睫毛の長さが分かる距離
10年位前に書いたものを書き直しました。
全然帰ってこなかった。忘れられてるんじゃないのかと思うくらい。一度だけ元気かどうかの確認連絡があってそれっきり。いい子にしてろよ、だなんて、何で同い年の貴方に子ども扱いされなきゃならないの。そう思ってもぐっとこらえて待っていた。いい子の定義がなんなのか知らないけれど、法も犯さず、真面目に勉強して、困っている人がいれば手を差し伸べた。それってつまりいい子で過ごしてきた、ということだと思うんだけど。サンタさんならべた褒めするくらいいい子に過ごしていた。サンタさんでさえべた褒めするくらいなのにどうして貴方は帰ってこないの。洗濯しそびれた貴方の寝間着から貴方の匂いがしなくなってしまった。
いつからか数えたくもない位同じような内容が綴られた日記帳は、どうせこれからも変化のない毎日を記すことになるのだろうと思って引き出しの奥底にしまった。毎晩日記を書いてからベッドに入るというマイルールは一人の男のせいで狂わされてしまったのだった。
あまり気にしていなかったけれど、日記を書くという行為はわたしにとって入眠儀式となっていたようだった。秒針が刻む音、風が窓を叩く音、寝返りを打った時の衣擦れの音。暗闇に慣れてきたせいか、扉の隙間から漏れる光さえも気になってしまうようになった。気になってしまえば、もうずっと頭の中はそればかりを考えるようになってしまうようだった。あれ、わたし、電気消してなかったっけ。
この部屋とキッチンを遮る扉には小さな窓さえついていない。オレンジの光が扉を囲うように差し込んでいる。いつだってそう、わたしは間抜けだ。ホットミルクを飲んだカップをキッチンに持っていったときに付けた電気を消し忘れた。時計をのぞくと短い針は1:11。なんだか気味が悪かった。今日はこのまま眠ってしまおう、そう思った時だった。ギィと聞こえてわたしは動けなかった。
「よっ!ただいま」
聞き覚えのある声に緊張していた全身を緩ませる。間違いでなければわたしは鍵すらも開けたままだった。
「ちゃんと戸締りしとけよ、オンナノコなんだから。まっ入ってきたのが俺でよかったな」
待ちに待った彼の登場だった。けれど、タイミングが悪い。わたしは今ベッドの中だ。つまりノーメイクなわけだ。そして下着もつけていない。パジャマである。毛布を被っておかえり、と小さい声で言うと、彼はもう一度、ただいまと呟いた。毛布の隙間から見える彼の姿は逆光でシルエットしかわからない。しかし以前と変わらない、声と姿に安心してチラリと顔をのぞかせる。
「いい子にしてたか?」
その問いには答えず目線を返す。手が伸びてきてクシャリと頭を撫でられる。彼が帰ってきたことを実感して、鼻の奥がつんとした。ごまかすように目を背けると彼は腰を下ろすとマットレスが傾いた。
「帰ってくるのが遅くなって悪かったな」
どんな顔をしているのだろうと気になって目線を向ける。ぼんやりと彼の顔がわかる。下がった眉毛、かわいい。少しの距離を埋めようと上体を起こそうとすると片手で包むようにして支えてくれた。わたしのちっぽけな背中をいつだって支えてくれたその手が大好きだった。見送るときには我慢できていたのに、我慢しようとすればするほど涙は止まらない。
「泣くなって。な」
彼の胸に顔を埋めると、求めていたその香りがそこにあった。わたしの涙が乾くまで、ずっとそこにいてね。




