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-1-宵の明星

 時計はゆっくりと時を刻んでいた。こつりこつりと小さな音が響かせながら、長針がきっかり一秒ごとに円周の六十分の一の弧を描く。銀盤の上に留められた十二の数字はそっけなく、ただ壊れずにそこに在る、という最小限の機能を果たしていた。

 夕暮れ間際、凛に電話をして、書きたいものが書けない、と愚痴をこぼしたら、会って話そうか、と彼女は私を近所の公園まで呼び出した。


 ※ ※


 もうすぐ春になろうという季節だったが、空気はまだ肌寒い。

 私はコートのポケットに手を突っ込んで、凛のあとについて歩いた。

「さて。とりあえず何か話をしなきゃいけないわね」

「話って……。いったい、何の話?」

「なんでもいいって。ただ、思いついたことから言葉にしていくわけ。でなきゃ物語はなしは始まんない。私たちがどこにいくかも見えてこない。そうね、たとえば」

 彼女は少し口元に手を当てて考えていた。うなずいて、地面に落ちていた棒を手に取る。そして、地面にゆっくりと大きな五芒星を描いた。

「小さい頃、私が遊んでいたゲームの話なんだけど、こうやって地面に絵を描くのよ。どんな形でも良くて、丸でも四角でも五角形でも。あの日私が書いたのはこんな星形だったわけ。そんで……ねえ、この線をまたいで立って見てよ」

「こう?」

 私はおっかなびっくり星型の線の両側に足を置いた。

「そうそう。で、リズムにあわせて線の周りを走るわけ」

 彼女は手拍子を叩いて見せた。私がやるの、と尋ねた私にあったりまえじゃない、と答えて笑った。

 私が無器用にやってみると、彼女はにやつきながら拍手した。

「良い感じじゃん」

「ひょっとしてバカにしてる?」

「してないって。大事なのはこれから。あなたがやらなきゃいけないことはこれと同じなの。上手くても下手でもいいから、とにかくゲームをはじめるの。あの日の私たちみたいに」

 ふと彼女は、空を見上げた。指折り何かを数える。

「もう十年も前になるんだ。そんなに経ったって気はしないんだけど。

 その日ね、私はいつもみたいに友達と何人かでこの遊びをしていたの。そしたらちょっとした事件が起こったわけ」

「事件?」

 不穏な言葉に私は首をかしげる。その表情を見て取ったのか、彼女は苦笑した。

「別に大変なことが起こったわけじゃないの。ただ無くなっちゃったのよね、宝箱が」

「宝箱?」

「そう。私たちが道で拾った綺麗な石とか、押し花をしたカードとか、大事なものを入れてた箱が、ゲームをしてる時になくなっちゃったわけよ」

「ふうん。気の毒にね」

「そうでもないのよ。それから、無くした宝物を捜すっていう、私たちの物語はなしがはじまったんだから」

 そこまで話したとたん、彼女は興味を失ったように、脇に抱えていた小枝を草藪に放りこんだ。そしてそのまま、くるりときびすを返す。私のことを忘れてしまったように道を歩き出す。

 慌てて彼は彼女を追った。

「ちょっと待ってよ、どこに行くの?」

「神社まで一緒に来て」

 私たちは並んで道を歩いていった。道の先には杜があった。その入り口に大きな鳥居があり、奥の方には質素な社殿が見えていた。


 ※ ※


 無くした宝箱。私も同じような経験をしたかも知れない。

 私が死というものに触れたのは、恐らく五、六歳のころ。祖父を亡くした時だった。

 祖父は私にとってちょっと特別な人だ。一度も叱られたことがなかった。とにかくやること全てを受け入れてくれた。当時の私にとって一番好きな人だった。

 仏壇が作られ、家族はそこで手をあわせた。

 もう祖父には会えないと知ってはいたが、悲しい気持ちにはならなかった。

 天国がある。

 祖父は見守ってくれている。

 死後というものがあり、その後も存在し続ける、と私は理解した。

 それ以前にも死に関して描いた物語を聞いたことはあったようだ。

 再び死について深く思いを巡らしたのは、確か十二歳ごろ。生きる意味が欲しいと願いはじめたのは、その時だったと思う。

 全く別の文脈で、“世界の終わり”について、父と話していた時だった。読書に関しては早熟だった私は、どこかでボルツマンの言う、宇宙の熱的死について読みかじり、奇妙な興奮を抱いていた。その会話の中で、父が何気なく言った。

「誰かが死んだ時、その人にとって“世界が終わる”。そういう考え方もあるよ」

 なるほど、と幼い心でも納得がいった。

 恐らくその時、死後に関して天国でも地獄でもない、全く別の可能性を知った。

 すなわち無だ。

 死後、存在が消えて無くなるとしたら、存在していた意味すら無くなるのではないだろうか。

 私たちには記憶というものがあるから、過去を思い出すことができる。

 しかし、その過去というものは本当にあったことなのだろうか?

 「誰かと二人でいた」と思っていても、それはただそういう記憶があるからに過ぎない。証拠になるものがあったとしても、それが唯一の事実だけを示しているとは限らない。推論の仕方によっては、無数の可能性が浮かびあがることになる。

 そうだとしたら、私が死んだら無になるとしたら、私は生きていた頃を思い出すことはできない。とすれば、私の人生は消えてしまうのではないだろうか。いや、むしろ今自分が存在しているという証拠はあるのか?

 小学六年生から高校を卒業する頃まで、私を支配していたのはこんな観念だった。

 何人かの友達や知り合いが去っていった。彼らは、実在していたのだろうか。残された思い出が彼らのすべてだとしたら、私がひとつ記憶を無くすたびに、彼らの存在が薄れていってしまうことにならないだろうか。そして、また、私自身の存在さえも、日に日に薄れつつある。

 誰か、私が存在しているという証拠を見せて欲しい。

 痛切にそう願っていた。

 しかし、それが誰にもできないことだと言うことも知っていた。

 生きることの意味なんて無いと思った。根元的にはそれが私の物語を書こうとする理由かも知れない。刻まれた文字は、音を失っても、薄れずにそこにある。


 ※ ※


「結局さ、自分を愛することからはじめなきゃダメなんじゃないかな」

 凛はそういって微笑んだ。

「自分から逃げない、ってそういうことなんだよ、きっと」

「そうだね」

 彼女と出会って私は自分の信じていることを、少し認めてもらえた気がした。

 今まで躍起になって自己を否定しつづけてきたけど、それはなんだか違う気がした。

 だが、道のりの一つとしては正解だったのだろう。

 その証拠に、私はいまここに立っている。

 仮初めにでも存在するだけということの素晴らしさにようやく気づくことができたのかも知れない。

「ねえ、たまには自分の思ってることを、全部人に話してみたら?」

「全部?」

「そうそう。黙って考え込んでると、どんどん重くなっていくでしょ? だからそれを人に渡して軽くするの」

「軽くなるかな」

「なるってば」

 凛はおかしそうに口を押さえる。

「他人から見て変なんじゃないかとか、バカだと思われんじゃないかなんて、いちいち心配しなくていいじゃん」

 そう。どっちにしろ自分がこうであることに変わりはないのだ。

「ほら、金星がもう見えるよ」

 彼女が指した西の空には、たしかに光り輝く一番星がもう姿を現していた。立ち並ぶ木々の間から見える空は橙色からほとんど白に近い薄桃色をへて濃い瑠璃色への緩やかなグラデーションに彩られていた。

 どこからかせせらぎが聞こえてくる。

「宵の明星だね」

 私のつぶやきに、彼女はかすかにうなずくと、また林の奥へ振り返った。

 しばらく歩くと小川に出た。彼女は砂利の上にしゃがみこんで、また何かをひろいあげた。

「一夜にして世界が変わる、そんな風に考えたことない?」

 凛はつぶやくと、こもれびのように優しく明るい微笑を浮かべて、私を見つめた。

 彼女の手の中には金色の木の葉が握られている。かすかに震える手を彼女はそっと広げると、木の葉を川面に浮かべた。見る間に金色の木の葉は波間に呑まれ、流れの向こうに消えていった。

 私たちが見ていたものは何だったのだろう。月日がたつにつれて霞んでいく思い出は、私をたそがれ色の林の中に置き去りにしてしまう。どれだけ走っても、きっと私は追いつくことはできないだろう。水底で揺れながら流れ去っていく金色の木の葉には。

 けれど、立ち止まって、過ぎ去ったものを見つめ続けること。それが私に与えられた物語なのだった。

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