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コーヒーより苦い恋の味

(由香の一人称)


清流のように白く透明な朝日が教室の壁や床に染み入るいつもの朝、

教室のみんなも徐々に花梨や私の噂をするのに飽きてきて、

いつも通りの風景になりつつある。

花梨は本を読んでいる。

少し前はイヤホンをしていたけれど、もうそれもしていない。

高校1年生の時にずっと眺めていた花梨の背中、あの時と同じだ。

それにしても困った。

いつどうやって花梨と話し合う機会をつくるんだ?

好きだと意識するとニュアンス程度に曲線を描く

花梨の本を読む後ろ姿がいつもより愛しく感じてその神聖な背中に声をかけるのがためらわれてしまう。

同じクラスだからすれ違う機会もたくさんあるのだけれど、

声をかけようとすると必ず体中が心臓になっているんじゃないかってくらい全身脈を打つ。

全身心臓なんだから声帯なんてない。

声帯がないんだから声は出せない。

そうやって何日か過ぎた。

本当は直接言いたいけど、メッセージを送って声をかけることにしようか。

そう思い始めていた時期だった。

今日は少し早く目が覚めた。

下駄箱から上履きを取り出す最中、後ろから声をかけられた。

「下。開けさせて。」

素っ気ない猫のようなその声は花梨であった。

「あ、ごめん。」

私のちょうど真下の下駄箱を開ける。

こんな機会はない。また心臓が肥大化し始めるが、なんとか声を絞り出す。

「花梨。」

「何?」

「…おはよう。」

「おはよう。」

私たちは並んで教室へ向かう。これ以上の会話は生じなかった。

なぜ花梨と話がしたいって言うだけがこんなにできないんだろう。

そもそも私と花梨の関係は込み入っていて恋愛ルーキーの私にとってだいぶ荷が重い。

そうしてそのまま無言で教室まできて別れてしまった。

こんなことではいつまでたっても想いを告げることなんてできやしない。

私は人知れず頭を抱えていた。

しかし、その日の放課後、事が起こった。

「ねえ。あなたでしょ。」

花梨は黒板を消していた里美という女の子に話しかけていた。

話を聞くところによると、何日か前に花梨が頬を腫らしたのはこの子のせいらしい。

「知らないよ。水筒の中身でもこぼしたんでしょ」

里見は構わず背を向けて黒板を消し続ける。

「本が濡らされてたこと、なんであなたは知ってるの。誰にも言ってないのに。」

里見は黙り込んだ。

「やっぱあなたなんだね。なんでそんなことするのかな。」

と言って花梨はおもむろに教壇にいる里見の腰に抱き着いた。

「ちょっ!なにすんの!」

里見は突然不審者に出くわした時のように硬直した。

「私があなたに何をしたっていうの?」

里見は花梨に抱きしめられたことに意識がいっているのだろう。

花梨の手はきっと向こうで細かい動きをしている。

花梨が体を離すと里見のスカートははらりと地面に落ちた。

それは花梨が何かしでかすのではないかとクラスが注目していた中で起こった。

里見は慌てて振り返り、地面に落ちたスカートを拾おうとした。

しかし彼女がスカートに手をかけるが早いか、

花梨は教壇の上のスカートを思い切り踏んづけた。

「ねえ。謝ってよ。」

彼女は必死に花梨の足をどかそうとするが、

全体重をかけた花梨の足はパンツが見えないように最小限の動きでは

いくらやってもどかせなかった。

しばらくするとその子の友達2人がやってきて花梨を引きはがした。

スカートを着た里見は怒りと恥ずかしさで目に涙を浮かべていた。

「ほんと気持ち悪いわ。お前に付きまとわれてた橘さんは可哀そうだよ」

「由香ちゃんは関係ないでしょ。」

花梨は2人を振りほどいて、確かな足取りでずんずんと里見のほうに進む。

そして花梨は里見の腕を掴んだ。

「触んな!」

花梨は足をかけて里見を転ばせた。

そして素早く組み伏せて覆いかぶさった。

花梨はぐっと里見に顔を近づけた。花梨の髪の毛がカーテンになってわからないが、

多分おでことおでこ、鼻と鼻がくっつくんじゃないかというくらい、

もう少し動いたら口と口がくっついてしまうんじゃないかと言うほど。

「次こんなことしたらお前の全てを奪う。手始めにその生意気な唇を奪ってやろうか。」

と冷淡に刑を執行するもののように言った。

それはいけない。私にとっても。

私は急いで彼女らの元へ行って割って入った。

そして「花梨!落ち着いてよ!」花梨の背中に手を当てた。

花梨は身を起こした。

そして凛とした足取りで自席に戻りバッグを持ってまた踵を返した。

教室をでるつもりだ。

動作がいつもより力強く、歩くたびに花梨の長く黒い髪が規則的に揺れる。

その背中をクラスの誰もが見守った。

私は床でのびている、里見に声をかけた。

「ねえ。花梨をいじめるのはやめて。次なんかあったら私も許さないからね」

しかし返答はなかった。

「ねえ。聞いてる?」

彼女を見てみる。彼女は虚ろに目と口を開けている。

「…花梨。」とうわ言のようにつぶやいた。なぜか頬は紅潮している。

私はそれを見てなぜだかもう里見からのいじめの件は大丈夫だろうと思った。

私は花梨を追いかけることにした。

バッグを背負って私は教室をでた。

私は保健室で花梨に押し倒された時のことを思い出した。

そして花梨に押し倒された後の里見の惚けた顔も思い出した。

私もあんなみっともない顔してたのかな。

それで自転車のって帰ってたんだから恥ずかしい。

私はいつもは乗らない西部新宿線の改札をくぐった。

そこで花梨が到着した電車に乗り込むところを確認した。

私も急いで電車に身を滑らせた。

「花梨!」

「由香ちゃん?どうしたの。」

彼女は大きな目を月のようにまん丸にして驚いている。

「知らなかったよ。花梨にあんなアクティブな面があったなんて。」

「それを言いに来たの?」

「いや、久しぶりに花梨に話したいなあって思って。てか話すことがあってさ」

電車のドアが閉まる。

色んな衝撃的なことが起きた後で緊張感は忘れていた。

「私も由香ちゃんに話さなきゃいけないことがある。」

再び私たちの間に緊張感が漂いはじめた。

花梨が私に話したい事?教室でぶつけられた以上にまだなにかあるのだろうか。

私たちは東村山駅で降りた。

そこは高い建物がぼちぼちしかなくて、並木道が多い落ち着いた街並みだった。

私たちは近くの喫茶店に入る。

「あのさ。花梨が話したい事ってなんなの。」

「話せるタイミングになったら話すよ。」

と言ってステンレスみたいなコップにに入ったアイスコーヒーを彼女は飲んだ。

喫茶店にいくと砂糖も入れずにアイスコーヒーを飲んでる姿はいつもと変わらない。

そして彼女はコップを置いて

「それにしてもよく私と関わろうなんて思ったよね。私は由香ちゃんが傷つくことばっかりするのに。」と言った。

「うん。正直すごく傷ついた。でも私のことで悩んでばかりで、花梨の行動の理由や気持ちは考えてなかったなって思ったんだ。それを知りたいの。」

「私の気持ち。そんなこと言ったら由香ちゃん私を嫌いになるよ。」

「今更なに言ってんの」

花梨は少し目を見開いた後、半ば目を閉じて笑った。

「確かにそうだね。」

花梨はストローで氷を混ぜた。焦らず話のタイミングを待つ。

私は二切れ目のカツサンドを口に入れる。

それが咀嚼を終えたとき、「私ね…」と言った。

しかしそれと時を同じくして。

「花梨じゃん。」と声をかけるものがいた。

「1年ぶりだね、いや2年ぶりかな。元気にしてた?」

「いつも通りかな。」

なんか小さい花梨は委縮してさらに小さくなったように思えた。

「席、隣いいかな?」それは私に言っていた。

「あ、はい。」

ダメです。なんて言える度胸はない。

私の横に黒いシュシュをつけたサイドポニーテールの女の人が腰を降ろした。

「朱里。今取り込み中なんだけど。」と花梨が言う。

「久しぶりの再会なのに。つれないなあ」

私は朱里のほうを見た。

花梨を懐かしむように目を細めて、わずかな笑みを浮かべて見ている。

この子が朱里。ここは花梨の地元だからこういうこともあるのか。

「可愛くなっちゃってさ。」

花梨の眉の間にわずかに皺がよった。

中学の頃花梨がこの子を怒らせたみたいだけど、まるで花梨が苦しんでいる様子だ。

「何の用?」

「用なんてないんだけど、顔見たら話したくなっちゃってさ。1年既読無視してるんだから花梨は話したくないんだろうけど。」花梨はため息をはいた。そしてふと思い至ったように顔を上げた。

「そういえば結局さとると付き合ったんだね。」

「よく知ってるね。」

「写真上げてたじゃん。」

「確かに。でもね。1か月くらいで結局別れちゃったんだ。」

「そう。」

「何回か人と付き合ったんだけど、すぐに別れちゃうんだ。」

「朱里は理想が高いから。」

「うん。皆、花梨と同じくらい気遣いができて優しいんだと思ってたよ。」

「私は別に優しくないよ。」

「ううん。花梨は私が悩んでると絶対察してそばにいてくれたし、その小さい体で生意気にも歩道側を譲ってくれてたんだなって最近気づいたよ。花梨みたいな男子がいてくれたら理想の恋人なのに。」

「またそういうこと言って…」

花梨は微かに見える歯が強く噛み合わさって歯ぎしりしているように見える。

「私たち友達に戻ろうよ。またあの日みたいに色んな場所に遊びに行こう。」

私は背すじに冷たい雪みたいなのが通り抜けてくるのを感じた。

しかし花梨は「友達になんて戻りたくない。」と言い捨てた。

本当に、私と状況が似ている。私は人知れず胸をなでおろしていた。

もし朱里とは友達に戻るとか言い出したら私は戦わずして敗北するところだった。

「ねえ。私が何をしたの?」

「何もしてない。だから辛い。」

そういう花梨の顔はなんだか失恋の傷を抱えた少女みたいに痛々しい美しさを備えていた。花梨は朱里のことをどう思っているんだろう。

「じゃあ友達じゃなくてもいいからさ。また一緒に遊ぼうよ。夏になったら花火とかもみたいなあ。」

花梨の目に一瞬光が宿ったような気がするが、すぐに元の眼差しに戻った。

「私は遊ばないから。」

「土曜に花梨の家にピンポン押すから開けてね。」

「開けないよ。」

「開けてくれるまで押し続けるから。」

花梨はため息を吐いた。「わかったよ。じゃあその日だけだよ。」

私は危機感を感じていた。このまま二人にしたら花梨は中学の頃みたいに仲良くしだすのではないか。

ひょっとして、ひょっとしたら、恋心が目覚めたりするんじゃないだろうか。

私は思わず話に割って入った。

「花梨!私、話したいことがあるって言ったでしょ。あれ、私も土曜日に花梨を遊びに誘おうと思ってたんだ。」

嘘をついてしまった。でも告白より当座どうにかしなければならない問題ができた。

朱里は私のほうを向いて笑って

「じゃあ一緒に遊びに行こうよ。名前はなんて言うの?」と言った。

「橘由香っていうんだ。」

「私、舞原(まいはら)朱里!よろしくね!」

まずいな。こんないい子から花梨を独占できるのかな。

というか独占したいと思ってる時点で彼女のほうが徳の光を放っているのがわかる。


 そして私たちは店をでた。

そこここに点在するわたあめみたいな雲はオレンジや紫色の光を拾っていた。

朱里はすぐに別れて駅に向かう私と同じ方向の花梨と二人になった。

「花梨、結局話したい事って何だったの?」

「なんかね。言う感じじゃなくなっちゃった。」

「そうなんだ。」

私たちは暮れかかった並木道を歩く。

「由香ちゃんもさ、言う感じじゃなくなっちゃったでしょ?」

「どういうこと?」

「まさか土曜日遊ぼうって言うためにこんな真反対のところまで来たわけじゃないよね。」

図星だったので、私は何も言えなくなってしまった。

駅前、花梨と別れるところまできた。

花梨は湖みたいな奥行のある半透明な笑みを浮かべて

「また会ってくれるとは思ってなかったから嬉しかった。じゃあね。」

と言って小さく手を振った。

「ばいばい。」と言って改札をくぐり、電車に乗り込む。

「じゃあね」と言った時の花梨の表情が脳裏に焼き付く。

いつも可愛いとそれだけを思っていたけれど、あの愛らしさがなんだか苦しい。

朱里がとっても花梨に親しく接するのを見ると内臓に熱した鉄を当てられたみたいに焼け付くように熱い。

私はのんきに一度恋の苦みも味わってみたいと思っちゃうんだよね。なんて言ってたけどそんな余裕はないな。

こんな調子で花梨と腹を割って話し合えるのだろうか。

花梨に好きって言えるのだろうか。

西武新宿線は私を揺らしながら花梨との距離を遠ざけた。


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