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下っ端皿洗いが異世界転生したレストランで、たった一つの仕込みで世界を救った話  作者: もしものべりすと


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22/22

第二十二章 終わりの光景

翌朝。


 俺はいつもよりずっと早く、店に着いた。


 まだ誰も来ていない。


 厨房の鍵を開ける。


 照明をつける。


 空気の匂いを確かめる。


 冷蔵庫の温度計を、一台ずつ確認する。


 ガスの元栓を開ける。


 今日の予約状況の紙を、ホールに置く。


 水を出して、シンクに湯を貯め始める。


 すべてが、いつもどおりだった。


 いつもどおりなのに、今朝の俺はいつもの俺と、少しだけ違っていた。


 シンクの前に立つ。


 お湯の中に、最初の皿を沈める。


 水滴がシンクの縁に跳ねる。


 ぼんやりと、その水滴に自分の顔が映った。


 冴えない、皿洗いの顔。


 半年前と何も変わらない、見た目の俺。


 けれど。


 俺は口元に、小さな笑みを浮かべた。


「俺なんて」


 とは、もうつぶやかなかった。


 代わりに深く息を吸って、皿を丁寧に洗いはじめた。


 今日もたくさんの皿を、洗うだろう。


 たくさんの野菜の皮を、剥くだろう。


 たくさんのゴミを、出すだろう。


 そしてたくさんの業務日誌を、書くだろう。


 誰にも見られない仕事を、誰よりも丁寧に続ける。


 それが、俺の仕事だ。


 それが、俺の誇りだ。


 しばらくして、店の裏口の扉が開いた。


 ムッシュさんが入ってきた。


 彼の顔は、いつもの無口な料理長の顔だった。


 けれど俺と目が合うと、ふっと小さく笑った。


「蓮」


「はい」


「賄い、できたぞ」


「はい!」


 俺はシンクから顔を上げた。


 ホールの方から、千鶴さんと詠子さんが入ってくる音が聞こえた。


 二人とも小さく、おはようございますと声をかけてくれた。


 俺はエプロンの紐を、結びなおした。


 今日は、新しいアルバイトの初日だった。


 午前十時に、その新人が緊張した顔で店に入ってきた。


 高校を出たばかりの、若い子だった。


 料理人を目指したいと、ムッシュさんに面接で言ったらしい。


 ムッシュさんが彼を、俺の前に連れてきた。


「蓮、あとは頼む」


「はい」


「お前のところで一週間、まずは皿洗いと仕込みだ」


「分かりました」


 ムッシュさんが、奥に戻っていく。


 新人の若者は、緊張して頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「うん、こちらこそ」


 俺は彼の前に立った。


「最初に覚えるのは、皿洗いのコツだよ」


「皿洗い、ですか」


「うん、皿洗い」


 俺はシンクの前まで、彼を案内した。


「ここで一番大事なのは、皿を傷つけないことと、次に使う人が気持ちよくその皿を使えるように、磨くこと」


「はい」


「それから」


 俺は業務日誌を、シンクの隣のいつもの場所から取り出した。


「これは業務日誌っていうんだけど、書く習慣をつけよう」


「業務日誌」


「うん。今日何を見たか、何を感じたか、何を片づけたか」


「俺、書ける自信、ないです」


「最初は誰だって、書けないよ」


 俺は彼の前に、新しいノートを差し出した。


「五年続けたら、それが君の財産になる」


「五年」


「五年は長いけど、一日一行から始めればいいよ」


 彼はノートを、両手で受け取った。


「先輩」


「うん?」


「先輩、何で料理人じゃなくて、皿洗いなんですか」


 俺は苦笑した。


「皿洗いだから、見えるものがたくさんあるんだよ」


「皿洗いだから、見えるもの」


「うん」


 俺は振り返って、ホールの方を見た。


 千鶴さんが、テーブルのセッティングを始めていた。


 詠子さんが、ワインリストの整理をしていた。


 厨房の奥でムッシュさんが、今日の仕込みの段取りをホワイトボードに書いていた。


 すべての人の、すべての仕事が見える。


 俺の定位置から、すべてが見える。


「仕込みが、八割」


 俺は彼に言った。


「皿の上は、たった二割だよ」


「仕込みが、八割」


「うん」


 彼はノートにその言葉を、書きとめた。


 俺はシンクに戻った。


 今日も、最初の皿を洗いはじめる。


 水滴にまた、俺の顔が映る。


 俺はその顔に、もう何もつぶやかなかった。


 ただ口元に、もう一度小さな笑みを浮かべた。


 厨房の窓の隙間から、朝日が差し込んできた。


 光はシンクの中の皿の上に、ほんの少しだけ輝きを与えた。


 その輝きがふっと消える瞬間に、俺は確かに見た。


 あの夜、二つの月の下で俺たちが一緒に笑った、別世界の仲間たちの顔を。


 彼らはみんな、ここにいる。


 俺の手の、皿洗いの丁寧さの中に。


 俺の業務日誌の、一文字一文字の中に。


 俺の後ろを通る新人の、これからの日々の最初の一行の中に。


 俺は深く息を吸って、それから皿をもう一枚、シンクに沈めた。


 仕込みは、八割。


 その八割を、誰かが必ず丁寧に整える。


 今日も、その誰かでいることが俺の誇りだった。


 ラ・ヴェリテ。


 真実、という名前のレストラン。


 俺はそこで今日も、皿を洗っている。


 たぶんこれからもずっと、皿を洗っているだろう。


 それで、十分だった。


 それが、俺の世界の救い方だった。



(了)

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