011話 魔導神書グリモワール
薄暗い広間の中央に、禍々しい気配を纏った一冊の書。
黒革の装丁は深淵を切り取ったかのように光を吸い込み、その表面には古代の呪文が蠢くように刻まれている。
それこそ、このダンジョンの最奥に封じられていた伝説の魔導書――《魔導神書》。
その周囲を覆うのは、粘液の塊。
脈動を繰り返す異形は、炎を噴き、水を渦巻かせ、岩を砕き、雷を奔らせる。
ありとあらゆる属性を内包し、周囲の魔力を貪欲に吸収する存在――《エレメント・スライム》が、呼吸をするように膨張と収縮を続けていた。
『注意しろ。物理は通じぬ。あれは魔導そのものから生まれた魔物。半端な刃では形すら揺るがせん』
相棒の魔剣が冷ややかに告げ、その声がアレフの脳裏を震わせる。
「待たせたな《ラース》……お前の力を存分に解放しろ!」
アレフは左手の憤怒の手甲を握りしめる。漆黒の金属が感情に呼応し、黒々と燃え上がった炎が魔剣の刃を覆った。灼ける匂いが広間の湿った空気と混じり合い、熱気が決意を後押しする。
『ラース。こやつは魔力そのものの器。呪力は皆無。私では喰えん。だが――お前の炎なら、道を切り開ける』
グラトニーの冷静な声が脳裏を響く。
「そういうことだ。遠慮なく、燃やし尽くしてやれ!」
黒炎が爆ぜ、グラトニーの刀身は獰猛な咆哮を上げるかのように揺らめいた。
「――黒炎斬ッ!」
振り下ろされた刃から迸る黒炎がスライムを裂き、粘体を灼き焦がす。
だが、焼け爛れた箇所は即座に魔導書から魔力を吸い上げ、目に見える速度で再生していく。
「ちっ、再生が早い……!」
苛立ちを覗かせるアレフ。その背後で紅の気配が噴き上がる。
シノの小柄な身体を、まるで竜が顕現したかのような竜気が包み込んだ。
彼女の髪が逆立ち、瞳が金に染まる。
「フフッ、今度は妾の炎を喰らうがいいっ!!」
シノが一歩前へと踏み出す。
彼女の全身から迸る竜気が、空気を震わ、背後には幻影めいた竜翼が広がった。
竜気は空間を押し潰すような圧を帯び、ダンジョンの壁を軋ませる。
「竜炎よ――我が喉奥より奔流となれッ!!
ーー竜爆炎ッ!!」
轟音とともに、竜姫の吐息は業火へと変わる。
紅蓮の奔流がスライムを呑み込み、内部をも灼き尽くす。粘液は沸騰し、悲鳴めいた震動を上げた。
――だが
「――あぁぁぁぁ……!」
床下から噴き上がる新たな粘液。焼け残りが魔導書に呼応し、無数の触手となって四方八方から襲い掛かってきた。
粘液の触手が天井や壁から叩きつけるように振り下ろされ、床を砕く連撃が仲間を襲う。
一撃一撃が鉄塊を叩き潰すかのような衝撃。
「お嬢様方に触れさせるわけには参りません。」
優雅な声音と共に、一歩進み出るジェームス。
手にした銀のナイフとフォークは、舞踏のような連撃で触手を切り裂いていく。
「武闘執事道――テーブルマナー編。最終レッスン!
《連激ーメイン・ディッシュ》!!」
銀色の旋風が広間を駆け、触手を千切っていく。
ジェームスの舞う姿はまさしく貴族の晩餐を彩る舞踏。だが優雅さとは裏腹に、その一撃ごとが肉を裂く死の連撃だった。
だが、再生の連鎖は止まらず、やがて巨大な槍のような触手が仲間を貫かんと迫る。
「きゃあっ……!」
ライカが押し潰されかけた瞬間――
「エレガント・レシーブ!」
銀のトレイが火花を散らし、ジェームスが庇う。衝撃に体勢を崩しながらも、彼は幼い少女を守り抜いた。
《ハーフエルフの娘! 魔導書に触れろ! 奴の源はそこだ!》
その隙を逃さず、グラトニーが吠える。
「え、えっと……っ、こ、これに触ればいいの!?」
幼い手が魔導書に伸びる。
次の瞬間、魔導書の頁が禍々しく光り、ライカの体から魔力を吸い取り始めた。
魂を抉るかのような吸収が始まり、声が脳裏を響かせた。
『我は始まりの魔の奇跡ーー魔導神書。我を満たせ。さすれば、汝を認めよう』
ライカの脳裏に魔導書の声が響く。
「きゃああっ……! ま、魔力が……熱い、痛い……!」
「ライカっ!」
膝を折り、涙を浮かべるライカに仲間が駆け寄ろうとする。
だが――グラトニーが冷たく告げた。
《止めるな。試されているのだ。……あの幼子の器を、信じよ》
アレフは歯を食いしばり踏みとどまった。
ライカは必死に涙目で叫ぶ。
「……っ、大丈夫……! 負けない……! 僕は、みんなの役に立つんだからぁぁぁっ!」
幼い叫びが、眠れる血脈を呼び覚ます。
吸われる魔力が光の奔流へと変わり、意志と心を混じえた輝きが器を満たす。
やがて、魔導書の頁がひとりでに閉じ、光が静まった。
同時に、スライムの触手が一斉に痙攣し、崩壊を始める。
巨体は泥となり、蒸気と焦げ臭さを残して溶け落ちた。
静寂が訪れる。
ライカはその場に崩れ落ちたが、腕には魔導神書が抱かれていた。
「えへへ……やったよ……僕……」
ライカはへたり込みながら小さく笑った。
疲れ切った顔に浮かぶ無邪気な笑み。その幼さに宿る決意が眩しい。
「……ああ、よくやったな」
アレフが微笑み、安堵と誇らしさを滲ませる。
「うむ。幼きながら、なかなかの胆力よ」
シノは腕を組み、誇らしげに鼻を鳴らした。
「お見事でございます、ライカ様」
ジェームスは深々と一礼し、心からの敬意を示した。
光を帯びた魔導神書を抱くその姿は――仲間たちに、新たな希望と揺るぎない絆を刻み込んでいた。
次回タイトル:012話 冒険者試験




