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夏休みの宿題から逃げたかっただけなのに、農業の専門家たちが大騒ぎになった

作者: 熾星
掲載日:2026/08/26


 夏休みの宿題を少しでも真面目にやらせようと、生物担当の黒田誠司先生は休みに入る前、俺たちに二つの選択肢を出した。


「一つ目。生物の課題プリントを六十枚、全部終わらせること」


「二つ目。砂漠でも育って、ちゃんと穂をつけるイネを作ってくること」


 もちろん、誰もが分かっていた。二つ目は、宿題が多いと文句を言う俺たちを黙らせるために黒田先生が言った、ただの冗談だった。


 だから夏休み明け、真っ白なままの六十枚のプリントを前にして、クラス全員が俺の末路を楽しみにしていた。


 そんな中、俺は黙って机の横に置いた大きな帆布バッグへ手を伸ばした。


 そして、中から黄金色の穂を垂らした一鉢のイネを取り出した。


 根元にあるのは、水田の泥ではない。


 白く乾いた、砂だった。



1



 夏休みも、残すところあと数日。


 私立霞ヶ森学園高等学校、二年A組のクラスLINEは悲鳴で埋め尽くされていた。


【生物プリント六十枚って、黒田先生どういう神経してるんだよ! ブラック企業でもここまで働かせないだろ!】


【三十二枚目で、自分が何のために生きてるのか分からなくなってきた】


【今夜は徹夜確定。必要なのは机とシャーペンとコーヒーと命一個】


【条件が合う人は今から留学申請しよう。鬼の黒田から逃げられるぞ】


 俺たちは黒田先生のことを、陰で「鬼の黒田」と呼んでいる。


 別に怒鳴り散らす教師というわけではない。むしろ普段は妙に落ち着いていて、声を荒らげることもほとんどない。


 ただし、宿題を一枚でも出し忘れれば、分厚い記録ファイルの中から正確に名前を見つけ出す。そんな男だった。


 クラスLINEがほとんど通夜のような空気になった頃、その本人が現れた。


【黒田:お盆も終わったが、みんな夏休みは楽しめたか?】


【黒田:もうすぐ学校で会えるな。先生は楽しみにしている】


 さっきまで騒がしかったグループが、一気に静かになる。


 俺は画面を眺めた。


 経験上、黒田先生は言葉が優しい時ほど怖い。


 案の定、すぐに次のメッセージが届いた。


【黒田:遊ぶのは結構。だが、やるべき課題はきちんと終わらせること】


【黒田:生物の課題プリント六十枚。忘れず全部持ってくるように】


【黒田:終わっていない者については、保護者面談の時間も確保してある】


 クラスLINEが再び爆発した。


【それ脅迫じゃないですか先生!】


【保護者面談!? 夏休み最終盤に急にホラー展開やめて!】


【今から退学しても間に合いますか?】


 俺がスマートフォンを置こうとした、その時だった。


 通知が震える。


 黒田先生から、俺にメンションが飛んできた。


【黒田:桐生悠真】


【黒田:お前の宿題は当然終わっているよな?】


 続いて、もう一つ。


【黒田:またご両親に学校まで来てもらうことにはなりたくないだろう?】


 俺は数秒、画面を見つめた。


 黒田先生。


 忙しいのに、俺のことまで覚えていてくれて本当にありがとうございます。


 もちろん、口には出さない。


 机の上には六十枚の課題プリントが、きれいに積まれていた。


 一枚目から最後まで、見事に真っ白だ。


 俺はそれを横へ押しやり、それまで手にしていた小さな園芸用スコップも置いた。


 そしてクラスLINEに打ち込む。


【桐生悠真:先生、夏休み前に言ってたことって、まだ有効ですか?】


 黒田先生からの返信は、少し間を置いて届いた。


【黒田:何の話だ?】


【桐生悠真:夏休みの宿題、二択だったじゃないですか】


【桐生悠真:生物プリント六十枚か、砂漠でも穂をつけるイネを作るか】


 クラスLINEが妙に静かになった。


 俺は構わず続ける。


【桐生悠真:先生、どちらか一つでいいって言いましたよね?】


 黒田先生は、ほぼ一分近く沈黙した。


 この長さから察するに、本人は自分がそんな無茶苦茶な選択肢を出したことなど、すっかり忘れていたらしい。



2



 やがてスマートフォンが震えた。


【黒田:もちろんだ】


【黒田:本当に乾燥した砂地で育ち、正常に穂をつけるイネを作れたなら、今回の夏休みの宿題だけではない】


【黒田:今後、私の生物の宿題は全部免除してやる】


 最後には、にこやかなスタンプまで付いていた。


 クラスLINEが一瞬で祭りになった。


【悠真、お前まさか本当に一枚もやってないの?】


【桐生悠真、マジで農業始める気かよ!】


【六十枚くらい今夜頑張れば“写し”……】


 そのメッセージは即座に送信取消された。


 改めて送られてくる。


【六十枚くらい今夜頑張れば“終わる”だろ!】


【砂漠で育つイネとか、自作ロケットのほうがまだ成功しそう】


【桐生を甘く見るな。二年A組が誇るサボりの天才だぞ。たぶん始業日に雑草の鉢植え持ってくる】


 そして宮本翔が出てきた。


【俺、ここに宣言しとく】


【桐生が本当に砂地で育つイネ持ってきたら、その場で生物の教科書食ってやる】


 すぐさま誰かが反応した。


【スクショした】


【宮本、逃げんなよ】


 大騒ぎする中、俺の親友である高橋蓮から個人LINEが届いた。


【蓮:悠真】


【蓮:お前、まさかマジで宿題やってないの?】


【俺:やってない】


 しばらく既読だけがついた。


【蓮:……すごいなお前】


【蓮:本当に保護者呼び出し怖くないの?】


【俺:まだ分からない】


【蓮:何が?】


【俺:本当に作れてるかもしれないだろ】


 今度は、かなり長い沈黙。


【蓮:悠真】


【蓮:宿題のストレスが限界なら、友達には相談していいんだぞ】


【蓮:無理して壊れる必要はない】


 俺は返事をしなかった。


 蓮は知らない。


 三か月前、俺には妙なものが現れた。


 視界に表示された名前は、極めて単純だった。


【次世代農業技術システム】


 最初は幻覚だと思った。


 しかし、システムが初めて技術ライブラリを開いた瞬間、その考えは消えた。


 耐乾性育種、耐塩性育種、根系形質の選抜、低水分栽培、根圏微生物の制御、砂質土壌の改良。


 高校生が一人で扱うには、本来ならどれも遠すぎる技術ばかりだった。


 それが今の俺には、理解し、学び、組み合わせ、実験できる形で提示されている。


 ただし、無条件ではない。


 新しい技術を解放するには、「影響力ポイント」が必要だった。


 自分の技術が多くの人に知られ、価値を認められるほどポイントは増える。そして、より高度な技術へアクセスできる。


 だから俺は、夏休みを丸々使って一つの実験をした。


 ベランダへ出る。


 そこには大きな植木鉢が置かれている。


 中に入っているのは水田土壌ではなく、保水性を意図的に低く設定した砂質培地だった。現在の含水率なら、普通のイネは正常な生育を維持できない。


 それでも中央のイネは、まっすぐ立っている。


 根は深く伸び、葉は一般的なイネよりやや細いが、健康的な緑色を保っていた。


 何より目立つのは、すでに実った穂だ。


 黄金色の籾が詰まり、重さでゆっくり垂れている。


 俺はしゃがみ込み、もう一度培地の含水率を確認した。


 数値に問題はない。


 隣には小型の育苗ケースも置いてある。同じ系統から残しておいた、実験用の若い苗だ。


 学校で何か確認を求められた場合に備えて、最初から用意していた。


 測定器を置き、机の上の真っ白な六十枚を見る。


 プリント六十枚なんて、やってられるか。


 どう考えても、イネを育てるほうが面白い。



3



 夏休み明け初日。


 俺は鉢を大きな帆布バッグで包み、育苗ケースを別のハードケースへ入れて学校へ向かった。


 私立霞ヶ森学園の校門に着くと、普段より明らかに警備が厳しい。


 警備室の前には警備員が二人、生徒指導部の教師も何人か立っていて、大きなスポーツバッグや荷物を持つ生徒は中身を確認されていた。


 列に並びながら、理由はすぐに分かった。


「聞いた? 三年のやつら、昨日駅前で喧嘩したんだって」


「金属バット持ってたやつまでいたらしいぞ」


「受験前なのに元気すぎるだろ」


「それで今日は大きい荷物全部チェックなんだって」


 俺は自分の帆布バッグを見る。


 中身が金属バットだったほうが、まだ説明しやすかったかもしれない。


 やがて俺の番が来た。


 警備員が手を上げる。


「君、その大きいバッグは何?」


「夏休みの宿題です」


 警備員が一瞬黙る。


 それからバッグと俺を見比べた。


「最近の高校生は、宿題をそんな大荷物で持ってくるのか?」


「一応、中を確認させてね」


 反射的にバッグの口を押さえた。


「本当に宿題です」


「なら問題ないだろう?」


 むしろ疑われた。


 どう説明するか迷っていると、背後から聞き覚えのある声がした。


「桐生」


 身体が固まる。


 振り向くと、黒田先生が立っていた。


 先生の視線が俺の顔から、ゆっくり帆布バッグへ移動する。


「開けろ」


 最悪なことに、そのタイミングで蓮と宮本、さらにクラスメイト数人までやってきた。


 俺が校門で止められていると分かるや、面白そうに寄ってくる。


「悠真、本当に草持ってきたのか?」


「まさか鉢植えで鬼の黒田をごまかす気?」


「早く見せろよ!」


 俺は一度だけ連中を見た。


「ケンカ売ってる?」


 しかし、周囲にはどんどん人が増えていく。


 仕方なく帆布バッグの口を開き、鉢を見せた。


 周囲が静かになった。


 乾いて白っぽく見える砂質培地の中央に、一本の成熟したイネが立っている。


 黄金色の穂は朝日を受け、はっきりと実っていた。


「……本当にイネじゃん」


「始業日に鉢植えのイネ持ってくる高校生、初めて見た」


「桐生、お前ついにおかしくなった?」


 宮本は鉢をじっと見た。


「これが“砂漠イネ”?」


「園芸店で観賞用イネ買って、あとから砂に植え替えただけじゃないの?」


 また笑いが起こる。


 当然だろう。


 誰も、俺が本当に育種したなどと思っていない。


 黒田先生の顔は、みるみる険しくなった。


「桐生」


「適当な植物を持ってくれば六十枚のプリントの代わりになる、と思っているなら甘いぞ」


「課題未提出なら、保護者に連絡する」


 俺は鉢をバッグへ戻した。


「分かりました」


 無理に説明する必要はない。


 どうせ今日中に、もう一度見せることになる。



4



 この日の朝、全校で二学期の始業式を終えたあと、各クラスはホームルームへ戻った。


 黒田先生はそこで、さっそく夏休みの宿題確認を始めた。


 教室の空気は災害現場に近い。


 最後の数枚を必死で埋める者。


 友達のプリントを見ながら、明らかに写し間違えた解答を消しゴムで消す者。


 俺の前の席の男子も、教科書が破れそうな勢いでページをめくっていた。


「黒田先生が持ってる名簿見た?」


「一人ずつチェックしてる。足りないやつも、答えが露骨に同じやつも保護者に連絡するらしい」


 俺は肩を叩いた。


「頑張れ」


 そいつは振り返った。


「お前は補わないの?」


「終わってるから」


 その顔が固まった。


 隣で蓮が、笑いをこらえきれず肩を震わせていた。


「信じるなよ」


「こいつ、六十枚全部白紙だから」


「普通は数枚やり残すだろ? 悠真は一枚目から人生を諦めた」


 俺は無表情で蓮を見る。


「蓮」


「何?」


「ケンカ売ってる?」


「事実しか言ってない」


 その時、少し離れた場所にいた黒田先生がこちらを見た。


 数分後。


 先生は俺の机の前に立っていた。


 机の上にある、白さが眩しいほどのプリントの束を見る。


 数秒の沈黙。


「桐生悠真」


「宿題は?」


 俺は机の横から鉢を持ち上げた。


「これです」


 黒田先生が黙った。


 クラスも黙った。


 俺は真剣な顔で確認する。


「先生、言いましたよね?」


「生物プリント六十枚か、砂漠のような環境でも穂をつけるイネを作るか。どちらか一つ」


「俺は二つ目を選びました」


 黒田先生は鉢を見る。


 次に俺を見る。


 こめかみがわずかに動いた。


 次の瞬間、保護者面談を宣告されるのではないかと思ったところで、校内放送が鳴った。


【各クラスに連絡します】


【本日午後三時より、第一体育館にて農業科学特別講演会ならびに夏休み探究成果発表会を開催します】


【国立研究開発法人・農業生命科学研究機構の研究者、および霞野総合大学農学部の先生方をお招きしています】


 教室の空気が少し変わった。


 放送は続く。


【生物、農業、環境科学などに関する夏休みの探究成果がある場合は、各クラスで取りまとめた上、展示会場へ持参してください】


 放送が終わる。


 教室は数秒、妙な静けさに包まれた。


 そして。


 誰からともなく、ゆっくりと視線が動く。


 俺の机に置かれた、一鉢のイネへ。


 俺も黒田先生を見る。


 先生の顔には今まで見たことのない、複雑で嫌な予感に満ちた表情が浮かんでいた。



5



 午後三時。


 第一体育館には全校生徒が集まっていた。


 普段の学校行事とは違い、体育館の側面には実験展示スペースが設けられ、後方には学校の写真部や地元テレビ局のカメラまで並んでいる。


 霞ヶ森学園が、今回のイベントにかなり力を入れているのは明らかだった。


 壇上に小野寺校長が立つ。


「本日は、国立研究開発法人・農業生命科学研究機構、作物育種研究部の神谷修一先生、霞野総合大学農学部・土壌環境学研究室の水野教授、そして作物育種研究センターの斎藤主任研究員をお迎えしています」


 大きな拍手が響いた。


 霞ヶ森学園は霞野市内でも進学実績の高い私立高校だが、これだけの農業研究者が同時に来校する機会は珍しい。


 何人かの研究者が順番に短い講演を行った。


 その中で、神谷先生の話は少し気になった。


「昔は、農業と聞けば種を蒔き、育て、収穫する仕事を思い浮かべる人が多かった」


「ですが現代の農業は、育種、環境科学、気候変動、水資源、そして食料安全保障と切り離せません」


 神谷先生は体育館を見渡した。


「世界には今も、乾燥地、塩害農地、安定した耕作が難しい土地が数多くあります」


「もし、少ない水で育ち、塩ストレスにも耐え、安定して穀物を生産できる作物が生まれれば、それは一つの品種だけの問題ではありません」


「ある地域の人々の暮らしそのものを変える可能性があります」


 体育館が静かになる。


「皆さんの中にも、将来研究室へ進む人がいるかもしれない。農場に立つ人もいるでしょう」


「科学は、教科書に書かれた正解を覚えるだけのものではありません」


「自分の手で確かめようとするところから始まります」


 先ほどより大きな拍手が起こった。


 講演後、夏休みの探究成果展示が始まった。


 昆虫の生態調査。


 河川の水質測定。


 センサーを使った校内気温分布。


 植物の培養実験。


 どれも高校生としてはよくできていた。


 小野寺校長も満足そうだった。


 ところが、いくつか見た神谷先生が尋ねる。


「農業や育種に、もう少し直接関係するものはありますか?」


 教務主任が少し困った顔をした。


 高校生の探究活動としては、そもそも数が少ない。


 その時だった。


 二年A組のどこかから声が上がった。


「あります!」


「うちのクラスに、砂漠で育つイネ作ったやついます!」


 体育館がざわつく。


 蓮まで乗っかる。


「本当です! 今日の朝、鉢ごと学校に持ってきました!」


「しかも砂に植わってます!」


 宮本も楽しそうに叫んだ。


「プリント六十枚やりたくない一心で作ったやつです!」


 俺はゆっくり目を閉じた。


 まったく、いいクラスメイトを持ったものだ。


 小野寺校長はむしろ目を輝かせた。


「黒田先生?」


「あなたのクラスでは、そんな探究活動もしていたんですか?」


 黒田先生が固まる。


 おそらく今すぐ「していません」と否定したかったはずだ。


 しかし目の前には全校生徒、研究者、そしてカメラまである。


 神谷先生はもう興味を持ってしまっていた。


「砂漠で育つイネ?」


「高校生がそういうテーマを考えるのは面白いですね」


 黒田先生は数秒沈黙したあと、俺を見た。


 顔色が少し悪い。


「桐生」


「お前の……そのイネを持ってこい」



6



 こうして俺のイネは展示台へ運ばれた。


 朝から見ていた二年A組の連中は、まだ笑っている。


 黒田先生は横に立ち、半ば観念したように紹介を始めた。


「二年A組、桐生悠真の夏休み探究課題です」


 一度言葉に詰まる。


「本人が育成した……低水分環境適応型イネです」


 さすが生物教師だ。


 全校生徒の前で「砂漠イネ」とは言わなかった。


 小野寺校長も、鉢を見た瞬間に表情が固まった。


 一鉢のイネ。


 しかも、乾いた砂質培地に植わっている。


 どう見ても、宿題を逃げたい高校生が作った悪ふざけにしか見えない。


 神谷先生も、最初は俺を傷つけないようにしたのだと思う。


 自分から展示台へ近づいてきた。


「自分で育種を試してみようとした。その姿勢自体は、とてもいいことです」


 おそらく二、三分見て、何か適当な褒め言葉を言うつもりだった。


 ところが。


 鉢を見下ろした瞬間、神谷先生の笑顔が少しずつ消えた。


 いきなり穂へ触れることはせず、最初に葉の状態を見る。


 次にしゃがみ込み、培地を観察した。


 使い捨て手袋をつけ、表層を少しだけ崩す。


「この培地、ずっとこの水分状態ですか?」


「後半は、ずっと低含水率で維持しています」


 水野教授も近づいた。


 少量の培地を手袋の上で崩す。


 表情が変わる。


「この含水状態で、普通のイネならここまで葉の状態を維持するのは難しいですね」


 神谷先生が俺を見る。


「これは君が育てたもの?」


「はい」


「発芽した時から、この環境ですか?」


「いいえ」


「苗の初期は通常条件で根系を作って、その後、段階的に水分供給を減らしました」


 神谷先生の目つきが変わった。


「発芽からここまで、どのくらい?」


「成熟した穂が出るまで、四十六日ほどです」


 今度は神谷先生だけでなく、水野教授と斎藤主任研究員まで同時に俺を見た。


 四十六日。


 通常のイネとして考えれば、明らかに異常な生育期間だった。


 さっきまで笑っていた生徒たちの声も、小さくなっていく。


 蓮は口を開けたまま。


 宮本も黙った。


 神谷先生は、その場で結論を出そうとはしなかった。


 成熟株を見たあと、俺に尋ねる。


「この株は崩したくない」


「同じ系統の若い苗はありますか?」


 俺は帆布バッグへ手を伸ばし、ハードケースを取り出した。


 蓋を開く。


 中には、同一系統の幼苗が整然と並んでいる。


 黒田先生まで振り返った。


「お前、そこまで持ってきたのか?」


「疑われると思ったので」


 体育館のあちこちから笑いが起きた。


 だが神谷先生は、もう笑っていなかった。


 育苗ケースを受け取る。


「では、最も基本的な比較だけしてみましょう」


「ただし、先に言っておきます」


「ここで十数分観察したくらいで、科学的な結論は出せません」


「異常な反応が確認できた場合は、研究施設で正式な試験を行います」


 俺は頷いた。


「構いません」



7



 学校は特別講演のため、簡単な実験器材を用意していた。


 スタッフが普通のイネ苗、乾燥させた砂質培地、各種測定器、透明な栽培容器を運んでくる。


 神谷先生がその場で組んだのは、最も基本的な短時間の乾燥ストレス比較だった。


 一方は普通のイネ。


 もう一方は、俺が持ってきたDR-1系統の幼苗。


 同じ条件で根を処理したあと、両方を低含水率の砂質培地へ移す。


 数十分で耐乾性すべてを証明できるわけではない。


 確認するのは、短期的な脱水反応だけだ。


 最初は大きな違いがない。


 十数分後。


 普通のイネは、葉がわずかに巻き始めた。


 さらに時間が経つと、水分ストレスによる萎れが目立つようになる。


 ところがDR-1は、比較的安定した葉の状態を保っていた。


 もちろん、乾燥すればするほど元気になるような魔法の植物ではない。


 ただ、対照区と比較した時、萎れ方が明らかに遅い。


 水野教授は測定値を見続けていた。


「葉からの水分損失速度に、かなり差がありますね」


 斎藤主任研究員も苗を見る。


「普通の個体差だけで説明するには、少し大きい」


 神谷先生はすぐに断定しなかった。


 植物の状態と測定値をスマートフォンで記録する。


「今言えるのは、高い耐乾性を持っている可能性がある、ということだけです」


「それ以上は、正式に測らないと分かりません」


 体育館は完全に静かになっていた。


 さっきまで、研究者が高校生に気を遣っているだけだと思っていた。


 しかし今は、誰も笑わない。


 蓮が数列向こうから俺を見ている。


「……悠真」


「お前、マジで作ったの?」


 答える前に、宮本が後ろから言った。


「でも、鉢の成熟株まで本人が育てた証明にはならないだろ」


「研究所とか農家からもらったやつかもしれないし」


 俺は振り返った。


「宮本」


「何だよ」


「俺が作れてたら、生物の教科書食うって言ったよな」


 宮本の顔が引きつった。


 俺は親切に尋ねる。


「水、用意しようか?」


 体育館に笑いが広がる。


 宮本は今すぐ椅子の下へ潜りたそうな顔をした。


 神谷先生まで少し笑ったあと、改めて俺を見る。


「桐生君」


「この材料、研究機構へ持ち帰って正式に調べさせてもらえますか?」


「はい」


 即答した。


 むしろ。


 最初から、それを待っていた。



8



 本当に状況が変わったのは、三日後だった。


 国立研究開発法人・農業生命科学研究機構で、DR-1の予備試験データが出始めた。


 学校の許可を得て、俺と黒田先生も研究施設へ行った。


 耐乾性試験。


 塩ストレス試験。


 根系イメージング。


 葉の蒸散速度測定。


 生育期間の記録。


 籾の充実度。


 そして培地の理化学性分析。


 最初のデータが並んだ実験室は、しばらく妙に静かだった。


 DR-1は対照系統より明らかに高い耐乾性を示している。


 さらに予想外だったのは、一定レベルの塩ストレス下でも、生育状態が比較的安定していたことだ。


 水野教授が別のデータを見ていた。


「待ってください」


 もう一度数値を確認する。


「この培地、初期条件は対照区と同じですよね?」


 研究員が頷く。


「同じです」


「でも、根の周辺だけ保水性が上がっている」


「団粒構造にも差が出始めている」


 斎藤主任研究員が顔を上げる。


「根からの分泌物?」


「それとも根圏微生物群集に影響している?」


 全員が俺を見た。


 俺は、自分の設計思想の基本部分だけ説明した。


「DR-1は根そのものの吸水性と保水性だけを強化しているわけではありません」


「根圏の分泌物と微生物との組み合わせで、根の周囲の環境そのものを少しずつ変える方向に設計しています」


 神谷先生の表情が変わった。


「つまり、劣悪な土地に耐えるだけじゃない」


「植物側から土壌へ働きかける?」


「初代の実験では、その傾向が出ています」


「連作と適切な共生植物を組み合わせれば、理論上は砂質土壌表層の安定性や保水性を少しずつ高められるはずです」


「ただし、まだ予備試験です」


「圃場で同じ結果が出るかは、長期的に検証しないと分かりません」


 誰も、俺が慎重すぎるとは思わなかった。


 研究者ほど知っている。


 結果が異常であればあるほど、簡単に結論を出してはいけない。


 神谷先生は実験台の前で長く黙っていた。


 やがて口を開く。


「もし、この形質が安定して遺伝して」


「さらに圃場試験でも再現できるなら――」


 俺を見る。


「桐生君」


「君は、とんでもないものを作った可能性があります」


 その言葉は校内放送には流れなかった。


 ただ、その場にいた地元メディアの記者が覚えていた。


 翌日。


 ニュースにはこんな見出しが並んだ。


《高校生が“砂漠でも実るイネ”を開発か 農業研究機構が本格検証へ》


《宿題をしたくなかった高校生が耐乾性イネを育成? 専門家「非常に興味深い」》


 霞ヶ森学園の公式Xにも、始業日当日の動画が投稿された。


 前半。


 鉢植えを抱えた俺をクラスメイトが笑っている。


 後半。


 神谷先生が鉢の前にしゃがみ込み、表情をどんどん真剣にしていく。


 動画は一気に拡散した。


【先生:砂漠イネなんて冗談で言った】


【生徒:分かりました。作りました】


【みんなが夏休みにプリントやってる間、こいつ育種してたのか】


【母親からこの動画送られてきて「あなたの夏休みは?」って聞かれた。助けて】


【教科書食べるって言ってた宮本君、生きてる?】


【これが本当の“宿題が嫌ならルールそのものを変えろ”】


 その日の夜。


 「砂漠でも実るイネ」という言葉がXのトレンドに入った。


 同時に、俺の視界でも表示が止まらなくなる。


【影響力+10,000】


【影響力+32,000】


【影響力+68,000】


【影響力+120,000】


【現在の影響力:986,400】


【次段階の技術解放条件を達成しました】


【交換可能技術:塩害農地・生態修復シードパッケージ】


 俺はようやく息を吐いた。


 第一段階は、成功だ。



9



 最初から、単に宿題から逃げることだけが目的だったわけではない。


 システムは無条件で未来技術を渡してくれるわけではなく、技術レベルが高くなるほど必要な影響力ポイントも増える。


 最初の頃は、小さなことばかりしていた。


 自宅のベランダ用に低コストの自動灌水装置を作った。


 近所の高齢者が使っている家庭菜園の土壌改善を手伝った。


 学校の探究発表会では、低水分条件での植物栽培について小規模な実験もした。


 どれも役には立った。


 だが、得られる影響力は少なかった。


 俺が欲しかったのは、次の技術だった。


【塩害農地・生態修復シードパッケージ】


 そのためには、もっと大きな舞台が必要だった。


 夏休み前、黒田先生が冗談で「砂漠でも実るイネ」と言った瞬間。


 俺は、これだと思った。


 六十枚のプリントを一枚も書かなかったのも。


 夏休みの終わりにわざわざクラスLINEで二つ目の選択肢が有効か確認したのも。


 DR-1を鉢ごと学校へ持っていったのも。


 予備苗まで準備したのも。


 全部、意図的だった。


 ただし、始業日に本物の農業研究者が学校へ来るとは想定していなかった。


 その偶然のおかげで、計画は予想よりずっと早く進んだ。


 数日後。


 研究機構の会議室で、神谷先生が第一段階の資料を置いた。


「桐生君」


「この系統は、もう普通の高校生の探究活動という範囲を超えています」


「今後は、簡単にサンプルを持ち歩くわけにはいきません」


「分かっています」


「研究機構側で系統を正式に保存し、反復試験と形質の安定性確認を進めます」


 神谷先生は一度言葉を止めた。


「それから、もう一つ」


 俺は顔を上げる。


「農業生命科学研究機構には、高校生向けの研究協力プログラムがあります」


「通常なら、ここまで直接的に育種研究へ関わってもらうことはありません」


「ですが、そもそも材料の育成者が君です」


「学校と保護者の了承が取れれば、高校生研究協力員として今後のプロジェクトに参加する気はありますか?」


 迷う理由はなかった。


「やります」


 横に座っていた黒田先生の表情は複雑だった。


 神谷先生は少し笑う。


「かなり忙しくなりますよ」


「学校の勉強もあります」


「分かっています」


 黒田先生が横からぼそっと言った。


「少なくとも、私の生物の宿題はやらなくていいからな」


 神谷先生が一瞬きょとんとした。


 そして笑った。


「黒田先生」


「この子の場合、プリント六十枚より研究に時間を使ったほうがいいのは確かかもしれませんね」


 黒田先生は数秒黙った。


 やがてため息。


「休み前に余計なこと言った私が悪いんですよ」


「先生」


 俺が呼ぶと、黒田先生が警戒する。


「何だ」


「じゃあ、今回の夏休みの宿題は合格ですか?」


 会議室が静かになった。


 黒田先生の口元が大きく引きつる。


「合格だ」


「今回だけじゃない」


「私は言ったことは守る」


「これから私の生物の宿題は、出さなくていい」


 俺は満足した。



10



 DR-1に関する話は、学校内のニュースから全国へ広がっていった。


 霞ヶ森学園の公式YouTubeに始業日の動画が投稿されると、再生回数は一気に伸びた。


 特に拡散された切り抜き動画は、四十秒ほどしかない。


 最初。


 宮本やクラスメイトが俺を笑っている。


 次に、黒田先生が死んだような顔で鉢を展示台へ運ぶ。


 最後。


 神谷先生がイネの前でしゃがみ込み、最初の穏やかな表情から完全に研究者の顔へ変わる。


 そこへ字幕がついた。


【教師:プリント六十枚が嫌なら砂漠イネでも作ってこい】


【生徒:了解しました】


 次の瞬間。


 黄金色の穂をつけた一鉢のイネ。


 コメント欄は大騒ぎになった。


【この先生、二度と無茶な選択肢出さなさそう】


【普通の高校生は夏休みに課題をやる。桐生悠真は農業技術を進める】


【母親が家族LINEに送ってきた。俺は今、帰宅したくない】


【宮本君、生物の教科書は醤油味? 塩味?】


【一番怖いの、こいつ実験用の予備苗まで用意してたことだろ】


【宿題をやってないんじゃない。宿題やってる暇がなかっただけだ】


 影響力ポイントはさらに増え続けた。


 ただ、もう毎日数値を見ることはなくなっていた。


 本当に大事なことが始まっていたからだ。


 DR-1が正式な研究プロジェクトになったあと、学校側も俺の学習計画を調整した。


 研究活動の一部は「総合的な探究の時間」の校外活動として認められた。通常授業は受ける必要があるが、研究が集中する期間は、一部の重複した課題を調整してもらえることになった。


 黒田先生は、それが非常に不満そうだった。


 正確には。


 口では不満そうだった。


 ある日、研究施設へ向かう車の中。


 先生はずっと俺を見ていた。


 とうとう我慢できなくなったらしい。


「桐生」


「はい」


「正直に言え」


「お前、今までずっと演技してたのか?」


 俺は振り返った。


「何をです?」


「勉強が嫌いなふりだ」


 少し考える。


「いや、それは違います」


「プリントは本当に嫌いです」


 黒田先生が言葉に詰まった。


「じゃあ、お前は何が好きなんだ?」


 窓の外では、霞野市郊外の景色が流れている。


 道路脇には収穫を終えた農地。


 さらに先には工事中の裸地があり、風が吹くと薄く土埃が上がっていた。


 しばらく外を見てから答えた。


「何かが育つのを見るのが好きです」


 黒田先生は黙っている。


「種が割れて」


「根が土の中へ伸びて」


「葉が少しずつ広がって」


「何もなかった土地から、最後には食べられるものができる」


 俺は少し笑った。


「プリントより、ずっと面白いです」


 黒田先生は長いこと何も言わなかった。


 最後に座席へ深くもたれた。


「お前な」


「そういうこと、もっと早く言えよ」


 俺は返事をしなかった。


 言葉だけでは。


 誰も信じなかったと思う。


 結果を、目の前に置くまでは。



11



 それから三か月。


 俺の生活は、学校と研究施設にほぼ二分された。


 DR-1の種子系統は正式に保存され、研究チームによる反復試験が始まった。


 低水分環境。


 異なるレベルの塩ストレス。


 低肥沃度土壌。


 温度変化。


 日照条件。


 根系構造。


 登熟性。


 データが出るたびに、研究チームは次の試験条件を組み直した。


 当然、DR-1も完璧ではない。


 まだ初代の実験系統だ。


 形質の安定性が十分ではない株もある。


 高い塩ストレス下では明らかに収量が落ちる個体もあった。


 低温条件では、生育速度も大きく低下する。


 何より。


 ポット試験と圃場は、まったく違う。


 神谷先生はそこを繰り返し強調した。


「実験室で生きられることと、農地で安定して栽培できることは別です」


「農業で本当に難しいのは、一株のすごい植物を作ることじゃない」


「複雑な環境で、毎年安定して育てられるようにすることです」


 俺は頷いた。


「だから、続けるんです」


 その頃。


 システムでは新しい技術が解放されていた。


【塩害農地・生態修復シードパッケージ】


 単独の作物技術ではない。


 一つの生態系を作るためのセットだった。


 耐塩性作物。


 共生植物。


 選抜された根圏微生物群。


 根系協調による土壌改良。


 塩類移動の制御。


 有機物蓄積。


 つまり目的は。


 悪い土地の中で、一株だけを無理やり生き残らせることではない。


 傷んだ土地そのものを。


 少しずつ生き返らせることだった。


 俺はシステムの内容をそのまま出すのではなく、こちらの世界の農学知識と研究設備に合わせ、一つずつ検証可能な形へ組み直した。


 その実験計画を神谷先生に渡した。


 先生は長いこと読んでいた。


「桐生君」


「はい」


「これ、君が考えたんですか?」


「まあ……そうですね」


 神谷先生が顔を上げる。


「“まあ”って何ですか?」


 俺は少し笑う。


「先人の肩の上に立っただけです」


 神谷先生はしばらく俺を見た。


 それ以上は聞かなかった。


「分かりました」


「では、一緒に試してみましょう」



12



 冬の間は、温室と研究施設内で基礎データを積み重ねた。


 そして翌年の春。


 研究施設の塩害土壌試験区で、初めて本格的な圃場試験が始まった。


 最初からDR-1を一面に植えたわけではない。


 まずは共生植物区を作る。


 表層土壌の改善を進める。


 選抜した根圏微生物群を導入する。


 その上で、耐塩性作物とDR系統を段階的に組み合わせていく。


 最初の数か月。


 変化は地味だった。


 土地が突然黒々とした肥沃土に変わるわけでもない。


 イネが一夜で試験区を埋め尽くすこともない。


 だが。


 データは確実に変化していた。


 一部区画で土壌構造が改善し始める。


 表層塩分濃度の変化に一定の傾向が出る。


 保水性が向上する。


 有機物量も、少しずつ増える。


 そして夏。


 最初のまとまった圃場データが出た。


 これまで安定して定着しにくかった作物の生存率が、明らかに高くなっている。


 DR系統も、ポット試験ほど理想的ではないにせよ、塩害土壌で生育を維持していた。


 最初の完全なデータセットを確認した日。


 水野教授は試験区の端に立ち、長い間動かなかった。


 足元の土を踏む。


 分析結果を見る。


「本当に、変わってきてる」


 誰も歓声を上げなかった。


 数秒。


 全員が黙った。


 その言葉は、どんな派手なニュース見出しより重かった。


 方向は、間違っていなかった。


 もちろん、実用化までは遠い。


 地域が変われば土壌も違う。


 地下水条件も違う。


 生態系への影響。


 系統安定性。


 栽培コスト。


 長期連作。


 検証することはいくらでもある。


 それでも。


 少なくとも、もうこれは「高校生が夏休みに作った変わった鉢植え」ではなかった。


 一つの新しい農業技術として。


 本当に可能性がある。


 中間成果が公表されると、俺はもう一度大きく報道された。


 ただし今回は、見出しが変わっていた。


《高校生が参加する塩害農地修復プロジェクト、圃場試験で段階的成果》


《一鉢のDR-1から試験農地へ 高校生育種者と研究チームの挑戦》


 システムの影響力ポイントも急増した。


【現在の影響力:3,648,000】


【次段階の技術権限を解放しました】


【交換可能技術】


【高タンパク質トウモロコシ】


【病害虫抵抗性コムギ】


【循環型農業システム】


【基礎型・環境制御農場】


【高効率低水消費栽培システム】


 俺は表示を長い間見つめていた。


 道は、つながった。


 価値のある技術を作る。


 影響力が増える。


 さらに高度な技術を解放する。


 その循環を続けていけば。


 いつか俺が変えられるのは、一鉢のイネだけではなくなる。


 一つの試験区だけでもない。


 もっと多くの痩せた土地を。


 再び、食べ物を作れる場所にできるかもしれない。



13



 その後、記者から何度も同じ質問をされた。


「桐生君は、どうして農業を選んだんですか?」


 俺の答えはいつも単純だった。


「人は、食べないと生きられないからです」


 あまりにも当たり前に聞こえる。


 でも、それが一番本当の理由だった。


 都市がどれほど高層化しても。


 半導体が速くなっても。


 AIが賢くなっても。


 飛行機がもっと遠くまで飛べるようになっても。


 人間は、食べなければ生きられない。


 そして土地が食料を生み出せなくなった時。


 食料は商品ではなくなる。


 命になる。


 俺がこの世界の多くの人間より早く、それを知っているのには理由がある。


 およそ一年前。


 次世代農業技術システムが初めて現れた夜。


 俺は、「桐生悠真」のものではない記憶を思い出した。


 別の世界。


 そこにも、「地球」と呼ばれる星があった。


 国があり。


 街があり。


 ネットがあり。


 飛行機が飛び。


 高層ビルが空を埋めていた。


 科学技術は、この世界よりさらに先まで進んでいた。


 人類はかつて、技術さえ進歩すれば、ほとんどの問題を解決できると思っていた。


 だが。


 異常気象は増えた。


 利用可能な淡水は減った。


 塩害と砂漠化が進む地域も増えた。


 一部地域では、食料生産が大きく不安定になった。


 資源や食料の供給網も、何度も寸断された。


 人類が滅びたわけではない。


 世界が一夜で終末になったわけでもない。


 ただ。


 失われた土地を取り戻し、安定した食料生産を再構築するために。


 その世界は、途方もない代償を払った。


 その記憶を持っていた人間も。


 俺だった。


 今のこの世界に元からいた「桐生悠真」とは、少し違う。


 別の世界線で生きた、もう一人の俺。


 この世界も同じ地球と呼ばれている。


 日本もある。


 文化や歴史、生活も驚くほど似ている。


 それでも、二つの世界はどこかで違う道を進んだ。


 どうして俺が別の世界線の記憶を持っているのか。


 次世代農業技術システムとは何なのか。


 なぜ俺を選んだのか。


 まだ分からない。


 でも。


 今、自分が何をしたいのかだけは分かっている。


 俺はいつまでも。


 「宿題をやりたくなくて、一鉢のイネを作った高校生」


 それだけで終わりたくない。


 もっと多くの痩せた土地へ種を届けたい。


 塩害農地に、もう一度作物が育つようにしたい。


 水が足りない地域に、新しい選択肢を作りたい。


 土地だけでは家族を養えず、故郷を離れるしかなかった人たちに。


 いつか、もう一つの道を作りたい。


 もちろん。


 そんな未来は、まだずっと先の話だ。


 気づけば俺は高校三年生になっていた。


 ある日の午後。


 研究施設で新しい育苗データを確認していると、実験室のドアが開いた。


 黒田先生が立っている。


 手には。


 非常に見覚えのある、紙の束。


 俺はペンを止めた。


「先生」


「何だ」


「それ、何ですか?」


 黒田先生が手元を見る。


「来月の生物の確認プリントだ」


 俺は黙った。


 黒田先生も黙った。


 二人で数秒、見つめ合う。


 俺は慎重に確認した。


「先生」


「言いましたよね?」


 黒田先生の顔が、だんだん複雑になる。


「これから先生の生物の宿題は、全部免除だって」


 黒田先生はプリントを見る。


 それから俺を見る。


 最後に、実験台で芽を出し始めた第二世代の耐塩系統へ目をやった。


 深いため息。


 そして、紙の束をファイルへ戻した。


「分かった」


「お前は研究を続けろ」


「こういうのは、普通の高校生にやらせる」


 俺は心から安心した。


 黒田先生はそのまま出口へ向かった。


 しかし、ドアの前で足を止める。


 振り返らないまま、俺を呼んだ。


「桐生」


「はい」


 数秒の沈黙。


 それから。


 少し笑った声がした。


「先生は、言ったことは守る」


「これからも、私の宿題はやらなくていい」


 俺も笑った。


「ありがとうございます」


 黒田先生は片手を振った。


「調子に乗るな」


「ちゃんとイネを育てろ」


 ドアが閉まる。


 実験室に静けさが戻った。


 俺は視線を落とす。


 培養容器の中。


 一粒の新しい種子が、ちょうど殻を割ったところだった。


 小さな緑色の芽が。


 白い照明の下で、ゆっくりと開いていく。


 まるで。


 これから始まる未来のように。


――完――




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