小悪魔のキス
最近は花梨のちぐはぐな言葉と行動の意味をずっと考えていた。
そのために花梨と友達だったころの記憶を辿っている。
その時、ふとあることが思い至った。
花梨は自分のことを、特に過去はあまり話さない。
どこの中学か、どんな友達がいたか、何も知らない。
ただ、花梨の過去は噂によって教室をたまに漂っていた。
しかしどれもあまりいい噂ではない。私はそれを連日辿っていた。
そしてようやく噂の発信源っぽい子にたどり着いた。
今は体育の時間、バトミントンをしていて、そこいらで体育館シューズがキュッキュと音を立てて、羽根を打ち返す軽く底の抜けた音がする。
彼女は今しがた試合を終えて荒い息をして座っていた。
私は彼女の隣に腰を降ろした。
「柚木さん。バトミントンうまいね。志保に勝つなんてすごいよ。」
彼女は狩りを終えた肉食獣みたいに呼吸を整えていたけれど、
私に気づいた彼女はふと人間の社交的な顔に戻った。
「テニスやってるからかな。ずっとバトミントンだけは自信あるんだよね。でも宮崎にはやっぱ勝てないね。なんでバスケ部ってなんでも運動できるんだろう?」
「わかる!なぜかみんな走るの速いしなんでだろうね。」
ネットを挟んで向こう側で花梨が手前に落とされた羽根を
追いかけようとする素振りだけを見せて一歩踏み込んだけれど
すぐに諦めて見送った。
「花梨は体力ないね。帰宅部だからかな。」
「違うよ。あの子頑張るのが嫌いなんだよ。きっと。中学の頃もバレーボール部すぐやめてたし。」
私は驚いて柚木さんのほうを向いた。
「中学一緒なの?」
「そうだよ。」
「花梨って中学の頃どんな感じだった?なんかヤバかったって聞くけど。」
「いやいや、むしろ大人しい子だったよ。」
「じゃあなんでそんな噂があるんだろう。」
彼女は私のほうに身を寄せて声を落とした。
「これさ、誰にも言わないでほしいんだけど、実は一回事件みたいなことがあったんだよね。」
「そんなこと私に話していいの?」
「むしろ橘(由香)さんには聞いてほしいことなんだけどさ。花梨ってさ。朱里っていう女の子とすごく仲が良くてさ。いつもその子とばっかり一緒にいたんだよね。多分お互いに信頼し合ってたと思うんだ。」
「うん。」
「だからその子は花梨に恋愛の相談もしてたらしいんだけどね、その子が好きな男子に告白するっていうタイミングで花梨が先に告白してさあ。なんとその二人が付き合っちゃったんだよね。」
「それって…」
言葉は出なかった。私の意識は若干後方に退却して世界と隔たりができた。
「橘(由香)さんの状況と似てるよね。」
「そうだね。その後どうなったの?」
「もちろん大喧嘩になったよ。相手の子、ものすごい大声をあげて怒ってたなあ。」
「花梨はどうだった?」
「それが花梨のほうが怖くてさ。なんか時折楽しそうに笑ってたんだよね。ヤバくない?」
「それは、すごい状況だね。じゃあ花梨はその男子とも仲が良くて内心その子に盗られちゃうとか思ってたのかな。」
「うーん。2人はほとんど面識がなかったはずだけどな。」
これも私の状況と酷似している。花梨と悠斗はほとんど面識がない。
「じゃあなんでそんなことしたんだと思う?」
「人の好きな男を好きになる性癖とかじゃない?」
「それは違うよ。」
「そんなこと言われましても。」
「じゃあさ、その子と喧嘩している時花梨はどんなことを言ってた?」
彼女は腕を組んで体をそらした。多分自身の記憶を遡っている。
「そうだ。あなたの敵になれて嬉しいみたいなこと言ってた。」
「なんで敵になれて嬉しいの?」
「敵に興奮する性癖とか?」
「それは違うよ。」
「そんなこと言われても、私にはわかんないよ!ってか橘さんもわかんないでしょ。」
「うん。わかんないな」
今回も私の敵になれて花梨は嬉しかったのだろうか。
花梨の謎を解明するつもりが余計に謎を増やしてしまった。
そして彼女は絶対誰にも言わないでと言いながら
色んな人にこれを言っているんだろうと思った。
だから事象は広まらず、花梨がヤバいという噂だけが灰汁みたいに吹き出ているんだろう。
私は日がな、そのことについて考えていて、気づいたら放課後になっていた。
これはあまりとりたくない手段だけど仕方がない。私は悠斗を呼び出した。
「話ってなんだよ」
悠斗は警戒をしているのかすこし語気が強い。
「花梨とどうして付き合ったのか。改めて聞く必要ができたの。教えてよ」
「そんなこと聞いてどうすんだよ。もう関係ないだろ。」
「いいから教えて。どういう経緯で花梨と急に付き合うことになったの。」
彼はハッと驚いたような顔をした。
彼は陰影のないシンプルな顔をしているので、
表情の違いで他人にすぐ感情がばれる。
「もしかして、まだ俺のことが好きなのか?」
わたしは怒りがふつふつと湧いて出たが腹に手をあてて落ち着けた。
お前に告白されたから付き合ったけどお前が好きだった瞬間なんてねーよ!
って言ってやりたいけど今は話を横道にそらしている場合じゃない。
「そうじゃなくて。花梨みたいな子があんたと付き合うってよく考えたらすごい釣り合ってないし、なんか変だなって思ったの。」
「釣り合ってるよ!俺運動神経いいし」
それがどう釣り合っているんだ。こいつの脳天気さにはあきれる。
わたしはため息を吐いた。
「じゃあそれでいいからどういう経緯で付き合うことになったの。繋がりはなかったはずだよね」
「それは…」
といって視線を下に落としてもごもごし始めた。
「接点は何?」
「だって…」
何か言い難いことでもあるのか。いずれにしても彼は嘘をつくのは下手だ。
だからこういう時口をもごもごと動かして言葉を探すけれど、
何も意味のある言葉を発さない。
「まさかなんの繋がりもなかったけどいきなり告白したら成就した、なんて言わないでよ。」
「ごめん。」
「なにが?」
「言えない。」
「なんで?」
彼は口ごもった。こいつは嘘がつけないからこいつから聞けると思っていたのだが、急に暗礁に乗り上げた。
拒絶で対応してくるとは思わなかった。
「なんで言えないの?」
「ごめん」
「言えよ」
「ごめん」
わたしは悠斗のほうにつよく踏み込んだ。
「なんで言えない?」
彼は何も言わなかったが、その代わりに私の真後ろから猫が甘えるような鼓膜にまとわりつく声が返事をした。
「悠斗君をいじめないであげて。馬鹿で変態だけど悪人ではないから。」
驚いて振り返ると花梨がいた。いつも通りにこやかだが、いつものように愛嬌のある感じではなく、
踏み入ってはいけない領域を警告する重役のような張り付いた笑顔だ。
花梨は「帰っていいよ」と悠斗に声をかけた。
「は?帰るなよ」
「帰りなよ。」
私の言葉より花梨の言葉のほうが効力があるみたいだ。
彼は一目散に逃げだした。
「最近わたしのことを聞いて回ってるみたいだけど、お目当ての情報は聞けたかな?」
さっき対面していた悠斗と比べると花梨はとても小さいがよほど圧力を感じる。
「何も。」
「そっか。」
「悠斗は浮気するんだから悪いやつだよ」
花梨は小さく首を振った
「違うんだ。わたしが無理を言ってお付き合いさせてもらっているから、悪いのは私。」
わたしは驚いて膝が崩れ落ちそうになった。
花梨のほうから?一目ぼれ…?なんてのはあり得ない。
悠斗が言えなかった経緯と目的がありそうだ。
「なんで付き合ってるの?二人の間には何もなかったはずでしょ」
彼女は何も言わず歩いて行ってしまう。わたしもそれについていかざるを得ない。
態度だけで主導権を握られているようで嫌な感じだ。
しばらくして「あるよ。ずっとね」と背を向けたまま返事をした。
花梨はそのまま近くの空の教室に入った。
そしてわたしに向かい合うような形で机の上に腰をかけた。
私は手近な椅子に腰を降ろした。
「そんなこと知ってどうするの?」
「だって、思ったんだけど、わたしって花梨のことなにも知らないから。知りたいと思って。」
「そっか。それはうれしいな。」
花梨は上ずったような調子でになった。
そうだ。これがわたしが知っている花梨のトーンだ。
さっきから花梨に得体の知れなさを感じていたのは声が低かったからだ。
「なんで急に悠斗と付き合おうって思ったの?」
「悠斗君のことが好きになっちゃったから以外ないよ」
「好きになるってどういうことかわからないって言ってた」
「そうだね」
「嘘つかないで教えてよ。」
「教えてあげる。そのかわりキスさせてよ」
わたしは甘い水に溺れるような心地がした。
抗わなければ花梨に流されてしまう。
「何言ってんの。キスは恋人どうしがするものでしょ。悠斗としなよ」
と言った瞬間なぜか少し後悔のような変な感じがした。
「そうそう。由香ちゃん、悠斗君とキスしたことあるんだよね。わたしが上書きしてあげないと」花梨はスッと机から降りてわたしにせまる。
「だめ!キスは恋人としかしないから!」
「したいならしていいんだよ。由香ちゃんはどう?」
彼氏を差し置いてわたしが花梨とキスするなんてしてはけない。
わたしが愛想をつかした悠斗や花梨と同じことをすることになる。
そんなのあらゆる点において間違っている。
でももっと根本的に考えてみる。そもそもわたしは花梨とキスしたいのだろうか。
間違っているんだから今すぐ拒絶すればいい。
でもこうやって逡巡しているのは少なからずわたしは花梨とキスしたいって思っているってことか?
その時ふと理解した。さっきキスは悠斗としなよって言ったときの後悔のような念の正体。
わたしは花梨に悠斗とキスしてほしくない。
わたしは長いこと逡巡していたのだろう。
花梨はなぜか白い絹のような布マスクをつけるとわたしの頭に両手を回してぐっと顔を近づけた。
わたしは完全に頭が真っ白になって体の動かし方も忘れてしまった。
花梨は布マスク越しにわたしの唇に口をつけた。
わたしは驚いて目を閉じてしまった。
暗闇の中、ただ花梨の柔らかくも張りのある唇が何かを伝えようとするかのように動く感覚を布を隔てても敏感に感じていた。
むしろ布を隔てているからこそ感じられた。
わたしの心臓は熱を帯びて、いまこの瞬間を体に刻み込もうとするかのように強く鼓動して熱い血を全身に巡らせていた。花梨は顔を離した。
どれくらいそうしていたか時間の感覚は全くない。
わたしはよろめくように後ずさって、手近な椅子になんとか腰をかけた。
「なにすんの」
わたしは力なく抗議した。
「恋人でもしないこと。」
と言いながら二人の唾液で湿ったマスクを外した。
私は余韻を感じていた。花梨はわたしの顔を覗き込んだ。
「ねえ。由香ちゃん私を怒ってよ。」
「どういうこと?」
「勝手に由香ちゃんの唇を奪ったんだよ」
確かに半ば強引なキスは倫理的にはいけないことだ。
しかし、「どう怒っていいのかわからないよ」
「それじゃあ私が困るんだよ」
「なんでよ」
「そのためにやってるんだから。」
私に怒られるために?なぜだろう。
「次はマスクなしでキスするから。ちゃんと怒ってね」
と彼女は言って、顔にかかってる部分の髪をかき上げた。彼女の顔が近づいてくる。
どれだけ近づいても彼女の顔は繊細さを保っていた。
確かにこれはだめなこと。頭でわかっていても体は全く動こうとしない。
私の瞼はこの事象を受け入れるように閉じた。
しかし彼女の唇の感覚はなかった。
代わりに彼女の「そんな顔しないで。お願いだから」という訴えるような声で目を開けた。
彼女の顔は離れていった。私はどんな情けない顔をしていたのだろう。
彼女は不思議と寂しそうに微かに眉毛を八の字に曲げていた。
彼女は一息ついて手近な机にどっと腰を降ろした。
「それで、どうして悠斗君と付き合ってるか知りたいんだよね」
そのことをすっかりわたしは忘れていた。
花梨はもういつも通りの柔らかな笑みを浮かべている。それがちょっと悔しい。
私の意識はまだマスク越しにしたキスに引っ張られている。
「もう言ってあるんだけどね。由香ちゃんから奪うためだよ」
その時思い至った。そうだ。よく考えれば悠斗と花梨、なんの繋がりもないと思ってたけどたったひとつあるじゃないか。
それはわたしだ。
これは花梨と悠斗の間に起きたことではなく、私を中心に起きたことだったんだ。
「どうしてそんなことするの」
「わたしにはこれしかできないから」
「どういうことなの?」
「わたしが由香ちゃんにできる唯一の感情表現。」
「それは、何を伝えているの?」
「わたしにもよくわかんない」
「じゃあ私には一生伝わらないよ。」
「そうだね。でも伝わる必要なんてないの」と言って彼女は教室を出た。
追いかけようと思ったが、体がここで起きたことと情報に疲れて動こうとしなかった。
なのでぼんやりと誰か知らない席に腰をかけたままぼんやりと今日のことを整理していた。
しかし思い返されるのはマスク越しにしたキスのことばかりだった。