2.泣かないでください
2.泣かないでください
うららかな陽気が森に満ち、鳥の声が晴天に響き渡る。木々の葉も張りを取り戻したかのように青々としており、生気に満ちている。気候が暖かくなり、その温もりは石で出来た冷たい城の中にも届こうとしていた。窓から差す陽光が床に敷かれた赤いカーペットと、その上空で舞い踊る埃とを照らし出す。昇っていくようにも見える細かい埃くずを、城の主人は部屋の日陰の中からぼんやりと眺めていた。
椅子に座って見ている内に、彼の中に鬱屈としたものが溜まりだす。ひらりひらりと舞っている埃のくずが、自分を笑っている気がしたからだ。一つ一つが勝手気ままに動いている様子が、ふとした拍子に、相手を取り替えながら社交ダンスをしているようにも見えてくる。知らず知らずの内に、彼の口から苛立ちがこぼれた。
「こいつら、社交ダンスを踊るのか……。私の前で、一人寂しい私の前で!」
「埃に何を言ってんですか」
同じ部屋にいた従者のロジオンが、呆れたように呟いた。
彼等は共に、日の差さない部屋の角に身をひそめていた。主人は吸血鬼で、日に当たればたちまち砂になってしまう。ロジオンはゾンビで、身体が熱を持ってしまえば肉の腐食が進行してしまう。つまり二人とも、日光が苦手なのだ。
「とりあえずカーテン閉めますよ。このままじゃ掃除もろくに出来ません」
「待てロジオン、窓も開けろよ。あのアベック共を風で吹き飛ばしてやれ」
「器が小さすぎますよ。埃に嫉妬するとかどんだけ病んでんですか。……窓は開けますけど、換気が目的ですからね」
釘を刺すように言うと、ロジオンは日光に当たらないように注意しながら窓に近づいた。天井近くのレーンからぶら下がっている厚手の布を一気に引き、日光を遮断する。その後、指先だけをカーテンの外に出すようにして彼は窓の錠を解き、両開きのその窓を一息に押し開けた。
厚手のそのカーテンが窓の外へと裾を吸い込まれ、はたはたとはためく。そのせいで閉じていたカーテンは若干だが開き、風に持ち上げられて、再び日の光がカーペットの上に落とされた。ロジオンのただれた皮膚もまた、陽光に晒される。
肌が熱を受けると生前の感覚を思い出すようでロジオンには少し嬉しく思えたが、それも一時の事。すぐに彼は身を引き、日向から逃れた。
彼のそんな様子を見て、主人が呟く。彼の興味は完全に自分の従者へと移っていた。
「今のお前、人間に見つかったゴキブリみたいだな」
「何です、それ?」
ロジオンはゴキブリを知らなかった。北方の出身だったし、この城にも周辺の森にも、ゴキブリは生息していなかった。
「……いや、知らないでいい」
「なら悪い事言っちゃった、みたいな顔しないでください。ちょっと予想できちゃったじゃないですか」
眉をしかめ、ロジオンは主人を睨んだ。その主人はと言うと、指と指とをつつき合わせながら、壁に飾られた自分の肖像画に、気まずそうに目をやっていた。
彼がナルシストな訳ではなく、城の主人が誰なのかを誇示するために描かれた絵だ。どこの城でも、当たり前のようにそんな絵は飾られている。この部屋にある絵には椅子に腰掛ける主人以外、誰も存在していない。
主人の全身を収めたその絵は、持て余した空白を土や樹木を思わせる濃い茶色で塗りつぶしていた。油絵の具の濃淡で埋められた広い余白のせいで、絵の中の主人はどこか寂しげに見える。絵を見ている主人本人も同情して、絵と同じ表情を浮かべた。
「あー、隣に嫁さん描き足したい」
素敵な恋がしたい、と同義の言葉を、ほぼ同じイントネーションで呟く。またか、とロジオンは小さくため息をついた。
「最近そればかりですね」
「そりゃそうさ。花も恥らうお年頃、恋に興味がなかろうか」
「ずいぶんタフな花ですね」
吸血鬼の長い寿命を揶揄するロジオンに、主人はうむ、と頷いた。その誇らしげな表情に、ロジオンは何も言えなくなる。語るに任そうという、やりすごしの精神が彼に芽生える。従者の諦観の表情にも気付かず、主人は揚々と喋り出した。
「生憎と今日はいい天気。一歩出ればイエス様とご対面だ。お嫁さんを迎える前に迎えに来られては、笑い話にもならん」
満ち足りた顔をする主人に、ロジオンは半眼になってそうですね、と答えた。
「さて、外に出れないならば今日はオシャレについて考えてみよう」
「オシャレ、ですか」
先日よりはよほど現実的で前向きな話題だったが、ロジオンにとっては答えに困る問題だった。異性に好感を持たれるために、服に気を使うのは決して間違った選択ではない。
しかしロジオンは、服飾に疎かった。今日の流行を知る手段が無いのもあるが、彼自身服に興味がなかったからだ。着るものも、いつも同じ燕尾服で他にはない。従者が主人に、いたずらにものを欲しがるのもみっともないと思っていたので今日まで文句は言わないでいた。
そこでロジオンは、主人もまた、いつも同じ服を着ている事に気付いた。
「……他に服をお持ちなんですか?」
「見くびるなロジオン。私くらい変化に富んだ男なら他の服の十や二十、ちゃんと常備しているものだ」
主人の言葉にロジオンは首をひねる。主人の服を洗い、手入れをするのはロジオンの仕事だ。その彼には、一種類しか主人の服を洗った覚えがない。
「……まさか同じ服を何着も持っているとかじゃないでしょうね?」
「もちろん違うぞ。私は他にもたくさん服を持っている」
「私は今のそのお召し物しか知りませんよ?」
ロジオンの言いたい事を察し、主人は片手を軽く振って質問を打ちきった。
「そう言えば見せていなかったな。私には、お前にも内緒にしていた秘密のクローゼットがあるのだよ」
ふふん、と得意げに笑って主人は立ち上がった。部屋を出ようとする主人に、ロジオンも続いた。
主人の部屋を出、廊下を歩いて突き当たりにある階段を降りる。一階まで辿りつき、更に降りると主人は地下室への扉を開けた。入り口にある燭台に火を灯す。炎の明かりで奥が見通せるようになり、さらにその先にある別の燭台にも火を灯す。これを繰り返しながら奥へ進んでいくと、主人はロジオンを引きつれたままある部屋の前で足を止めた。
「え、ここって……」
ロジオンが驚いたのも無理は無い。そこは衣装室などではなく、更に言うとその部屋と廊下を隔てているものは壁と扉ではなかった。床から天井まで伸びた鉄の棒が規則的に立ち並び、その隙間から中の様子が見える。
石で組まれた無骨な部屋の中には、厚手の布をかぶせられた何かがあった。大きさや形から、家具の類だとすぐに分かった。その中身も、ハンガーで吊るされた服が並べられているのだろうと容易に推測できる。
「持て余していた地下牢にクローゼットを持ち込み、気に入った服を中に吊るしておいたのだ。どうだ、無駄のないアイディアだろ?」
得意げに語る主人。一方、ロジオンには一つ懸念している事があった。地下にあるこの場所は地上よりも涼しく、肌寒くさえ思えてくる。加えて、壁のあちこちからは地下水が染み出ていた。風の流れも、殆どない。
「……えーと、ですね?その、着想は悪くない、とは思います、よ?」
「何だ、すっきりしない返事だな?何か問題でもあるのか?」
「えと、ですね……。まあ、見て貰った方が早いかと」
主人はロジオンの言葉に首をひねると、鍵のかかっていない牢の扉を開いて中に踏み込んだ。そのまま服を隠す埃避けの布に手をかける。そこで主人はふと、ある違和感に気付いた。その布は記憶にあるものよりも重かったし、さわり心地も良くない。
大した事ではないかと思い直し、主人はロジオンを見据えたまま、彼の前で埃避けの布を取り払った。見せつけるかのように大きく腕を振り、空中で布を翻らせる。
この時、主人にはクローゼットの今の状態など眼中になかった。ロジオンがこちらを見ているかどうかしか頭になく、手元を見ずにクローゼットの金属製の取っ手に指をかけて、一気にそれを引き開ける。
「どうだロジオン!」
誇らしげにそう言って、彼はクローゼットの中に目を走らせた。
「これが私の、お気に、入り、の……」
主人の言葉は最初は勢いが良く、しかし、次第に尻つぼみになっていった。続く言葉がなくなったのか、ついには黙り込んでしまう。主人は目と自分が見ているものを疑うかのように、何度も瞬きして目の前のものをまじまじと見た。妙に重い音を立てて、布が岩の床に落ちて主人の手を離れた。
「ふ、く……なの?」
主人の目がロジオンに向けられる。ロジオンに聞かれても、彼も返答に困っていた。ただ一言、事実を言うしかなかった。
「……どれも、もう着れませんね」
青錆色のクローゼットの中で、色鮮やかであったであろうたくさんの服は、その全てが黴の色に染まっていた。
「もう泣かないで下さいよ」
ベッドに顔をうずめて落ち込む主人に、ロジオンは困ったように言った。慰めの言葉は言い尽くしたし、そのいずれもが主人の心の傷を埋めるのには力不足だった。よほどこだわりがあったのか、すすり泣く度に服、服と言う声が漏れている。
「私の、秘蔵のコートが、シャツが……」
「新しいのを買えばいいじゃないですか。何なら私が仕立てましょうか?」
「嫌だ嫌だい、あれじゃなきゃ嫌だーい!」
「子供じゃないんだから、バタバタしながら言わないでください。ああもうメンドくさいなコイツ」
「お前には分からないんだ、この悲しみが!あと小声で文句言ったろ!聞こえてるからな!」
なおも動こうとしない主人に、ロジオンは付き合い切れなくなってきた。うんざりした気分で窓に目をやると、濃い雨雲が湧いて空を被い隠そうとしているのが見えた。日差しが弱まり、風が湿気を帯びたものに変わるのが分かる。
気を紛らわせるのを兼ねて、彼は窓に近づき、カーテンを室内に引き込んだ。上から垂れたその布を抱えるようにして纏めた後、一枚ずつ窓を閉めて鍵をかける。腕を解くと、カーテンはだらんとレーンの下で垂れ下がり、動きを止めた。
「よし、と。ご主人様、他の窓を閉めに行ってきます。帰るまでには立ち直ってくださいね」
「無理、もう無理。私ネバースタンド」
「タフな男がもてるそうですよ。それでは失礼します」
そう言い残して、ロジオンは部屋を後にした。閉めかけた扉の隙間から、主人がバネのように勢い良く立ち上がっているのが見えたが、ロジオンは扉を閉めた。
似たような経験が、私にもあります。
それにしても、これはコントとして成立してるんでしょうか。