-0-白銀の指
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ
――万葉集より
* *
白銀の指で、水を掴もうとする。
深い夕霧、鏡の湖、広がる波紋。
水面に揺らめく自身の姿を見て、不思議そうに、仮面をつけた機械は首をかしげる。軋む金属音。虚ろな眼窩の縁に、ひとしずくの露が涙のように流れる。
胸に嵌められた、時計盤に似た電圧計の目盛りは、“彼女”の電気仕掛けの心臓が異常なく動作していることを示している。首筋の機関部から漏れる翠玉色や琥珀色の燐光が、ゆっくりと呼吸する蛍のように明滅する。
湖の色に良く似た銀で、彼女は造られている。
球体関節で繋げられた、大きなデッサン人形のような身体には、細い銅の糸を編んで作られた薄布が軽く一枚掛けられている。
彼女がかがみ込んでいるのは、湖の真ん中にある小さな浮島で、ようやく人が一人歩けるほどの細長い橋が湖岸から続いている。橋の先は灰色の霧に包まれて眼にすることはできないが。
あたりは静寂に沈んでいて、甲高い声で啼く鳥の声が、わずかにどこかから聞こえてくるだけだ。
葡萄酒色の雨が降りはじめる。
湖面にぽつぽつと波紋が広がり、水の中に薄紫色の煙が立つ。白銀の身体と銅の薄衣にも、同じ色の水玉模様が描かれていく。
目に見えない観衆が一斉にざわめきはじめたような雨音。
彼女は空を見上げ、踊る。愉しげに。独楽のように回る。
一陣の風が吹く。霧と雲が晴れ、灰色の湖の向こうに森と、硝子の館が姿を現す。
いつのまにか高い虚空から伸びる水色の糸が、彼女の手足に結わえられていて、彼女を空中へと引きあげる。
踊りながら、彼女は高く昇っていく。
そして、天空の高みに吊り下げられた鳥かごのような家の中で、彼女を待ち続ける可憐な少女の姿をはっきりと眼にする。
暮れなずむ瑠璃色の空で、月と太陽が共に輝いていた。
* *
黄昏時にスケッチを描いていると、思いもかけない幻影に出会うことがある。
近寄って、誰かなどと訊ねてはならない。佇みながら誰かを待ち続けている、自分自身の姿なのかも知れないのだから。