004話 憤怒の手甲の眠るダンジョン 後編
ムカデの死骸を踏み越え、二人は奥の階段を下りていく。
熱気は次第に収まり、代わりに重い空気が満ちてきた。
壁や天井は溶岩の赤から、黒く光る鉱石に変わっていく。
《……この静けさは不自然だ》
グラトニーの声は低く、慎重だった。
《ここはもう、ダンジョンの“心臓”に近い》
やがて通路の先に、広大な円形の空間が広がった。
天井は高く、中央の祭壇には巨大なオーブ——その中に、人の腕を覆う異様な手甲が浮かんでいる。
手甲の表面には亀裂が走り、そこから赤黒い光が脈打つように漏れ出していた。
「……あれが、《憤怒の手甲》」
ジェームスの眼鏡越しの視線も、わずかに硬くなる。
床一面には焦げ跡と、無数の爪痕。
壁際には、石化した獣や人の残骸が並び、まるで何かに掴まれた瞬間、そのまま時間を止められたかのようだった。
《目を逸らすな、人間》
グラトニーが警告する。
《あれはただの神器ではない。ダンジョン・コアとして、怒りの感情を吸い上げ、この空間全てを維持している》
その言葉と同時に、オーブが鈍い音を立ててひび割れた。
中の手甲が、ゆっくりと宙に浮かび、無人のまま指を動かし始める。
赤黒い瘴気が床から溢れ、足元の影が揺らいだ。
影はやがて腕の形を成し、無数の拳となって二人を取り囲む。
「……教育的指導の時間ですな」
ジェームスはトレイを構え、足元の影を睨む。
《奴は感情を燃料にする。挑発すればするほど強くなるぞ》
グラトニーの冷たい忠告が響いた瞬間、空間全体が震え、影の拳が一斉に襲いかかってきた——。
拳の嵐が四方八方から迫る。
普通の武器なら一撃で弾き飛ばされるだろうが、ジェームスは銀のトレイを水平に構え、軽やかに身をひねってかわした。
「ほぅ……これはまるで、テニスのリターン練習ですな」
軽口を叩きながらも、視線は冷静に拳の動きだけを追っている。
《その調子だ、人間。怒りを誘発するな》
グラトニーの声はさらに低くなる。
《奴は挑発されるほど速度と威力を増す。だが感情を逆に“鎮める”と、動きが鈍り、コアが露出する》
アレフは一歩引き、拳の嵐の奥を見据える。
その中心、浮かぶ手甲の甲の部分に、赤い脈動が集まり始めていた。
「つまり……殴らせすぎてもダメってことか」
《そうだ。戦いながら、怒りを冷ます。無理難題だが、やれ》
次の瞬間、床から湧き上がった拳がアレフの背後を狙う。
ジェームスがすかさず踏み込み、フォークの先端で拳の影を突くと、煙のように消えた。
「教育的指導です!」
だが——その一言で、手甲の動きが一瞬だけ鋭さを増した。
グラトニーが即座に警告する。
《余計な挑発は避けろ!》
「……これは失敬」
アレフは深く息を吸い、魔剣を地面に突き立てた。
呪力が地面を走り、影の拳の動きが一瞬だけ鈍る。
「ジェームス、あいつの“呼吸”を乱せるか?」
「承知。少々お待ちを」
ジェームスは懐から香水瓶を取り出し、床に霧を散らす。
彼が独自に調合した、精神異常を鎮静化する香水だ。
「カーミング・フレグランス!!」
数種類の柔らかな花の香りが辺りに広がる。
赤黒い拳が動きを止め、わずかに揺らぐ。
《……効いている。怒りが削がれた》
グラトニーが冷静に告げる。
アレフはその隙を逃さず、魔剣を振り抜いた。
刃は空間ごと赤黒いオーラを裂き、手甲の表面の亀裂をさらに広げる。
だが、次の瞬間——空間全体に耳鳴りのような低音が響き、拳が数倍の大きさになった。
《クッ……!?見通しが甘かったか……逆にやつの怒りを更に誘発させてしまったようだ……》
苦虫を噛み潰したようにグラトニーが呟く。
《……憎い。壊せ。焼き尽くせ……》
耳に直接響く低い声。
アレフは思わず眉をひそめた。
「……今の、聞こえたか?」
「何も。ですが……坊っちゃん、顔色が悪いですぞ」
ジェームスの声が遠くなる。
次の瞬間、巨大な拳が振り下ろされ、床石が粉砕された。
二人は左右に飛び退く。
拳の一撃ごとに、アレフの中に妙な熱が広がっていく。
敵の挑発に、心拍数が上がる。
怒りが、思考を上書きしていく。
《もっと怒れ。怒りこそ力……!》
グラトニーの冷静な声が割り込む。
《抑えろ、人間。完全に飲まれれば、そのまま我も呑まれる》
「……くそッ、わかってる!」
しかし、敵の拳が地面を叩き割った瞬間、アレフの手から黒い炎が溢れ出した。
炎は意思を持つようにアレフの拳へと絡みつき、その熱で皮膚を容赦なく焦がす。
「ぐっ……あ、熱……!」
《あやつめ……アレフの怒りに同調して、《憤怒の手甲》の能力“怒りの黒炎”を発火させやがった》
「坊っちゃん! 」
ジェームスは銀のトレイを投げ、敵の拳の注意を一瞬逸らす。
同時に“武闘執事道”——
「教育的指導です!
幻夢ーーロイヤル・ティーブレイク!!」
幻覚作用のある、ジェームス特製のオリジナルブレンドティーの香気が空間を満たし、敵の動きがわずかに鈍る。
その隙にアレフは剣を構え直す。
敵の拳はガントレット本体から魔力で繋がっており、本体に攻撃を加えるには、怒りの黒炎を利用するしかない。
しかし、黒炎を使うほど、アレフの怒りも増幅される。
「……クソッ、こうなりゃ!この炎を逆に利用してやるッ!!」
アレフはあえて怒りを解放し、黒炎を纏わせる。
視界が赤く染まり、敵の拳を焼き切ると同時に祭壇を叩き割った。
祭壇が崩れると、《憤怒の手甲》はふわりと浮き上がり、勝手にアレフの腕へと吸い付いた。
鋭い痛みと共に、黒炎が脈打つ。
《契約は成された……》
「……勝った……のか……?」
《否。勝利と引き換えに、怒りは汝の血肉となった》
ジェームスが駆け寄るが、その時すでにアレフの目には赤い光が宿っていた。
手甲の表面にはひび割れたような赤い紋様が浮かび、まるで血管のように脈動していた。
「……これが、《憤怒の手甲》……」
アレフが手甲に触れた瞬間だった。
――殺せ、壊せ、奪え。
耳元に、低く濁った声が囁く。頭の奥が灼けるように熱くなり、視界の端が赤く染まっていく。
黒炎の触手のようなものがアレフの右腕に伸び、蛇のように絡みつく。
「……ッ!」
焼けつくような熱と共に、金属が肉に食い込み、骨まで震える感覚。
反射的に引き剥がそうとするが、逆に炎が爆ぜて腕を封じ込めた。
――もっと怒れ。もっと燃やせ。お前の敵は、すべて滅ぼせ。
次の瞬間、手甲は完全に彼の右腕に吸い付き、黒炎が一瞬だけ吹き上がる。
吹き荒れる炎は、近くの壁や床を黒く炭化させ、後方で身を守っていたジェームスにも熱風を浴びせた。
「……ッ、危ない!」
ジェームスが駆け寄ろうとするが、その前でアレフが膝をつく。
呼吸が荒く、額から滴る汗が床を打つ音だけが響く。
《我が呪力を喰らい尽くすまで堪えろ!》
グラトニーの必死の声も、彼には届かない。
赤黒い炎の揺らめきの中、アレフはわずかに口元を歪め、低く呟いた。
「……まだ……戦える……」
だが、その言葉の直後――視界が急速に暗転し、膝から崩れ落ちた。
床に倒れ込む音と同時に、黒炎はすっと消え、手甲だけが静かに脈動を続ける。
それは勝利の後に訪れたはずの安堵とは程遠く、むしろ新たな災厄の胎動を感じさせる光景だった。
次回タイトル:005話 ハーフエルフの少女




