3.思い出してください
3.思い出してください
「外に出たいぞ」
開口一番、主人はロジオンに向かってこう言った。
主人が思いつきでものを言うのはいつもの事だが、この発言はロジオンを驚かせた。白いシーツを敷く手が止まり、一つしかない彼の目が主人に向けられる。その主人は手持ち無沙汰な様子を隠そうともせずに、暇にあかせて部屋中をうろうろしていた。
ロジオンの主人は、外を歩くのが大嫌いだった。月の光でも肌が焼けると信じていたし、何より馬車に憧れを持っていた。歩くのは馬に任せ、自分はそれに引かせた馬車の中で鼻歌でも歌いながら時間を潰す。それが主人の、貴族としてのこだわりだった。外を自分の足で歩くのは、平民のやる事だと常日頃から言っている。
ところが、この城には馬も馬車もない。主人に愛想を尽かして出て行った従者のゾンビ達が、全て持って行ってしまったからだ。
従者として一通りの事が出来るロジオンでも、一人では馬の調達も馬車の製作もままならない。なので、今この城には遠出するための設備が備わっていなかった。主人もそれを知っていたので、外に出たいなどとは口が裂けても言わないはずなのだ。
「ご主人様、頭でも打ったんですか?」
「さっきそこで転んでな。何で分かったんだ?」
主人は不思議そうな顔をして首をかしげ、ロジオンを見た。そのロジオンはというと面食らったかのように黙り込み、そそくさとベッドメイクを終わらせた。
まさか本当にそうだったとは。頭を打ったせいで、少々思考に変化が起きているようだ。
返事をごまかすように、ロジオンは主人の振ってきた話題に食いついてみせた。
「あ、いえ……。それはいいんですが、大丈夫なんですか?」
「何がだ?調子はいいぞ」
ロジオンはベッドのシーツを軽く数回はたきながら、窓の外にちらりと目をやった。その窓はロジオンのすぐ傍にあり、そこから差す光は部屋の真ん中にいる主人には届いていない。
西の山の向こうに沈もうとしている太陽は紅く、手前に見える針葉樹の森に暗い影を落としている。もう少し経てば、吸血鬼である主人が出歩くには最適な時間帯と言えた。加えて、今夜は新月だ。
「まあ、ある意味絶好の外出日和ですね」
夜中を指して日和というのもおかしな話だが、ロジオンはそう言って話を合わせた。
「だろ?少々運動不足だったからな、たまには身体を動かすのもいい」
両肩を回して、主人は窓に近づいた。布越しの夕日の光が、主人の細面を赤く染める。
ロジオンは驚いた。主人が日の出ているうちに窓の前に立つなど、前代未聞の事だからだ。
日頃伴侶が欲しいと嘆いている事を考えると、これは良い兆候だと言えた。先日殆どの服を駄目にした時は、もう二度と外に出ないだろうと覚悟していただけに、ロジオンも素直にこの変化を喜べた。
しかしこの後、彼は肝を冷やす事になる。
主人はカーテンを見つめ、その向こう側を見ようとするように目を細める。そしてその手を窓へ伸ばし、垂れ下がったカーテンを掴むと、一気にその手を横に広げた。
ロジオンは声にならない声を上げ、主人へと迫った。止まりっぱなしの心臓が、この時ばかりは大きく跳ねる。なりふり構わず突っ走り、両手で主人を突き飛ばす。押された主人は紙切れのように容易く吹っ飛び、カーテンを離してカーペットの上を転がった。解放されたカーテンが、わずかに開いた後再びだらんと垂れ下がる。
主人は自分が何をされたのか、さっぱり分からなかった。従者に突き飛ばされる理由など、心当たりがなかったからだ。だからこそ彼は立ち上がると、倒れたままのロジオンを怒鳴りつけた。
「どういうつもりだ!」
「……こっちの台詞です。どういうつもりだったんですか」
ロジオンは立ち上がり、静かにそう言った。服の乱れを直そうともせず、主人と向かい合う。もしロジオンが一瞬でもためらっていれば、主人は形を失い、消えて無くなっていた。
「夕日でも駄目なんです。砂になる所でしたよ!」
「何を言ってるんだロジオン、そんな訳ないだろ」
痛む肩をさすりながら、主人はロジオンの目の目に出て彼をにらみつけた。ロジオンの方が背が高いので、下から見上げる格好になる。
「砂になる?吸血鬼じゃあるまいし何を言ってるんだ」
「……は?」
「今度あんな真似をしたらただじゃおかんぞ。貴様の頭を、左半分坊主にしてやる、覚えとけ」
言うだけ言うと、主人は不機嫌なまま部屋を出ていき、扉を乱暴に閉めた。
ロジオンは主人を追わず、言われた事の内容を未だに把握しきれずにいた。左半分坊主にされる事など、ロジオンの頭の中には残っていない。主人がそう言う前には、彼の意識はある一言に集中していたからだ。
吸血鬼じゃあるまいし。
冗談でも吸血鬼が吐くとは思えない台詞だ。殆どの吸血鬼がそうであるように、主人もまた吸血鬼である事を誇りに思っている。
転んで頭を打ったとも言っていた。
二つの事実が、やがてロジオンの頭の中で結びつく。
「自分が吸血鬼なのを忘れてる……?」
自分で言っておいて、彼にはその言葉が信じられなかった。
ただ、そうでなければ主人の愚行に説明が付かない。炎以外の明かりを嫌う主人が、望んで窓の外を見ようとするはずがないのだ。
「だとすると、大変だぞ……。うっかり外にでも出れば」
背中を冷たい汗が流れた気がした。生理的な反応というのは、身体が死んでいても頭が覚えているものらしい。
外に出たがらない主人が外に出たいと言う。しかし、自分が吸血鬼だと忘れているため、何のためらいもなく日の下に身を投げ出すのは明らかだ。そうなれば、瞬く間に主人は空を舞う羽目になる。
間違っても外出などさせられない。ロジオンの、申し訳程度に残った脳みそが痛みを訴えた。やがて一つのひらめきが生まれ、それが彼の目的に変わる。
外に出すなら、夜だ。
今するべき事は、主人を城内にとどめる事だ。日が完全に沈み、青と黒で世界が染まる時間になれば主人を止める理由はなくなる。
ロジオンは策を講じるため、急いで自分の部屋へと戻った。
外の太陽は、ようやくその縁を地平線の上にそびえる山の上に重ねた所だった。
主人は軽やかな足取りで城の正門へと向かっていた。廊下に並ぶ窓の前に通る度、身体が熱くなる。気候が暖かくなったのだと思っているのは本人だけで、実際は日光のせいで肌が焼け、表面が砂へと変わっていたからだった。人が気付かずに切り傷を作るように、彼もまたそれに気付いていなかった。陽気な気分で先を急いでいられるのは、砂になっている部分が薄皮程度で済んでいるのが幸いしていたのが大きい。寒風吹きすさぶ地にあって、その熱は主人の機嫌を浮き足立たせるものに変えていた。
「何だろうな、今日はやたらと気分がいいぞ」
一際大きく前に跳ね、主人は両足から着地。窓の前に立つと、狭い格子にはめ込まれた窓ガラスの向こう側に目をやった。
日が沈みかけているせいで、針葉樹の木々の根元は、雑多に生えた雑草と合わさって麦わらのような色に染まっていた。所々でぴんとはねている枝葉も見られるが、ほとんどの草は背が低く、そのおかげで窓からでも木々の生い茂る様子が見通せる。歩くのにも不自由しなさそうで、だからこそ主人は外に出ようと先を急いでいた。
「そういえば私、外に出た覚えがないなぁ。なーんで出なかったんだっけ?」
疑問を持ちながらも、足は止めていない。角を曲がると、城の外と中とを繋ぐ分厚い木の扉が視線の先に現れた。
客人を迎える為にあるその空間は、二階と三階とが吹き抜けになっており、広いスペースを埋めるように柄入りの大きなカーペットが敷かれていた。彫刻を施された手すりに挟まれた広い階段が、客人を迎える位置でその根元を扉の方に向けている。高い天井に見劣りしないように、扉の大きさもまた裏口などのものに比べて一回り大きなものとなっていた。シャンデリアの蝋燭達が一帯を明るく照らし、壁の漆喰の色を温かみのあるものへと変えている。
真っ赤なカーペットを踏みつけながら、主人は外に出ようと扉に向かって手を伸ばした。そこを開けば日を遮るものは、一切ない。距離が詰まり、細い指の先が扉の取っ手に触れるか触れないかの所まで迫る。
「ご主人様」
ロジオンの声に驚き、その手が止まった。振り返ると、広い絨毯の中心に唯一の従者が立っている。後ろに回した手に何か持っているらしく、黒いものがはみ出ているのが見えた。隠されては主人も気になってしまい、彼の興味はロジオンの持っているものに向けられた。
「何だ、それは?」
ロジオンはわずかに口の両端を持ち上げ、隠していたものを前に差し出した。主人はそれを見て、眉をひそめる。
それは大きな面積を持つ黒い布で、特に特徴らしいものは見当たらなかった。強いて挙げるとすれば、裾に沿うように並んだ、前を留めるためのボタンくらいだ。ロジオンの片腕に乗せられ、二つに折られている。
「あなたのために仕立てた、新しい外套です。軽さと遮光性を備えるため、麻で編んだものを二枚重ねて作りました。これは汗を吸わない為、重くなって脱ぎたくなるという事はないはずです。さらに……」
もったいぶったように間を空けて、ロジオンは後ろに隠していたもう一つの物品を見せた。
それはつばの広い真っ黒な帽子で、先の尖った、魔女がかぶるようなものだった。ロジオンはそのつばを持ち、よれよれになっている帽子の先端を主人に向ける。
「こちらが、日よけの帽子です。つばの中に骨組を入れているので少々重いかもしれませんが、つばがへたれて視界を塞ぐといった事態を防げます。合わせてお使いいただければ、と思いまして」
「ずいぶんくたびれた生地で出来ているようだが?」
「……申し訳ありません。何分材料が足らず、城のあちこちで眠っていた物品で間に合わせたのです。お気に召さないかとも思い、お見せすべきか、今の今まで迷っていたのです」
ロジオンはゆっくりと、丁寧に説明した。そうする事で主人の注意を自分に引きつけるためだ。
日が完全に沈むまで、主人を城の中に引き止めるのが目的だった。以前より、今後のためにと作っておいた外套や帽子を見せ、主人の反応をうかがった。気に入ってもらおうとロジオンは熱意のままに、しかし押し付けがましくならないように気を使いながら喋る。笑顔を繕い、不快な印象を持たれまいと表情を保った。興味の対象を外出から移すのが第一なので、気に入られなければそれでもいいとも思っていた。
その主人はというと、ぴんと来ないと言わんばかりのつまらなさそうな顔をしていた。食いつきの悪さにロジオンは焦る。
しかしロジオンの話には耳を傾けているようで、後ろの扉には注意が払われていなかった。この点では、ロジオンの思惑通りとも言えた。
「そんなものはいらんな。私は今、走りたくてしょうがない。裸で外に出たいくらいだ」
「おやめください、縁が逃げます」
城の回りには森しかないので、羞恥心を煽る傍観者はどこにもいない。今にも外に出ていきたそうにちらちら扉に目を向け始めた主人は、本当にそれを実行し兼ねなかった。
「大丈夫だ。私の肉体美なら、遠方の婦女子が気付かぬはずがない」
裸を見られても問題はないらしい。ロジオンは敢えてそこは指摘せず、別の方向から攻める事にした。
「もやしっ子が何言ってんですか。遠方って、ここがどれだけ僻地かご存知でしょ」
細身の主人は、筋肉で構成されるような肉体美とは無縁だ。しかし、主人はロジオンの指摘に怯まずなおも持論を崩そうとはしなかった。
「すっごく目がいい女なら問題はない」
「鳥並の視力の女も、そうはいません」
ロジオンが主人の主張を否定しても、主人は食い下がる。
「どこかの部族では、それぐらいが普通らしいぞ?」
「それは広くて暑い場所の連中です。ここは寒いし、見通し悪いでしょ」
「気まぐれでタフな子が近くにいるかも知れんだろ!」
「さぞや毛深く、大きな子でしょうね。ホント寒いですから、この辺」
そこで主人は、口を止めた。思考を巡らせ、これまで挙げられた条件に合致する女性像を想像する。その隣にイエティを並べてみると、どっちがどっちか分からなくなってしまった。
「……それはちょっと、好みじゃないな」
「でしょ?だから、外に出るのはやめましょう」
ようやく言いたい事を言い、ロジオンは離れた位置にある城の壁に目をやった。そこには窓があり、その向こう側はすっかり暗くなっていた。
太陽が完全に沈んだのだ。ロジオンが内心で、胸を撫で下ろす。
主人も、ロジオンと同じ方向を見てううむ、と唸った。
「ん、そうだな。外も暗くなった事だし。やめるか」
「ええ、是非……は?」
「いくら何でも夜中は危険だ。野獣が私の軟い肉に群がりかねん」
食うトコ残ってるんですか?
普段のロジオンなら間髪入れずにこう言っていた所だが、この時ロジオンは呆然としていた。安堵しかけたところで思わぬ不意打ちを喰らっていたからだ。
「明日の朝に、歩くとしよう。いやあ、日の出が楽しみだ」
明日への期待を胸に抱えて、主人はもと来た道を引き返して行った。ロジオンはというと、結局受け取っては貰えなかった外套と帽子とを持ったまま、その場から動けずにいた。
「面倒な事になった……」
しばらく後、ロジオンの口からそんな一言が漏れた。
実は今回、難産でした。
読みにくい点、分かりにくい点等ありましたら気軽におっしゃってください。