よく見えるようになると、見えなくなるもの。
「よく見えるようになると、見えなくなるもの」―― 答えはなにか?
その昔、夜は闇に包まれていた。
いわゆる「闇夜」というやつであるが、電気の発明によって、次第にそれは大きく形を変えた。
現在、街中に完全なる闇を見つけることは、むしろ、なかなかに困難となっている。どこかしこに街灯があり、またコンビニエンスストアなどは24時間、煌々と明かりを灯している。
妖怪という言葉が、「日常」から切り離されてしまったのも、おそらく、これが関係する。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」―― あまりにも明るい夜が「見間違い」の連鎖を、引き千切ってしまったのだろう。
幽霊や妖怪の噂の伝播には、かならず「共犯者」が必要である。伝播なのだから、ひとりで成立するものではない。噂が噂を呼ぶように、見間違いが、次なる見間違いを呼ぶという塩梅に。
「心霊写真」―― 近頃、とんと聞かなくなったワードだ。
コンプライアンスの加減もあるのだろう。
だが、それまでアナログフィルムで撮られていた画像が、デジタルへと移行し、その乗り換え作業に、多くの「アナログな幽霊たち」が、ついて行けなかったことも、その原因にあるように筆者は考える。揺らぎを許さない鮮明なデジタル画像と「揺らいだ存在」である幽霊との相性の悪さを、わざわざ説明する必要もあるまい。
そして、この度、彼らはめでたく絶滅を迎えた。
画像生成AIの登場によって。
あらゆるものを「リアルな虚構」へと変えてしまうAIの生成物が、現実にも浸食し始めた。今さら「本物の心霊写真」が撮れたところで、「どうせAIで作ったやつでしょ?」という言葉によって、一蹴されてしまう時代に突入したのである。
多くの勘違いによって成立してきた存在が、今度は「決めつけ」によって封印される。勘違いと決めつけは、常に一定のサイクルで、人類の歩みと並走する。
次なる勘違いは、いったい何を生みだすのか?
おそらく、それは決めつけとの「表裏」にある、何かであるに違いない。
おそらく、多くの自称・識者たちによって捏造された、素敵な何かが、この先の未来には待ち受けているのでは、あるまいか。―― そんな気がしてならない。
これは、ひとつの「信仰」にも似た構造。
信じるという「思考」を排除した思い込みを保つためには、心の中に一定の影(=病み)を必要とする。
ネットに蔓延るデマや呪いなども、現代の妖怪たちが発する瘴気のようなものなのかもしれない。
―― あっ、町から闇が消えたことによって、妖怪たちは「人間の中にある闇」へと居住地を変えたということか? 闇夜は、もはや「人類の足元」にしか存在しない、といった塩梅に。