今日は「とんちの日」」??
昨日の朝8時ごろ、名古屋のほうの東海テレビ(?)で放送事故があったらしい。8時をまたいで5分間位真っ黒なテレビ画面がが映し出されたらしい。その時その場にいてその画面を見ていたわけではないので、あくまで想像でしかないが、その真っ黒な画面を見続けていた人はいないと思う。無論、すぐに他のチャンネルにチャンネルを切り替えたことだろう。ただ、そのときの心理状態と言うのは、真っ黒な画面を見ているよりも普通に番組をやっている他のチャンネルを見たいという意識ではなく、この真っ黒な画面が他のチャンネルでも起こっているのではないか、何かとんでもないことがこの日本に起こっているのではないか、そうではないことを教えておくれとの思いで別のチャンネルで変えたのではないだろうか?薄っすらとした想いだろうけど。
昔、何という方の書かれた文章だったかは失念してしまったが、テレビ画面と言うのは、今の世の中における窓のようなものだと主張されている文章を読んだことがあった。まだ、テレビと言う電化製品が各家庭に入ってくるまでは、家から見える景色というのは窓を通した我が家のご近所様だけだった。それをテレビが新たな千里眼を家にいる人間にあたえたのだというような(これは今私が考えただけの話だが)ことを言いたかったんだろうと思われる。つまり、本当の窓は、その本来の意味を失って、空気の入れ替えに利用するただの通気孔と化してしまっている。それに対してテレビと言うのが、現在社会における家庭の窓であると、だから仮に今の家庭で1日中カーテンを閉めっぱなしの部屋があったとしても、中にいる人は、それほどの違和感を覚えないだろう、というのは私の考えだが。いや、うちは当然カーテンの開閉、窓の開閉はちゃんと行ってますよ。うっとおしいの、いやだし、空気の入れ替えしないと息がつまりそう。
閑話休題、いたします。
で、何を言いたいのかというと、昨日名古屋あたりでテレビ画面が真っ黒になったのを目の当たりにした瞬間、ほんの一瞬にせよ、その画面を見た人たちは、何か「重大な何かがこの世界に起こったのではないか」と言う思いに囚われたのではないか、ほんの一瞬にせよ、(くどい?)と想像してしまった、ということ。それほど今の家庭において、テレビは何かの風景や物語を映し出していて当然と言う存在になっている、ということ。消えているテレビ画面に違和感を感じる人は、けっこう多いのではないか?これは例えば本当のテレビ画面に限らず、パソコンの画面でも同じことが言えると思う。
今日は、音声入力で入力しているわけだが、今まで少し読み返してみて、誤字脱字による不明な文章のフォローが非常にしにくい。結局、圧倒的に描きたい物事があれば、最終的にそこに収束するように、誤字脱字を推測できるのだが、今回のようななんだかどうでも良い話を、たとえそれが数分前の入力分であるにしろ、想像を付けようとすると、本当に何を書いたたのかがわからない箇所がいくつも出てくる。その不明な謎を解くためには、名探偵にならなければならない。いや探偵にならなくても、大いに「とんち」を働かさなければならない。で、ようやくここでとんちの話になる。
今まで、このエッセイごときものの中に、何度かその名をお借りしている一休宗純和尚の、「一と九」にちなんで今日は『とんちの日』、だということらしい。
まぁ、とんちと言えば一休さんなのはわかるけれど、他にもとんちが得意な主人公のお話とか結構あるじゃない?その中で、一休さんだから1月9日が『とんちの日』って、あまりにも「とんち」に対して失礼な矮小化だと思うんですけど。それなら今日は、「一休さんの日」でいいんじゃないの?とか思ってしまう。だけれども、それじゃストレートすぎるから、とんちを効かせて「とんちの日」?
いやいや、うまいこと言ったと思ってませんし、どや顔なんかしてませんから。




