かりん襲来
可愛い。これが中学くらいから徐々に力を持ち始めて、
何かできそうで誰も何もできやしない高校生という狭い領域において数少ない誇れるステータスである可愛いが振るえる力がピークに達するんだと思う。
わたしはその可愛いの力で急に打ちのめされることになった。
まさか可愛いというだけでこんなことが許させるとは思いもしなかった。
昼休み、私は味のしない卵焼きを事務的に口にほおばる。
意識は半ば向こうで会話している男女の会話にあった。
「悠斗君、手おっきいね!」早朝の小鳥のように高く透き通る女の声がする。
「花梨が小さいんじゃないのか?」と言って二人の男女は手を合わせている。
私は急に目の前で私と昼食を共にしている莉緒に声をかけられてハッとなった。
「気になる?」
「もう気にしてない。気にしてないけどやっぱ中庭で食べない?」
私は向こうで惚気ている男、悠斗と1週間ほど前まで付き合っていた。
彼とは幼馴染であったが、その惚気ている相手である花梨に唐突に奪われた。
私は常々思っていた高校に入ったら漫画みたいな恋愛がしたいという願いはそうそうに断ち切られることになった。
2人はほとんど接点がなかったので奴の可愛さに心を奪われたのだろう。
私は可愛さにも可愛げにも自信はない。
「やっぱまだ気にしてるじゃんか。」
「気にしてないし。」
言えば言うほどなんだか私は惨めな気がしてくる。
すると私の横でお弁当を食べているふみかが声をかけてきた。
「由香(ゆか、私。)にはもっといい彼氏ができるからダイジョウブだよ!」
「いい彼氏?」
「そう。もっとかっこよくて、背が高くて、頭がよくて…かっこよくて…金髪で…」
「金髪は関係ないと思うけど」
と言って彼女の精一杯のいい彼氏のボキャブラリーの貧弱さが愛らしくて少し笑った。
すると気持ちが少し軽くなった。
ふみかは子供みたいに口に照り焼きソースみたいなのをつけていたので、
テッシュを数枚取り出して彼女の口を拭ってやった。
「でも友達がいなくなったのは残念だね。」とふみかが言う。
今は机を三つ囲んで弁当を食べているが、
元々は花梨も入れて四人で弁当を食べていた。
「友達より男がよかったんでしょ。」と投げやりに莉緒が言う。
「そっかあ。でも花梨は由香と一番仲いいと思ってたからびっくりしたなあ。」
昼休みが終わり、五六時間目も終わった。
実際、私もそう思っていた。花梨が一番仲いい友達だと。
彼女とはたくさんの思い出がある。しかし私の思い違いだったのだろうか。
そう思ったらまた悲しくなってきた。
その気持ちを引きずったまま帰路についていた。
気持ちと同様に目の前も暗くなってあまり見えていなかったのだろう。
私は庭の花壇に足を引っかけて盛大に転んでしまった。
膝に削がれたような熱い傷跡ができてみるみる血が出てくる。
それを見るとなおげんなりしてくる。
私は踵を返して保健室へ向かう。扉をノックして開ける。
保健室には湿布のようなツンと鼻を通り抜ける匂いがした。
私の視線はとある場所に釘付けになっていた。
レースのカーテンが風で揺れる。その手前に華奢な少女がいる。
彼女は私の方へ歩み寄る。そして彼女の上履きは私のすぐ手前で止まった。
「先生はいないけど入っていいよ。」私は顔を上げた。
目の前には奴がいる。利宮 花梨。彼女は保健委員だった。
私より背の低い彼女は私を見上げるような形で向かい合う。
彼女の大きな目はたった今できたガラス細工のようにきれいで澄んでいて、
放課後の落ち着いた光を柔らかに受けて反射している。
こんな近くで相対するのは1週間ぶりくらいだが、やはり可愛いのは間違いない。
それがこの年頃の女にとって厄介なのだが。
「絆創膏もらいに来ただけだから」
「うん。じゃあ救急セット持ってくるから入って。」
私が入るなりなぜか彼女は保健室に鍵をかけた。
そして私の手を引いて保健室の長椅子まで連れてきた。
一週間前は悠斗の武骨で無遠慮な手と触れ合う機会が多かったから、
彼女の手のしっとりとして繊細な感じが際立った。
自分でやるからと言ったが、彼女はお構いなしに私に膝の手当てを始めた。
彼女が手当てしている間に私は彼女のまつ毛を観察していた。
彼女の長い髪と同じくまつ毛にも艶やかで潤いを感じた。
そして瞬きを一切しないので彫刻のように全く動かない。
彼女はしばしば目を見据えてこうやってものを見る癖がある。
その美しい線で構成された表情は誰かが絵画にでもしたらさぞいいものになるだろうと思っていつも見惚れていた。
眉も口もピクリとも動かさないので、手当てを受けている私も妙な緊張感で身動きができずにいた。
彼女が手当てを終えて小さく頷くとようやく時が動き出す。
そして彼女はなぜか私の隣に腰を降ろした。
「最近元気ないみたいだけど、大丈夫?」
私は急に世俗に引き戻されて苛立ちという感情を思い出した。
「誰のせいだと思っているの。」
彼女は構わず私の手をとってお気に入りの陶器でも撫でるみたいに手から手首あたりを撫でたり滑らせたりする。
「ごめん。由香ちゃんを傷つけるってわかってたんだけど、私にはこれしかできなかったの。」
彼女は少し先の床をじっと見つめている。
「何かひどいことされたの?」彼女は小さくうなずいた。
わたしはいろいろなことが駆け巡ったが、とりあえず今やるべきことを一つに定めた。
あいつはまだ部活で校内にいるはずだ。
「あいつ連れてくるから!すぐに別れて!」
彼女は沈黙を保っていたが、なぜか小さく笑い出し、「嘘だよ」と呟いた。
わたしは頭がしばらく真っ白になったが、時間をかけて整理したらふたたび怒りが込み上げてきた。
「あんた頭おかしいんじゃないの?」
「由香ちゃんがとってもかわいいから、からかってみたくなっちゃって」
「からかうの次元を超えてるよ!」
と言って立ち去ろうと思ったが彼女は私の手をギュッと握りしめて制止した。
「お願い。まだ帰らないで。」彼女はじっと私のほうを見据えている。
いつも美しい観察対象だと思って見ていた花梨の眼差しが今わたしを捉えている。
わたしはそれを正面から見返すことなんてできるはずがなく、顔をそらしてしまった。
私は彼女の眼差しに負けてしぶしぶ腰を下ろした。
「私とよく話せるよね」
「むしろ話したいよ」
「私はあんたと話したくない」
「じゃあ隣にいてくれるだけでいいから」私は口をつぐんでそのまま座っている。
彼女は私のほうへすり寄ってきて、肩と肩があたる。
保健室は沈黙に包まれた。部活動の掛け声が時々遠く聞こえる。
「はい。隣にいたよ。もういいでしょ」と言って帰ろうとする。
彼女に触れ合うとその体温で怒りとか悲しみとかが浄化されてしまいそうになる。
これ以上こうしていたら無条件で彼女を許してしまいそうになる。
「なんでそうやってすぐ帰ろうとするの?」
「あんたといると気持ちがかき乱されてすごく不快なの。なんでかわかるよね」
「悠斗君を奪ったから?」私はばかばかしくなって返事をしなかった。
すると花梨は風鈴が鳴るみたいに小さくりんりんと笑った。
私は驚いて花梨を見る。彼女は人に甘えるような上目遣いで私に微笑んでいる。
しかし彼女の言動がその表情とは似つかわしくないものだった。
「私も同じだよ。由香ちゃんのことを考えると気持ちがかき乱されるの」
と言って私の両肩に体重をかけて長椅子の座面に押し倒してきた。
私は急な事態に対応できず彼女にされるがまま押し倒されてしまった。
「彼氏だけじゃないよ。由香ちゃんからはもっと色んなものを奪ってめちゃくちゃにしてあげないと私の気が済まないの。」とウェットな砂糖菓子のような甘く絡みつく声で私に言う。
「じょ、冗談だよね。」私はパニックになり、声が震えていた。
「本気だよ。」彼女の顔が真上にあり、長い髪の毛が私の顔に垂れ下がってきてくすぐる。
「私が何をしたの?」
「そんなの由香ちゃんにわかるはずがない。」
桃のようなみずみずしい甘い香りに包まれる。
「キスするね。」
「ちょっと。やめてよ。」
「じゃあ振り払って。」
私は私は食虫植物の危険な蜜のようなものにからめとられて身動きができないような心持がした。
絶対に離れなきゃいけないと頭ではわかっているのに体は花梨にされるがままでいることの奇妙な安堵感に浸っていたいと思っている。
花梨の顔が近づいてくる。
「由香ちゃん、すごく可愛いよ。でもこんなに簡単に従順になっちゃうのは心配だな」
花梨はどういうつもりでそんなことするのだろうか。
しかし考えることも嫌になってただ、ひたすら花梨の体温に浸っていたい。
彼女の熱い吐息を感じる。その時、扉がガシャガシャと音を立てた。
扉の向こうから「ちょっと!なんで鍵かけてるの!」と保険の先生の声がする。
花梨がスッと体を起こして扉に向かう。「ごめんなさい」といって鍵を開ける。
先生は入るなり長椅子で寝ている私を一瞥した。
花梨が「ちょっと体調悪い子がいて、寝かせてたんです。」と説明した。
私はまだ、先ほどの余韻を反芻していた。頭がぼんやりして起き上がれない。
しばらくそうしていたが、保険の先生に
「そんなに体調悪いならベッドで寝てなさい。」と言われたので、私は重い体を起こして立ちあがった。
「だいぶ楽になってきたので大丈夫です」と言って保健室を出た。
そして自転車に乗って帰路につきながら、
さっきのあのありえない出来事を半ば夢を見るように再び反芻していた。
花梨はなぜあんなことをしてきたのだろう。
唐突に悠斗と付き合い始めたのもそうだ。
最近の花梨はなんだかおかしい。
ちゃんと彼女と相対して話す機会が必要だろうか。
そんなことを考えているといつの間にか彼女のシャツ越しの肩や腕の柔らかな感覚に支配される。
私はふとそれに気づき頭を振って思考を追い出そうとする。
そうやって彼女のことを考えたりやめようとしたりを繰り返しながら帰宅するのであった。
しかし、今日の花梨の接近はほんの始まりに過ぎなかったのだ。
私はこれからもずっと花梨に翻弄され続け、頭を悩ませることになる。