005話 ハーフエルフの少女
――熱い。
焼けるような感覚と、重く沈む意識。
アレフは瞼を開いた瞬間、見慣れぬ夜空を見上げていた。そこは、もうダンジョン内部ではない。涼しい夜風が頬を撫で、さっきまでの灼熱が嘘のように引いていく。
「……目を覚まされましたか、アレフ様」
静かだが安堵を含んだ声。執事服の男――ジェームスが、焚き火の傍らで椅子に腰掛けていた。
背後には黒い刀身の魔剣グラトニーが突き立てられ、その刃からは薄く黒煙が揺らめいている。
「ここは……外か」
「ええ、私が運び出しました。ダンジョン・コアと化していた《憤怒の手甲》は……あなたの暴走の直前、グラトニー様が呪いごと“喰らい”ました」
ジェームスが顎で示すと、グラトニーが低く、冷静な声を響かせた。
《……喰ったのは呪いだ。だが残滓として、“黒炎”の力はお前に移った》
その瞬間、アレフの掌に走る熱。炎ではない、感情そのものが形を成したような黒い揺らぎが指先に灯った。
ぞくりと背筋が震える。――あれは、さっき自分を飲み込もうとした暴力の塊。
《……まだだ。完全には消えていない。憤怒は、形を変えてお前の内に潜む》
グラトニーの声は淡々としているのに、不思議と背筋に重みを与えた。
脳裏に、さっきの戦闘で聞こえた狂気の囁きが蘇る。
――壊せ。焼き尽くせ。全部だ。
その誘惑が、まだ奥底で微かにくすぶっている。
《……自覚はあるようだな》
低く、冷静な声が脳裏に響く。
《その手甲は、怒りを糧に力を増す。だが、お前はあまりにも感情の制御が甘い。次に飲まれれば、二度と戻れぬかも知れぬぞ》
言葉は静かだが、胸に重く突き刺さる。
アレフは深く息を吸い、わずかに震える手を握り締めた。
「……そん時は、またお前が呪力を喰らってくれるんだろ?」
《その必要はない……掌握するには、名を与えろ》
グラトニーの言葉に、アレフは眉をひそめる。
「名を……?」
《存在に名を刻むことは、“己のもの”と宣言すること。呪いすら従わせる、古き支配の術だ》
しばし黙考し、アレフは右手を見つめた。黒炎が、焚き火よりも妖しくゆらめいている。
これは呪いであり、同時に新たな武器だ。ならば――。
「……お前の名は――ラース。《憤怒の手甲》ラースだ」
その瞬間、黒炎がふっと収まり、手甲が脈打つように微かに光った。
胸の奥にあった暴走の衝動が、少しだけ静まる。代わりに、鋭い牙を秘めた獣のような気配が、自分の意志と並んで座しているのを感じた。
《……従う、我が主……》
耳の奥に、かすれた声が届く。それは怒りではなく、忠誠の響きだった。
ジェームスが立ち上がり、口元に微笑を浮かべる。
「やはり、教育的指導は大切ですな」
だが、アレフの腕に宿る《憤怒》は、微かに脈打ちながら、次の獲物を待ち望んでいるようだった。
アレフは苦笑し、夜空を見上げた。
――ラース。お前の炎、必ず使いこなしてみせる。
その誓いと共に、次なる試練の影が、静かに迫っていた。
ダンジョンの出口を背に、アレフは再び歩き出す。
***
王都に戻ったアレフとジェームスは、久方ぶりのギルドで討伐依頼を物色していた。
手頃な依頼票を手に取ったのはジェームスだった。
「……こちらはいかがでしょう、アレフ様。郊外の森に現れた《タックルボア》の討伐。駆け出しには少々荷が重いですが……今のアレフ様なら朝飯前ですな」
先日まで「F」ランクだったアレフは、マンティコアを倒した実績を認められ、「E」ランクに昇格していた。
ダンジョンに潜ることを許可された「E」ランクからは、一つ上のランクの依頼までなら受けることができる。
アレフは依頼票を受け取り、視線を落とす。“依頼難度:D”
普通なら危険度は高いが、今の彼には――黒炎がある。
(ラース……お前の力、試させてもらうぞ)
心の内で呼びかけると、左腕に装着された憤怒の手甲が微かに震えた。
そして腰の魔剣グラトニーが、冷静な声を響かせる。
《あまり深入りしすぎるな。憤怒は甘美だが、堕ちれば戻れん》
「分かってる」
短く答えると、二人は森へと向かった。
夕暮れ時、茂みを割って姿を現したのは一頭の巨猪だった。
全身を硬質な毛で覆い、額の二本の牙は獣というより凶器だ。
「来ますぞ、アレフ様!」
咆哮と共に、タックルボアが地面を蹴る。
アレフは一歩前に踏み出し、左腕を突き出した。
「黒炎――《ラースフレア》!」
憤怒の手甲から噴き出した黒い炎が、弾丸のように突進してくる巨猪を包み込む。
炎は肉を焼くというより、感情そのものを燃やし尽くすように獣を狂乱させ、勢いを失わせた。
最後にアレフが踏み込み、短剣で喉を貫く。
巨猪は呻き声と共に崩れ落ちた。
「ふふ……今晩の夕食は猪鍋で決まりですな! 薬味も完璧に揃えておりますぞ」
ジェームスが満足げに鼻を鳴らした。
夜営の支度を終え、焚き火の上では香ばしい香りが漂い始める。
鍋から立ちのぼる湯気と香りが、森の空気に溶け込む。
だが、その匂いは予期せぬ来客を呼び寄せた。
――ガサリ。
茂みの向こうで、葉が擦れる音。
反射的に黒炎の気配がアレフの腕へと集まる。憤怒の手甲——いや、“ラース”が、餌を前に唸る猛獣のように、心の奥でじりじりと熱を帯びていく。
「……誰だ?」
低く告げると、茂みから現れたのは——
ボロボロの外套をまとい、顔も手足も傷だらけの幼い少女。
金と銀の中間色の髪、尖った耳。けれどその耳は垂れ、体中に泥と擦り傷がこびりついている。
震える指先が、鍋から立ち上る香りにわずかに伸びた。
「……おなか……すいた……」
力ない声で呟き、少女はふらつきながらアレフたちの前に膝をつく。
ジェームスが驚きの表情を浮かべる。アレフは黒炎を静め、ゆっくりと腰を下ろした。
だがその視線の奥には、警戒と好奇が入り混じっていた。
《ほう……ハーフエルフとは、珍しいな》
グラトニーが何気に呟いた言葉に、森の冷気とは違う、ひやりとした空気が流れる。
ハーフエルフ——どちらの種族からも疎まれる存在。人間には異端とされ、エルフには血の穢れと忌避される。
それでも彼女の腹は正直だった。匂いに耐えきれず、数歩近づく。
アレフは小皿に猪肉と野菜を盛り、彼女に差し出した。
少女は一瞬迷ったが、やがて手を伸ばし——箸も使わず貪るように食べ始める。
……だが、その時、アレフは気づいた。
彼女の体から、かすかに感じる魔力の流れが不自然に淀んでいる。まるで鎖で縛られたかのように、奥底で燻っていた。
《呪われているな……それも、かなり上質な呪いだ。……恐らくは、エルフどもの仕業だろう。》
少女は俯き、食事の手を止めた。
「……魔力が怖いんだって……だから……閉じ込められた……」
その瞳は、諦めと怯えを湛えていた。
「……喰えるか?」
《ちょうど、我も腹を空かせていたところだ》
アレフは魔剣グラトニーを抜き、刃を彼女の額近くにかざす。黒い靄が立ち昇り、呪いの鎖が軋む音が脳内に響いた。
少女がびくりと震えるが、アレフは穏やかな声で囁いた。
「怖がるな。俺は——もう誰も、鎖には繋がせない」
次の瞬間、グラトニーが呪いを喰らい尽くした。
鎖は霧散し、少女の体から、溢れるような魔力の波が解き放たれる。
夜空に舞い上がるその気配は、彼女が生まれながらに持つ膨大な魔法の才を示していた。
少女は呆然と、自分の手を見つめる。
「……僕……魔力が……」
アレフは軽く頷き、焚き火越しに笑った。
「お前……名は?」
「……ライカ」
「ライカ……お前、捨てられたんだろ?なら、俺が拾ってやる——これからは、俺たちと来い」
ジェームスは肩を竦めながらも、穏やかに微笑んだ。
「では今晩は、三人分の鍋ということですな」
こうして、黒炎を手にしたばかりのアレフの旅に、新たな同行者が加わった。
だが、その少女の魔力が——後にアレフたちの運命を揺るがすことになるなど、この時はまだ誰も知らなかった。
次回タイトル:006話 魔導書を求めて




