003話 憤怒の手甲の眠るダンジョン 前編
森を抜けた二人は、少し離れた丘の上で足を止めた。
傾きかけた陽光が山脈の稜線を赤く染め、空気に冷たさを帯びさせていく。
「ふぅ……二日目にしてこれとは、先が思いやられますな」
ジェームスは銀の水筒から紅茶を注ぎ、アレフに差し出す。
「……ありがとう」
カップを受け取ったアレフの耳の奥に、魔剣の声が低く響いた。
《あの呪獣……わずかながら“憤怒”の残滓を纏っていた。次の神器が近い》
「憤怒の残滓……?」
思わず漏らした呟きに、ジェームスが不思議そうに眉を上げる。
「何か仰いましたか?」
「いや、気にするな」
二人は再び歩き出す。西の山脈はすぐそこまで迫り、赤黒い鉱脈のような筋を岩肌に浮かび上がらせていた。吹き抜ける風が冷たさと共に、大地の奥から低い振動を伝えてくる。
《感じるか、人間。この鼓動——憤怒の器が呼んでいる》
グラトニーの声には、いつになく熱が宿っていた。
夜営を終えた翌日の昼過ぎ。
二人はついに山腹に口を開ける巨大な洞窟へ辿り着く。
歪んだ獣の顎のような入口からは、生温い風と共に低い唸りが漏れ出していた。
「……ここが《憤怒の手甲》の眠るダンジョンですな」
ジェームスは眼鏡の奥で鋭い光を宿す。
「気を引き締めろ。これまでの敵とは格が違う」
《その通りだ。中には、怒りに呑まれ自らを喰らい尽くした怪物がいる》
アレフは魔剣の柄を軽く握り、口元に笑みを浮かべる。
「上等だ。次の“教育的指導”の教材には、もってこいだな」
暗い洞窟が、二人を呑み込んでいった——。
洞窟内は湿った熱気に満ち、赤黒い鉱石が壁一面で脈打つように鼓動している。
足元の砂利は熱を帯び、踏み込むたびにじりじりと熱気を放った。
「……重苦しい空気ですな」
ジェームスが眼鏡を押し上げたその時、奥の闇から唸り声が響く。赤い炎のような瞳が三つ、浮かび上がった。
現れたのは三体の怪物。人間ほどの大きさだが、岩と赤熱した筋肉に覆われ、腕は異様に長い。洞窟の壁を蹴り、蜘蛛のように疾走してくる。
《岩魔猿だ。怒りを糧に肉体を膨張させる。頭部の黒鉱を砕け》
冷静な指示がアレフの脳裏に落ちる。
「了解だ」
先頭の一体が飛びかかる刹那、ジェームスが踏み込み、フォークを逆手に構える。
「教育的指導です! レッスン2——刺突!」
鋭い突きが肩を抉り、怪物の動きを鈍らせた。
「アレフ様!」
合図に応え、アレフが魔剣を振り下ろす。刃が黒鉱を砕くと、怒りの熱は霧散した。
残り二体が横から迫る。ジェームスは銀のトレイに闘気を纏わせると、身を翻して受け流す。
「鉄壁!」
衝撃を滑らせ、間合いを保つ。だが一体は壁を蹴って頭上から襲いかかる。
ジェームスは迷わず懐に潜り込み、ナイフを閃かせた。
「最終レッスン——連激!!」
フォークとナイフが嵐のように舞い、関節と腱を正確に切り裂く。
動きを奪われたところへ、アレフが冷徹に一閃。
《右だ。首の下、黒鉱の芯を断て》
刃が走り、怪物は沈黙した。
残る一体は奥へ逃れようとするが、ジェームスが追いつき、静かな一撃で仕留める。
「第一層でこの強さ……奥はさらに厳しいでしょうな」
「いいじゃないか。手甲を手に入れる頃には、もっと強くなれる」
《油断するな。真の“憤怒”は、まだ目覚めていない》
洞窟の奥から、再び地鳴りのような鼓動が響いた——。
進むごとに蒸し暑さは増し、第二層に入った瞬間、洞窟は灼熱の炉と化した。
地面には裂け目が走り、赤いマグマが時折吹き上がる。
熱気で視界が揺らぎ、金属を擦るような不快な音が遠くで反響していた。
「アレフ様……どうやら試練を与える趣向のようですな」
低く呟くジェームスの前に、岩が崩れ落ちる。
その影から、黒曜石の外殻を纏った巨大ムカデが姿を現した。
身体は洞窟の天井に沿い、節ごとに赤い光が脈打つ。
《“ラーヴァ・セントピード”……単独撃破は危険だ》
グラトニーの声は冷静だった。
《甲殻は正面からは斬れん。だが高熱で脆くなる——地形を使え》
「なるほど……」
ジェームスが周囲を見渡し、口角を上げる。
「アレフ様、今回は教材を変えましょう!」
銀のトレイを逆手に持ち、マグマの裂け目へと誘うように駆ける。
ムカデは天井を這い、赤熱した顎を鳴らして迫る。
「クリーニング編ーー風塵!」
羽ぼうきが振るわれ、鉱粉が舞い上がって視界を覆った。
苛立ったムカデが動きを荒げ、節の一部が裂け目の熱に触れる。
《今だ、その節を断て》
アレフは躊躇なく飛び込み、魔剣を叩きつけた。
弱った節が裂け、巨体は半身を裂け目に落とす。
だが残った前半身が怒り狂い、顎を大きく開いて突進。
ジェームスは即座に小瓶を投げ放つ。
「武闘執事道“補助編”ーーーデンジャラス・スパイス!!」
瓶が砕け、刺激臭と白煙が噴き出した。
ムカデは錯乱し天井に激突、瓦礫が降り注ぐ。
その隙を逃さず、アレフが踏み込み、魔剣を頭部へ突き立てた。
黒曜石の外殻が砕け、熱を帯びた体液が地面に滴り落ちる。
静寂を取り戻した洞窟に、魔剣の声が響いた。
《……これで進路は開けた。奥で奴が待っている——憤怒の手甲だ》
ジェームスは背筋を正し、服の埃を払って微笑む。
「良い教材でしたな。次は本命……全力で参りましょう」
次回タイトル:004話 憤怒の手甲の眠るダンジョン 後編




