私にあなたを憎ませて
変な夢を見た。私は裸体で時間も空間もぼんやりしたどこかに存在していた。
歩いていると、唐突に蛇に噛まれた。
どんどん体が動かなくなって、私は仰向けに倒れた。
私を噛んだ蛇は顎を上下に際限なく開け始めた。
そしてその口の中から花梨が出てきた。花梨もやはり裸体だった。
二枚貝のように大きく口を開けた蛇の上に裸体の花梨が立っていて、
ボッティチェリのヴィーナスの誕生みたいだと思った。
花梨は動けない私に歩み寄ってくる。そしておもむろに私の上に覆いかぶさった。
そしてずっとそのままの体制でいた。
私は何かを求めていて身動きをしたがったが、生憎体が全く動かなかった。
花梨も何かを求めて体を細かく動かすが
どう動かせばいいのか理解していないようだった。
彼女は両の太ももで私の右腿を強く挟み込んで圧迫していたが、
彼女の太ももの柔らかさが伝わってくるだけだった。
私は目を覚ました。なんて変な夢だろう。
抱き合っていただけで何もできなかった。その時ふとある俗説を思い出した。
人は完全に経験したことのないことを
夢に見ることはできないって聞いたことがある気がする。
あれ以上ができないのは私がセックスをしたことがないから?
もし私にセックスしたことがあったらどうなってたのだろう?
私は我に帰って額を押さえた。私はなんてことを考えているのだろう。
その時扉の向こうから母親の声がして否応なく現実に引き戻されていく。
「由香!起きなさい!遅刻するわよ。」
しかし私はどうもベッドから出る気になれなかった。
まだ微かに残る夢の残滓を追いたかった。
「由香!」
勢いよく扉が開いて私の前に母が現れた。
「ごめん。熱っぽいみたい。学校休む。」
そう言ってしまった。
本当は具合が悪くなんてないけれど
どうしてもベッドから出ようとすると
なんだか体が急に鉛みたいに重たくなった。
「そう?じゃあ無理しないで寝てなさい。」と言って母は出て行った。
私はもう一度布団をかぶり、眠りにつこうとした。
今ならあのことを考えながら寝たら夢の続きが見れるような気がした。
しかし夢は見なかった。
昼過ぎ、私は積んであった漫画のうち脳みそを使わずに読めるものを選んでぼーっと読んでいた。
そして時間は流れ、16時を少し過ぎたころにインターホンが鳴って、
母が玄関へ行く足音が遠くに聞こえる。
また白濁とした意識でぼんやり漫画を読んでいると部屋のドアが開いた。
「母さんまた余計な健康グッズ買ったでしょ。」と漫画から目を離さずに言った。
しかし全く返答はなかった。
布団をめくってドアに目を向けると母親ではなく花梨がいた。
「どういうこと!?」
私は反射的に飛び起きてしまった。
「心配だったからお見舞いに来ちゃった。」
彼女は片手にゼリーや飲料が入ったビニール袋をさげている。
私はぼさぼさの髪の毛を手櫛で整えた。(しかしそんなことではちっとも太刀打ちできないほど髪の毛は暴れていた。)
「勝手に入らないでよ」
「ちゃんと由香ちゃんのお母さんにいれてもらったよ。」
「なんて言ってた?」
「夕方からパートだから助かるって言ってたよ」
助かるじゃないんだよ。私は母親ののんきさにため息がでた。
「由香ちゃん今日はどうしたの?」
「ちょっと熱っぽくて」
「そうは見えないけど」
私は一瞬、全身に緊張感が走った。
「そんなの見ただけじゃわかんないでしょ。」
「いつも見てるからわかるよ」と言ってベッドの淵に腰を降ろした。
「ほんとに熱あるもん」おもむろに彼女の顔が近づいてくる。
手で制止しようとしたがそれを彼女はつかんで伏せさせた。
彼女の長いまつ毛で装飾されたよどみのない目が
私の眼前にせまったところで私は耐え切れず目を瞑った。
私のおでこと彼女のおでこが密着した。
そのままの姿勢で私たちはしばらく制止していた。
彼女のゆったりとした息遣いがかすかに聞こえる。
そして彼女は私から離れた。どれほどこうしていたかは定かではない。
そんなことを把握する余裕なんてなかった。
「あれ?ほんとにちょっと熱っぽいね」と花梨が言った。
私は急いで布団をかぶった。
私の顔も多分赤くほてっていると思う。
こんなところを花梨に見られるわけにはいかない。
「食べれそうなもの買ってきたからここに置いておくね。あと水分補給はしっかりしなよ」
「うん」
「何か私にしてほしいことはある?」
「ないよ」
「じゃあ帰るね」
「え、帰るの?」
「だって私がいたら休みづらいでしょ」
そういって彼女は立ち上がりその背を見送る。
なぜだかそれがとても惜しいことに思えてしかたなかった。
「ちょっと待って!」私は考えるより先に彼女を制止してしまった。
自分でも自分が何をしているのか理解できない。
「じゃあ私の話し相手にでもなってよ」
振り返った彼女は笑みを浮かべる目の奥にほのかなきらめきを感じた。
「そんなこと言ってくれるなんて嬉しいな」
彼女は建前を知らない少女みたいにそう言って笑うので、
ついその可憐さに心を動かされそうになってしまう。
しかし彼女の実情は全く異なるのであれは演技だと
何度も自分に言い聞かせて平静を取り戻した。
彼女はスクールバッグを床に置いて、私の学習机の椅子に腰を降ろした。
そして花梨に買ってもらったスノードームをひっくり返してまた机に置いた。
ラメが光を反射しながら緩やかに底に落ちていく。
彼女は回転いすを回してこちらに向いた。
私は不覚にも彼女が椅子の上に組んでいる足、特に太もも部分を見ていた。
そして今朝の夢で彼女の両太ももに挟まれた私の右腿の感覚を思い出していた。
こんな最低なこと、だめなのに。私は目を離せなかった。
「昨日はごめんね。どうにも我慢できなくて。あんまりふみかちゃんと仲がいいから。」
彼女は謝罪から入った。彼女が真面目なので私は急いで我に帰った。
「もういいけどさ。ふみかに変なこと言うのはやめてよ」
「うん。そんなことしても何の意味のないってわかったから。」
花梨は瞼を重たそうにして、テンションが低く、
なんだか彼女のほうが病人みたいだ。
「なんか変なの。花梨と付き合ってるみたい。花梨が付き合ってるのは悠斗なのにね。」
「そう。」と言ったまま彼女は顔をあげない。
そのまま時間だけが流れたので私は話題を探す。
そして糸口となる共通の話題を発見した。
「そういえばさ。悠斗とはうまくいってるの?」
「由香ちゃんがそれ聞くんだね。」
「まあね。気になるトピックではあるからね」
「すごくうまくいってるよ」と言って彼女は顔を上げた。
なぜか花梨は何かを企むみたいに目尻だけで笑っていた。
「そっかあ。それはすごいね。正直に言うとね。私はあいつと付き合ってた頃あんまりうまくいってなかったんだ。」
「そうみたいだね」
「あいつの細かいことは気にしないところとかいいところだと思ってたんだけどさ、付き合うってなると問題も多くてさ、私が体調悪いっていう日にデートに誘ってきてさ、今日は体調悪いからやめようっていったらさ、あいつ、俺は大丈夫だよ!だから行こう!ってさ。お前の大丈夫とか聞いてねえって!」
花梨はくすくす笑ってる。彼女も心当たりあるのだろうか。
「花梨はお見舞いきてくれるっていうのにさ。あいつは絶対気付きもしないよ。そういうことあるでしょ!」
「そうだね。でも体の大きい男児を相手にしていると思えばそんなに気にならないよ。」
そう思えれば簡単なのだけど、彼のガサツさが次から次へと思い出される。
そのうち一つの個人的にショッキングな出来事が私の中に留まった。
「あんたが性欲の猿だったなんて知らなかったよ」と過去の悠斗に投げかける。
「猿じゃないよ。普通の人間の性欲だよ。」
「じゃあ私があんたの知らないイケメン配信者の音声で毎日眠りについてもなにも言わないでよ」
「そりゃだめだろ。男と女は違うんだから」
私は呆れてあんぐりとしたまま言い返せなかった。
「言っとくけど、エロ動画くらい許してくれないと男と付き合うのは不可能だから。こればかりは俺は間違ってない。男友達にでも聞いてみな、お前さすがに男の性欲を知らなすぎるからさ」
私は愕然とした。そして確かに私は男の性欲がどういうものなのか、あまり知らない。
「大丈夫?」とガラスが鳴るような透き通った少女の声で我に帰る。
花梨は本当に私の機微をよく見ている。
「うん大丈夫。そろそろ電気つけるね。」と言って
私はベッドまで伸びた紐を引っ張って明かりをつけた。
そして私は言うか言うまいか逡巡した。
しかし私一人で抱えるのは荷が重い。
「あのー、答えづらい質問だから答えなくってもいいけど…」
「答えるよ」
「花梨ってエロいなんか、動画とかって見たりするの?」
「絵ならたまに見るよ。」
思いのほか迅速かつ明瞭な答えが返ってきた。
絵とはエロい絵なら見るってことだろうか。
どんなものを見るんだろうか知りたいような気がするけど、
怖いような気もするのでそれは聞かなかった。
「例えば彼氏にそれやめてくれって言われたらどうする?」
「恋人に言われたら絶対やめるよ」
私は大いなる光り輝く選択肢が菩薩像のように目の前に現れた気がした。
悠斗に「エロ動画くらい許してくれなきゃ男と付き合うのは不可能だから」
と言われたことがフラッシュバッグする。
女と付き合うという可能性もある!
しかし高揚感で忘れていたことがあった。
私は頭を振って正気に戻る。
花梨は絶対なし!
彼氏持ちだし、そもそも浮気相手になることも平気でするような倫理観のやつだ。
彼女は確かに私に対して何らかの強烈な想いを抱えていることに疑いの余地はないし、今日はなんだか優しいから忘れるところだった。
「悠斗君のこと?」
花梨は予想以上に差し込んできた。
「そうなんだけど。なんで知ってるの?」
「悠斗君から由香ちゃんのことはあらかた聞いてるよ。それも彼といる目的の一つだからね」
「花梨はあいつの言ってること正しいと思う!?」
私は彼への怒りと答えへの渇望で大きな声が出た。
花梨は立ちあがって私の頬に手を当てた。
頬は彼女の手の繊細さを敏感に感じ取った。
多分花梨の手も頬から何かを感じ取っているのがわかる。
「由香ちゃん、やっぱり今日ズル休みしたでしょ」
「えーと…ズル休みというか…」
「いいよ。秘密にしてあげるから。」
そうして彼女は顔の前に人差指をさして笑った。そしてまた学習机に座る。
彼女の足元にあるスクールバッグにはあの日お揃いで買ったクラゲのストラップがまだついていた。
「悠斗君の言ってることが正しいかどうかだよね」
私は無言で頷く。
「悠斗君は由香ちゃんがエッチさせてくれないことをぼやいてた。」
「だって。悠斗とそういうことするのとかいまいち想像できないし。」
「一般的に正しい正しくないなんて私には判断できないし、したくもない。ただ、悠斗君は不満を抱えていて、由香ちゃんも不満を抱えていて、もう引き返せなくなった状態でぶつかっちゃた。それだけが正しい現実。そうならないように次はお互いのすり合わせをあらかじめしようっていうくらいしかないよね。それが難しいんだけど。」
皮肉にもそのすり合わせを終えた人間が目の前にいるが、
それが花梨なのが悔やまれる。
花梨は足を組み替えた。私はやはりそれを目で追ってしまう。
「ねえ。由香ちゃん。」
「何?」
「さっきからずっと思ってたんだけど、今日は目線がなんかキモいというか。私のパンツでも覗こうとしてない?」
私は驚いて両手と首を大袈裟なくらい振って否定した。
「そ、そんなわけないでしょ!」
花梨はもう一度これ見よがしに足を組み替えた。
「やっぱ見てるよね。」
いい加減にしてくれ、私、そして私の夢!
そんな中扉がノックされて開いた。
母が顔を出して「夕飯にするんだけど花梨ちゃんも一緒にどう?」と言った。
「いえいえ、そんなご迷惑な。すぐ帰りますので」
「迷惑じゃないよ。お家の人がいいっていうなら是非食べていって」
「それじゃあお言葉に甘えて。」
私はこのやり取りを中断させてくれてありがたいという気持ちと、
妙な胸騒ぎの両方を抱えていた。
私の母と花梨が食卓を囲むなんて何が起きるか想像つかない。
同席して見張らないわけにはいかない。
「私ももう大丈夫だからごはん頂戴」
「まだ無理しないほうがいいわよ」
「全然大丈夫。むしろお腹すいてたところだったから」
こうして私と母と花梨で夕飯を食べることになった。
私はカレイの煮つけを箸でつついている。
ちらりと横の花梨に目をやる。
「この煮つけすごく美味しいです!」
「ありがとう。花梨ちゃんねぇ。話には聞いていたけど由香にこんな可愛い友達がいるなんてねぇ」
「いえ、可愛いなんて。」と言って彼女は母に微笑みかける。
なんだか聞いてられないし見てられない。
「すごくいい子なのわかるわ。由香もちょっとは見習いなさいよ」
こいつはとんでもないやつだし友達でもないんだよ。
と教えてやりたい。でもそれを理解するために説明することが山積みだ
「由香ちゃんはとてもやさしいです」なんて花梨は平気で言う。
「そう?由香ったらすぐ不機嫌になるのよ。あんまり花梨ちゃんを困らせちゃだめよ」
「わかったから!お母さんはあっち行っててよ。」
「あっちってどこにいけばいいのよ」
確かに考えてみるとリビングが母親のテリトリーで
ここから追いやるスペースなんてない。
そうして花梨と母の建前だけの会話をしばらく聞いていた。
「じゃあお母さんお仕事してくるから。安静にしてるんだよ」
母はファミレスのキッチンで働いている。
簡素なリュックサックを背負って出て行った。
「うん。いってらっしゃい。」
そうしてひたすらに私の神経をつつき続ける夕食は終わった。
花梨は私の分の皿も持っていて洗ってから再びテーブルについた。
そして「ねえ。お散歩でもしようよ。今散歩したら気持ちいいよ」と言った。
「だめだよ。一応体調悪いってことにしてるからさ。」
「バレないよ。もちろんお母さんにも秘密にするよ。」
私は窓から外を見た。まだ夕日は見えるが端から暗闇がだいぶ浸食してきている。
確かに今外を歩いたら気持ちよさそうだ。
「先外出てて」私はブラッシングだけして、
白いロゴTシャツとジーパンを引っ張り出してすぐに着替えて玄関に向かう。
花梨は沈みゆく夕日に向かって歩き出す。
心地いい風がそよいでベッドの中で
じっとりとかいた汗が吹き払われてなんとも清涼な感じがする。
花梨は私の手を握った。
「ちょっと。」
「何?」
「手をつなぐ必要ある?」
「手を繋がない必要もないもん」
言ってることはめちゃくちゃだが、そう返されるとなにも言い返せない。
あとは手を繋ぐのは嫌っていう方向しかないけど、
それは言えなかった。だって私は妙な高揚感のようなものを覚えていたから。
私たちは無言で歩き続ける。
こういう機会だ。花梨に思い切って聞いてみることにした
「ねぇ。私たちの関係ってなんだろうね」
「どういうこと?」
「友達ではないし、もちろん恋人でもないし。」
「敵じゃないのかな。私は由香ちゃんの大切なものを奪ったんだし。」
「なんで敵とこうして手を繋いで散歩してんのよ」
「でも私のこと憎いでしょ。」
「あの時はそうだったけどね。今は本当に悠斗のことはもう気にしてないんだ。元々あいつが好きだったかどうか自分でもよくわかんないし。」
元々好きだったかわかんないのになぜ憎んでいたんだろう。
その時自分の体に雷鳴が走って、事実と事実をジグザグに、しかし正しく繋いだ。
花梨と悠斗が一緒にいるのを私はいつも横目で見ていた。
莉緒にも「やっぱりまだ気にしていらっしゃる。」と言われてしまった。
確かにまだ気にしていた。でも今、花梨に言われてもどうも気にならない。
それはなぜか。私がずっと気になって目で追っていたのは花梨のほうだったからだ。
花梨が私から離れて悠斗のほうに行ったのが悔しくて私は憎しみを覚えていた。
でも花梨は今私の手をとって隣にいる。憎しみようがない。
花梨は「うわあ、薄情だあ」と言って笑った。
「あんたが言うな」いつの間にか空は真っ暗になって、
ぽつぽつと主張の強い星だけが姿を現す都会の夜空になっていた。
花梨が様子を窺うように首をかしげて私の顔を覗き込む。
「ねえ。由香ちゃん。覚えてる?初めて由香ちゃんと話したのもこんな夜空の下だったよね」
「うん。あの時は建物に遮られてこんなに綺麗に見えなかったけど。
でも今日みたいに気持ちいい風が吹いてた。」
「久しぶりに一緒に見れて嬉しいな。由香ちゃんはどう?」
私は何も答えなかった。何も答えられなかった。
私の中に芽生えるこの整合性のとれない感情を発露するすべは持ち合わせていなかった。
「風が気持ちいいね」とだけ返事をした。
とても厄介な予感がする。感情を箱にでも入れて鍵をかけておきたいけど、
きっと心はこの夜空のように壁も天井もなくて、
ほのかな月の光でもぐんぐんと育ってしまう。
そんな予感がした。私たちは無言で歩き続ける。
また花梨は私の顔を覗き込む。
「どうかしたの?」薄暗い水族館で思ったことを確信した。
花梨の目は暗いほど深い瞳の奥に
わずかな光をあつめて金星みたいに美しくに光る
「こっちを見ないで。お願いだから。」