008話 邪竜
翌朝。
朝靄の残るガイアの街門前で、アレフたちは身支度を整えていた。
「……よし、忘れ物はないな」
アレフの言葉に、ジェームスは無言で頷き、ライカは「はーいっ!」と元気よく返事をする。
三人は互いに視線を交わし合い、険しい山岳へと足を踏み出した。
街を離れると、石畳はすぐに土の街道へと変わり、小川を越え、木立の中を進む。
朝露に濡れた葉が陽を受けて輝き、鳥の鳴き声が遠くに響く。
だが、進むにつれて道は荒れ始め、森の影は深まり、やがて人影も途絶えていった。
山の麓に点在する村では、竜の噂を耳にする。
「この先はやめておけ……」
「黒き翼を持つ竜が、谷を越える姿を見た者がいる」
怯えた顔で語る村人たち。だが、その言葉の後に続くのは不可解な事実だった。
「だが……被害は一度も出ていないんだ」
「家も焼かれていないし、家畜も食われていない。ただ空を飛んでいるだけなんだ」
村人たちは困惑と恐怖を混ぜた声でそう告げた。
竜がいると知りながら生き延びている彼らの表情は、安堵と不気味さの狭間で揺れていた。
それでも、竜が生息する山へ入るのは死を意味すると誰もが口を揃える。
だが、アレフたちの足は止まらなかった。
街を離れて半日ほど。
道は次第に荒れ、森を抜け、標高が増すにつれて空気は薄くなっていく。
岩肌がごつごつと露出し、苔むした斜面を滑りそうになりながら進む。
山道は険しく、崖沿いの細い獣道を慎重に一歩一歩踏みしめる。
吹き抜ける風が松の木々をざわめかせ、遠雷のような響きを伴っていた。
そのとき――空が翳った。
巨大な影が尾根を越え、彼らの真上を横切る。
漆黒の鱗、紅蓮の双眸。翼を広げれば谷を覆い尽くし、そのうねる尾が岩場を薙ぐたび、大地が震えた。
「……あれが……邪竜」
アレフの唇がかすかに震える。
ジェームスは咄嗟に盾を構え、ライカは小さな悲鳴を飲み込んでアレフの背に隠れる。
「な、なにあれ……おっきい……!」
「ライカ、離れるな!」
「う、うんっ!」
邪竜の口からは熱気が溢れ、地面の草が焦げ付く。
唸り声は雷鳴のように山々に反響し、三人の鼓膜を打ち据えた。
アレフの背筋に冷たい汗が流れる。
――遭遇は運の良し悪しなどではなかった。
だが――竜は襲いかかってこない。
山風を巻き起こしながら、ただ彼らの頭上を旋回し、遠ざかっていく。
残されたのは耳を裂く咆哮と、石ころを叩き落とす突風だけ。
「……妙だな。獲物を前にして襲わない竜なんて、聞いたことがない」
ジェームスの低い声が、張り詰めた空気をさらに重くした。
アレフも同じ思いだった。
ただの通過なのか、それとも――。
緊張を残したまま、三人は山の奥、洞窟のあるとされる場所を目指して歩みを進めていった。
山岳の道を登り続けて三日。
険しい崖道や獣道を越え、ようやく目指す洞窟の位置が地図の示す範囲に近づいていた。
その間、彼らの視界に“それ”は幾度となく現れた。
漆黒の鱗を持つ巨大な竜。
太陽を覆い隠すような影を山肌に落とし、空を滑る姿を、アレフたちは何度も目撃していた。
「……やっぱり、見間違いじゃないな。あれは竜だ」
アレフが息を呑み、仲間たちも緊張を隠せない。
「でも……へん、だよ?」
ライカが小さな声で呟く。
「おっきなドラゴンさん、こーんなに飛んでるのに、ぜんぜん襲ってこないの」
その通りだった。
竜は何度も姿を現しているのに、全く襲って来る気配がない。
まるで、何かを探しているかのように、ただ空を旋回しているだけ。
「……普通じゃないな」
アレフが眉をひそめる。胸騒ぎを覚えながらも、三人は歩を進め、ついに山奥に口を開ける洞窟の前へと辿り着いた。
「っ……!」
全員の足が止まる。
巨大な影が地を揺らして降り立ち、鋭い黄金の瞳が彼らを射抜いた。
先ほどから何度も姿を見せていた“邪竜”が、洞窟の前で行く手を遮るように、堂々とその身を横たえていたのだ。
「やはり……ここで待ち伏せしていたか」
アレフは、腰に差した黒き魔剣――《暴食の魔剣グラトニー》に手をかける。
すると、その竜の瞳がわずかに見開かれた。
まるで“それ”を見つけてしまったかのように。
重苦しい沈黙が流れる。
竜は咆哮を放つでもなく、爪を振り下ろすでもなく、ただ鋭い視線をグラトニーへと注ぎ続けていた。
「……まさか」
アレフの胸に、得体の知れない予感が走る。
――竜は、ただの竜ではない。
そして、待ち構えていた理由も、敵意からではないのだと。
黒き竜はアレフたちをじっと見つめ、やがてふいに尻尾をぱたんと地面に叩きつけた。
「ひゃっ!?」
驚いたライカが思わず悲鳴を上げる。
アレフとジェームスの二人は彼女を守るように身構えた。
「待て、待つのじゃ……! 今のはわざとではない。妾に主たちと戦う意志なぞない!」
邪竜が慌てて弁明する様子に、アレフとジェームスは互いに視線を交わし、ゆっくりと構えを解いた。
「感謝する……勇敢な冒険者たちよ。まずは、妾の話を聞いてほしい」
豪快に響くのに、どこか気品のある声。
目の前の怪物と声色のギャップに、ライカは思わず瞬きをした。
「初めに……妾は邪竜ではない。誇り高き竜人族の姫……“シノ・レグナート”という。呪いをかけられたせいで、《魔竜》の姿のまま戻れなくなってしまったのじゃ」
翼をばさりと揺らしながら、苦虫を噛み潰したように打ち明ける。
「呪いを解く方法を探して各地を飛び回っておったら、知らぬ間に“邪竜”と呼ばれておった」
呆気に取られる一同をよそに、姫はさらに言葉を重ねる。
「いつの間にか追手まで差し向けられてしまって……ここまで逃げてきたのじゃ! そして今日、主のその腰の剣を見つけたのじゃ!」
巨大な瞳がアレフの腰の黒剣《暴食の魔剣グラトニー》に吸い寄せられる。
その瞬間――黒剣が淡く脈打ち、静かな声が響いた。
《確かに……やつには強力な呪いがかけられている》
アレフは反射的に柄を握る。
《――その呪い、喰うことは容易いが、どうする? 我が主よ》
剣の声は冷徹に、選択を突きつける。
竜の姿の姫は、ぱぁっと表情を輝かせた。
「や、やはり! その剣なら、妾の呪いを何とかできるのじゃな!? きゃっほー♪︎」
「え、えええ……ッ!?」
あまりの調子の軽さに、アレフもライカも同時に声を漏らす。
グラトニーの刃だけが、ひたすらに冷静に輝いていた。
次回タイトル:009話 竜姫 シノ




