悪魔の少女
いつも通りの生命力のあふれる朝日がそこいらに降り注いで、
草木も起きて、元気よく日を吸収している。
そんな中をいつも通り自転車で突っ切って通学する。
いつものように自転車を止め、いつものように教室に入る。
でも今日はなんだか教室の雰囲気がいつもとは違うような気がする。
クラスのみんなが私を恐る恐る見ている気がする。
わたしにばれないようにチラリとわたしの顔を窺って、
すぐそらして近くのグループで何かひそひそ話しているような感じ。
色んな人と一瞬目があう。おはよーと声をかけたらいつも通りおはようって返してくれるけど、なんだかいつもよりぎこちない気がする。
昨日よく眠れなかったから被害妄想的なのが働いているのだろうか。
「ちょっとちょっと」とわたしに小声で声をかけたのは莉緒だった。
莉緒に催促されて廊下にでる。窓の外からは時間ギリギリまで朝練をするサッカー部がグラウンドを駆けているのが見える。
「なんかちょっと噂になってるんだけどさあ」と莉緒が言った瞬間何か不吉な予感がして体が震えた。
「なんなの。噂って」
「昨日空き教室で花梨とキスしてたって本当?」
どうしてバレた?私はどう思われるんだろう?わたしは軽くパニックになった。
とりあえず弁解することにした。
「そんなことしてないよ!てかするわけないよ!する理由がないよ!見間違いだよ!」
「いや、ほんとただの噂なだけで誰も見たって人はいないんだけどね。」
「そ、そうだよね。ただの噂だよ」
「わたしは初めからそう思ってたよ。」
「あ、ありがとう。」
莉緒は私のほうへ向き直った。なぜか怪訝な感じで眉をひそめている。
「でも否定するの必死すぎない?なんか怪しいなー。」
しくじった。焦るとどうしてこう墓穴を掘るんだろう。
「ごめん。誰にも言わないで!」
「え?」と莉緒は驚きの表情で私を見つめる。
「え?」互いに顔を見合わせた。
「冗談のつもりだったんだけど…まじ?」
わたしはなにも言い返せなかった。
ただ、掘った墓穴の中へでもいいから隠れたい。そんなことを思っていた。
チャイムが鳴ってホームルームが始まる。
そしてすぐ一時間目の英語の時間になった。もちろん授業なんて頭に入ってこない。
一体クラスのみんなに私はどう見られているんだろう。私は花梨に彼氏をとられた。
悠斗とは別れて花梨とは絶交した。それはクラスのみんなが知っている。
刺激的なゴシップはすぐ退屈な日常を送る2年D組の間を駆け抜けて、
他クラスでも知っている人は結構いる。
花梨は一際クラスから浮き上がり、
わたしは被害者だから同情してもらえることが多かった。
しかし内内その花梨と私が女同士で空き教室で
キスをしていたなんてどういう風に映るのか、入り組んでいて全く想像がつかない。
しかしろくなことは起きないということだけは確信している。
わたしは机に両肘をついて頭を抱えた。そもそもなんでバレたのだろうか。
少なくともわたしは誰かが教室を通る足音などは聞いてない。
そして誰も見た人はいないらしいとのこと。
その時ふと刹那的な光が思考の間に通った。そうだ。見た人はいない。
そうなるとした人しかいない。わたしと花梨。
だったらこの噂を広めた元凶は花梨ではないか。
わたしはほとんど確信をもってそう思った。
わたしは針の筵のような教室の空気をじっとやり過ごして放課後を待った。
そして放課後、わたしは一目散に花梨のもとへ向かった。
すでにスクールバッグを持って帰ろうとする花梨の腕を掴んだ。「ちょっと来てよ」
しかし花梨は引っ張っても動かない。
花梨は目を細めて妖しげな笑みを浮かべている。
「そのことならここで聞いてあげるよ。みんなも聞きたそうだし。」
花梨の目線はわたしより少し後方にある。
振り返るとクラスのみんなはおのおの帰る準備や
いつも通りの談話をしながらも恐る恐るわたしたちのほうに注意を向けている。
橘由香がついに動き出した!あの噂は本当か?って息をのんで見ている。
「こんなところじゃ話せないよ」
「話せないことでもしたのかな?」
白々しくそんなことを言って、こいつの目的は何なのだろうか。
「花梨、最近おかしいよ。私を悩ませることばっかりしてさ。」
オブラートに包んだつもりだったが失敗したようで
クラスが一段と静かになって私たちの会話に注意を向けたのがわかった。
「ごめんね。どうしても由香ちゃんの気を引きたかったの」
そう言ってすっと立ちあがって猫が平均台を移動するみたいに
慎重だがすらりと滞りない歩みで教室の後ろで飼っているカメが飼育されている水槽までやってきた。わたしもそれに後からついてくる。
クラスが聞いている中言うのは憚られるがもう後には引けない。
私は踏み込むことにした。
「前は笑われたけど、やっぱり花梨のやってきたことを考えると花梨はわたしのことが好きなんだよ。」
「好きじゃないよ。」
「好きが何かわかんないって言ってたよね。なのに好きじゃないってことはわかるの?」
花梨はこちらを振り返った。彼女は眉をひそめていた。目線を斜め上に向けて何か考えているような顔をしている。
わたしは初めて花梨に反撃することができて少し得意な気分になった。
しかしすぐに花梨は写真に収める時のようなつくり笑顔を浮かべた。
「馬鹿らしくてまっすぐな由香ちゃんはすごく可愛い。」
花梨は一歩一歩とわたしのほうに歩んでくる。
こうやって正常な会話の距離感を物理的にも比喩的な意味でも乱してくる。
わたしはいつも後ずさって花梨が思った通りに動かされてしまうが、
今日はそれではいけない。わたしは意思を強く持ってその場に立ち止まった。
花梨は触れているのと同じくらい花梨の気のようなものを感じるほどに近づいて止まった。
「でもわたしは嫌いだよ。由香ちゃん。見てるだけでなぜか腹の底が煮えたぎる感じがする。だからあなたを傷つけたいの。」
そんなことをなぜか甘えたような声で言う。
この苦しい状況を忘れるために花梨を抱きしめたい衝動に駆られる。
苦しい状況をつくった元凶だというのに。
もし抱きしめたら花梨は多分優しく頭を撫でてくれる。私をもっと支配下に置くために。そしてわたしをもっと傷つけるために。
わたしは息を吐いて心を落ち着ける。これは戦いだ。気を確かに持たなければいけない。
「わたしも花梨がすごくすごく嫌いだった。でもそれはね、花梨が好きだったから一層嫌いになったんだと思う。好きだった花梨にあんなことされて、苦しくて、嫌いで仕方ない。花梨はどうなの?」
花梨の瞼がピクピクと動く。長いまつ毛が連動して動くからよくわかる。
花梨は口をつぐんだままだ。
「わたし思ったんだけど、水族館で花梨に男だったら付き合いたいって言った後から花梨すこし変わっちゃったと思うんだけど。」
クラスはいつの間にか静まり返っている。わたしたちに全員が集中している。
花梨は顔を窓のほうにむけて言った。
「違うよ。あれは私が馬鹿だっただけで由香ちゃんは関係ないよ」
窓の外のどこか遠くを見る花梨はどこか寂しそうだ。
「関係なくないよ。ちゃんと教えてよ」
「なんのために?」
「ちゃんと理解しあったら友達に戻れるかもしれないじゃん」
「由香ちゃんはこんな私と友達に戻りたいの?」
わたしは花梨のほうへ歩み寄って抱きしめた。
「戻りたいよ。花梨のこと好きだから。」
そう言ったら、花梨の体が一瞬ガクッと腰が抜けたかのように下がりかけた。
「わたしは悠斗君を奪ったんだよ」
「そうだね。でもね。わたしね、悠斗を盗られたことよりもそれで花梨とはもう友達でいられなくなることがもっと辛かった。」
花梨は小さくも確かなぬくもりと安堵したくなる柔らかさを持っている。
わたしは花梨の頭から背中までその長く滑らかな髪の毛にそって撫でた。
花梨は「ありがとうそんなふうに私のことを思ってくれてたんだね」と呟いた。
花梨の声は花梨の頭からくっついたわたしの頭へ直接響いたような心地がした。
そうしてしばらくして花梨から離れようと思った刹那、
花梨の体温から離れて精神的な寒さを感じる刹那、
花梨は確かにこう言った。
「でもね。生憎わたしは由香ちゃんを友達だと思ったことは一度もないよ。」
わたしは驚いて花梨から離れた。花梨を正面から見た。
花梨は唇を薄く伸ばして笑っていた。
わたしは得も言われぬ恐怖に襲われて花梨の目は見ることができなかった。
「私だけだったの?花梨は私のこと好きじゃなかったの?」
「好きとかくだらない。全部間違ってるから。」
こんな強い語気の花梨は初めてだ。
「じゃあなんで水族館では好きって言ってって言ったの?」
花梨は口ごもった。
「あの時花梨を寂しい思いさせちゃったよね。それを怒ってるの?」
「わかったような口ぶりはやめて。うざいから。あれらはね。全部由香ちゃんを傷つけるための布石だよ。全部演技。」
「水族館でのことも全部演技なの?私にとっては大切な思い出なのに。」
「そうだよ。」私は底から悲しみが湧いてきて、涙がこぼれた。花梨はなぜか愛おしそうに私を見つめて笑みを浮かべている。
「今の由香ちゃんすごく可愛いよ。やっと見たかった顔が見れた。悠斗を盗っても全然動揺しないんだもん。蔑みと諦めみたいな感じでさ。」
私は悲しみと恐怖が入り混じってその場にへたり込んでしまった。
「怖いよ。気持ち悪いよ。何言ってるのか全然わからない。」
彼女は私の前にかがんで手を私の顎に乗せて私の顔をぐっと上向かせた。
花梨と否応なく向かい合う、なぜか彼女はきめ細やかな頬を紅潮させている。
肌が白いから余計に際立つ。
「ねえ。キスしてもいいよね。そんな可愛い顔見せられたら我慢できないよ。」
涙で目の前がにじんできたが花梨の顔が近づくのがわかる。
わたしは抵抗する気力がない。しても意味はない。
結局全部花梨のなんだかわからない思惑通りになる。
花梨の少し荒い吐息を感じるくらい接近したところでなぜか静寂に包まれた教室にシャッターを切る音がかすかに聞こえた。
それと同時にわたしの体は背後から何かに抱かれてぐっと後ずさった。
「や、やめて…」
ふみかがわたしを花梨から引き離した。
教室のみんなの視線はそことシャッターを切った主のほうへと二分されていた。
そのシャッターを切った主はなぜか悠斗であった。
花梨は立ち上がり、由香とふみかを横切り悠斗のほうへ向かう。
そして彼からスマホを取り上げた。
アザレアの模様で彩らせたそのスマホは花梨のものであった。
「シャッター音でバレちゃうんだから普通動画で撮るよね。馬鹿じゃないの?」
由香が知っている花梨とは全く違う冷え冷えとした声色と口調だっだ。
花梨はそれを確認する。
「キスするところを撮れって言ったのに、ふみかの背中じゃんこれじゃあ。」
「ごめん」
悠斗は飼い主に怒られた犬のようにしょぼくれている。
「今日で契約は打ち切りだね」
と花梨が言うと悠斗は泣きそうなように顔を歪めて言った。
「そんなあ!次はバレないようにちゃんとやるから!」
花梨は顔を泣いている由香とそれをなだめているふみかのほうに向けて顎だけを動かして悠斗にあれを見ろと催促した。
「次なんてないんだけど。見たらわかるよね。」
そう言うとなぜか花梨はおもむろに学校指定のソックスを両方脱いだ。
そして悠斗の顔に叩きつけた。靴下はぺたりと地面に落ちる。
「はい。最後の報酬。ちゃんと拾いな」
そうやって花梨は素足に直接上履きを履いて颯爽と自分の席に向かい、
机にかかっているバッグを持った。
悠斗は花梨の靴下を飛び散った宝物を集めるように必死に拾い集める。
クラスは今起こっている状況がまるで理解できず、
ただ時が止まったように硬直してそれぞれがそれぞれの方法で思考を整理していた。
そんな中花梨は悠然と歩いて教室から去ってゆく。
残された者たちは少しずつ顔を見合わせ、この混沌を把握しようと努める。
しかし誰もそれを把握できるものはいなかった。
由香にも、もしかしたら花梨にもそれはわからないのかもしれない。
午後10時33分花梨宅。
彼女は姿見の前に立っていた。
姿見に映る花梨は眉が下がり、唇は何か決して見つからない言葉を探すように震えていた。彼女は顔を俯かせた。
これでいいんだ。私は私のやるべきことをやったんだから。と花梨は思った。
由香ちゃんに私を好いてもらうことなんてできない。
私にはこれしかできない。
もう一度顔を上げた時、姿見に映る彼女は
彼女の顔は眉がキリっと上がり、力強い焦点でものを見る凛とした表情になっていた。