、おはよう諸君。千紗ちゃんが今素材集めに出向いてるからもうちょっとここで待っててもらうよ。聞きたいことがあれば聞いていい、分かる範囲で答えよう」
「……千紗ちんが一人で?」
「そうだ。まあ心配する気持ちももちろん分かるけど、彼女はもう相当に強い。可愛らしくちょこんと蹴っただけで志木の膝を粉々にすることが出来るだろう。無茶をしない程度の分別も当然あるはずだし、何も心配することはないさ」
「あーいや、そうじゃなくてね、一度クリアしてるっていうから私もそこはそんなに心配してなかったんだけどさー」
「そこは?他にどんな懸念が?」
うーん、と言い淀む栞ちゃん。形の良い眉を顰めながらその小さな口を開く。
「千紗ちんさ……すごい……方向音痴なんだよね」
は?
「は? いやいや、千紗ちゃん一度見たものは絶対に忘れないとか言ってたけど?」
そうだ。彼女は瞬間記憶能力を持っていたはずである。
その彼女があろうことか迷子になるなんて、そんな事、起こり得るはずがないのだ。
「道が整備されてれば何も問題ないんだけどねー……前に山で迷子になった時は『行きと帰りで景色が違うんだもん!』って言ってたね……」
なるほどそれらしい理由ではある。
天才ですみたいな雰囲気のあの子がそんなポンコツ要素を持っていたとはね……僕の前では今まで見せなかった一面である、新たな千紗ちゃんを発見できて幸せな気分だ。
いや、そんなこと言ってる場合じゃないかな。
「千紗ちゃんを探しに行こう」
向こうから帰ってくる望みが薄いなら、ここで待っていても仕方がなさそうだ。
「また……歩き回るのか……」
絶望したような顔で足を揉む志木。こいつを連れてきたのは失敗だったかもしれない。
「文句を言うんじゃない、お前の足と千紗ちゃんの身なんて天秤にかけるまでもないだろ」
面とガタイの割にちょっと軟弱過ぎるぞ。