10.そこはどこですか
10.そこはどこですか
「へー、わざわざ遠方からやって来たと」
メアリは開いたメモ帳に筆を走らせながら、主人の言葉に耳を傾けていた。主人の異様な格好に臆する様子はまるでなく、興味しんしんといった体だ。それに主人は気を良くし、熱のこもった口調で答える。
「そう!森を越えて山を越え、空をまたいで一直線!そうまでして会いたかった相手がいるって、素晴らしいと思わないか?」
芝居がかった大げさな身振りを交え、主人はとめどなく話を続けた。傍で聞いているあきらは、落ち着かない気分で主人が下手な事を言わないか気をもんでいた。
メアリに見つかった以上、変な誤解をされた場合それが校内全体の常識のように広まってしまう可能性がある。そのためやむを得ず、あきらはかつて他の国に旅行に出たと嘘をつき、主人とはそこで知り合ったとして彼と口裏を合わせる事にしたのだった。主人もそれを理解し、うまく細部をごまかしながらメアリのインタビューに答えていた。
「寒風吹きすさぶ地にて一人、薄情者の悪態と冷たい視線に耐える日々。そこで出会ったあきらはとても私によくしてくれたよ。さながら地獄にホッケー、友人のリズから聞いたニッポンの諺を思い出すようだった」
「……あのそれ、仏です」
あきらが訂正した。主人の言葉にボロが出たら話を逸らせるよう気を張っていたが、こんな場面で話す事になるとは彼女も思っていなかった。仏という言葉が明らかに日本語圏の住民ではない主人にとって馴染みの薄い言葉なのは分かるが、主人の口にした事の情景を思い浮かべるとあきらはどうにも反応に困った。
主人とメアリが目を丸くしてあきらを見る。
「ホトケ?……ああ、ジャパニーズゴッド?」
尋ねたのはメアリだった。
「う、うん。それくらい、とってもありがたかったって、言いたかったんだと思う」
あきらの補足に、主人が首を小さく傾けて肩をすくめ、「分かってるぅ」とでも言いたげな顔で彼女を指差した。
「そう、正に!君はその、ええと、ホットケーキ?のように温かい人だった!なのに、恥ずかしながら私は彼女に報いる術が何もない。どうしたらいいと思うメアリ?」
ちゃかすようにも聞こえる言い方で、主人は真面目な顔でメアリに尋ねた。
「それをあたしに聞かれてもなぁ」
「いや、別にそんな気を使ってくれなくても……」
あきらは恩を売ったつもりはなかったのだが、それでもこうして面と向かって感謝されると面映ゆくなる。
「あきらは優しいからな。あんな出会い方をしても通報しないし」
「通報?」
「うわあ、ちょっと!」
あきらはあわてて主人の口をふさいだ。メアリが首を傾げる前で、あきらは咄嗟に言い訳をする。
「そ、その、馴れ初めがね!事故みたいなもので」
「どんな風なの?すっごく気になる!」
メアリが大きく食いつき、あきらに詰め寄る。あきらはさらに困惑し、嘘の用意に手間取った。嘘とばれないように、との思慮から、事実の中から不自然でない部分を口にする。
「え、ええと、その、ば、バイク……?」
「バイク?この人が?」
「ああ、私じゃないんだが」
「ちょ、ちょっと!」
あきらはメアリに聞こえないよう、主人に小声でささやいた。
「どこまで話す気ですか?」
「え、全部だけど?」
「それはダメですよ!」
「なぜ?」
本気で分かっていないらしく、主人は首を傾げた。そんな彼ののんきな態度に、あきらは不安を覚える。
あきらは主人が吸血鬼である事には半信半疑であった。しかし今朝のロジオンの必死さを思い出すと全くの嘘とは思えず、主人を好きにさせるのには大きな抵抗があった。
そんな彼女の気持ちなどいざ知らず、主人は自分の不満を口にする。
「私は人前に出しても恥ずかしくないように生きたつもりだ。隠す事などほとんどないと思うんだが……」
「大きな問題になっちゃいますから、お願いします」
「むう……」
納得しきれないで主人が腕を組んで唸ったその時、チャイムの音が辺りに響いた。その音に、あきらとメアリがはっとする。
「あ、もう授業だ!アキラ、急ごう」
「あ、う、うん!それじゃ主人さん、また」
先行するメアリを追いながら、あきらは手を振って主人から離れていった。主人は音の意味を分かっていなかったが、それでもあきらを引き留めたりせず手を振って彼女を見送った。
「……うーむ」
すっきりしない顔で、主人は唸る。根が楽観的とはいえ、彼はあきらが自分に慎むよう言うのに次第に不満を覚えてきた。彼にすれば、彼女がそう言う理由が分からないのだから無理もない。
「……授業、か。せっかくだし、見ておきたいな」
少しばかりやり返したいという気持ちと、ささやかな好奇心が主人の中で首をもたげる。
「目立つなと言われたが、この通り私は地味だ。見つからなければ問題ないだろう」
自分を包む黒い外套を見下ろすと、彼の目に確信に満ちた光が宿る。黒いイコール目立たない、という短絡的な発想を得ると、彼は揚々とあきらの後を追った。
がらがらがら、とロジオンの足元で絶え間なく音が響く。暗く冷たい暗闇の中で、彼は身じろぎひとつせず時間が過ぎるのを待っていた。今の彼を収めるその闇は、不規則に彼を揺らし続ける。全身を包む湿った感触は彼にとっては心地よいものだったが、肘の一つも曲げられないとあっては窮屈この上ない。
どれくらいの時が経った頃か、彼はぽつりとつぶやいた。
「……暇ですね」
彼にすれば事実を端的に告げただけなのだが、暗闇の向こう、彼の背後から女の声が上がった。
「人に運ばせといて、ずいぶんな言い草ねぇ」
嫌味な言い方だったが、どこかくたびれた声だ。現状を思い出し、ロジオンは自分の持つ不満をぐっと飲み込む。
「……失礼しました」
「そうよ、分かってる?レディに荷物引かせて文句なんて、紳士的じゃないんじゃない?」
そう言うリズの表情には、多分に疲労の色が現れていた。彼女は今、白昼の路上でロジオンの入ったクーラーボックスを引いているのだ。
熱を表面にためない白いそのボックスの中には大量の氷が入っており、その中心には古新聞にくるまったロジオンが収められている。氷で冷えるのはともかく、服がぬれるのを彼が嫌がった結果だ。底に付いた車輪のおかげで運搬は容易だが、重い事に変わりはない。しかも歩道に敷かれた石畳の細かい起伏が何度もバランスを崩しにかかるので、リズの疲労はたまる一方だった。
空では高く上った太陽が、容赦なく街中を照らしている。赤や白で彩られた家々の前を通りながら、リズは一人汗を流しながら進み続けた。
「いくらあなたの死活問題と言っても、ねえ。少しは休ませてもらえないの?」
箱の中のゾンビに向かって、リズはそう愚痴をこぼした。
両手で後ろ手に大きなクーラーボックスを引くリズの姿は、多民族国家であるアメリカであっても異質なものだった。銀髪の先がすぼまり、黒い肌を汗が流れる。しかも時折独り言を言っているようにしか見えないので、時たま通りすがる人々が不審者を見るような目を彼女に向けていた。ロジオンの声はこもっているので、すぐ近くにいるリズにしか聞こえない。
「ですが、ご主人様を一人にするのは不安なのです。見ていない所で帽子でも取られれば……」
「それは同感ね。けど、あいつもそんなに迂闊じゃないでしょ。自分の体質忘れてるっていっても、美白って言えば馬鹿正直に取らないし」
周りの目など気にも留めず、リズはロジオンにそう言った。ちょうどその時、青いパトライトを乗せた車が彼女の目に入る。どんどん近づいてくるそれは、次第に速度を落とし始めた。
「……やば、面倒くさいのが出た」
正直な感想を口にすると、リズは箱から両手を離した。重い音が上がってクーラーボックスが石畳に落ち、中身を大きく揺らす。
「んがっ!?」
ロジオンが一際大きな悲鳴を上げた。たまたますぐ近くを通った小学生のグループがぎょっとした顔でクーラーボックスを見る。
「ちょっと、見世物じゃないのよ」
迷惑そうな顔で彼女が見ると、子供たちは嘲るような目を彼女に向けて逃げ出した。態度だけは怖いもの知らずといった子供等を胡乱げに見送り、彼女は指を立ててその手を上に向けた。パトカーはどんどん距離を詰めていく。リズはロジオンの入ったクーラーボックスに腰掛け、あげた手の指で小さく円を描いた。指先にこもった小さな光が、その軌跡を空中に残す。その円の中に、彼女はバツ印を描き足した。
たちまち円はリズの指先を離れ、径を大きくしながら空中に浮きあがる。しかし上がったのは一時の事で、円は広がりながら下降を始めた。
馬鹿にした目で見ていた子供達や、不審者を見るような目をしていた警察官等が次に起こった出来事に目を剥く。
空中の円が下りてくるにつれ、円の上に突き出るはずのリズの頭が、肩が消えていく。驚きと絶句の中、ついにリズとクーラーボックスは彼等の前から姿を消した。
遅れて、戸惑いと興奮の声。
「な、何だ一体?」
「すげー!何なに、どこに行ったのー!?」
にわかに辺りが騒がしくなる。その声は、ロジオンの耳にまで届いていた。
「……リズ様、また魔法を使いましたね?」
「うん」
あっさりと首肯。二人の会話は、隠蔽の魔法によって外部には全く聞こえていない。今朝目にしたのと同じ魔法だったので、ロジオンにも彼女が何をしたのかはおおよそ察しがついていた。少し前にパトカーを撒いたのも、この魔法のおかげだ。
助かったのは事実だが、ロジオンはリズの魔法に対する気安さに不安を覚える。
「……目立つ真似はよした方がいいのでは?」
「見つかんないし、これはセーフでしょ。人間がいないモノをどうやって追いかけるのよ」
少しも悪びれない様子で彼女はぱたぱたと腰の下の箱に手をふった。声だけで彼女の様子がありありと伝わり、ロジオンははあ、とため息をついた。
「お世話になって言うのは何ですが、この辺りで住み辛くなりますよ?」
「大丈夫よ、その時は変装すりゃいいし」
「そんないい加減な……」
リズが住いを見つけられた訳を、ロジオンは分かった気がした。
静まり返った教室で、教授が白墨を黒板に打ち付ける音が静かに響く。席に着いた生徒たちは皆、神妙な面持ちで黒板の文字を写していた。思い出すように、ぽつりと老人の教授が呟く。
「……講義の途中だが、君達に言っておく」
基本的に、この教授は無駄話を一切しない。講義の途中で別の話題を振る事など例がなく、教室全体で小さく動揺の声が上がった。
「ああ静かに。何、大した話じゃない。……君等の中には何をしようが許される、そう思っている者もいるかもしれん。だが社会には法があり、規則がある。ケダモノでないのなら、そうした決まりを守るべきだ。そう思わんか?」
生徒達に問いが投げかけられる。真面目に黙って首を振る者もいれば、説教くさいと露骨に耳をふさぐ者もいる。その中で一人、あきらは自分が責められているようで居心地が悪かった。
「……無論、君達だけが悪くなったとは言わん。君等が周りに感化されて、良くない道に走ってしまうのを、私は危惧しているのだ」
そこまで聞いて、あきらは気付いた。
教授はじっと彼女を見ていた。思い返せば、今朝外で主人を呼び止めたのもこの教授だ。留学して以来問題を起こしていないあきらが、悪い仲間とつるんでいると思ったのだろう。呼び出されて言われるより波風は立たないだろうが、いらぬ心配をかけている事に彼女は少しばかり痛めた。
「何が言いたいかと言うとだ。友達はしっかり選べと……ん?」
老教授の訓戒は、半端な所で切れた。生徒全員が彼を見上げ、そして彼の視線を追う。
廊下に面した窓の向こう側で、ぴょこぴょこと先を揺らすとがったものがあった。その根元では大きな円盤と、さらにその下で黒い布きれをまとった何者かがじっと教室の様子を見ていた。
あきらは心の臓が、喉から飛び出そうだった。
覗いている男は最初視線に気づかず、教室全体に目を巡らせていた。その後あきらの顔を見つけ、お、とでも言いたげな表情を浮かべた。そしてようやく自分のいる場所に視線が集中しているのに気付いた。何事かと後ろを見るが、何もない事に首をひねる。
ふと気づき、彼は教室を見ながら自分を指差す。あきらを含む何人かの生徒が、それに頷いた。ようやく現状を理解したその男、主人は身を曲げてそそくさとその場を後にした。
「……さっきの不審者か」
教授が腹を立てながら教壇を降り、廊下に出た。そこへ、学校の用務員が息を切らせてやってくる。
「おお、これはいい所へ」
そこまで言った所で、教授は用務員の様子に驚いた。
中年の太ったその男は、顔も服も粉をまぶしたように白くなっていたのだ。血走った眼で、息を切らしながらその用務員は教授に尋ねる。
「どっちへ行きました?」
「あ、あっちです。とっ捕まえて、追い出してください」
「もちろんですよ先生。あの野郎、消火器をぶちまけて逃げやがったんだ!」
血の気の多いその用務員は、怒り狂って教授の指差す方向へ走り出した。
何事かとどよめく教室の中で、あきらのすぐ近くの席にメアリが座って尋ねる。
「何しに来たの、あの人?」
「さ、さあ……?」
あきらには嫌な予感しかしなかった。
「まいったまいった」
主人は早足で歩きながら、独り言をつぶやいた。
事の始まりは、彼が校舎に上がってすぐ目についた、赤い瓶のようなものを手にした事だった。何だろうといじった結果、噴き出した白い消火粉が辺りにばらまかれたのだった。
「あれはちょっと怖かったなぁ。驚いて、来た人に思いきり吹き付けてしまったし。流石に悪い事をした」
元より目立つ真似をする気はなく、騒ぎを起こすなど論外だった。授業中という事もあり、人けのない廊下を歩きながら主人はこそこそと歩いていた。そこへ、背後から声が飛ぶ。
「こぉら、不審者!そこで待ってろ!」
主人が振り返ると、廊下の向こう側から真っ白な顔の用務員が走ってくるのが見えた。見た顔だったので、主人の足が止まる。
「おお、先ほどの。いや、誠にすまな……!?」
そこまで言って、主人は気付いた。用務員の後ろに、さらに二、三人の顔がある。いずれも用務員と同じ作業着で、こちらに向かってきている。
「何だ何だ、悪い奴でもいたというのか?」
「お前だ、お前!」
そうがなり立てたのは、先頭に立つ用務員だった。元から荒い気性に加え、主人に消火粉をしこたまかけられたせいで彼の頭には血が上っていた。そして用務員という立場上、校内の不審者を見逃せてはおけなかった。
「ああー、話が……できないな、これは」
主人は相手に説得も言い訳も通じないと分かり、彼等から逃げ出した。ばっさばっさと手や足の動きで外套が大きくはためく。
「待てぇい、逃がさんぞ!」
木製の廊下をいくつもの靴が嵐のように踏み荒らし、怒涛のごとく主人に迫る。主人は背後から近づくその音から離れようと、必死で走る。
「は、走るだなんて、久しぶりだぞ!」
文句を叫び、突き当りを右に曲がって階段を登る。激しい運動などいつ以来かわからない主人はすぐに息が切れ、体が重くなった。
「ひい、ひい。ま、待って……」
懇願するように言って後ろを見るが、階段を駆け上がる用務員達には止まる様子がない。むしろ好機とばかりに勢いづき、主人との距離をみるみる詰めた。
「うひゃああぁ!」
間抜けな声を上げて再び階段を駆け上がる。追いすがる相手の一団は、階段を二段飛ばし、三段飛ばしで上がっていく。追いかけっこが始まった頃は教室二つ分はあった距離は、今や階段八つ分しか空いていない。追われる方が足を止めれば、一気に詰まる短さだ。
必死に逃げる主人の目に、一枚の扉が目に入った。目線の高さに設けられた扉の窓からは、明るい光が差している。
「しめた、外だ!」
帽子を押さえて、主人は扉へ駆け寄った。
「馬鹿め、そこは行き止まりだ!」
真っ白な用務員が勝ち誇るように言うが、主人は聞かず扉を開いた。開け放たれた戸の向こう側には、校舎の屋上の広い空間が広がっていた。長年の風雨で辺り一帯は黒くくすみ、石畳の隙間にたまった苔からは雑草が生えている。主人は遮二無二、転がるように外に飛び出した。
廊下の閉塞感から解放され息をつくのも束の間、主人は広いその場所を通って走る。遅れてやってきた用務員の一団が、追いつめたとばかりに歩調を落として主人を睨んだ。主人もそれに気づき、屋上の縁で立ち止まって息を整える。
「観念しな、もう行き場はないぜ?」
悪党のような台詞を吐く白い用務員。これに対し主人は息を落ち着けた後、呑気にこう言ってのけた。
「何を言っているんだ、いくらでもある」
そう言って、主人は両手を広げた。
その大学は決して高さのある校舎ではなかったが、校舎を囲むグラウンドや駐車場のおかげで、空を広く望む事が出来る。
「何を言ってるんだお前、空でも飛ぶ気か?」
白い用務員のジョークに、他の用務員達が大笑いした。
「……なるほど」
言うや否や、主人が屋上の縁の盛り上がった部分に足をかけた。そこにフェンスはなく、一歩でも足を踏み外せば彼は真っ逆さまに落ちてしまう。用務員達は先ほどの態度を一変させ、血相を変えた。
「おい、本気にするな。何言ってんのか分かってんのか?」
「もちろんだ。私は賢い子だと、何度も言われているからな」
自信満々に言って主人は下を見下ろした。主人の胸に今は不安はなく、根拠のない自信が満ちている。
「何か私、飛べる気がする!」
「おい馬鹿、やめろ!」
用務員達が止めるのも聞かず、主人は一気に屋上の床を蹴った。
体が持ち上がる浮遊感。主人はこの時まで、自分が飛べると信じて疑わなかった。
両足を伸ばし、その先が何にも触れない事に気付いた瞬間ふと思う。
『何で私、飛べると思ったんだ?』
疑問を持ったのも束の間、両足は彼を支える事が出来ず、彼の体は降下を始めた。
あきらは講義の間、落ち着かなくて仕方がなかった。主人が用務員に追われるのは見たが、すぐに教授が教室に戻ってきたので抜け出すタイミングを逃してしまった。その教授は戻って以来、口では何も言わないが講義中頻繁にあきらを見てくるので彼女は針のむしろにいる気分だった。
気まずい気分から逃避しようと、彼女が窓の外に目を向ける。何度もした行為で、それまでに目にした光景に大した変化はない。進展はないが、安心感のある外の光景。そこに、上から異物が降ってきた。
何だろう、と目を凝らし、分かった瞬間彼女は目を疑った。
真っ黒い外套を着た人間が、上からグラウンドへ落ちていく。彼女に心当たりは一人しかいない。その人物は手足をばたつかせ、頭を下にした格好で降下を続けていた。
このままでは潰れたトマトだ。あきらは反射的に立ち上がってしまった。今から窓を開けて手を伸ばしても、距離が大きくて絶対に届かない。彼女が固唾を呑んだその時、主人の真下で新たな変化が起こった。
最初は小さな光の点だった。それが円に変わると、一気に広がって穴へと変わる。空中に現れたその円の中には、穴と形容したように、別の景色が広がっていた。薄暗い、どこかの建物の中と思わしき場所だ。
主人の体が、その穴の中へ入る。落下の勢いのまま落ちる主人を呑みこむと、穴は一気にすぼまって点へと変わり消え失せた。
あっと言う間の出来事に、あきらは置いて行かれたように呆然とする他なかった。起こった事への理解が追い付かず、じっと外を見る。普段通りになった外の様子からは、異変の名残などみじんもない。
あきらが理解をあきらめ、すっきりしない気分で座り直す。そこでようやく、自分が教室中の視線を集めていたのに気付いた。その時彼女の感じた居辛さは、一層強いものになっていた。
「間一髪、ね」
指を前に向けたまま、リズはそう呟いた。
あきらの通う大学に到着した彼女が最初に目にしたのは、屋上から落ちる主人の姿だった。咄嗟に円を描き、移送の魔法を使った事で彼をより安全な場所へと送ったのだった。
「今度は何があったんですか?」
クーラーボックスの中で、ロジオンがリズに尋ねる。
「あなたの主人の投身自殺を止めたのよ」
「……何やってんですか、あの方は」
心底呆れたロジオンの声に、リズも渋い顔でうなづいた。
「まあ、これで一応ひと安心ね。あとはあいつを迎えに行けば」
「ですね。ありがとうございます。それで、どちらへお送りに?」
ロジオンからすれば当然の問いだ。しかし、これにリズは答えず、きょとんとした後顔を青くした。
「……どこにやったっけ?」
主人は目の前が真っ暗になった後、背中に激しい痛みを感じて息を詰まらせた。叩きつけられた衝撃で手足が思いきり跳ね、強かに打ち付けられる。頭を打たなかったのは、ほとんど軌跡と言ってよかった。ばがん、と大きな音が上がり、彼は大きく声を上げる。
「げぇふ、ごふっ……!痛いぞもう!」
主人は仰向けに倒れたまま、辺りを見回した。
そこは人けのない、薄暗い建物の中だった。ステンドグラス越しの陽光の他、光源は一切見られない。屋外に面していると見られる壁以外に仕切るものは何もない広い空間で、上には屋根がある。一つの壇と、そこから伸びる赤じゅうたんに仕切られた長椅子の列、ステンドグラスで描かれた聖母像から、主人はそこが教会の中である事に気付いた。長年人の出入りがないのか、辺りに埃が積もっているのが分かる。同時に、自分がいるのが木製の長椅子の上で、それが上から勢いよく乗った衝撃に耐えられず、砕けてしまった事も察した。
「これはまた……」
主人は起き上がらず、改めて辺りを見回す。よどんだ空気に不穏なものを感じ、彼はぽつりと呟いた。
「なんだか不愉快な場所だ」
何か月ぶりでしょうか、お久しぶりです。お待たせしました。
9話投稿以降、諸事情により、今まで「外に出なさい」の執筆は非常に遅れていました。
半年以上「小説家になろう」サイトものぞけず、放置していた事が後ろめたく思えた時期もあります。
それでもある日、読んでくれた人達に愛想を尽かされていても仕方ない、と思い意を決してマイページを開き、驚きました。
私の思っていた以上に拙作を多くの方が読んでくれていて、しかも面白いと言っていてくれた事をその時初めて知りました。
とてもうれしいと思いました。それと同時に、これ以上無責任ではいられないともわかりました。
この10話はその読んでくれた方、面白いと言ってくれた方、主人やロジオン達が好きだと思ってくれた方がいなければ書けませんでした。
お待たせした事をお詫びすると同時に、今日まで応援してくださった事にお礼を申し上げます。ありがとうございます。
まだ完結までは至っていませんので、よろしければこれからもご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。