スパイスと砂糖
短編ですが、微妙に長いです。ご注意ください。
都会では絶対お目にかかれない澄んだ空に綿飴のような雲がかかっている。
見上げると、まるで外国の土産物屋に売っているポストカードの中に迷い込んだようだ。
足立美咲は悟りの境地を見てきたような顔でぼんやりと思った。
異国というのは間違っていない。
ここはまさに異国だ。容易に日本に帰ることはできない。――帰れるかどうかも分からない。
そう、いうなれば、ここは異世界と呼ばれる世界なのだから。
会社帰りに寄ったネイルサロンからの帰り道、一人住まいのマンションからそう離れた道ではなかった。
もう少し歩けば愛しい我が家が見えるという夜道で、美咲は突然現れた落とし穴に落ちた。それはもう彼女のためにあつらえられたのだと言われれば信じてしまいそうになるほどぽっかりと開いた穴だった。
叫び倒す美咲が暗い穴からようやく解放されたかと思えば、そこはどういうわけだか本やら服がうずたかく積み上げられてある小汚い部屋。
床は埃だらけで、決して広くはない部屋には本やチョークだけでなく正体の知れない器具からフラスコまで散乱している。
唯一の明かり取り程度の窓があるらしい側の隙間から(窓の前にもしっかりと物が積まれているので窓の桟すら見当たらなかった)漏れる光でここが昼間だと知れた。
美咲は確かに夜道を歩いていた。今日は酒など飲んでいない。
目を見張った美咲の耳に溜息が届いた。
「失敗か」
溜息混じりの声に彼女が振り返ると、長い髪の男が後頭部を面倒臭そうに掻いてる。おとぎ話に出てくる魔法使いのような裾の長いローブを着込んだ彼の髪は、鮮やかなオレンジ色だった。
春の新作のブラウス、新作のパンプスと春のバーゲンで勝ち取ったAラインスカート。ボーナスで奮発したトートバッグ。
美容院へ行ったばかりの栗色の髪は練習したばかりの緩いカールをつけて、小さなストーンのついたネイルを施された美咲は、まさに雑誌から抜け出たような姿だった。
道行く人が振り返るほど着飾った自分が何より好きだった。仕事とプライベートはきちんと分けている。美容には人一倍気を使う性質だったが、職場ではおしゃれの片鱗を見せるような格好すら絶対にしない。けれど、仕事が終われば別のこと。着飾ることは頑張って働いているご褒美でもあったし、オシャレなお店で美味しいものを食べることも美咲にとっては自分への最大の賛辞だった。
それが今や、日々の生活では役に立たないからと今時おばさんでも着ないような古びたメイド服に古くて硬い靴、色の抜けかかった栗色と黒のまだらな髪は三角巾でまとめられ、手にはネイルではなく羽箒。オフィスで幾人かの部下に囲まれて毎日忙しく過ごしていた身は、古びた本棚の埃を払う日々。決して人前にさらすことのなかったスッピンに近い顔で、連日の野外仕事で真っ黒に焼けた手はどことなく節くれ立ってきているような気がする。
食事といえば、
「昼飯はまだ?」
怪しげな薬を箱いっぱいに抱えて、汚いローブの男がおっとりと美咲が掃除したばかりの廊下から顔を出してくる。
ああ、きっとまた部屋を汚された。
美咲はこめかみを揉んで思わず眉間をきつく寄せる。いけない。考えたくもないがシワになる。
こめかみの次に眉間を揉みほぐす美咲の様子に、男は不思議そうに首を傾げてみせるだけだ。
「実験がひと段落ついたから、俺も手伝う」
こののどかな村には、オシャレなイタリアンの店も創作料理の店もない。
野菜は畑で育てなければならないし、肉は自分で動物を殺さなくてはならない。
そして美咲の保護者となったこの男は、基礎的な生活力をまったくもって備えていなかった。必然的に、この家での衣食住は美咲の肩に圧しかかっていた。
「掃除が終わったら、台所に行くからイモでも洗っておいて」
水は井戸から汲まなくてはならない。野菜を洗うのは結構な重労働なのだ。
「わかった」と汚いローブをのんびりと翻すオレンジ頭の男を見送って、美咲は溜息をついて窓の外を見た。森を無理やり広げて作った小さな庭では、朝から苦労して洗い終えた洗濯物が物干しでぱたぱたと揺れている。
美咲が異世界に呼ばれたのは、勇者になるためでもお姫様になるためでもなかった。
お人好しでもないし子供でもなかったが、それでも何か理由が欲しかった。
百歩譲って、魔法使いの魔法が失敗したのも理解しよう。失敗することは誰にでもある。
不審者の美咲を受け入れて衣食住を保証してくれたのも、当然といえば当然だが納得もしよう。元の世界へ返す魔法を研究することも約束させた。
だが、しかし。
しかしだ。
異世界に呼ばれてやっていることが、
「好きでもない男のパンツ洗って過ごすなんてどういうことなのよ!?」
美咲の叫びに反して、魔法使いのパンツは持ち主と同様に彼女の意を汲まないで、のんびりとローブと一緒に風にたなびいていた。
美咲を誤って異世界に召喚してしまった魔法使いは、メサイア・コンコルディといって、そこそこ腕のいい魔法使いらしい。
年齢のよく分からないこの男は、研究に没頭するあまり研究所を追い出されたというから、それはもう生粋の変人だった。その変人がたまたま手に入れた古い魔術書に興味を持った。
それが、異世界からの召喚だった。
本人の希望としては、異世界の物質、例えば土や植物といったものが手に入れば満足だったらしいが、召喚されたのは人間、それも女だった。
「このフェルドガルドの領主さまが君を保護したいと言ったのを、君が拒否しただけだろう」
美咲の叫び声を聞いていたらしいメサイアは、イモの入ったカゴを抱えて開口一番にそんなことを言う。
美咲の言いつけ通りイモを洗って台所へ持ち帰ってきたメサイアは、オレンジの頭をがりがりとかいた。美咲がやってくるまでは変人らしく風呂に入らなかったために頭をかいていたが、二日に一度は彼女に風呂へと放り込まれるようになっても時々こうやってがりがりとやる。すでに癖となっているらしい。
「あなた、あの時の領主の顔を見ていたの? どうやって異世界の女を手籠めにするか考えてるのが見え見えだったじゃない! そんな男が居る家に住むなんてまっぴらごめんだわ」
「……また言葉を覚えたのか」
「これでも英語とフランス語マスターしてたのよ。馬鹿にしないで」
美咲は、こちらの言葉が全く分からなかった。
向こうも美咲の言葉を理解しないので、最初のうちはボディランゲージでメサイアと会話したものだ。
ようやく片言に喋れるようになった時、メサイアはこの土地を治める領主のもとへと美咲を連れていった。自分の研究の失敗の報告と説明と、美咲の滞在許可を得るためだ。
「いやだ、行かない、なんて子供みたいなことを言うからてっきり俺の嫁にでもなるつもりなのかと思ったよ」
「誰があんたの嫁なんかになりますか! あの女ったらしの顔が嫌だっただけよ!」
厭味ったらしい領主の顔を見て思わずメサイアのローブの裾を握ってしまったことを思い出して、美咲は自分の顔が少しだけ熱くなるのを感じたが、イモを煮ることだけに集中するべくかまどに鍋をおいて水を張る。あれはただ単に不安が勝手に先走っただけだ。そう固く思う。
「御年二十七になったばかりの若くて美形って評判の領主をそういうのは君ぐらいだろうな」
かまどを覗き込んで何事かの呪文を唱えて薪に火をつけてくれる無精ひげのメサイアが楽しげに笑うので、その顔を横目で見ながら美咲は格式の高い家具に囲まれた広い部屋で会った、やたら上等な外面の領主を思い出した。
少し長めの明るいブロンドを綺麗になでつけて、癖がなくて品のいい三つ揃いを着た、女の子にはひと目で気に入られるだろう甘いマスクの若い領主。しかし、美咲には彼の長身に秘められた膂力を見てとることが出来たし、あの男の傲慢なまでの自信が鼻についた。
あんな男と暮らすぐらいなら、変人だろうが生活能力がなかろうが、穏やかなメサイアと暮らしている方がマシだったのだ。――あくまでマシというだけだったが。
(もっとマシな条件が揃うならとっとと出て行ってやるのに)
台所からほど近い、狭いダイニングにメサイアと一通りの食事の準備を整えて、遅い昼食にありつくと、美咲は固くなってしまったパンをナイフで切り取りながら昨日の残りの野菜スープに浸す。
領主の女ったらしは問題外だが、メサイアはマシな男ではあるが刺激と魅力に欠ける男だ。どうせ目指すならワンランク上の生活を目指すことに重きを置いて人生を謳歌していきた美咲にとって、メサイアのような草食系は退屈以外の何物でもなかった。
イモを潰して野菜を混ぜるだけのおかずに嬉々として食いついているメサイアを前にすると自然と溜息が洩れる。この男、手製のマヨネーズを作ってやっただけで美咲を天才扱いして憚らず、以来彼の好物はポテトサラダだ。これさえ出しておけば、肉が焦げようがパンが固かろうが文句はないらしい。
扱いやすいといえばそれまでだが、本当にそれだけの面白くない男だ。
美咲が固くて食べられないパンを軽く噛み切りながら、スープに口をつけている魔法使いは顔だけ見れば悪くない。むしろ整った方なのだろう。
少しも日に焼けない肌は不健康に白いが、鼻筋は通っているし、薄い唇は形もいい。いつも丸メガネをかけた双眸は間抜けだが、レンズの奥の不思議な金色の瞳は嫌いではなかった。
うっかりで異世界に美咲を呼びつけたメサイアを恨んではいるが、くよくよしていても始まらない。彼は罪悪感からか美咲にとても根気よく言葉を始め、色々なことを教えてくれた。
「そういえば、今日は村に行く日じゃなかったのか?」
「あ、そうだった!」
メサイアの何気ない一言に固すぎて食べきれなかったパンをスープに放り込んでかきこむと、のんびりと食べている魔法使いを放って美咲は席を立つ。
「帰りにミミーの乳をもらってくるわ」
ミミーとは、この世界の独特の家畜で、牛と羊を合わせたような大きな獣だ。大人しいが肩から足までが大人の背丈よりも大きい。
「乳酒も頼む」
「飲めもしないくせに」
美咲がエプロンを外しながら笑うと、メサイアは「君が飲むだろ」と肩を竦める。
そんな風にして魔法使いのあばら家から出かけた美咲が向かうのは、魔法使いの住む森からほど近い村の集会所だ。
そこでは朝の家事を終えた村の女たちが待ち構えている。
「やっと来たわね、ミサキ!」
十代から中年以上の女性たちにわっと囲まれるが、美咲は落ち着いて彼女らの輪の中に入っていく。要は、プレゼンだと思えばいいのだ。
「どこまで話たっけ。……そうそう。肌を白くする方法だったわね」
村の女たちは、最初こそ美咲を魔法使いの元へやってきた魔女と思っていたようだが、今では定期的に美咲にこうして美容の話を聞きに来る。どこの世界の女性も、美容に興味のないはずがないのだ。
ミルクで顔を洗う話をすると、飲むためのものを塗るということに抵抗を覚えたようだが、試しにやってみたらしい者の成功談を聞けば、みるみるうちに昼間の井戸端会議は人数が膨れ上がり、今では村の女たちの夕食の支度までのささやかな楽しみの場となっているようだった。
手製の菓子やパン、木の実などを持ち寄って思い思いに喋るさまはどこの世界でも同じだ。女三人寄れば姦しいというやつだが、
「荒れた唇に蜂蜜を塗るのは良かったわ」
ありがとう美咲、とにこにこされれば悪い気はしない。
畑仕事と家畜の世話ですっかり日に焼けて真っ黒になった彼女は、美咲と同じ年の二十六。この年で子供が十人もいるというのだから恐れ入る。
そんな彼女が作ってくるパンは美咲の密かな楽しみだった。
口に入れるとふわりと牛乳のような甘い香りが澄んで抜け、噛めば塩味と甘味が交互にやってくる。日本で食べていたパンほど柔らかくはないが、美咲の焼くパンと比べれば天と地だ。
「どうやったらこんなにおいしく焼けるの?」
さすがに今日の昼に出したパンはとびきり固くて頂けなかった。それでもメサイアは文句も言わずにばりばりと食べていたのだが。
口をすぼめる美咲を十児の母は「ふふふ」とパンのように楽しげに笑う。
「初めのうちは黒檀みたいなパンだったんでしょう? パンの形になってきたならきっと上手くなるわ」
それに、と彼女は秘密を告げる少女のような顔で言う。
「文句も言わずに食べてくれる人もいるでしょ?」
そう微笑まれるものだから、美咲は家事もパン作りも投げ出さずにいられるのかもしれなかった。不本意ながら。
村の人たちは、怪しげな魔法使いをそう警戒している風でもない。時々、薬を作ってくれとか、村の祭りの日の天気を読んでくれとかそういう依頼もしてくるから、ある日突然村の端に住み始めたらしい魔法使いを受け入れたように、美咲もそうやって徐々に受け入れてくれているらしかった。
その日はミミーの乳と乳酒と、余ったからとつまみの木の実までもらって帰ることができて、夕食はちょっとした酒盛りになった。
メサイアは愛用のカップ一杯の乳酒で顔を真っ赤にして倒れそうになっていたが、美咲がまたしても焦がしてしまった鶏肉を今日も文句も言わないで平らげた。
そんな日の、次の朝。
運命の使者は突然やってきた。
旅慣れた旅装の男は、明らかに村人とは違いサーコートのような上等な服を着ていた。
美咲が薬草を煎じた茶を出したが手をつけようともせず、ダイニングで相対したメサイアに一通の書簡を差し出してくる。
促されるまま書簡に目を通したメサイアは、珍しく眉根を寄せた。美咲の前でこの男が不快を表わすことは今までなかったのだ。
珍しい光景をメサイアの後ろで控えていた美咲が眺めていると、内容を読み終えたらしいオレンジ頭がこちらを振り返ってくる。
「王都に呼ばれた」
なんでも、腕のいい魔法使いを集めて王様が頼み事をしたいらしい。
前金でもいい収入になるし、成功すれば魔法使いの研究所への復帰も、宮廷への士官も叶うという。
美咲は嫌がるメサイアから前金の金額を聞いて即決した。
「行けばいいじゃない。こんな大金があれば好きな研究がいくらでもできるわよ」
王都までの旅費さえ王様が持ってくれるというのだ。すっかり覚えたこちらの世界の金銭感覚で計っても、こんな割のいい話はない。
「依頼内容まで読めるようになってから言え。この薬を作るには、一か月はかかるんだぞ」
「作ることができるのですか!」
興奮気味で割って入った使者によれば、メサイアが軽く作れると断言した薬を作ることができる魔法使いが居なくて、こうして探して歩いていたらしい。いくら王命とはいえ、ご苦労なことだ。
「あなたさまに来ていただくことが出来れば、これほど幸いなことはございません。どうか」
偉そうだった使者が必死に頭を下げるものだから、半分やる気のなかったメサイアのやる気が更に下がってしまいそうだった。この男は頼みこまれれば頼みこまれるほど、やる気をなくす変人なのだ。
「いや、俺はこいつの文字の練習を見なくちゃならないし」
「ちょっと、私を引き合いに出さないでよ!」
ぎゃあぎゃあと叫んだ美咲を使者が不思議そうな顔で見て、
「失礼ですが、奥方さまでいらっしゃいますか?」
と、くるものだから、美咲は頭に血がのぼったまま叫んだ。
「違います!」
そんな美咲の脳裏にふと考えが降りてくる。
そうだ。ここに居たところでメサイアの家政婦としてしか暮らせない。
どうせなら、もっと違う世界も見てみたい。
世の中は広いはずだ。いい男だってごろごろしている気がする。
美咲を元の世界に戻す研究をしているメサイアが王都へ行くなら、と思えばそれはとてもいい考えに思えて次の瞬間には口から飛び出していた。
「私も王都へ行きますから!」
そう、叫んでいた。
それから、その日のうちに美咲は村の人たちに感謝と挨拶を伝えて用意を整えると、午後の遅い時間から使者と共に、のどかな村を旅立つこととなった。
隣で大慌てで旅支度を整えさせられたマント姿のメサイアは、名残惜しそうに自宅と村を振り返る。
「君のイノシシみたいな性格を侮っていた」
メサイアと共に苦笑を洩らす使者を横目に、美咲はまだ見ぬ麦畑の間の道の先を見つめて、久しぶりに興奮が胸に満ちるのを感じていた。
王都へ行けば、綺麗な服もいい男も転がっている。はずだ。
(待ってて、私の王子様!)
まだ見ぬ運命の人に美咲は期待を膨らませた。
だが、それも夜までのことだった。
美咲の旅装は、村の若い青年のお古のズボンとシャツにベストを合わせた簡素なものだ。靴はメサイアのお古で、丈夫だが古びて目も当てられない。それでもスカートでなくて良かったと思った。
「大人しくしな」
ダミ声の男はへっへっへと漫画から出てきたような悪人面で、そういう凶悪な顔つきで毛皮などを羽織った男たちが夜の森で、美咲たちを取り囲んでいた。
手には形こそ違えど、錆びた剣や槍、中には弓を構える者までいる。その五人という数を多いとみるか、少ないと見るか。
いわゆる、山賊というやつなのだろう。
メサイアは珍しく美咲をかばうようにして立ち、辺りを見回している。魔法を使う機会を狙っているのだろうが、魔法は呪文にしろ媒体の杖にしろ、準備が必要だ。
地図で安全と書かれていたらしい道での非常事態に使者殿の顔面は蒼白だった。これだから公務員は融通がきかない。
「金目の物を出しな。そうすりゃ見逃してやるよ」
まだ良心的な山賊らしい。村の噂で聞いた山賊は、大抵が身ぐるみを剥いで殺してしまうというから、彼らの場合は飢えているほどではないらしい。
メサイアと使者はひとまず山賊の言うとおりにするらしく、旅費の入った袋を男たちに投げる。しかし、
「おっと、その後ろの女もだ」
メサイアの背が凍りついた。けれど、美咲の肩を別の男が掴む。
「放して!」
暴れてみるものの美咲はあっというまに腕を掴まれ、メサイア達から引きずり離される。
「……どうするつもりだ」
低い声でメサイアが山賊に問うが、山賊の方はおどけるように肩を竦めただけだった。
「女も金目のもんさ。まぁ、その前に俺達に酒でも注いでもらおうかねぇ」
男たちから笑い声が上がる。
まぁそうだろう。男なんてそんなものだ。
だったら、と美咲は体をひねった。
「なっ!」
彼女の腕を掴んでいた男は、自分の腕ごと捻られてとっさに美咲を解放する。
そのまま、美咲は男の足を思い切り踏みつけた。
「いってぇえ!」
ざっと男たちの空気が変わる。
「このアマ!」
足を踏まれた男が掴みかかって来る前に、美咲はためらいもせずに足を振り上げる。
ガッ!
成すすべもなく地面に呻きと共に崩れ落ちた男をしり目に、振り返ったメサイアと使者の男の顔がこれ以上ないほど歪んでいたから、美咲は自分の反撃がとても効果的だったことを知る。痴漢は去勢されてしまえ。
仲間の惨状を見るや顔色を変えた男たちがうなり声を上げた。
「生意気な女をやっちまえ!」
逆上した男の手を掴むのは、美咲にとってたやすいことだった。
パシンと弾かれたその手に掴んでいた剣をとり、そのまま柄尻で男のこめかみを打つ。
倒れた男を乗り越えて、次にやってきた男の剣の鍔元へと打ちこむ。
ガキン!
「ぐっ!」
女からの予想外に重い斬撃に驚いたのか、男は呻いた剣を手放してしまうので美咲はすかさず胴ごと剣を薙ぐ。
しかし、美咲からメサイアと使者に標的を変えた男を見つけて、剣を勢いよく投げつける。
そんな彼女の後ろから覆いかぶさるようにして男が襲いくるが、彼女は早かった。
そのまま男の腕を掴んだかと思えば、
「てぇえええええええええい!」
身の嵩なら美咲の三倍はあろうかという男を、彼女はあっさりと投げ飛ばした。
どすん! という派手な激突音を残して、辺りがしんと静まり返る。
当の美咲は手を払っただけで平気な顔をして立ちあがる。
あれだけの荒事をやったというのに、息一つ乱していないのだ。
「まだ、何か用?」
美咲が問えば、まだ一人立っていた男は慌てて横に首を振った。
しかしメサイア達が差し出した金を取ろうとするので、美咲は手近に放ってあった剣を投げ込む。
ザン!
剣は吸い込まれるようにして男の手と金の袋を分断して、地面に突き立つ。
固まった男から目を離さないで美咲がゆっくりと袋を拾い上げると、男はまだ何も言い返せないような顔で彼女を見上げる。
「ごめんなさいね。これがないと旅を続けられないの」
先ほどまでの鬼神のような女とは思えないほど柔らかに言われ、男は呆然と美咲を見送った。
夜の森を歩くのは危険だったが、ランプに明かりを入れるとメサイアと使者の顔にようやく正気が戻ってくる。
倒れた山賊たちからはだいぶ離れたものの、夜の森をこのまま歩かなければならないだろう。
ランプの明かりに誘われたのか、メサイアがつつっと彼女の隣に寄ってくる。
「……君、強かったんだな」
無神経な魔法使いの感想に、美咲は苦虫を潰すような思いで顔をしかめた。
美咲は、どちらかといえばマッチョが好きだ。
ただし細身の引き締まった美形が好きなので、むさくるしいのは嫌いなのだが。
初恋の相手は小学生の頃。近所の柔道部の高校生だったから、筋金入りといえばそうかもしれない。
そんな彼に近づきたい。
その一心で柔道を習い始めた。
しかして、彼女の才能は開花した。
気がつけば、初恋の相手を軽々と投げ飛ばすほどの腕前となっていた。
当然といえば当然、初恋は無残に散った。
体を動かすことは嫌いではなかった美咲は、まだ足りないと新たな出会いと強さを求めて闇雲にあらゆる武芸の腕を磨くことになったのは、苦い思い出だ。
それが大学生となって初めて異常な生活だったと知った時に、ようやく美咲は武芸の世界から足を洗ったつもりだったのだが。
「まぁ、あれだけ綺麗に薪が割れる女の子も珍しいから、まさかとは思ってたけど」
メサイアが隣で思い出すように無精ひげを撫でる。
初めて握った斧で、薪を唐竹に恐ろしく綺麗に割って見せた時にはさすがに不味いと思ったが、薪はここの生活には欠かせない。
美咲は未だ彼女を怯えた目で見る使者にランプを押しつけて、自分の荷物をメサイアに放り投げた。
メサイアは驚いたように荷物を抱えたが、何も言わないでそのまま美咲の荷物を自分の肩へと乗せる。そんな様子を見ながら、美咲は溜息をついた。
「こんなことがあるなんて聞いてないわよ」
「仕方ない。次の街に着くまで馬車が用意出来ないっていうんだから」
「それより女の子ひとり戦わせるってどういう神経してるのよ!」
メサイアと使者の男二人を美咲が睨みつけるものの、彼らはとんでもないと首を振るばかりだ。
「だって、俺、体力ないから」
「私も普段はデスクワークが中心で」
「これだから草食系は嫌いなのよ!」
夜の森に美咲の叫び声に驚いたのか、遠くで不気味な鳥がぎゃっぎゃっと鳴いた。
結局、三人はほとんど夜通しランプの火を頼りに森を抜け、朝方着いた街から馬車へと足を変えた。
宿で軽く休憩して街を出発したのはまたしても午後。
しかも宿の女将が言うには、
「近頃、厄介な山賊が出るようになってね。危なっかしいっていうからとうとう騎士団が討伐に来るんだそうだよ」
どうやらそれが村でも噂になっていた凶悪な山賊らしい。
「どうする。もう引き返しちゃう?」
「そんな、ここまで来て!」
危ない目に遭うのはごめんだと美咲が馬の顔を撫でながらぼやくと、使者が御者台から悲壮な声を上げるので、三人と二頭立ての馬車は街を発つことになった。
日のまだ高いうちには馬車や人の通りもあったが、やはり夕方近くになると開けた街道でさえ人通りは無くなってしまう。
警備隊も通るという街道沿いで今回は野宿をすることになったものの、悪いことは続くというもので。
スコーン!
という甲高い音が馬車の屋根を突き破ったかと思えば、あっという間に数人の男たちに囲まれる。
昨夜と同じような格好の面々が、昨夜の輩よりもぎらぎらとした目つきで獲物である美咲たちを睨んでいた。
どうやら、金目の物を出せという手間すら惜しんでいるらしい。
「やれ!」
おざなりな掛け声と共に男たちが一斉に襲いかかる。
美咲たちの内、戦力になりそうなのは美咲だけだ。
さすがに分が悪い。
とっさに馬車の馬を放してメサイアから乗せようとしていると、
「どりゃあああああ!」
別の男たちの声が割り込んできた。
「大丈夫ですかい、姐さん!」
松明に照らされた熊のようなひげ面には見覚えがある。
「アンタ、昨日の山賊!」
「へい!」
錆びた剣を構えながら満面の笑みを浮かべるものだから、美咲の困惑は深くなる。
「どうしてここに」
向かってきた凶悪な山賊を殴り飛ばしながら美咲が尋ねると、熊の山賊の方はにこにこと頷く。
「姐さんの後を追いかけてきたんでさぁ」
「だからどうして!」
「姐さんの心意気に惚れやした!」
男気やら色々なことを山賊は力説したが、要するに昨夜、美咲に負けたことで何かが芽生えてしまったらしい。
あらかた山賊たちを追い払ってから、メサイアと使者が疲れたように座り込んだのを見てとってから、熊男はいきさつを語った。
「姐さんの旅の安全を思って後ろからついて行っていたんですがね。そうしたら、近頃幅をきかせてるタチの悪い連中の縄張りに入っていっちまうじゃねぇですか」
だから、危機を察して助けにきてくれたという。
山賊のくせに元来、気質はまっすぐなようで、他の山賊たちも顔は怖いが似たようににこにことしている。
どこかの魔法使いや王宮からの使者よりも役に立つし、頼りになるというものだ。
「しかし、ここから先ちょいと面倒なことになるかもしれませんぜ」
山賊の一人が松明で凶悪犯たちが逃げ帰っていった森の淵を照らしながら言う。
「賊にも色々あるんですがね。みんな総じてメンツを大事にしやがるんでさぁ」
今回追い払ってしまったことで、報復があるかもしれないということだ。
「ですから姐さん!」
ざっと揃った強面の山賊が美咲に向かってきらきらとした目を寄越す。
「姐さんの旅の安全を守るため、俺達もついていきやす!」
美咲の方はといえば、あまりのむさくるしさに眩暈を覚える。
しかし、メサイアと使者の二人を連れて、美咲一人で彼らを守り切ることはできないだろう。
――どうやら、王子様に会う前に、子分を手に入れてしまったようだ。
旅は順調に進んだ。
山賊たちは、昼間は影のごとく街道のそばを歩き、夜になれば番犬のごとく一行の安全を守ってくれた。
最初のうちはどんなしっぺ返しをするつもりなのかと勘繰りもしたが、元々彼らは食いっぱぐれの兵士で、生まれ故郷の村にも戻れず仕方なく山賊家業をしていたらしい。
王都へ行けば、仕事も探せるかもしれないとこの旅に同行することをみんなで話し合って決めたという。ずいぶんと民主的な山賊団だ。
「王都で仕事が探せなきゃ、近くで畑でも探して耕しやすよ」
この国は最近まで近隣の国と戦争をしていたようで、そういう兵士は多いと使者がぽつりと溢した。
「特に王都の周辺は焼け野原になってしまいましたからね。未だに元居た農民も帰ってこないので、土地は余っているはずですよ」
しかし、使者は王宮に勤めの者らしくこうも付け加えた。
「盗賊の罪は、どのような事情であっても罪になります。自首は刑を軽くできますから、殺人などの重罪を犯していなければ、きちんと罪を償ってください。そうすれば、自分の土地を持つことができますから」
山賊たちは使者の言葉に考えるような顔をしていた。思うところもできたのだろう。
そんな行程も終盤に差し掛かった頃。
それはやってきた。
松明をかざした男たちが、美咲たちのキャンプを取り囲んでいる。
メサイアと使者を中心に置いて、山賊の男たちと美咲は暗く濁った眼の男たちを睨み据える。
今までの山賊たちとは違う。人と物の区別がつかない、まったくの犯罪者たちだ。
松明の明かりを各々の武器の刃がぎらぎらと跳ね返し、美咲たちを見据えている。
「どうも、舐めた真似をしてくれたようじゃねぇか」
取り囲む男たちの間から、ひと際狂ったような目をした男が進み出る。
「ご同業もいるようだが、顔に泥を塗られたまんまじゃあこれから先やっていけねぇ。――死んでもらうぜ」
合図もない。だが、言葉の切れ目が襲撃の合図だった。
男の後ろからわっと剣を片手に山賊共が雪崩れ込み、ほとんど丸腰の美咲たちに襲いかかる。
今までとは人数が違う。
美咲は咄嗟に腕を取った男から剣を奪うと加減せずに振るった。
ザン!
彼女が怪我を負うことはなかった。
山賊たちはほとんどが自己流だ。めちゃくちゃな戦法で動きも大きく、美咲が隙を突くことは容易かった。
「さすが姐さん!」
熊山賊団の男の声が聞こえてきたが、それも次第に遠くなった。
一人斬って、また一人。
彼らは皆、美咲たちを殺すつもりで襲いかかってきているのだ。
簡単に剣を引いたりしない。
しかし、美咲の周りに半円が出来る頃、頭目らしい男はさすがに不味いと感じたらしく、「退け!」と声を張り上げた。
だが、ここで逃がしたところで美咲たちはこれから後にも狙われることになるだろう。
「あの頭領、ぶん殴ってくる!」
そう言って、美咲は一人駈け出していた。
「ミサキ!」
誰かの声が聞こえたが、山賊たちが逃げ帰る森へ走りこむと声は消えた。
先を走る山賊の松明を追っていくと、逃げ帰ったばかりの男たちが美咲の姿を見つけてぎょっと目を剥く。まさか一人で追いかけてくるとは思わなかったのだろう。
切れ味の悪くなった武器を放り出してまた奪う。それを繰り返していると美咲に置いて行かれた山賊団も追い付いてきたようで、とうとう頭領の部屋らしく場所まで追いつめると、彼らは青ざめた顔で白旗を揚げた。
「お前らいったい何者なんだよ! さては王宮の密偵か!?」
他の山賊同様、縄で簀巻きにされた頭目はじたばたと暴れるのでとりあえず剣の柄で殴って大人しくさせておく。
すっかりのびた男を床に転がすと、山賊のねぐらを見て回っていた熊山賊団の一人が美咲を呼んだ。
「あいつら人攫いもやっていたようで」
地下に攫われたらしい女子供が閉じ込められているというのだ。
貴族の娘や子供は、外国で奴隷として高く取引されているという。
「うわ、サイテー」
男たちに続いて美咲が地下の部屋を開けると、様々な格好の女性や子供が驚いたように顔を上げた。
熊山賊団の男たちでは逃がしてやると言っても説得力がなかったらしい。
貴族の子息が多いらしく、礼の言葉も言えないような子供や娘ばかりだったが、最後に部屋を出てきたひと際美しい金髪の娘だけは、美咲に対してしつけの行き届いた礼を述べた。乳白色の肌は薄汚れていたものの抜けるように白く、細い体に据えられた小さな顔にはぱっちりとした紫の瞳。ふっくらとしたバラ色の唇。かんばせを彩る金髪はゆるやかに波を描いて、まとっている服こそ簡素なワンピースだが、まるで幻の妖精のような少女だ。
「助かりました。通りすがりということでしたが、本当に感謝いたします」
みなさんも、と熊山賊団にも美咲へのものと変わらない謝辞を述べている。
(なんて出来た娘なんだろ)
会社の新人がみんなこんな娘のようなら、美咲は毎日怒鳴り付けなくて済んだことだろう。
そんなことを考えていると、外から再び馬のわななきが聞こえてくる。
何事かと外へ出ると、そこには甲冑を着こんだ兵士たちが整然と並んでいた。松明を掲げた彼らは美咲たちを見るや一斉に槍を向けるが、一人の男が馬から降りてそれを制す。
他の騎士たちが銀色の甲冑だというのに、その男は剣こそ佩いているものの飾り紐のついた肩のマントから内側のコートまで白い軽装だ。緩く三つ編み編んだ長い金髪を優雅になびかせて、一人で美咲たちに近づいてくる。
「なりません! 御戻りを!」
甲冑の一人が慌てて声を上げるが、彼は美咲たちにいつの間にか追い付いたメサイアに目を向けて、納得したように歩みを進めた。
「久しぶりだな。コンコルディ」
見た目にも上等なその人が透る声を投げかけたが、メサイアの方は静かに目を伏せただけだった。
「お久しぶりです。殿下」
美咲が思わずメサイアを見遣ったが、次の声に疑問が霧散する。
「お兄さま!」
飛び出してきたのは、先ほど美咲たちに丁寧に礼をくれた金髪の美少女。
「オフィリア!」
殿下と呼ばれた男は飛び出した美少女をひしと抱きとめる。
感動のご対面らしいが、美咲たちはかやの外だ。
ぽかんとして見守っていると、こそっとやってきた王宮の使者殿が美咲たちに耳打ちしてくれる。
「我が国の第一王位継承者であせられるフィヨルド殿下と、その妹姫のオフィリア姫ですよ」
今度は美咲と山賊団が絶叫した。
美咲が助けた金髪の美少女は、なんと王女さまだった。
彼女はお忍びで出かけた先で巷で暴れていた盗賊団に攫われてしまったらしい。慌てた騎士団はその重い腰を上げて、精鋭揃って討伐にやってきたということらしい。
後始末は騎士団がつけてくれるということで、美咲たちはすぐに解放された。
山賊たちは苦笑いだったが、王都まで騎士団が連れて行ってくれるというのだからこれ以上ない安全な旅となるだろう。
夜明けも近い森は未だがやがやと人のざわめきが残っていたが、悪徳山賊たちはあらかた騎士団にお縄となり連れ出されていくと、ねぐらの周りの森はいつもの静けさを取り戻していく。
「大丈夫か」
静かになった辺りの木々の隙間でうずくまっていたのを、魔法使いは目敏く見つけたらしい。
メサイアの問いかけにも美咲は応えず顔を膝へと埋めた。
「そんなことしたって治まらないだろう」
そう言って、メサイアは美咲の肩を掴む。
彼の手には、きっと美咲の震えが伝わっていることだろう。
「人を斬ったのは、初めてだったんだな」
そっと肩を思っていたよりも大きな手が包み込んで、美咲をすっぽりと覆う。
そう。初めてだったのだ。
美咲のやってきた武芸は、あくまでもスポーツだ。
他人が自分の力で傷つくこともあることは百も承知だったが、それでも実際に武器を手にして戦うことなど、現代日本でそうそうあるはずもない。
最初に山賊に襲われた時。
人を傷つけた感触が消えず、美咲は震えが止まらなかった。だから、ランプと荷物を他の二人に押しつけた。
メサイアの手が美咲の背を子供をあやすように撫でるが、彼女の震えは抑えることはできない。
かたかたと震える美咲の背をさすりながら、メサイアは彼女を自分の胸にすっぽりと抱きこむ。
「……俺が悪かった」
肩を震わせながらメサイアを見上げる。いつの間にかいつもの丸メガネがなく、金色の瞳が美咲を見下ろしていた。
彼の、旅人がよく着る丈夫なコートとシャツは汚れていて、腕のところは薄く切れている。
さっきまでは無かった汚れと傷だ。
もしかしたら、メサイアは美咲を追ってくる途中で、メガネも無くしてしまったのかもしれない。
体力も、腕っ節もないくせに。
だが、それでも彼は美咲を追ってやってきたのだ。
それが、バツの悪いような、申し訳ないような心地がして美咲は再びメサイアを見上げる。
ごめんなさいとは言えずに、視線を彷徨わせているとメサイアはその夕焼けのような瞳を細めて形の良い唇を、そっと……。
「―――――まさか、これも初めてだったのか?」
吐息が触れあうほどの距離で目を丸くするメサイアを、美咲はこれ以上ないほど顔を歪めて睨んだ。
自分の顔がどうなっているかなど、今は大した問題じゃない。
たとえ、夜目にもはっきりとわかるほど、血がのぼって真っ赤になっているとしても。
メサイアは当惑しながらも美咲の肩から手を放そうとしない。
この男、何をした。
いや、これも問題じゃない。
問題じゃないと思いたい。
そうだ。キスの一つや二つ。
二十六にもなって経験がないわけが。
――無かった。
美咲は、中高一貫の女子高に通って青春を女ばかりで過ごし、大学で初めて彼氏が出来た。が、すぐに振られた。原因は、美咲の腕っ節だ。恥知らずなナンパ野郎を拳一つで病院送りにしてしまったり、電車で見かけた痴漢の腕を捻り上げ、テンカウントを取ったこともある。
彼氏の見ている前でやってしまったのは悪かったとは思う。
けれど、彼らは一様に怯えて美咲から離れて行ってしまったのだ。
見た目はかよわくとも、自分より強い女など確かに怖いだけだろう。
いつか美咲を理解してくれる王子様が現れると思っていた。
でも二十六にもなれば、王子様が居ないことぐらいわかっている。
分かっているが。
「ちょっと、待っ…!」
ドゴォ!
慌てたような弁解を無視して、美咲のストレートはうなりをあげてメサイアの顎へと決まった。
体半分が宙へ浮いた不運な魔法使いは、あえなく地面へと自由落下して、落ちた。
彼は悪くない。
悪くないと思う。
だが、美咲は未だに夢見る乙女だった。
これに比べれば、パンツを洗っている方がいくらかマシだ。
「どうして好きでもない男にキスされなきゃならないのよ!」
体の震えはすっかり止まったが、彼女の理不尽な悲鳴に答えられる者はとりあえずこの場には誰も居なかった。
騎士団との出発の時間になっても、メサイアだけがなかなか現れないという事態が旅の始めから起こったが、おおむね王都までの旅は安全に済み、美咲とメサイアは王宮へと招かれた。
王都までついてきた山賊たちは、今回の功績で恩赦を与えられることになり、今まで殺人などの重罪を犯していなかったこともあって王都からの追放で釈放されることになった。
彼らは最後まで美咲を「姐さん」と呼んで、涙を流して美咲と別れて王都を発っていった。これからは近郊の村で畑を借りて暮らすという。このまま更生してくれれば美咲も気分がいいというものだ。
山賊たちを見送った美咲は、あれよあれよとメサイアと共に王宮に招かれ、メサイアのあばら家がすっぽり入るような客間で上にも下にも置かない接待を受けることとなった。
「浮かない顔だな」
忙しい執務の合間に顔を見せた、正真正銘の王子様が妹姫と顔を見合わせて苦笑する。
見目麗しい兄妹から好かれるのは悪い気はしない。
明るいテラスから見えるのは、端の見えない広大な庭だ。
四季を問わず花が咲き誇っているというその庭には、今は青い花が一面を覆っている。
「ミサキお姉さまが浮かない顔だと花もしおれてしまいますわ」
王女の名に相応しい豪奢なドレスを気負いもなくまとった妹姫は、美咲にきらきらとした笑みを向けてくる。彼女は美咲を自分の命の恩人だといって慕ってくれているようだった。
この王宮での暮らしは驚かされることばかりだ。
まず、美咲の世話をする侍女が三人もついた。それから美咲に出される料理はどれもフルコースで、揃えられた衣装はどこの貴族の娘かというほどのドレスや宝石ばかり。
毎日暇だと言えば、すぐに美咲には行儀作法や歴史の勉強を教える家庭教師がつけられた。
至れり尽くせりとはこのことだ。
それに、
「君の話を聞かせてくれないか。異世界の姫君」
メサイアから美咲が異世界から誤って招かれた人間だと聞かされた殿下は、美咲に人一倍興味を持ったらしい。
女ったらしとはまた違う、淑女に対するもてなしで美咲に丁寧に接してくる。
キス以上の経験はないとはいえ、恋人が居た経験はある。
殿下の態度に、親愛以上の情が含まれていることに気付かないほど初心でもなかった。
久しぶりの熱の籠った視線に胸は高鳴った。
だから、王女を救った褒美に何が欲しいと言われて、出来ることならと美咲は願うことにした。
願うことは簡単だった。
あとは、それが続かないだけで。
「では、お妃さま。お休みなさいませ」
侍女のその日最後の挨拶に鷹揚に応えて、美咲は窓の桟に頬杖をついた。
月が丸い。
今日は三番目の月の日だ。
この世界の月はなんと十もある。赤、青、黄色など十色の月が十日かけて上るのだ。どういうことか満ち欠けは無い。
最初の頃こそ物珍しかった膨らみすぎた月は、自分の浅ましかった期待を象徴するようで、最近では嫌いになっている。
見上げることもなかった月を見上げて、美咲は昼間はつけない溜息をつく。
美咲は、殿下の妃になった。正妃ではないから、要は愛人だ。
殿下には未だ正妃は居ないが、彼の愛人は美咲の前に九人居る。
美咲は、十番目のお妾さんだ。
殿下に願い出た時には、後宮の事情も知らなかったから単純にお妃さまにしてもらってしまえと半ば勢いで言ってみた。
美咲の願いは意外とあっさりと聞き届けられたものの、その生活は場所こそ変わりこそすれお客様だった生活と変わらない。
時々、妹姫がやってきてお茶をして、それに殿下が混じるだけ。
たまに殿下と二人きりで恋人同士のようなこともしてみるが、それだけだった。何せお妾が十人も居て、彼は一人で美咲を含めた彼女らの機嫌を取らなくてはならない。
かつて輝いて見えた王子様は、今では気苦労の絶えない課長か部長に見えてくるから不思議だ。
後宮での女同士の足の引っ張り合いは会社での人間関係と似ている。
「あーあ……」
綺麗な服を着ておいしい物を食べて暮らす生活は、それはそれは贅沢だ。
以前の生活と比べるべくもない。
だが、朝から晩まで掃除と洗濯と、食事の準備に追われていた生活がこの上もなく懐かしくも思えた。
「向いてないのかな……」
苦労して入った会社に居てさえ思わなかった愚痴が、ぽつりと口をついて出る。
「じゃあ、帰るか」
誰も居ないはずの部屋に、聞き慣れた声が響いて、
「そんなに驚くなよ」
「驚くわよ!」
村に居た時よりも幾らか綺麗なローブをまとったオレンジ頭の魔法使いが、愛用の杖を携えて美咲の部屋の真ん中で突っ立っているのだ。
「部屋の前の護衛はどうしたのよ!」
「眠ってもらった」
「はぁ!? あんた捕まるわよ!」
後宮は、基本的に男子禁制だ。入れるのは二つ前のドアまでで、そこには護衛が四六時中立っていて、ドアとの間の廊下には美咲にはわからないが強力な魔法の結界が敷いてあるらしい。
「その結界、俺が作ったって言ったら驚くか?」
「え」
「久しぶりに見たけど、君は本当に綺麗だな」
目を瞬かせた美咲を眺めて、メサイアは何でもないことのようにいつものように微笑んだ。
まだ夜着ではない美咲は、普段のドレスのままだ。すっかり黒に戻った長い髪に合わせて作られたのは、柔らかな夜のような闇色のドレス。どういうわけだか、美咲は魔女のような黒色のドレスばかりを作られていた。
「フィヨルド殿下との一か月は楽しかったか?」
子供に今日の出来事を尋ねるように言うので、美咲はメサイアを睨みつける。
正直に言えば―――最悪だった。
衣食住はこれ以上ないほど保障されていたのだが、
「あの山賊のおじさんたちに私が剣を扱えるとか聞いたらしくて、騎士団に連れていかれたのよ」
しかして美咲は勝ってしまったのだ。精鋭揃いの騎士団の面々に。
「手加減するとかすれば、あとで絶対に何か言われると思ったから、そりゃもう本気でやったわ!」
そうして叩きのめしたあと分かったのが、
「最後に出てきた華奢なお兄さんが団長だとは思わないでしょ! 確かに強かったけれど!」
「……彼は今年の武芸大会優勝者だ」
「そうらしいわね!」
そして腕に覚えのある猛者たちの挑戦を受けている内に、美咲ははたと気付いてしまった。
他の後宮の愛人たちからも、いつしか妹姫からも、そして、優しく見守ってくれているはずだった王子からも、いつのまにか遠巻きにされていることに。
「最近じゃあ、お誘いは騎士団の訓練だけ! 挙句の果てにはなんて言ってきたと思う!?」
「そういえば、来期の騎士団入団試験を受けないかって言われているみたいだな。今日知った」
「誰があんなむさくるしい男共の中に入るものですか! 二度とごめんよ!」
「……君は、手加減とかいい加減覚えたほうがいいと思うぞ。俺もしばらく顎が使い物にならなくて」
「あんたは自業自得よ!」
美咲はメサイアとの間合いを測ってすでに窓から飛びのいている。メサイアはこの部屋に来てからというもの、美咲との距離を縮めようと話している間中、こちらとの距離をうかがっているのだ。油断も隙もあったものではない。
「なら、俺と帰ろう」
どういう結論でメサイアと帰るという結果になるのかが分からない。
手を差し出してくる魔法使いの意図が分からず、美咲はメサイアと彼の手を交互に見遣る。
「……私、もう一応、人妻なのよ。人攫いでもするつもり?」
美咲の脅しにも、メサイアは肩を竦めただけだった。
「薬の調合は終わった。依頼は終了だ。こんなところ、いつまで居たってつまらないだけだろう? さっさと帰ろう」
確かに、ここに居るよりあののどかな村でおばちゃんたちとくだらない話で花を咲かせている方が幾らか楽しい。
じり、とメサイアが美咲との距離を縮めて手を差し出してくる。
「実を言うと、君を元の世界に帰す魔法は出来ているんだ」
予想外の告白に、美咲は思わずメサイアを見つめる。
村に居た時はおざなりにしかまとめていなかったオレンジの長い髪を、首の後ろでまとめているせいかすっきりとした顔立ちが際立って、王宮の中だからか身綺麗にしているらしく無精ひげはない。
(いつもこうしていればいいのに)
頭の中が混乱しているのか、ぼんやりと美咲は思った。
いや、きちんとした身形ならどうだというのだ。
確かにメサイアは美咲がどういう外見だろうが中身だろうと気にしていない。
人の話は聞いてくれるし、美咲の癇癪に付き合う根気だってある。
彼は、美咲を認めてくれる。
いつだったか知った、人が恋に落ちる条件のようだ。
人は、自分を認めてくれる人に恋をするそうだ。
「帰るぞ。ミサキ」
柔らかな、それでいて耳を透る声に呼ばれて、美咲は泣きたくなるのをこらえた。
違う。これは違う。
これはきっと、異世界で初めてこの人に出会ったから、雛の刷り込みのように安心するだけだ。
安心する気持ちがどうしようもなく切なくて、魔法使いのローブに抱きついてしまったのも、ずっと傍に居てくれた人が帰ってきたことに、ほっとしただけのことで。
メサイアはしがみついてきた美咲の頭を薬草の匂いのする手でゆっくりと撫でて、彼女の頭の上で笑う。
「なんだ。愛人になるっていうからすっかり大人の女になったと思えば、まだまだ君は子供みたいだな」
「この年寄り!」
「失敬な。これでもまだ二十六だぞ」
「同い年!?」
顔を上げた美咲に、魔法使いは楽しげに笑った。
メサイアは嘘をつかなかった。
王宮を抜け出して彼と村へ帰ると、彼は真っ先に美咲に元の世界へ帰れるという魔法陣を見せてくれた。
「これで、君は帰るんだ」
美咲が掃除をした彼の研究室の床に描かれた複雑な魔法陣は、何度も書き直されていて、メサイアの苦労が滲んでいる。
「メサイア」
「何だ」
「私と居て、楽しかった? 面倒臭かった?」
メサイアは魔法陣を見つめる美咲を見つめて、そして目を閉じた。
「楽しかった」
「本当?」
「ああ」
「嘘でしょ」
「俺は、嘘はつかない」
美咲の頑なな返答に苦笑して、メサイアは笑う。思えば、彼が不機嫌になったのは、王都へ来いという手紙をもらった時ぐらいだ。
「君に言葉を教えたことも、薪を割ることを教えたことも、風呂に入れと怒られたことも、全部楽しかったさ」
「嘘」
「だったら、顔を上げてくれ」
「嫌よ」
顔を上げれば、ばれてしまうから。
「ミサキ」
名前を呼ばれても、美咲は首を振るだけだった。
きっとこれは勘違いなのだ。
男と女がひとつ屋根の下に居て、間違いが起こらない方がおかしい。
今までが、おかしかっただけで。
だから、きっと美咲の気持ちもただの勘違いのはずだ。
メサイアの溜息が聞こえた。
美咲の癇癪は今に始まったことではない。
「―――今の」
と、広い手が美咲の目の前をかすめた。
身をよじれば避けられる。けれど、体は動かなかった。
「今の、俺の気持ちと君の気持ちが生物的な本能に騙された嘘や勘違いだとしても、俺はきっと忘れない」
抱きしめられる。
腕にすがりつきたくなった。
けれど、それを我慢したらつんとした目の奥の痛みに耐えきれなくなって顔を上げてしまう。
「久しぶりに泣いたな」
この世界に来たばかりの頃は、帰りたくて帰りたくて、美咲はよく泣いていた。それを見つけては、メサイアはよく背中を撫でて慰めてくれたものだ。
しかし、今は美咲を離すつもりがないらしく、メサイアは驚いたことにべろりと美咲の目蓋ごと涙を舐めとった。
「な、何するのよ!」
「答えは君が出せ」
そうメサイアが言うのと同時に、美咲は魔法陣の真ん中に据えられる。魔法陣がたちまち輝きだしたかと思えば、彼女の体はふわりと浮いた。
「メサイア!」
この自分勝手な魔法使いは、また自分勝手に美咲を元の世界へと帰すつもりだ。
抗えない不思議な力に負けじと、美咲はメサイアに手を伸ばす。
「あっ…」
ありがとう、と言うつもりだった。
彼には、たった一言では返せないほど沢山色々なものをもらった。
元凶であると同時に、メサイアは美咲に確かに何かを残したのだから。
しかし、メサイアが寄越したのは、己の唇だった。
「この、エロ魔法使いっ!」
メサイアは、美咲の腕を容易く取ったかと思えば、彼女の言葉を自分の唇で封じるがごとく口づけをして、手をあっさりと離したのだ。
次第にかすんでいく魔法使いは満足そうに笑って、しかし美咲から目を離さないというように最後まで彼女を見つめていた。
―――かくして、美咲は帰ってきた。
メサイアの魔法は良い出来で、気がつけば美咲が記憶にある春めいた格好で、指には見覚えのあるネイルのラインストーンが並んでいた。
携帯で日時を見れば、あの、穴へと落ちた時間の直後らしく、夜道は肌寒く続いていた。
それから、美咲の日常は過ぎた。
仕事へ行って、オシャレをして、友達と時々遊んで。
季節が二つ変わる頃には、異世界へ行った事実の方が夢だったようにも思え、あのひと時の冒険も、のどかな村の記憶も思い出の隅に置かれた。
あの、不埒な魔法使いのことも。
すでに彼の顔形もぼんやりとしていて、いい加減な男だったという印象だけが残っている。
ただ、今も恋人は出来なかった。
その日の美咲は残業で遅くなってしまい、夜道を歩いていた。
季節はすっかり巡って、いつか異世界へと続く穴へと落ちた春だ。
急ぎ足で歩いていた美咲の目の前を白い花弁が落ちていく。
桜か。
しかし、住宅街の軒先に桜はない。
どこからか花弁が舞い、美咲の視線を漂わせる。
いつだったか、彼は言った。
君が答えを出せ。
(ああ、そっか)
花弁に誘われるまま、美咲は振り返る。
「答えは出たか? ミサキ」
記憶を鮮やかにする声に、美咲は何より先に叫んだ。
「遅い!」
―――彼女が振り返ったあとのことは、また別の話。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
ありがちでどこかで読んだことのあるような異世界ものが書きたくて書いてみました。いつか番外編書きたいかもしれない…。